FacebookOSHO Japaneseさん投稿記事
時間ーー真の時間ーーは、過程ではない。それは同時性だ。
未来、過去、現在は三つの別々のものではない。だからそれを結合する必要もない。
それは永遠のいまだ。それは永遠だ。時間が過ぎ去って行く、傍らを過ぎ去って行くというのではない。どこへ行くというのかね?通り抜けるのに媒体が必要になるが、それはどこへ行き、またどこから来るというのか?それはそこだ、あるいはむしろここだ。
時間は「在る」。それは過程ではない。私たちが全面的な時間を見ることができないがゆえに
私たちの目は限られ、制限されている。
私たちは小さな隙間から外を覗いているーー
だから、私たちにはいっときにひとつの瞬間しか見えないように思われるのだ。
それはあなたたちの限界だ、時間の分割ではない。あるがままの時間の全体を見ることができないためだーーあなたたちがまだ全体ではないからだーーそのためなのだ。 Osho
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時の概念はとても大事です。和多志は ティーリッヒの「永遠の今」の影響を受けました。
火の鳥伝説も 心を揺さぶるものでした。
若き日 ニヒリストであった和多志は ニーチェがツァラトウストラとして語った「死後の世界はない」という言葉に安堵の息をつきました。然し霊魂不滅(エネルギー不滅の法則)とも知るに至りました。
中学生の頃、和多志は生きる意味を探し続けても得られない故、ニヒリズムの淵に落ち込んでしまいました。
生きることも死ぬこともできない必死のあがきの中で 「生きる意味を問う」ことを放棄し 生かされているものとして 創造主の意志に沿うものとして「生き方を問われるものになろう」と決め 啓示宗教であるキリスト教に掛けて人生を歩み続けました。
しかし、キリスト教の時の概念が直線であることに疑問を持ってしまいました。
聖書改ざん説を読んだこともありますが イエスを殺そうとしたアウグスティヌスに原因があるとは驚きです。
(下のお亡くなりになったマイミク。まんだらやさんの記事です)世界の前と後ろを切り離すとはどんな意味でしょう?
ローマ帝国だけが世界だったからでしょうか?
異次元のものをこの世にもたらす役割とは啓示を受ける祭司の役割だということでしょうか?
「円環の生命観」とはあの世にこの世が包含されているということでしょうか?
神道はあの世(あめ)とこの世(うつしよ)を分けますが「ま」を至るところに見出しあの世とこの世を一つとして考えていたのでしょうか?どなたかお考えを聞かせてください。
まんだらやさんの日記
密教タロット:1手品師【円環の世界か直線の世界か?】
手品師は机の上に自分の道具を広げて、これから何かをしようと考えています。
左手の棒(杖) は、より高い世界から流れてくる情報の受信機。帽子の形は、無限のマークです。
キリスト教の 世界では、アウグスティヌスが世界の前と後ろを切り離し、単一の宇宙像を作りました。
そのため に時間は直線的なものとなりました。
個人の主体は絶対であるという考え方は、直線時間の思想 から生まれました。
大きな楕円を、知覚(視野)を狭めて切り取ると、その部分はあたかも直線のように見えます。
連鎖する円環の生命観である、ヒンドゥー教や密教的な世界観では、死は転生の始まりになります。
手品師は、異次元からもたらしたものを、この世にもたらす商人です。
その前のカードの愚者が、 探究者であれば、入口の内側に居る存在です。
修験道の山伏も、都から日本中を回り、マレビトとして村の人々に迎えられました。
彼は情報提 供者でもあります。
修験者は山師と呼ばれ、一発当てるために山に登っていたのです。
空海は、唐に行く渡航費用をこれで賄ったに相違ありません。
愚者が、探究者として金(貴重なもの)を掘り当てる錬金術師の一つの役割ならば、それを火にか けて製錬する役割が手品師の仕事です。
そして私のソウルカードが、この手品師です。
チベット・ラダックという僻地で発見したものを、日本の人々に伝える役割をしています。
資本主義が崩壊するといわれている昨今、新しいパラダイムをどこからか見つけてきたいですね!!
https://note.com/elamajp/n/n1ceda85f2d82 【「いまここ」を意識する、「中今(なかいま)」とは。日常にあふれる色とりどりの時間を大切にしてみよう】より
こんにちは、あいすかです。
4月がスタートしましたね。春は別れと出会いの季節。寂しくなったり、ワクワクしたり、そんな感情が入り乱れるので、心は知らず知らずのうちにエネルギーを消耗してしまう季節でもあります。
さらに、世界もまだまだ混沌としています。善い悪いではなく、出来事ひとつひとつの掛け合わせ、タイミングが現在に至っているのです。いま私ができることを行動に移していこうと思います。
さて、先日、友人と久しぶりにカフェでお茶をしました。その時に彼女から「中今(なかいま)」という神道由来の素敵な言葉を教えてもらいました。
その日に起きた出来事と、そこから私が学んだことを少しシェアさせてください。
ほっこりすること、まちがいなしです!!
