「俳句新空間」第20号・2025早春

https://testusuizu.blogspot.com/2025/02/blog-post_21.html 【もてきまり「可燃性二十歳のころの思草」(「俳句新空間」第20号より)・・】より

「俳句新空間」第20号・2025早春(販売・日本プリメックス株式会社)、本号概要hさ新作20句(巳巳帖)31名。その他の記事は「高橋比呂子追悼句」、筑紫磐井評「大井恒行『水月伝』Ⅲより」、「令和五年俳句帖(夏輿帖~冬輿帖)」、もてきまり・小野裕三「前号作品鑑賞」。

 「巳巳帖」より全員は無理なので、ここでは、「豈」同人各一句を以下に挙げておきたい。

  ばらばらにくちすいういてこいこない      加藤知子

  ひとりだつてとんぼかなぶんリビングに     神谷 波

  応じない免許返納建国日            川崎果連

  藪蘭の実に残りたる冬日かな          五島高資

  白孔雀晩夏の風に吹かれいる          坂間恒子

  月の舟無蓋の海へ星こぼす           佐藤りえ

  蓮破れて上野アメ横摩利支天          清水滋生

  その声の高低偲ぶ桃青忌            妹尾 健

  戦争は絶対多数で進みゆく           筑紫磐井

  認識は光! つぶやきしのちに転移する     冨岡和秀

  水澄むや一角獣に声なき声          なつはづき

  一切合切空缶空瓶去年今年           夏木 久

    先島諸島基地群

  静けさや野分南西二千キロ           中島 進

  えぴきゆりあん月光の鵺飼ひ馴らす       中嶋憲武

  御神火を揺り炎ゑ起こす炉心かな        渤海 游

  齧られていし〈戦争〉の書を曝す        堀本 吟

  一穢無き天の底ひへ登高す          眞矢ひろみ

  フズリナのためいき美濃のはつざくら      村山恭子

 以下は、高橋比呂子追悼句より、いくつかを挙げる。

  風果ての書屋の霜や津軽富士          大井恒行

  風果ててやまぐわ紅葉柔らし         妹尾健太郎

  末広を上野に去った夏の人          川名つぎお

  碩学や『風果』の風をスカーフに        早瀬恵子

  産土を滔滔と抱く林檎なり          小湊こぎく

  冬帽子と微笑み遺し消えしまま         山本敏倖

  冬帽子何処へ行こうか何処もない       杉本青三郎

  晴れて寒しよ何処に隠れて比呂子さん      池田澄子  

  ほほえんで去りゆく人や冬の蝶         神山姫余

  美貌の風追って津軽の雪椿          羽村美和子

  軽やかな声のみ残し白鳥逝く          森須 蘭

  ふゆごもりあまのいはやにやすいして      堺谷真人

  撮影・芽夢野うのき「うつらうつら枯れ紫陽花のあっぱれな」↑


https://note.com/muratatu/n/nf1e6684d6d2c 【大井恒行句集『水月伝』をめぐって】より

武良竜彦(むらたつひこ)

(ふらんす堂二〇二四年四月二三日)

大井恒行氏の新しい句集である。大井氏は「水月伝」という句集名にどんな思いを込めたのだろう。「鏡花水月」ということばが想起される。辞書にはこうある。

《はかない幻のたとえ。目には見えるが、手に取ることのできないもののたとえ。また、感じ取れても説明できない奥深い趣のたとえ。詩歌・小説などの奥深い味わいのたとえ。本来は、鏡に映った美しい花と水に映った美しい月の意。それらは目には見えても見るだけで、実際に手に取ることができないことからいう。▽「水月鏡花」ともいう。「鏡花水月法」はその物事をあからさまに説明しないで、しかもその物事の姿をありありと読者に思い浮かばせる表現方法。「鏡花」は、鏡にうつった花、「水月」は、水にうつった月で、どちらも手に取ることはできないことから》

