Facebook髙橋 眞人さん投稿記事
こんにちは。【今日の名言】小林 秀雄(文芸評論家)
自信というものは、いわば雪のように音もなく、いつの間にか積もったようなものでなければ駄目だ。そういう自信は、昔から言うように、お臍の辺りにできる。頭にはできない。頭はいつも疑っている方がよい。難かしいことだが、そういうのが一番健康で望ましい状態なのである。
左翼だとか右翼だとか、みんなあれ、イデオロギーですよ。あんなもんに「私」なんてありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。どうしてああ徒党を組むんですか。
人生を解釈する上に非常に便利な思想というものは、その便利さで身を滅ぼす。便利さが新たな努力を麻痺させるからだ。
死を目標とした生しか、私達には与えられていない。そのことが納得できた者には、よく生きることは、よく死ぬことだろう。
人間は自分の姿というものが徐々によく見えて来るにつれて、自己をあまり語らないようになって来る。これを一般に人間が成熟して来ると言うのである。
変わり者はエゴイストではない。社会の通念と変った言動を持つだけだ。世人がこれを許すのは、教養や観念によってではない、付き合いによってである。付き合ってみて、世人は知るのだ。自己に忠実に生きている人間を軽蔑する理由はどこにあるかと。
でき上った知をもらうことが学ぶことではなし、でき上がった知を与えることが教えることでもなかろう。質問する意志が、疑う意志が、第一なのだ。
思い出のないところに故郷はない。確固たる環境がもたらす確乎たる印象の数々が積もり積もって作りあげた強い思い出を持った人でなければ、故郷という言葉のはらむ健康な感動はわからないのであろう。
考えるとは、合理的に考えることだ。どうしてそんな馬鹿げたことが言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じてものを考える人々の考え方を観察していると、どうやら能率的に考えることが合理的に考えることだと思い違いしているように思えるからだ。
現実の苦い経験をなめた人に、小説が軽薄に見えても仕方がない。ただ問題は、次の一言だ。生々しい経験を、生々しいままに蓄えるには、一種の術がいる。というよりも一種の稀有の資質がいる。
保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。進歩派は理論のうちに夢みている。眠っているものと、夢みているものとは、いくらでもいるが、覚めている人は少い。
重要なことは、人々は、人々のそれぞれの生活に即した現実を見ているに過ぎないということ。人々は各自の職業習性を離れて、決して現実を眺めることはできぬということである。
水掛け論なるものは、両方に正しい理窟があるものじゃない。中途までしかものを考えないうちに議論を始めるところから起こる現象である。
人間は、憎悪し拒絶するもののためには苦しまない。本当の苦しみは愛するものからやってくる。
死はいつも向うから歩いて来る。俺達は彼に会いに出掛けるかも知れないが、巡り合う場所は断じて明かされてはいない。 有効に行動するために予見すること、これが知性の目的である。
近代科学の本質は計量を目指すが、精神の本質は計量を許さぬところにある。
今日の知識人たちにとって、己れの頭脳によって理解できない声は、みんな調子が外れているのです。その点で、彼らは根底的な反省を欠いているといっていいでしょう。
美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。
同じ理論を抱いているというので、親友だと思い込む、実はただ独りでものを言うのが不安だからに過ぎぬとは、気がつかぬ。
「人生の謎は、齢をとればとる程深まるものだ」とは、なんと真実な思想であろうか。
※3月1日は小林秀雄の命日(1983年)でした。
Facebook尾崎 ヒロノリさん投稿記事【雑感】『モラルの崩壊と多様性の解釈』
近年、セルフエスティーム(自己評価)、セルフアサーティブネス(自己主張)、セルフフルフィルメント(自己充足)、セルフリアライゼーション(自己実現)といった概念が、自己の好き嫌いや利益追求を優先する傾向に結びついているように感じます。
しかし、現実には高い価値判断と低い価値判断が存在し、それらの間には優劣があるはずです。
