世を出でて風に咲きたる楓かな 五島高資

https://kigosai.sub.jp/001/archives/11492【楓の花(かえでのはな/かへでのはな) 晩春】より

【子季語】 花楓/もみぢ咲く

【解説】

楓は一般に言うモミジのことでカエデ科のカエデ属の落葉高木の 総称である。花は晩春に新葉とともに開く。雄花と両性花がある。 両性化は小さく紅色の五弁で、やがて翅をつけたような実となる。

【科学的見解】

楓は、ムクロジ科(旧カエデ科)の落葉高木の総称で、日本各地の平野から山地までに生育しているが、より寒冷な地へ行くほど種数が多くなり、冷温帯気候を好む種といえる。一般的に知られている種としては、イロハカエデ(タカオカエデ)、ヤマモミジ、オオモミジ、ハウチワカエデ、オオイタヤメイゲツ等が存在する。花は、春に単性花(雄花と雌花)もしくは両性花(一つの花に雄しべと雌しべを持つ花)をつけ、秋に翼のある果実を形成する。(藤吉正明記)


facebook人間禅 豊前道場投稿記事

今日の一句  そこはかとなくそこら木の葉のちるやうに 種田山頭火(たねださんとうか)

明治十五年(1882年)生~昭和十五年(1940年)没 山口県佐波郡(現・防府市)生まれ 自由律俳句の俳人『層雲』の荻原井泉水門下

1925年に熊本市の曹洞宗・報恩寺で出家得度して「耕畝(こうほ)」と改名し、各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ

初冬の季語「木の葉」「木の葉雨」「木の葉時雨」「木の葉散る」

「木の葉雨」はしきりに木の葉が散る様子を雨に喩えた言葉です。「木の葉時雨」は木の葉の散るのが一旦止んで、しばらくするとまた時雨のように散り落ちてくる様子をいいます。


https://blog.goo.ne.jp/iksmay-327-okkia-takatyan/e/44356992eec6246fcc5ed88b7801a992 【「ほろほろ酔うて 木の葉ふる」 種田山頭火】より

落ち葉散り敷く城山(しろやま)の椿谷公園、ここは椿などの常緑の樹が多く、その中に混在する赤や黄色の紅葉が際立って見えます。時折、行き交う人の声がするだけで、とってもひっそりとした静かな散歩道です。

落ち葉の散るこの時季、この道を通ると、私の好きな自由律放浪の俳人・種田山頭火の詠んだ

「ほろほろ酔うて 木の葉ふる」「分け入っても分け入っても青い山」等の俳句が思い出されます。山頭火は、人生の後半を、お坊さんの姿をして門付けをしながら、行乞放浪の旅をして歩いた人であるため、その句には、草・木・風・雪・木の実・虫等の植物や、自然と人間の関わりを詠んだ句が非常に多く・・・この様に自然を、そして植物を感じ、自分を託して句に詠み、自然と一体化した人が居た・・・ことを知ったことは、私の人生で大きな糧となっています。こうして四季折々に、自然の中を歩いていると、思いも様々な私ではあります。

~今日も、良い一日であります様に~


https://www.shogakukan.co.jp/news/475443 【「この1句に救われる」又吉直樹×故・金子兜太〝奇跡の共著〟誕生!『孤独の俳句』】より

今だからこそ心に沁みる〝放浪の俳人〟の名句、再発見!新型コロナウイルス禍の影響で広がる潜在的な「孤独」や「孤立」。

人との交流が制限される社会において、〝放浪の俳人〟種田山頭火(たねだ・さんとうか)と尾崎放哉(おざき・ほうさい)の自由律俳句が、再び脚光を浴びているという。

家と妻子を捨て、生涯の大半を放浪の旅につぎ込んだ山頭火と、酒に溺れてエリートコースをはずれ、小豆島でひとり生涯を閉じた放哉。

漂泊・独居しながら句作を続けたふたりの厖大な作品の中から110句を厳選・解説!

