どんなことばがすきですか

Facebook玉井 昭彦さん投稿記事『ことば ・ 山尾三省』

あなたはどんなことばがすきですか 海ということば 森ということば いのちということばが すきですか それとも 平和ということば やすらぎということばが すきですか

それとも 争いということば 憎しみということば むかつくということばが すきですか

それともまた しらけるということば 切れるということばが すきですか

私は今 いのちということばと やすらぎということばが とてもすきです

いのちということばには わたくしの光があります 安らぎということばには わたくしの涙があります あなたはあなたで わたくしはわたくしで もろともに ほんとうに心から好きなことばをみつけて そのことばを大切にし そのことばを生きていくのが 人間であり

人間社会であると わたくしは思います

いのち やすらぎ あなたはどんなことばがすきですか (山尾三省 ことば)


https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/04/ku1.html 【特集「ku+」第1号 読み合う

「いい俳句」という言葉の個人的な用途と、それとは別に、「いい句」について

福田若之】より

【質問1】 あなたにとって「いい俳句」とは、どのような俳句でしょう。(以下に200字以内でお記しください)

「いい俳句」は、少なくとも手元から遠い俳句のようです。「好きな俳句」と「いい俳句」のニュアンスの差や、自分の句を「いい俳句」として語ることの不自然さ、「好きな俳句」に比べ「いい俳句」は忘れやすいことなどは、それが理由かと。僕の挙げられる句は、必然的に僕の手元に近い句に違いないのですが、その中で比較的「いい俳句」に向き合ったときに似た感覚を呼び起こす句を。

【質問2】1でご回答いただいた「いい俳句」の典型であるような、一句を挙げて下さい。(「名句」としてよく知られた句、以外から、挙げていただければ幸甚です)

天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也

クプラスを読み返しながら、僕はいったいどういうものを名指すために「いい俳句」という言葉を使いたいと思うのか、ということを、また考え込んでいる。「僕にとって「いい俳句」とは何か」という問いは、言い換えれば、そうした問いにほかならない。

そもそも、「いい俳句」という言葉は「いい」と「俳句」からなる。

だから、要するに、「いい」、なおかつ、「俳句」が、「いい俳句」なわけだ。でも、はっきり言って、この「いい俳句」という言葉を構成する場合の、「いい」ってどういうことなのかそもそも厳密には知らないし、「俳句」であるってどういうことなのかそもそも厳密には知らない(いくらか挑発的に「知ったことか」と叫びそうになりながら、ぐっと思いとどまる)。

そんな具合だから、ある句を僕が「いい俳句」だと断じるとき、それを本当に断じることなんかできていないんだと思う。つまり、僕にとっての「いい俳句」は、「いい(かも知れない)俳句(かも知れない)」だ(だからだろうか、「いい俳句とは何か」と言う問いを突きつけられたときから、それはちょっとソクラテス的な問いに感じられていた。回答者を無知の知へ導くタイプの問い)。

僕にはそれは、雑踏ですれ違う無数の「いい(かも知れない)人間(かも知れない)」たちのようなものに思われる(この書き方は自分でもちょっと気味が悪いけど)。

同じ社会を構成している、僕のまるで知らない、けど、たぶんまともに人間なのだろうひとたち。この「いい人間」という言葉は、より個人的な関係の中で個人として認識しあうことができる「いい友達」とか「いい先輩」とかとは違うひとたちを指しているし、それぞれの「いい」の意味合いも違っている。たまたま個々の「いい人間」たちと一瞬すれ違ったからといって、普通はその後どうもならない。ただすれ違ったというだけのことで僕が変化したりはしないと思う。だけど、あのひとたちが「いい人間」でないのだとしたら、僕はとても外へは出られないだろう。

僕にとっては、「いい俳句」もそれと同じところがある。僕はそれらの俳句を本当の意味で知ることなどなく、特に影響を受けることもなく通り過ぎる(実は、「いい俳句」と対立する「手元」の句から〈天の川ここには何もなかりけり 冨田拓也〉をアンケートで挙げたのは、この句の表現している天の川との距離感とそこにある虚無感が、この「いい俳句」との触れ合えなさと近いものであるように思ったから。正直に言うと、僕の回答が「高み・未知・遠い目標」とか「自己更新」なんかに分類されているのを見たとき、アンケート回答では考えをほとんど伝えられていないことに気づいて、けっこう焦った)のだけれど、それらが「いい俳句」であることにしておかないと、どんなものも読めなくなってしまうような、そんな俳句が「いい俳句」だ、とも言える。