 つまり句集の題の「水月」は水に映った月のことで、自分の句業のことを暗示しいるのかもしれない。

大井恒行氏は俳句界では高名な方なので、改めて紹介は無用とも思われるが、本句集の巻末から、その略歴が記されたページを転写する。

 句集『水月伝』は、現代俳句文庫『大井恒行句集』(一九九九年一二月)以後の、二〇〇〇年から二〇二三年に至る二三年間の作品から選句された句集だという。

現代俳句文庫『大井恒行句集』はどんな句集だったのか。今は入手困難だが、ネットで検索すると過去の紹介記事が出ていた。それを転記する。

◆現代俳句文庫シリーズ

  日晒しの紙のこよりやわが祖国

◆収録作品

『秋ノ詩』(全句) 『風の銀漢』(全句)『本郷菊坂菊富士ホテル』(抄)

「十月の菊、もしくは日本風景論」(抄)「'94年度詩誌『投壜通信』より詩を狩る試み」(抄)「そして」(抄)「無題抄」(抄)

◆収録作品より

  嗚呼!嗚呼!と井戸に吊され揺れる満月   木霊降るいちずに夕陽枷となり

  日はひとたびの夢間めぐれる獄舎かな    椀に降る牢獄ながらの世は初雪

  黒白の地図にて空の紺を煮る       木を揺りてしずかに狂う一語かな

  怒髪は焼け衡は焼けて透ける耳のみ    秋の谷の一顧を許す不思議かな

  背を透けて人かげ冬の山降りる     霙降るときどき見える人のかたち

 深い暗喩的造形による重い歴史性を背負う語彙群によって、構成する作風で、その表現主題が取り込むものは深く重い。この地点からの更なる飛翔が今回の『水月伝』ということだ。

『水月伝』の巻末「あとがき」の一部を抜粋して、本人の想いの一端を紹介する。

      ※

(略)ボクのこれまでの単独句集はすべて故人に捧げられている。第一句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』(一九七六年)は、ボクの育ての親ともいうべき伯父に。第二句集「風の銀漢」は、伯母に捧げた。

(略)これまでのボクの単独句集はすべて彼(※書肆山田の鈴木一民(かずたみ)氏のこと)の手によっている。一昨年、一民は、かけがえのない同志・大泉史世を亡くし、そして、その三か月後に、ボクの妻・救仁郷由美子も逝った。不明を恥じるばかりだが、本句集もまた、大泉史世と救仁郷由美子に捧げたいと思う。(略)

     ※

 大切に思う人たちの追悼以前に、日本現代史に刻まれた「戦争」を悼み、戦争の犠牲への痛恨の想いも詠みこまれている。

 選句の期間が二〇〇〇年から二〇二三年。 その「はじまり」に次の句が置かれている。

 東京空襲アフガン廃墟ニューヨーク

 戦禍の廃墟の景として東京とアフガンとニューヨークが串刺しにされている。

 あのニューヨークのツインタワーの崩壊(二〇〇一年 九月十一日のことだ)に、現代史の何かが象徴されていると感じたのは、大井氏と同年生まれの、わたしたち世代の感性だろう。

 その句に作者は次の句を添えている。 なぐりなぐる自爆のイエス眠れる大地

 国家間戦争のイメージが、テロルという自爆的暗闘の時代へと劇的に変貌していくことの予感。欧米の植民地主義の時代から続く、それ以外の地球規模の地域の人と文化との軋轢は、軋みつつこの次元へと突入していったのだ。

 そして句集の巻頭は次の句に繋がる。  草も木もすなわちかばね神の風

 世界がテロルの嵐に巻き込まれる中、作者はそれを遠景に日本の「神風」という、一種異様でもある独得な「たたかい」の歌の源流の不気味さへ鶴嘴を振り下ろしている。

 大東亜戦争中は準国歌ともされた「海ゆかば」の歌詞。

  海ゆかば 水み漬づく屍(かばね)  山やま行ゆかば 草くさ生むす屍

  大君(おほきみ)きみの 辺へにこそ死なめ  かへりみはせじ

 いわばこれは、日本型のテロル賛歌、自虐的聖化の歌とも言えようか。

 兵として天皇に仕える大伴氏の家訓でもある歌だという。「神風」は天から吹くものではなく、勇敢に戦死して天皇(すめらぎのおほきみ)の「辺」なる神聖不変の誉の場に逝くのだという、自分が死の風になることを讃えていう言葉である。

