曼珠沙華

母の目に我は映らず曼珠沙華 高澤晶子

目瞑りて見ゆる私の曼珠沙華 同


http://www.yutenji.or.jp/info/page-22650/page-23272/ 【「曼珠沙華 抱くほどとれど 母恋し」】より

大正・昭和期の女流俳人、中村汀女(ていじょ)の作品です。曼珠沙華(彼岸花)をとる行為により、故郷への思いや母への思慕の念を抱いている様子が伺えます。お彼岸に真っ赤な花弁を広げる曼珠沙華のあでやかさの中に潜む、はかなさに託した想いが切々と感じられます。

葉のない茎の先に花が付く曼珠沙華は、普通の植物とは違う成長をします。冬の終わりに出た細い葉が、春の終わりとともに枯れてなくなります。秋には伸びた茎に赤い花を咲かせます。葉は花を知らず、また花は葉を知らないことから、曼珠沙華のことを「葉見ず花見ず」と言うそうです。それぞれの存在は知らずとも、しっかりと命のバトンを引き継ぎ、毎年キレイな花を咲かせます。

「お彼岸」は太陽が真西に沈む「春分の日」「秋分の日」を中日として前後3日間、合わせて7日間の仏道修行週間です。

「彼岸」とは「彼の岸」、つまり「向こうの岸」のことで、迷いの世界である「こちらの岸」、「此岸」に対するものです。古代インドの言葉「波羅蜜多(パーラミター)」を訳したものとされ、「到彼岸」、つまり四苦八苦のあるこの世界、娑婆世界から、苦しみ、悲しみのない阿弥陀さまの西方極楽浄土に到達することを示しています。

法然上人が師と仰いだ中国の善導大師が書いた『観経疏』には、「春分・秋分の日には、太陽が真東より出て、真西に没していく。その落日する真西の方角にある西方浄土を観想して往生を願う」仏道修行が説かれています。そして、「私たちが阿弥陀さまを憶念すれば、阿弥陀さまも私たちを憶念してくださる。阿弥陀さまと私たちとは決して離れることはない」ともお示しくださいました。

国民の祝日に関する法律によれば秋分の日は「先祖をうやまい、なくなった人々をしのぶ」と謳われております。

実りの秋に際して、「お彼岸」を通して私たちに命のバトンをつなげてくださったご先祖さまに感謝をするとともに、より一層お念仏に励んでいただく仏道修行の期間にしていただきたいと思います。合掌 祐天寺法務部 竹村 崇邦


https://sunagoya.com/tanka/?p=1261 【時間がない ように咲きいる曼珠沙華母の庭には母しかおらず】より          なみの亜子『鳴』(2006年)

曼珠沙華は、秋彼岸のころに咲く彼岸花の別名。

茎の先に、細長く反り返った花被と上向きに湾曲した長い蕊を持つ花が数個、散形花序につく。日本に見られるの大部分が三倍体で、結実せず地中の鱗茎で殖える。

鱗茎は寸断されたときの再生能力が高く、田の畦などに多く咲くのはそのせいもあるが、毒草であるため、もともとは田を荒らす虫や小動物が忌避するように植えられたらしい。

花茎は葉をつけず、花が枯れてから葉を出し、その葉は春になると枯れるので、春から秋にかけては地上に何もない、不思議な植物である。死人花、捨子花、天涯花、など別名や方言が多いことも知られている。

きのうまで何もなかった場所に、地の底から噴出すようにいっせいに咲く真っ赤な花。

そのさまを見て主人公は、時間がない、とまるで残された時を惜しんで咲いているように感じた。そして、一人暮らしの母の余生に思いをよせる。

曼珠沙華は、母の庭に咲いているのか。車窓の曼珠沙華を見ながら母のことを思っているのか。いづれにしても、ふだん離れて暮らしていることは確かなようだ。

父に先立たれた母の余生をかなしんでいるだけでない。その限られた時間のなかで、母と自分の関係を修復しなければならない、というような焦りが、曼珠沙華をみつめる主人公のまなざしから感じられる。母との関係をなおざりにしてきたという悔悟の思いと、でもかんたんに打ち解けることはできないというわだかまり。炎のような曼珠沙華の赤は、そんな焦燥をひときわつのらせて主人公の目に映る。


https://kamenoashioto.blog.fc2.com/blog-entry-304.html 【季節の詩歌(9)~ ああ曼珠沙華 ~】 より      

空澄めば飛んできて咲くよ曼珠沙華         及川 貞

夏ゆけばいつさい棄てよ忘れよといきなり花になる曼珠沙華   今野寿美

十年近く前、術後の静養をしていたことがある。九月に入っても暑い日が続く中、気分転換にと、少し遠出をした。黄色く色づいた田と、それを縁どる曼珠沙華。まだ夏気分でTシャツ一枚だった私は、もうすっかり秋になっていることに驚いた。