それにもかかわらず、すべての価値判断が水平的で、「これが自分の生き方なのだから、文句を言うな!」といった風潮が広がっています。
「俺が好きなようにやっているのだから、口を出さないでくれ!」という主張がまかり通る状況は、個人主義の劣化とも言えるでしょう。
こうした背景のもと、今なおマズローの欲求五段階説が持ち出され、自己実現が強調されます。
また、日本の社会学者M氏は、アメリカでは7割の人がセルフエスティーム(自尊感情)を持っているのに対し、日本では1割しかいないと指摘しています。
その結果、アメリカには幸福感を持つ人が多く、日本では幸福感が低いとされています。
しかし、そのような単純な統計から、「成功するには強いビヘイビア(行動)が必要だ」と結論づけるのは短絡的ではないでしょうか。
さらに、「政治的な正しさ」と訳されるポリティカル・コレクトネス(Political Correctness)が、言葉狩りのような形で浸透しています。
これは、特定の民族、人種、宗教、性別、職業、年齢などに対する差別的な表現を避けるという考え方です。
困っている当事者が不快に感じたり、将来的な差別につながる可能性のある言葉を使わないようにする姿勢として、一見すると道理があります。
しかし、過剰な適用が社会の自由な議論を抑圧している面も否めません。
同様に、アイデンティティ・ポリティクス(Identity Politics)も拡大しています。
これは、社会的不公正の犠牲となっているジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティに基づく集団の利益を代弁する政治活動を指します。
本来は重要な視点ですが、実態を超えて過剰に横行している側面もあります。
また、マイクロアグレッション(Microaggression)という概念が登場し、「明らかな差別に見えなくても、相手を傷つける可能性がある言動」として問題視されるようになりました。
「あなたは私が気に入らないことを言ったから謝れ!」といった極端な主張がなされることもあります。
これでは、すべての言葉が差別と見なされかねません。
こうした風潮が広がる背景には、道徳的な規範が曖昧になり、価値判断が感情的な基準に委ねられていることが挙げられます。
「他人事を自分事に」と主張する人々が、実際には矛盾したモラルに基づいた価値判断をしていることに気づかないままです。
マスメディアも「客観性は必要ない」といった論調を取り、あたかも客観的な真実や事実が存在しないかのように振る舞っています。
今では、個々の主張が「自分の好き嫌い」や「自分に利益があるかどうか」といった基準に左右され、すべてが個人の解釈次第という状況になっています。
その結果、どんなに嘘をついても気にしない風潮が生まれました。
本来、価値判断には垂直的な基準があるべきですが、現代では水平的な価値観しか認められず、それこそが「素晴らしい生き方」とされる傾向にあります。
多様な価値観を尊重することは重要ですが、すべての判断を相対化しすぎると、社会全体が混乱に陥ります。
もし、客観性がなく、科学的な思考も欠け、明確な判断基準が存在しなければ、それはカオスを超え、独裁的な政党や国家が絶対的な判断を下す全体主義へとつながる危険性を孕んでいます。
実際、日本政府はアメリカや中国に対して主体性を失い、国会の審議も十分に行わずに増税や悪政を進めています。
それに対して、多くの国民は「お上の言うことには黙って従う」という姿勢をとっており、非常に危うい状況にあるといえます。
このような社会の流れを食い止めるためにも、歴史や文化を学び、多様性の本当の意味を一人ひとりが深く考え、理解することが急務ではないでしょうか。
どうか、引き続き充実した時間をお過ごしください。
https://coachingplatform.main.jp/self-trust/ 【自信を持てなかった僕が「自己信頼」を取り戻せた魔法の言葉。】より
ファウンデーション(自己基盤)
初めまして、コーチングプラットフォーム認定コーチの土志田 彬(としだ あきら)です。
記事を読んでいただけてとても嬉しいです!少しでも何かのきっかけにしていただけると幸いです。
― 突然ですが…「自己信頼」してますか? ―
これを読んでいる あなたは、「自分のことを信頼」出来ていますか?