戦後の俳句界を牽引し続けてきた現代俳句の泰斗・金子兜太が生前選んだ山頭火55句。

自由律俳句の句集(共著)をもつお笑い芸人で芥川賞作家の又吉直樹が選んだ放哉55句。

山頭火と放哉の自由律俳句を介して、〝奇跡の共著〟がここに誕生した。

«「『火花』や『劇場』で貧しい若者を描いたとき、「昭和っぽい」「懐かしい」と言われることがありました。でも、これらの物語の舞台は現代です。令和にも、苦しい生活を余儀なくされている若者や経済的な事情に限らず人間関係などで社会から孤立している人は沢山います。誰かによって勝手に過去へ追いやられ存在すらないことにされている人たちは、その孤独を敏感に捉えていることでしょう。そんな人たちだからこそ、一人で過ごす時間に光を当ててくれる放哉や山頭火の俳句に救われるのだと思います」――又吉直樹

(本書「はじめに」より)»

本書では、1句ごとに選句の背景や解説、解釈などが付されている。

«うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火

……感傷も牧歌も消え、生々しい自省と自己嫌悪も遠のいて、宿命をただ噛みしめているだけの男のように、くたびれた心身をゆっくりと運んでいる姿が見えてくる。(金子)»

«咳をしても一人 放哉

……誰もいない孤独が満ちた部屋で咳をする。その咳は誰にも届かず、部屋の壁に淋しく響く。一つの咳によって部屋に充満していた孤独や寂寥が浮き彫りになる。(又吉)»

世捨て人となった山頭火と放哉は、自らと向き合い何を見たのか。

2人の吐き出した言葉が孤独な心を癒してくれる一冊。

▲選句された110句は大きめの活字を使い、コンパクトな新書判ながら1句1句をじっくり鑑賞しやすくなっている。

目次〉

はじめに――今なぜ山頭火・放哉なのか 左古文男

第1部●人生即遍路 種田山頭火

「うしろ姿のしぐれてゆくか」――金子兜太・選 放浪の軌跡――略年譜と行脚地図

金子兜太選「山頭火」名句55選 選句にあたって 「感覚で射止めた山頭火の句には、従来の俳句にはない新鮮な感銘がある」

キーワード解説――母への思い/流転・変転/酒癖と自戒/山林独居の日々/放浪行乞/「其中庵」と「風来居」/終焉の地・松山/ころり往生

第2部● 独居無言 尾崎放哉

「咳をしても一人」――又吉直樹・選 放浪の軌跡――略年譜と流浪地図

又吉直樹選「放哉」名句55選 選句にあたって 「放哉の句を読んで最初に感じたのは、言葉の強さですね」

キーワード解説――名門士族の跡取り/一高俳句会/東大入学と恋の挫折/就職浪人/「腰弁」への失望/無一物の身/奉仕と托鉢/「死に場所」を求めて/終焉の地「南郷庵」

ゆかりの地を訪ねる


https://izbooks.securesite.jp/2003.html 【『漂白三人 一茶・放哉・山頭火』 金子 兜太 著】より

  流れゆくものの作品と人間性を問う 兜太10数年に及ぶ考証記述の集大成

35年の漂白業俳の果て故郷に固執しつつ、ついに庶民のリズムを見つけた一茶。

流れるままに漂白に身をゆだねる放哉の純粋な魂は悲愁の美を作句する。

15年間の行乞流転に、揺れ動く情念のままに歩む山頭火の生きざまと放浪の抒情。

流れ行く三人の俳句に賭ける生涯を、作品・日記・手記をあげて奥深いところから捉えて語る。

Ⅰ 一茶-1一茶の時代と俳諧 2個化と孤化(景色の罪人、孤の純粋感覚、都会のひとりごころ、定着基盤の確立) 3秀句の背景(喧嘩の中、二人、生活体験)。4ある庶民考(寒け、まぎれ、蘭) 5庶民の心 6「是がまあ」・俳句の文体。

Ⅱ 放哉・山頭火- 1崩れゆくひとりごころ(流れ行くものと放浪漂白、歩みの中の死と甘え) 2放哉と山頭火(漂白の俳人たち) 3山頭火の我執放浪 4尾崎放哉(孤独な死) 5存在難 6山頭火の秀句鑑賞 7観照傍観。


https://hourai139.seesaa.net/article/494659297.html 【「良寛と一茶」】より

久しぶりに金子兜太著『漂白三人』一茶・放哉・山頭火(飯塚書店発行)を読んでみた。「ある庶民考」という項の中で、金子先生は一茶と良寛のことについて触れている。

良寛は一茶より七年早く生まれて六年後に亡くなった。二人はこの世に六十五年間も一緒に住んでいたことになる。良寛は諸国修行ののち、1795年(寛政七年)、三十八歳で越後に帰る。翌年から国上五合庵に棲み、寓すること十八年。更に乙子神社境内の草庵に約十年、最後は、三島郡島崎の木村元右衛門の庵に住んで七十四歳で息を引き取っている