人事に関わりなく、自然は働き、四季は巡ってくる。改めて、そんな感慨を覚えた。それ以来毎年、私は、秋の訪れと自らが生きていることを確かめるため、曼珠沙華を見に出かけている。      

つきぬけて天上の紺曼珠沙華             山口誓子

実は、曼珠沙華には、忘れがたい思い出がある。生意気な中学一年生だった私は、授業が退屈になると、窓から空を眺めるのが常だった。校舎のすぐ隣が田んぼになっており、稔りの季節を迎えた田の畦には、赤い曼珠沙華がたくさん咲いていた。

四方より馳(は)せくる畦(あぜ)の曼珠沙華      中村汀女

天ゆ降り曼珠沙華地に垂直に刺さるがごとくかたまりて咲く   喜多昭夫

当時、石川啄木の歌に心酔していた私は、一度、次の歌にあるように、彼の真似をしてみたかった。

教室の窓より遁(に)げてただ一人かの城址に寝に行きしかな   石川啄木

学校の外に群れ咲く曼珠沙華が、青空に映えながら、私を誘惑していた。ついに実行の日が来た!とばかりに、昼休み、私は窓から飛び出し、曼珠沙華を抱えるほどとってきた。ただ嬉しかった。

われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華        杉田久女

善と悪いづれも一字曼珠沙華              河野南畦

入学以来、どうも苦手だと思うことの多かった担任だったが、「きれい!」と喜んでくれる顔見たさに、私は曼珠沙華の束を花瓶に入れ、教卓に飾った。

ところが、先生は入室するなり「誰ですか!こんな不吉な花を!」と激怒して、束ごとゴミ箱に投げ捨ててしまった。完全な嫌がらせだと思われたのだ。

手放しで泣かれてをりぬ曼珠沙華      山田珠み

曼珠沙華憤怒してゐる美しく大和国原滅びの最中   落合けい子

「私です。」と言ったものの、涙をこぼさぬようにするのが精一杯。見開いたままの目に、ゴミ箱からあふれた赤い花が目にしみた。

まんじゅしゃげの赤しんしんと目に滲みて景色の色を奪ってゆけり   花山周子

曼珠沙華投げ合いて子らはときめきぬ祭りの終りのぬるき香のして   花山周子

担任に違和感を覚えることが多かった日々の中、今回の件は、子どもなりに先生に歩み寄ろうと考えてやったことだった。しかし、失敗に終わった。

いたみもて世界の外に佇つわれを紅き逆睫毛(さかさまつげ)の曼珠沙華    塚本邦雄

曼珠沙華蕊のさきまで意志通す       鍵和田秞子

直情の身過ぎでありし曼珠沙華       伊藤通明

いま思えば、ただきれいだと思った私と、さまざまな知識のあった先生との間には、大きな隔たりがあったというわけだが、不信感は募ったままだった。気の強い二人に、ついに和解はなかった。

GONSHAN  GONSHAN 何処(どこ)へゆく、赤い、御墓の曼珠沙華(ひがんばな)、

曼珠沙華、けふも手折りに来たわいな。   北原白秋  「曼珠沙華」第一連 (『思ひ出』抒情小曲集より)

GONSHANというのは、白秋の故郷柳川の方言で、良家の令嬢のことを言うそうだ。オランダ訛りの言葉とリズム感のある、この詩、少々残酷な内容が、イギリスの童歌『マザーグース』を連想させる。子どもは、無意識に他者を傷つけている。

ぽきぽきと折れば野が哭(な)く曼珠沙華  萩原麦章

ぽきぽきと折れる快感に、気がつけば抱えるほどとっていた曼珠沙華。当時の私は、とられた後の野の寂しさまで思い至らなかった。

曼珠沙華が、世間では不吉な花で通っているとわかったのは、下校して、母の話を聞いてからだ。

彼岸花の根(鱗茎)が飢饉の時に利用されたこと、毒があるため、モグラやネズミの害を避けたい田畑の畦や墓地に植えられたこと。この花を食糧にせねばならぬほどの飢餓とは、言い換えると、死と隣り合わせだということ。辛くて悲しい花だと思った。