もちろん、そのように通り過ぎかけたとき、あるいは完全に通り過ぎたあとで、ふいに強いかかわりが生まれて、個々の「いい俳句」が、そういうものでなくなることもあるわけだけれど。そして、逆に、好きだったはずのものが気がついたらただの「いい俳句」にしか思えなくなっていることも、残念ながらあるのだけれど。

僕は「いい俳句」であるとはどういうことかを知らない、と書いたけれど、眼前にある何かが、僕にとって単なる「いい俳句」であるかどうかは、むしろ、よく分かる。すなわち、分けることができる(その意味では、「いい俳句とは何か」という問いは、「存在とは何か」という問いにも似ている気がする。定義できないけれども自明であるものを問うている問い)。眼前のそれが、いい、かも知れなくて、俳句、かも知れなければ、それは「いい俳句」だ。

ここまで書いてきたことは言葉遊びだと思ってもらってかまわない。それでも、もし言葉遊びがくだらないというのなら、きっと結局は言葉なんてまったくくだらないということになるだろうから、本気で言葉遊びをすることも大事なことだと思う。

ところで、「いい人間」と「いい友達」の「いい」の違いから話を広げると、句会で口をついたように「いい句」と言ってしまうときの「いい」は、ときどき、「いい友達」と言うときの「いい」だったりする。文脈にもよるけど「いい句」と「いい俳句」の「いい」は違うことがある。たとえば、僕は小島健さんがアンケートの中で「いい俳句」ではないものとして挙げている「優等生のお手本のような形ばかりの整った「良い句」」のことを「いい句」とはあんまり言わない。考え方は分かるので、これは単純に言葉の使い方の問題。僕はそれを「できている句」とか言ったりする。

僕が「いい句」という言葉を使うときの「いい」のニュアンスは、アンケート回答から選ぶなら、岸本尚毅さんのそれのほうが近いかもしれない。「句を前にして、その句を詠んだ作者に対して何がしかの思い(中略)が自然に湧きおこってくるような句が「いい句」」。ただし、岸本さんは「いい俳句」という言葉の意味を「いい句」と同じに捉えようとしているし、岸本さんの回答だと「作者」が正面から出てきてしまうところには個人的にはちょっとひっかかるところがあるけれど。まあ、これも批判なんかすべきことじゃなくて、結局は単純に言葉の使い方の問題。

さて。ここまでごちゃごちゃ書いてきたのだけれど頼まれているのは特集の感想じゃなくて作品鑑賞だった。どうしてこうなってしまったかというと、クプラスに載っている作品を読んでいたら、「いい俳句」についてもう一度考えなきゃいけない気がしてきたからだ。クプラスの句には、上に書いたような意味での「いい俳句」ではないけれど、でも、個人的な感動の表明として、口をついたようについ「いい」と言ってしまうような、そういう意味での「いい句」が多いように感じられる。

 海に雪いそぎんちやくが見たかつたの 依光陽子

なんて、まさにそう。いそぎんちゃくが見たいというそれだけの理由で雪の舞う海まで来てしまうこの句のことが気になる。それでしかもいまさらのように突然「いそぎんちやくが見たかつたの」とか言い出してしまうこの句のことが気になる。雪の舞う海でいそぎんちゃくがどう生きているのか気になる。この句とは黙ってすれ違ったりできない。

 尾のありしあたりのきしむ雨月かな 杉山久子

も、気になる。音韻はとても整っている。「ノ」「ア」「リ」「シ」が複雑に絡みあって語調を整えているのが分かる。句意も通るし、難しいことは言っていない。でも、景は明瞭じゃない。なんの尾なのか。なにがきしんでいるのか。まさか月が? そこはかとなく不気味な感じがして、どことなく雨月っぽい。

 牡蠣買うて愛なども告げられてゐる 阪西敦子

は、「なども」が肝だ。この「なども」はどうして湧いたんだろう。愛を告げられることの照れくささだろうか。それとも、その告げられた愛はあまり価値のないものだったのか。そもそも愛があまり価値のないもののように思われるのか。案外、告げた側が照れくさがって、愛を瑣末なことのように告げたのかもしれない。