 その精神が日本詩歌のど真ん中に据えられて居座っているのである。

 俳句もまたその日本詩歌の末端に列するものにほかならず、この精神的呪縛からは決して自由であるとは言えないだろう。

 こうして開幕する大井恒行「詩劇場」としての句集『水月伝』が尋常な方向に一直線に進行するわけがないだろう。 句集は章題のことばのないⅠからⅣの章立てからなる。

 Ⅰの章からの引用を続ける。

  洗われし軍服はみな征きたがる 軍隊毛布抜け出る霊の青い陽よ

  明るい尾花につながる星や黒い骨  一本の 針金の ブリキの脚で 笑う人形

  召されしに白木の箱の紙切れひとつ  溶けたのはガラスの兎 鳥 魚

 そして日本的なすめろぎの「辺」なる「いくさ」の犠牲の哀歌から、民衆的差別構造へと、三行書きの句へと転調する。

  荊棘(けいきょく)の 九天(きゅうてん)めぐる 陽の殉義  

 「荊棘」は棘のある低木または、そんな木の生えている荒れた土地。転じて障害になるものの象徴、多難であることの比喩、人を害しようとする悪心のことで、「心に荊棘を持つ」などと使う言葉である。

 「九天」は古代中国で、天を方角により九つに区分したもので、中央を鈞天、東方を蒼天、西方を昊天、南方を炎天、北方を玄天、東北方を変天、西北方を幽天、西南方を朱天、東南方を陽天という。その中の天の最も高い所を指して「九天」ともいう。

 問題は「殉義」という言葉。これは辞書にはなく、ある詩人の造語である。

 わたしが、この造語を初めて知ったのは、その詩人の詩に抱いた強烈な印象故である。

  あゝ友愛の熱き血を  結ぶ我らが團結 力はやがて憂いなき  全人類の祝福を

  飾る未来の建設に  殉義の星と輝かん    ― 柴田啓蔵「解放歌」七番

 この詩人とこの詩のことを知ったのは、《君は「殉義の星」を見たか 歌い継がれる「解放歌」作詞者の激動人生》と題する朝日新聞デジタル版の二〇二二年十月二八日の記事だった。

 デジタル新聞も購読しているので、わたしの愛蔵詩歌ファイルに保存している、その記事の冒頭を少し長くなるが次に引く。

    ※

 戦前のエリート中のエリートが学んだ旧制一高の寮歌「嗚呼(あゝ)玉杯に花うけて」のメロディーを借りて、エリートとは対極に置かれた人々が歌った詞がある。

《今や奴隷の鉄鎖断ち 自由のために戦はん》

 ほぼ100年たった今も、歌い継がれている。

 作詞者は九州・福岡県生まれ。/生まれた場所が、被差別部落だった。/そこでは、貧しさゆえ、大半の子どもが尋常小学校どまりだった。/だが彼は旧制中学校に進んだ。/才能を惜しんだ尋常高等小学校の担任が、炭鉱労働者を管理する納屋頭だった父親を説得してくれたおかげだった。/文学や哲学に目覚め、読書に親しみ、被差別部落出身の教師の苦悩を描いた島崎藤村の『破戒』に感銘を受けた。/成績優秀。習字で学校代表に選ばれた。だが、ねたまれたせいか、同じ小学校の出身者に被差別部落出身であることを暴露された。/差別から逃れさせようという家族の配慮で、姉の夫の戸籍に入って姓を変えたのに。/罵倒、嘲笑、嫌がらせ。彼は「学校をやめたい」と訴えた。だが、無学で苦労したという父親らの説得で続けた。/進学先に旧制五高(熊本)や旧制七高(鹿児島)が頭に浮かんだ。/しかし、同じ九州だと、素性を知る者と一緒になるかもしれない。四国の旧制松山高(愛媛)を選んだ。

■水平社との出会い

 1922年2月。/全国水平社創立大会の予告記事が載った新聞を目にした。/「部落民自身が自ら立ち上がる運動」/ そんな言葉に、仰天した。問い合わせのはがきを出した。/水平社幹部がやってきた。自身も運動に取り組み始めた。/それは自ら素性を明かすことだった。/旧制高というエリートコースへの未練はあった。それを断ち切って1年後に中退し、運動に身を投じた。/帰郷。「部落解放の父」と後に称されようになる松本治一郎と会談し、「全九州水平社」の設立に賛同を得た。/ 23年5月、設立大会。松本が委員長に選出された。