川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄に行きたし今日も   寺山修司

濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華あかきを何の生贄とせむ       寺山修司

寺山修司も、私のように、母親から話を聞いたであろうか。曼珠沙華には、死人花、幽霊花、捨子花といった別の呼び方が、千種以上もあるそうだ。この二首は、精神的肉体的に、生死ギリギリのところで生きる痛さを、花そのものが発しているような歌である。花が植物ではなく、人間のように見える。

むらがりていよいよ寂しひがんばな    日野草城

曼珠沙華抱くほどとれど母恋し      中村汀女

「不吉だと嫌う人もいるけど、花のせいではないのにねえ。きれいなものはきれいでいいよ。」と、静かに言った母の思いが、今でも甘くよみがえる。

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長じて、俳句に興味を持つようになり、初めて出会った曼珠沙華の詩歌は、自由律俳句で有名な放浪の俳人、種田山頭火のものであった。彼の俳句において、彼岸花と曼珠沙華は厳密に区別されていることにも気づいた。

歩きつづける彼岸花咲きつづける      種田山頭火

曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ   山頭火

なかなか死ねない彼岸花さく        山頭火

山頭火の句に詠まれた彼岸花と曼珠沙華。同じ花なのに、印象がまるで違う。もちろん花の名を置き換えてはいけない。言葉の持っている世界が、正反対なのである。曼珠沙華という響きに伴う甘やかさに比べ、彼岸花のなんと寂しいこと。地の果てまで行ってしまいそうな頼りなさである。

西国の畦曼珠沙華曼珠沙華           森 澄雄

「西国の畦」とあるので、西国三十三ヶ所を巡る遍路の歩いた道であろう。その道を縁取るようにずっと続く曼珠沙華の花が山頭火の一句目と重なる。

緑濃き曼珠沙華の葉に屈まりてどこにも往かぬ人も旅人         伊藤一彦

山頭火のように、いつか自分も様々な縛りから自由になり、放浪の旅に出たいと憧れている人も多いだろう。しかし、現実問題として、実行は難しい。この歌のように、静かに語らうことで心を解き放てる人は、どこに行かなくても心の旅ができるのだ。

子どもの時聞いた話に加えて、曼珠沙華は、「天上の花」の意味、経文では「赤い花」のことをいうということなども知った。もともと大好きだった花を認めてもらえたようで嬉しく、次々と曼珠沙華の短歌や俳句を見つけ、私は書き留めていった。

赤き爪ゆらりかかげる曼珠沙華 立ち話より歩き始めつ       吉川宏志 

風を浴びきりきり舞いの曼珠沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ    吉川宏志

まんじゅしゃげ赤き籠編む曼珠沙華夢を匿(かくま)うかたちと思え    吉川宏志

対象を見る目の非常に優れた作者の三首である。曼珠沙華の外に反った花びらを、赤いマニキュアを塗った爪に喩えるなんて、誰が思いつくだろうか。しかし、この艶ある表現によって、一首目の下の句は、一気に恋の様相を帯びるのである。二首目の曼珠沙華の妖しく美しい様は、もはや花の域を越え、恋人そのものと化し、作者の情念に火をつける。花をじっと見るとは、こういうことかと思わせる三首目。曼珠沙華の反り返った花被と、突出した蘂、この花の形から、籠を編む様を想像するとは驚く。しかも、自ら隠す手だてをとるとは。誰にも知られてはならない夢が、人にも花にもあるのだ。

きぞの夢のつづきか曼珠沙華しみじみと秋陽さすところまで     上田三四二

ぬばたまの夢にかさなる曼珠沙華あかあかと咲きて今日の沈黙    岡部桂一郎

この二首は、前夜の夢に見た世界が、今、目の前に広がっているという歌である。曼珠沙華の群れ咲く景色は、まるで浄土かと思えるほど幻想的で、作者は、それぞれのやり方で、花に向かっている。

秋の透明感のある陽を受け、浮き上がっているように見える曼珠沙華のところまで、導かれるように歩く一首目の作者。圧倒的な赤に、言葉なく立ちつくす二首目の作者。どちらも、この世とあの世の境界に居るような不思議な空気が漂っている。

曼珠沙華のするどき象(かたち)夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき   坪野哲久

この歌に、作者は次のような自注をつけている。「うち摧(くだ)かれて滅びゆくのは、曼珠沙華か、はたまた人間の命か、秋、自然凋落のきびしさ、すさまじさは、過現未にかけて永劫につづくであろう」

人事も自然も滅びと誕生を繰り返すのである。      

長文を読んでいただき、ありがとうございました。どうぞ、お茶でも一服。

テーマ:短歌 - ジャンル:小説・文学

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