 二十世紀を路上に撒きぬ野口る理 関悦史

は極私的なエピソード。る理さんがある日の集まりにお土産の二十世紀梨を持ってきた道中、それをばらばらと落としてしまった(る理さん談)という出来事があったのだけれど、たぶん、この句はそれを詠んだものだ。「二十世紀」の意味の重層性が面白い。二十世紀もいろんなものが詰まった百年間。それが路上にばら撒かれるという言葉の連想のひろがり。

 ひとさまに剃らるる顔や雲の峰 山田耕司

の「ひとさま」の使い方はすごい。てか、変。いや、だって、普通、床屋さんのことを「ひとさま」とは言わないでしょう。そりゃ、もちろん、床屋さんだって「ひとさま」に含まれるわけだけれども。この句を読むと、他人である床屋さんに顔を剃るという行為を任せられてしまう僕らの心持ちの不思議さみたいなものを再認識させられる。

 テレビ見て帰る何かの実よく降る 佐藤文香

は句会で出会ったのをよく覚えている。家でテレビを見て帰るということが許される関係に題材を見出しているところが面白い。見ていたのは他愛のないバラエティ番組かなにかで、ラフトラックが入ったりしてやたら賑やかで、セットとか衣装とかテロップとかがやけに鮮やかだったせいか、帰り道が暗く、静かに感じられる。「何かの実」が何の実かは、暗くてよく見えない。

 覚えつつ渚の秋を遠くゆく 生駒大祐

は「覚えつつ」という突然の語りだしに惹きつけられる。なんとなく、虚子の〈ふるさとの月の港をよぎるのみ〉を連想させる。海岸線との距離の感じ方が似ている。そこに記憶が関わっていることも似ている。虚子の句は、もう記憶になっている港。生駒さんの句は、いま記憶になろうとしている渚。

 ああ君の額に妙な突起物 谷雄介

の「ああ」の生々しさは真似できない。すごい驚きでも、嘆息でもない、気づきというにはあまりはっきりしていないし、納得というには落としどころの見つかった感じのしないこの「ああ」は、なんだか「ああ」って感じだ。どことなく、この妙な突起物を「君」の一部として捉えるべきか、それとも「君」とは別の異物として捉えるべきなのか迷っているような感じがある。

 灯火親し艶本(ゑほん)の馬鹿のつまびらか 高山れおな

は江戸時代の行灯の火を想像させる。秋の夜長の丑三つ頃に、嬶に隠れてひっそりむっつり春画を眺める旦那衆の図。それ自体、町人の生活を自嘲する趣向の浮世絵なんかが画題にしていそうな気もしなくはない。「つまびらか」が、エロかっこいいならぬ、エロ決まっている感じ。「馬鹿」の字面からはこの文脈だとなんとなく獣姦みたいなものが連想されて、春画の中でもかなりヤバいやつの感じがする。この句も音がいい。「カ」の脚韻とか。

 月の梨こんなに姿かたちかな 上田信治

も句会で見た覚えがあって、でも、こっちは確かそのときには採らなかったような記憶がある。ひょっとすると採ったかもしれないけれど、だとしても「いい俳句」のひとつとして採ったと思う、どうだっけ――というような具合に忘れていた「いい俳句」だったのだけれど、いまこうして見ると、ぜんぜん「いい俳句」ではなく、むしろ、けっこう好きな句だと感じられておどろく。満月をバックに浮き上がる梨のシルエットが、なんだか幻想的な感じだ。

と、ここまで一通り見てきて、「いい俳句」ではなく「いい句」と触れ合うことでなら、僕の句もあたらしくなりつづけることができるんじゃなかろうかという予感がしている。

読者のみなさんはどうだろうか。僕らの句が、批評が、対話が、言葉が、他の誰かに読まれることでその人と結び付き合って、さらにその結果としてあたらしい作品なり対話なりが生まれてくれるなら、それはもう、とてもうれしいことなのだけれど。


https://www.1101.com/n/s/natsuiitsuki/2024-06-29.html?srsltid=AfmBOorD080Cwg4iyFRa4OMKWEMAi-6JH8rur6Kh138P07guB4IxT5_D 【第4回 共感の土台。 | 夏井いつき - ほぼ日刊イトイ新聞】より