 このとき、初めて披露されたのが、冒頭の歌だ。(略)

 “殉義”は柴田の造語。「正義に殉ずる」「正義のために命をかけて闘う」という意味だ。/部落差別からの解放。その正義は、一切の人間差別を許さない、全人類の解放につながるものだった。

    ※

 日本が単一民族でほとんど人種差別がない国だというのは「神話」である。どこの民族とも同じで苛烈な差別が横行しているのである。

 この詩の主題は残念ながら今も有効である。一番にはこうある。

 あゝ解放の旗たかく 水平線にひるがえり 光と使命荷いたつ 三百万の兄弟は

 今や奴隷の鉄鎖断ち 自由のために戦はん

  それに続く内容が次のように紹介されている。

    ※

この一番の「自由のために戦はん」とする宣言に続き、なぜ戦わなければならないかという、奴隷のような悲惨な状況を二~四番が表現する。そこには祖父から聞いた裸足の生活や、自分が受けた精神をむしばむような苦痛が投影されている。

 《我らはかつて炎天下 地に足灼(や)きしはだしの子》

 《鬼神もおののく迫害や 天地も震う圧制に 魂砕き胸やぶり》

 五、六番は状況を打破すべく、団結と正義を宣誓する。

 《踏みにじられしわが正義 奪い返すは今なるぞ》

 《一致團結(だんけつ)死を契(ちか)い 堂々正義のみちゆかん》

 最後の七番。全人類の解放を誓う。

    ※

大井氏の句集に戻ろう。続いて次の句が置かれている。

  吹雪(ふぶき)たる  地(ち)に  足(あし)灼(や)きし  裸足(はだし)の子

 この句は《我らはかつて炎天下 地に足灼きしはだしの子》の歌詞の本歌取りではないだろうか。こういう記事をファイルに保存したり、自句に詠みこんだりするのも、同じ全共闘世代的特質のひとつかもしれない。 句集にもどろう。

  油虫「童子死ねり」と書き 桃史  世界中の遺骨にありしきのこ雲

  光の粒の蘇生す済州島(チェジュド)ヤブツバキ  落葉「スベテアリエタコトナノカ」

「落葉」の句はこれだけを読むと季節の循環の表象ひとつとしての「落葉」という現象が「スベテアリエタコトナノカ」という句と解されるかもしれない。

 だがこの句は、句集でのその前の句群で、福島の原発事故が広島長崎の原爆と一続きの「核禍」として詠まれており、そしてこの「スベテアリエタコトナノカ」は、原民喜の連作詩「原爆小景」の一節の引用句なのだ。

 この大井氏の句をどこで最初に読んだのか、今となっては記憶が定かではないが、敬服したことを覚えている。わたしも「小熊座」でこのフレーズを詠みこんだ句を作って結社誌に発表していたからだ。

 原民喜は一九〇五年(明治三八年)に広島市で生またが、一九四五年八月六日に広島市に投下され原爆の、爆心地から一・二キロメートルの生家で被爆している。

 その体験を小説『夏の花』と連作詩篇「原爆小景」を遺し、被爆六年後の一九五一年(昭和二六年)に死去している。

 わたしと大井恒行氏が三歳くらいの昔のことになる。

 『夏の花』は単行本や文庫本としても刊行され、また戦争文学のアンソロジーなどに加えられているので知っている人は多いようだが、連作詩「原爆小景」のことは知らない人の方が多いのではないか。今はブログで紹介している人がいるので、検索すれば全詩を詠むことができる。小説『夏の花』にもこの詩の一部が使われている。

 「スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ」というフレーズは、その中の「ギラギラノ破片ヤ」という詩の一節である。その全文を以下に引用する。

     ※

ギラギラノ破片ヤ  灰白色ノ燃エガラガ  ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ

アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム  スベテアツタコトカ 

アリエタコトナノカ  パツト剥ギトツテシマツタ アトノセカイ  テンプクシタ電車ノワキノ 馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ プスプストケムル電線ノニホヒ