「中今(なかいま)」とは贅沢な余白時間
「そうそう、なかいま、って言葉、知ってる?夫が教えてくれたんだけど…」
コーヒーを飲みながら、友人は突然言いました。
「え?知らないな、何?」
私は、すぐにスマホで調べてみました。
「中今(なかいま)」とは、
・神道における歴史観の一。時間の永遠の流れのうちに中心点として存在する今。単なる時間的な現在ではなく、神代を継承している今。(デジタル大辞泉より)
・過去と未来の中間にある今。今の世。すぐれた世として、当世を賛美していう語。(精選版日本国語大辞典より)
友人の話に戻ります。
彼女はとても一所懸命に生きている女性です。子育てに家事に、地域に関わる様々な仕事に関わっている、とても忙しいワーキングマザーです。
平日は家にいる時も頭の中はフル回転。次にすることを頭の中で考えながら、時間をみながら行動しているときに、ふと横から在宅勤務中の夫が話しかけてきたそうです。
もちろん彼女は夫の話も聞いてはいたのですが、彼女の上の空のように見える態度に、彼は「中今」について話をしてくれたそうです。ひとつひとつのことに集中するように、というアドバイスだったようです。
彼女も私も、神道の教えからのその言葉に惹かれつつも、当世を賛美するところまでには至らず、カフェを後にしました。日常生活のなかで、先を考えずに行動することは皆無に等しい母親だからです。
「中今」とはざっくりいうと、雑に生きるな、ということなのだろう、とその時の私は解釈しました。
過去から未来までつながっている流れの中で、今という一瞬を無心に生きること。それが人間として美しい生き方である、と神道は説いているのだと。
私と彼女は、この言葉について無心に語りつくし、ともに過ごした約1時間のカフェタイムを、贅沢な余白時間として過ごすことができたのでした。
原点に戻りたくなった時とは「中今」を感じたい時だったのかもしれない
彼女とのカフェタイムを満喫し、次の予定まで少し時間があったので一度帰宅しました。
そして、すぐに手にしたのがこの本でした。
「ちいさなあなたへ」
アリスン・マギー (著), ピーター・レイノルズ (イラスト), なかがわ ちひろ(翻訳)
1人目を出産後に通っていた産後ヨガの先生が、あるレッスン後のリラックスタイムで読み聞かせをしてくださった絵本です。初めて聞いた日、涙が止まらなくなるほど胸を揺さぶられたこと、今でも覚えています。
ストーリーはひとりの女性が子どもを出産し、その子どもが成長して、さらに子どもができて、自分は老いていく。人生の流れ、情景が本当に美しい物語です。日本語に訳された、なかがわちひろさんの文章がまた秀逸で、その短く訳された文章が頭にも心にも残り、まるで行間に光が差してくるように感じる。本当に素晴らしい訳文なのです。そして、その日、私はこの作品のさらなる魅力に気づいてしまったのです。
言葉と挿絵、1ページ1ページ、その瞬間を切り取った時間軸のなかにあり、「中今」を感じられる構成となっていることに。
原作の英題は「someday」=いつか。
いつかは、未来にむけて使うこともあれば、過去の記憶の中にも実存している言葉です。
邦題だけみると、出産した女性にむけられた絵本として受け取られがちですが、実はそうではないのかもしれません。この世に産まれてきたすべての人にむけて、いつか、を伝える絵本だったのではないでしょうか。
私はこれまで、何かあったとき(主に子育てで疲れたときですが)この本を読んで原点に立ち返ろうとしていました。
でも、「中今」を知って、そばに置いていた大切な絵本の見方もかわってしまいました。
原点に立ち返るのもいいけど、今を味わう。
辛いことがあっても、楽しいことがあっても。
でも、そう思えるようになるには、私もまだまだです。はい、そこにも、ちゃんと気づいています。(笑)
自慢げな息子から教わった「中今」
画像
その日は、本当に目から鱗な出来事が続きました。
夕方、4歳になったばかりの息子が幼稚園から帰宅した後、自慢げに私のほうに駆け寄ってきて、こう言いました。
「おかーか(おかあさん)!くつ、きれいに並べたよ!!見といて!」と。
元気いっぱいのわんぱく坊主くんですが、几帳面なところもあり、靴を並べてくれることはこれまでも度々ありました。だから私は驚きもせず、玄関へ行きました。
すると(上記写真)、まぁ、見事に剣山のような靴が並んでいるではありませんか。
本人は、全く動じず、傑作品を作り上げたかのように自慢げな顔をして仁王立ちしています。私は感心しました。よく思いつくなぁと。「くつを並べる=くつを揃えて置く」は当たり前のように頭の中で認識されていますから。
ただ、ここで私が伝えたいことは、自分の息子の発想が面白いということではないのです。
いま、この一瞬、無心に靴を並べた時間、2022年4月、この日は最初で最後。もう二度と同じ日は来ない、ということ。この先、この写真のように並べられた靴たちを見ることは、もうないのだろうと思ったのです。(何度も同じことをされたら、いい加減やめてくれと言うでしょう。)
そう思ったら、面白いこと、辛いことも、ほんの一瞬なんだなぁって、心から思えたのでした。
さいごに
現代の私たちは、時間軸に翻弄されながら生きていると思います。
世の中で今起こっていることも、「過去はこうだったから、今こうなっているのだ」とか「これからの未来にむけて、今こうあるべきだ」など、いろんな情報や知見にあふれています。
同時に、今という一瞬を味わうこともできず、苦しい思いをして生きている人たちがいることも私たちは知っています。
前述したとおり、精選版日本国語大辞典によると「中今」は、すぐれた世として、当世を賛美していう語、とあります。
私たちは、今がすぐれた世であると言えるでしょうか。
どこにいても、誰にとっても、日々の生活の中で、今が感じられる日常であってほしい。そのために自分ができることを考えながら、中今を頭のすみに置いておいてください。そこから行動していきましょう。
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