胸のすくような気持ちのいい解説で、俳句のたのしみ方を広く伝えている俳人の夏井いつきさん。テレビ番組で、その俳句愛に満ちた指導を目にしたことがある方も多いと思います。

夏井先生の「教える」こともたのしむ姿に惹かれているという糸井が、たっぷりと話を伺いました。俳句の道へ一歩踏み出したくなる、全7回です。

第4回 共感の土台。

夏井  俳句っていう文芸の一番大きな特徴は、作り手にも読み手にもなれることなんです。アーティストや画家の場合は、受け取る人は一方的に見るばかりかもしれないけれど、俳句の場合は作ったり読んだりする。人の俳句を読んで、感動して、自分でも作ってみて。作ることと読み解くこと、その両方をやれる文芸ってなかなかないと思います。

糸井  いいですよねえ。楽しむことが一番の目的というか。

夏井  それはありますね。

糸井  ありますか。

夏井  やっぱり、句会が一番楽しいです。

糸井  永遠に、作ったり読んだりするわけですよね。

夏井  はい。そこで褒められたらうれしいし、どうしたんだよ、うっかりにもほどがある、なんて言われると、それはそれでネタになって大笑いできます。褒めもうっかりも、全部含めて楽しいんです。

糸井  そういうことを、先生は毎週おやりになっているじゃないですか。

夏井  たしかに考えてみたら、『プレバト‼』っていう場所は姿の違う句会ですね。

糸井  僕にはそう見えてます。番組のように教えることはお好きですか?

夏井  好きですね。人の句のいいところを見つけられただけで、私自身がしあわせな気持ちになりますし、表現しようとしていることには惹かれるけれど、なぜわかりにくいのか、原因を分析して、自分なりに究明して「ここを変えるといいかも」とニュアンスがわかったときは大よろこびです。

糸井  人の句だけれど。

夏井  自分ごとみたいにうれしい。それを句会で共有して、みんなで「おおー!」って共感してよろこぶのが楽しいです。

糸井  短い句だとしても、どういう方向に転がるのか わからなくなっちゃうことがあるじゃないですか。そのときに夏井先生が「こうです」と言い切る姿を僕は何度も見てきたので。

夏井 言い切ってますよね。

糸井  あれがないと、たぶんジャイアンが勝っちゃいますよね。

夏井  そうですね。声が大きい人が勝っちゃいますね。

糸井  そこで、夏井先生がバシッと出てきて、胸のすくような指導をされているのが気持ちいいです。

夏井  ありがとうございます。番組で言えば、特に平場などは 俳句の技術的にまだまだの

言ってしまえば凡人の塊みたいな句が多いですから、迷わずに、伝わらないものは伝わらないと。

糸井  そういう瞬間がありますね。

夏井  「こんな句、山ほどある」って、収録で数え切れないくらい言いました。

糸井  よく、耳にしております(笑)。

夏井  作った人は「すごいものができた」と思っていることもあります。その気持ちもわかるけれど、あなたと同じことを考えて俳句を作る人は「ごまんといる」という説明をすると、

納得してくださいますね。

糸井  あらゆる表現の世界である、「ごまんとある問題」ですね。

夏井  コピーでもありますか?

糸井  あります。 基本的にいいか悪いかジャッジする前に、それ、みーんな思ってるよって、つっこまれてしまうことはあります。

夏井  どこもそうなんですね。

糸井  でも同時に、プロになると、「みんな思ってるよ」って言われて勝つ仕事があるんですよ。

夏井  ああ! それは、すごくわかります。

糸井  ありますよね、俳句でも。

夏井  誰もが思いつきそうな凡人的発想から生まれた俳句のことを、類想類句(るいそう るいく)と言うんですが、ここを恐れていては俳句は作れないんですね。最初は類想類句になってしまうことは避けられないし、別の視点からとらえれば「共感の土台」という意味にもなるんです。

糸井  ああ、共感の土台。

夏井  共感の土台を自分のものにしておくと、 ほんの一匙なにかを乗っけるだけで、

この共感の土台がとんでもない味方になってくれる。

糸井  なってくれるんですよね。

夏井  一緒じゃないですか!