    ※

 句集にもどる。 原子炉に咲く必ずの夏の花

 もちろん、この「夏の花」は原民喜の原爆体験小説のタイトルでもある。

 このように、原発禍を詠むにしても、大井恒行氏の詩眼の奥行の深さ、広さが解るだろう。

 叫びは立ちこめ土砂より速く飲みこむ海 かたちのないものもくずれるないの春

 沖縄辺野古の海から恒常的に列島を襲う地震災害までも、高度な俳句的アナロジーで詠み込まれている。このように一句一句の語句とその配置に編みこまれた歴史性を負う主題は、丁寧に読みこめば、ここに引いた以外のたくさんの俳句に見出すことができるだろう。

 わたしの読解力不足を理由に、以下は特に印象に残った、気になる句だけを揚げる。

Ⅱの章から

  春の陽の飛魂(ひこん)よ風をつかまえろ  暴かれて立つまぼろしの花の木よ

  雨を掬いて水になりきる手のひらよ  嘆きの日青のみ痩せて青き空

  ひかりなき光をあつめ枯れる草   赤い椿 大地の母音として咲けり

Ⅲの章から

この章は個人名の前書きのある悼句なので、ここで安易に引用して紹介するのが憚られる。

 わたしの師系の佐藤鬼房、尊敬していた齋藤愼爾、亡くなったばかりの上田玄の悼句だけを紹介するに留める。

  いくたびもまかせて希望の春を言いし      佐藤鬼房 悼句

  愼爾深夜の夏の扉を開けましたか        齋藤慎爾 悼句

  「鮟鱇口碑」肌に彫りたるぞうはんゆうり     上田 玄 悼句

 上田玄についての句で「鮟鱇口碑」は句集名との注記。上田の「口碑」シリーズの第一作である。『月光口碑』も名作である。

Ⅳの章から

  見殺しや泳ぎてたどる朝の虹 辺陲の地に咲く椿 明日ありや

  家ぬちの裸女は常なる木蔦かな 夕焼けや走り続ける道化を負い

  赤い十字架「ぎなのこるがふのよかと」 注記「残った奴が運のいい奴」

注の注 熊本の方言で子供達がジャンケンをするときに唱えていまし た。詩人の谷川雁が自詩の中で使っている。

  虚舟(むなしぶね)漕ぎつつ列を崩さざる    緑星やみどりの霧に鳥語せる

  墨書は「死民」暗黒の満つ力石(ちからいし)  根は風のうそぶく水を生きており

  天体に差し入れし身や嘆き舟   赤い林檎かの痛点に至りけり

 最後に「死民」という言葉の、私の中にある記憶と記録に触れておきたい。

 この「死民」ということばは、政治的また一般概念的に一括りされる「市民」という言葉の埒外で、見殺しにされている民びとという意味で、石牟礼道子と渡辺京二が初めて使ったことばであると記憶している。

 被害漁民たちを発ち上がらせ、水俣病闘争を共に戦った石牟礼道子と渡辺京二が使った言葉が端緒になっているはずだ。

 その活動を纏めた『わが死民: 水俣病闘争』という書は、石牟礼道子によって編集されたことになっているが、実質は渡辺京二が企画し編み上げたものである。

 その印税を出版社に前払いさせて、闘争資金に充てるという戦略を立てたのも彼である。一株主運動、株主総会への巡礼姿での乗り込み、大阪、東京の本店、本社への抗議の座り込み、責任者との直接対話の要求、という江戸時代の一揆のような、直接的なことばと行動による闘争方針で、あくまでも被害漁民の気持ちを優先することを願った石牟礼道子の意向を、渡辺京二が現実化した闘争だったのである。

 一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけての水俣病患者、市民、支援者のかかわりあいの中で生まれた「人間変革」ドキュメタリーである。

 渡辺京二自身は自著『死民と日常《私の水俣病闘争》』を上梓している。

 この本は闘争を支援することに徹した著者の視点から、日本社会が抱え込んだ闇の本質を抉り出していて、石牟礼の『苦海浄土』の口誦文学性を持つ価値とはまた別の、一般的な社会論と無縁の独創的価値を持つ書である。

 自句の中に、そんな深い歴史の「記憶」負うことばたちを編みこむ、大井恒行氏の姿勢に、深く共感する。

 これぞ現代俳句というべきであろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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