このブログを書いた1年ほど前までは、僕自身「はい」と答えられませんでしたが、コーチングを学び自己基盤(ファウンデーション)を整えることを通じて「はい」と答えられるようになってきた僕のエピソードを共有します。
(自分を信頼?どういう事?と思われるかもしれませんが、この後「例」も挙げていますので感じ取っていただけると嬉しいです)
― 「どうせ… 自分なんて…」と自分を傷つける ―
僕は、物事を基本的にはポジティブに捉えるタイプなのですが、自分のことになると「どうせ自分なんて…」とか「他に出来る人はいっぱい居るし…」と後ろ向きに考えてしまい、「自分自身の可能性を完全に諦めて」いました。
(もう何というか、「自己信頼」をどうのとかいうレベルではない感じですよね笑)
それには、いくつかの「考え方の傾向(癖)」が関係しているなと振り返って思います。
●自分の選択・行動に、自分で勝手に「制限」をかけてしまう
・「自分はうまく出来ない…(から、やらない)」
・「他にたくさん出来る人がいる…(から、やらない)」
・「サッカーは好きだけど、プロになれないと思う…(から、やらない)」
→好きな事・やりたい事にも自分からチャレンジしない・出来ない状況を作っていました。
●「いつも常に」「完璧」「100%」を求めている
・「いつも常に」誰かの役に立ちたい!(自分がいくら疲れていても…)
・少しでも関わったら「100%」サポートしなきゃ!(自分の得意領域で無いことも…)
・「完璧」に出来ないならやる意味ない!(たとえそれがどんなに好きな事でも…)
→「いつも常に100%完璧な状態」を維持できなければ… なんと「自分が存在する理由が無い」と考えてしまっていました…。
(僕のコーチには、「スーパーヒーローでも休息は必要だと思いますけど、土志田さんはほんの少しでも休まないんですか?」と聞かれて上の色々な傾向に少しずつ気づいていきました。)
― 自己信頼を取り戻せた「魔法の言葉」 ―
今振り返ると…、
自信が持てず遠慮ばかりして、挙句の果てには「残りの人生は消化試合…」と、何とも悲しいことを感じていたなと思います。
そんな僕が、自分への信頼を取り戻すきっかけとなった言葉が、
『 OK 』
です。 もう少しお伝えすると、
「自分自身の選択や結果、気持ちに『OK』を出してあげる(出そうと思う)」ことです。
感覚的な表現ですみません笑。
(※「SNSにある『いいね!』ボタン を 自分に対して押す感覚」の方が伝わりやすいかもしれません)
色々なコーチから「そんな自分は好き?」「それをしている自分はどう見える?」など、他にもたくさんの質問をいただきました。
ただ、僕にとっては「そんな自分にOK出せそう?」「自分の選択にOK出せたらどんな気持ち?」など、『OK』という言葉を使って聞いてもらった方がとてもしっくりとする、自分に心地よいニュアンスの言葉でした。
― 自分に色々な『OK』を出して生きやすくなった ―
具体的に「自分にOKを出せたな~」と思うことを挙げてみますと、
母のような人で在りたいと思う自分(有名人で無くても一番尊敬出来るのは亡き母だ!)
仕事で頑張ってきた自分(成績が一番で無くても頑張った!)
小・中学生の時に夢中になれたサッカーへの思い(サッカー選手にはなれなかったけど、好きだった!)
素直な自分の気持ち(●●したい!××で気が滅入った)
あとは、
「嫌なことがあったりして、いじけたり弱っている自分」にもOKを出せたことで、大きく自己信頼を取り戻せたなと感じています。
(「出来ない自分は許せない…」というNOではなく、出来ない自分も「そういう時もあるよね~」とOKにして認めてあげる感じです)
以前は「出来ない自分」を認められず「もっと上手く出来るハズ」「(ネガティブな自分は無視して)ポジティブに考えなきゃ!」と、自分の一部であり今後も人生を共に歩む「出来ない自分」を、まるで「無かったことにしていた」ように思います。
そんな「出来ない自分」も居るし、その自分にOKを出す感覚が持てた時には、とても自分自身の「味方」になってあげられたように思います。
強い味方ができたと感じられることで、肩の力がふっと抜けとても生きやすくなりました。
― さいごに ―
ツラツラと書いて来ましたが、今では僕は、自分自身のことを信頼できてきているな(自己信頼を取り戻せたな)と感じています。
そして、
自分が好きなこと・やりたいことにチャレンジしたり、自分の可能性も信じられています。
(もちろん「いつも常に」「100%」「完璧に」じゃないですよ~)
自己信頼を取り戻すことは、
「どんな時でも、自分を応援してくれて味方になってくれる」そんな、誰よりも心強い『自分自身の味方である自分』を取り戻すことでもあると思います。(僕は、『自分応援団』と呼んでいます。)
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回の「自己信頼を取り戻す」この内容が、あなたがコーチングやファウンデーション(自己基盤)を学ぶKikkakeになれば嬉しいです!
ぜひ、一緒に学びましょう!
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