糸井  そこで大事なのは、どちらも相手がいるっていうことだと思います。相手がいる中での表現の遊びですよね。

夏井  そうですね。ただ、読み手・受け手を強く意識するっていうのはとても大事なことだと思っているのですが、それは「おもねる」とは違う。

糸井  機嫌を取ることとは、違いますね。

夏井  「きちんと伝える」っていう、そういう話なんだろうと思います。

糸井  手をつながなくても、手を出してる状態ですよね。まだ握ることはできていなかったとしても、両者がものすごく必死に手を出しているのは、それは芸術としてすばらしいと思います。

夏井  そうですね。

糸井  あの、先生が本のなかで 例に出していた句があるじゃないですか。「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」(池田澄子)

夏井  池田澄子さんの句ですね。

糸井  あれはもう‥‥、たまんないです。

夏井  私も大好きな句ですけど、これを「たまんない」と言えるあなたは、もう俳句を作るしかないです。

糸井  そうですか。

夏井  私がたしかまだ教員をやっていたころに、この句が国語の教科書に載ったんです。

糸井  この句が教科書に載るって、いいですね。

夏井  それを載せたいとおっしゃった大学の先生から相談を受けていたときも、私は絶対載せるべきだと思うと伝えたんですが、教科書を使い始めた現場の先生たちがその句を読んで、その‥‥どう教えたらいいかわからないと。

糸井  ああ、はい。

夏井  この句についてどう教えるのが正解なのか、わからないから苦労しているという声がありました。私はいまだに「こういう句が必要だ」と強く言いたいんですけれど。

糸井  わからない先生は正直に、「私にはわからないけれど、君たちはもう覚えちゃっただろう。忘れないでいたら、それでいいよ」と言うくらいでも、この句が教科書に載っている意味がありますよね。

夏井  まさしく、そうなんです。無意識のうちに覚えてしまうっていうのも、俳句の力なんですよね。

糸井  短いから覚えやすいですしね。

夏井  無意識のうちに覚えていて、人生を何十年と過ごしていくうちのどこかで、ふと句を思い出す瞬間があるかもしれない。そのときに、この句の力が発揮されます。

糸井  どこかで、言葉は完全だと思われているところがありますけど、「言い足りないことのほうが多いんだよ」っていうことは、俳句をやっている人は感じながら生きているんだろうなと思います。

夏井  また俳句へのハードルがあがったのでは(笑)。

糸井  だから、和歌だったり俳句だったり、言い足りないことのほうが多いことを感じながら言い足りないことを読んでいこうとする力というのは、すばらしいことだと思います。

夏井  私の教員根性が出てきてしまうんですけど。

糸井  聞きましょう(笑)。

夏井  大きなことを言うようですけど、日本語を使える人みんなが本気で俳句をしてくださるようになったら、日本語の心というものが、恐ろしい勢いで耕されていくと信じてるんです。

糸井  はい。

夏井  私が目指しているのは 1億2000万人総俳人計画で、なんでみんな俳句をやらないだろうって、ずっと思っています。だから、高みにある文芸に祭り上げるだけでは、俳句のほんとうの力を発揮できない。俳句を作る、読むっていう日々のトレーニングをみんなにしてもらうことで、自ずと言葉を扱う技術と筋肉がついてきます。

糸井  なるほど。トレーニングですか。

夏井  俳句は才能ではなくて筋トレだっていつも言うんですけど、とにかく作るトレーニングをし続けると否応なく筋肉がつきます。真面目に、コツコツじゃなくてもいいんです。

コンテストに出して賞金をもらうことを目当てにしてもいい。モチベーションがあると勝手に歯車が回りだして、自然と季語を覚えて、語彙が増えて、作るだけじゃなくて読むと、もっと楽しい。

糸井  読むときは、先生はどんなことを考えていますか?

夏井  どんな句でもひとまずは謙虚に、「この句のいいところはどこだろう」っていう姿勢で読むようにしています。

糸井  なるほど。

夏井  決まった良さはありません。一人ひとり違って、みんないい。認めることを日々練習するような感覚です。

糸井  身近に、常に褒めるきっかけがあるのはいいですね。褒めるクセがつくと思いますから。

夏井  まさにそうですね。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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