一茶が柏原に帰ったのは五十歳(1813年・文化十年)である。良寛が五合庵時代の五十六歳の頃である。一茶が亡くなったのは1813年文政十年、六十五歳である。良寛はこの時、島崎の草庵にいた。その間、十五年の間、二人は北信濃と越後に隣接して住んでいた。金子先生の推理は、「二人はお互いの存在を知っていたとおもう。」というものである。知ってはいたが会ってはいないというのが先生の結論である。信濃と越後、二人は接触したのだろうか?或いはお互いの存在を知っていたのだろうか?これだけでも中々に興味の尽きないテーマではある。然し、「ある庶民考」はこの後当然のことながら、一茶の俳諧への本質へと展開されてゆく。

「焚くほどは風がもて来る落葉かな」 

金子先生によると、相馬御風著『一茶と良寛と芭蕉』の中の一篇「野人一茶の悟」に、この句が良寛の句として越後地方では広く伝えられていたそうである。御風によると、一茶の『七番日記』には、「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の一句があり、一茶の句が原形であることはまず間違いないとされている。金子先生も又、この事実を認めておられる。

良寛作と伝誦変化した「焚くほどは風がもて来る落葉かな」と原形である一茶作の「焚くほどは風がくれたる落葉かな」両氏とも、一茶句の方の「くれたる」には、「自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相対的である。」とし、良寛句と伝えられる方の「もて来る」には、「主我的なはからひがない。自然は自然である。」としている。

しかし、この句の心境を、「一茶も五十三歳にして達し得たことは恭敬に値する。」という御風氏の見解に金子先生は異議を唱えている。それは「余りに良寛の方へ一茶を引きつけすぎている」というものである。言いかえれば、それは余りのも抹香臭い解釈ではないか、ということではなかろうか。不自然だというのである。

お坊さんで俳句をするものは多いだろうが、現代の俳句界においても説教染みたものや理屈の句は敬遠されている。「お坊さんであることに甘えている」と云うのがその批判の矛先である。いづれにしても作品本位ではあろう。金子先生には一茶を偶像に祀り上げる気など更々ない。一筋縄ではいかない一茶の人間性をありのままに受け入れて、なお余りある一茶の魅力を金子先生はその多くの一茶関係の著作を通して力説しているように思える。そして、それはそのまま金子兜太先生の魅力でもあると私は受け取っている。

 

良寛は所謂、禅宗の中の曹洞宗の系譜に属するお坊さんであるが、果して良寛自身に宗派意識・セクト根性があったかと云えば、私はないと思う。あったのは、釈尊から道元禅師、そして良寛へと繋がる一筋の法脈。自己を照らし、今に輝く命の灯。それは宗派という結界を越えている。まっさらな自己の命に連なるひろやかにして孤独な道。釈尊は「犀の角のように一人で歩め」と云った。自己が自己の法を求める道。それは看板を掲げたり、旗を振って歩むような世界ではなく、世の一隅に、ひそやかに、あるがままに生きる道ではなかったか。良寛には、宗派とか教条の中で生きてゆく「求心」さえ抜け落ちた解脱の生き様が感じられる。一方の一茶には凡夫として生きる逞しさというようなものがある。

 一茶が念仏や名号を唱えていたかどうか知らないが、どちらかと云えば妙好人とまではいかずとも、「一向宗門徒」の匂いがする。私などは川柳の先駆者と言ってもよさそうな彼の句に、どちらかと云えばときに理屈めいた響きさえ感じることがある。そこには、俳諧に遊び、あなた任せの世界に生きる苦労人一茶の、どこまでも凡愚な人間であろうとする、ふてぶてしさがあるのではないか。一茶にも又、良寛とは違った形で「求心」を捨て去った生きざまが窺えるのだ。思えば、命生きることに宗派も糸瓜もない。良寛はひとりの出家者として、一茶はひとりの世俗者として、ともにその生涯を生き抜いた。私にはそのことが限りなく尊く、輝いて見える。  エッセイ集『拝啓、良寛


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000