Facebook森井 啓二さん投稿記事
今月見た夢。
古代、大きな大陸が一気に海に没して、当時の地球で人が居住していた中での最高峰の一つ八ヶ岳(いまの八ヶ岳連峰を合わせた当時日本一高い山)に、ギリギリ避難出来た民たちがいた。他にも地球で数カ所。
彼らは、山にとどまり助かったことから、山止(やまと)の民とも山から太陽が見えることから日見(ひみ)の民とも称され、のちに八ヶ岳周囲麓で栄え、そこから今の文明が世界に拡がっていった。
https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/shutter/170121/index.html#:~:text=%E6%97%A5%E8%A6%8B%E2%80%9C%E3%81%B2%E3%81%BF%E2%80%9D%E3%81%AE%E8%AA%9E%E6%BA%90,%E6%94%AF%E9%85%8D%E4%B8%8B%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82 【「今も昔も長崎の重要な交通路、日見の地」】より
皆さんは観光名所を訪れた時、当然写真を撮りますよね。
『シャッターチャンス@長崎』では、「長崎の観光名所はこの角度で撮るのがベスト!」という「ベストポジション」をご紹介しています。
また、長崎の街は数々の映画の舞台にもなっています。「あの映画のあのシーンはここで撮影された」という場所を見つけ、時にはその現場の「ベストポジション」もご紹介。 長崎の旅の記念になる最高の一枚を撮るためにぜひぜひお役立てください。
第22回目は、今も昔も長崎の重要な交通路、日見の地です。
日見といえば、観光客のかたにとっては、ペンギンの人工飼育年数世界1を誇る「長崎ペンギン水族館」で知られていることでしょう。長崎自動車道、長崎芒塚(すすきづか)インターを下りると、眼下にすり鉢状にのどかな町並みが広がり、その先には穏やかな橘湾がきらめいています。
実はこの日見エリア、中世・江戸・明治・大正・昭和と、永きにわたり長崎の玄関口の役割を果たしてきた重要な場所。日見“ひみ”の語源は、かつて旧暦の8月1日、八朔(はっさく)の日に峠に登り朝日を拝む習慣があったからとも、中世期、長崎に攻め入る豪族が峠の麓で火を焚き大軍勢に見せかけたからともいわれています。島原の乱(1668)以前は島原領でしたが、乱の終結後に天領となり、長崎代官の支配下となりました。かつて長崎村と日見村を隔てていたのが日見峠で箱根に次ぐ難所といわれていました。この峠に道ができたのは永禄11年(1568)。それまで長崎から江戸へは、長崎港から船で向かっていました。その後、江戸の末期、1650年頃より日見街道「長崎街道」が整備されはじめると、この日見峠を越えて多くの人々がこの道を往来。シーボルトや勝海舟、象やラクダまでもが、この峠を越え江戸へ向かったのです。今では想像もできない光景ですが、旧道をゆっくり歩き、古い石垣や大木に出会ったりすると、時の流れを感じるとともに、何となく思い浮かべることができるかもしれません。長崎街道の名残ある風景として、長崎市内では、当時茶屋があった「蛍茶屋」付近がよく紹介されますが、日見峠や日見宿があった日見エリアでも、道幅や石段、街道碑などに、その風情は色濃く残っているようです。
日見峠(芒塚)から望む風景
日見宿
そして、明治15年(1882)に開通した「日見(明治)新道」(長崎市電の終点「蛍茶屋」から彦山の麓を迂回し日見峠を切り下げた矢上の切り通しまでの道)も、風情のある散歩道。この道は全国的にみても有料道路としての取り組みが早かった道路で、当時1人5厘、人力車2銭で通行することができました。 また、大正15年(1926)に開通した今も重厚な風貌で存在感を放つ「日見トンネル」。大正期の様式を色濃く残すこのトンネルは、土木遺産として国の有形文化財に登録されています。
今回おすすめするのは、長崎中心街から日見峠を抜け、日見の古い町並みで見つけるシャッターポイント。車を使って高速道路で長崎市内へ直行!となると味わえない、いにしえの長崎風情を感じ、旅気分を満喫できます。絶好のポイントを見つけてシャッターをきってみてはいかがでしょうか?
日見峠入口 日見新茶屋 長崎街道案内板
「日見峠」
往時は、東西に七曲りの坂道があり峠に達していました。 “西の箱根”と呼ばれた峠東側の登りの坂道は古道の佇まいが感じられる急勾配の道。それに比べ西側は緩やかなので散策向きです。戦国時代から置かれていた関所跡には碑が建てられています。
日見峠関所跡への坂道
「日見(明治)新道」
明治になり峠頂上部を切り通してできた新道は、現在でも通行可能。うっそうと茂る木々の中、時折木漏れ日が差し込み、鳥のさえずりが聴こえてくる……まちなかから一歩入っただけなのに、自然を身近に感じられる山道です。道沿いには、日見峠への登り口との分岐点があります。
日見新道 日見新道切通し 「芒塚句碑」
急坂の途中、橘湾を望む場所に、かの松尾芭蕉の高弟“芭蕉十哲”の一人、長崎出身の向井去来の句碑があります。「君が手もましるなるへし花薄(すすき)」 長崎街道見送りの地は、本来「蛍茶屋」まででしたが、すすきが揺れる日見峠まで送ってもらった様子が詠まれています。「芒塚」の地名はこの句にちなんだものです。
芒塚句碑
「日見トンネル」
大正13年(1924)から2年の歳月をかけ完成した近代化の先駆け的トンネル。延長640m、幅7.4m。当時としては巨大なトンネルです。前述の通り、技術的にもデザイン的にも貴重な土木遺産として、平成14年に国の有形文化財に登録されました。
日見トンネル
「日見の宿跡」
国道34号線を下り日見のまちなかへ。ここは、江戸方面からの旅人にとっては最後の宿場町。長崎から旅立った人にとっては、難所、日見峠を越え、ひと休みする場所でした。周辺には往時のものと思われる石垣も残り、旧街道の風情が漂っています。
宿跡の碑
石垣
「長崎ペンギン水族館」
地球上に生息するペンギンの種類は18種類のうち、9種類が飼育されているペンギンに特化した水族館。繁殖技術や飼育技術は、海外の文献に「長崎方式」として紹介されるほどで、現在、水族館で飼育されているペンギンの約7割が長崎生まれ。大きな水槽で、のびのび泳ぐ姿は圧巻です。
交通網が発達し、通過しがちな日見エリア。歩いてみても車で通っても、どこか懐かしい素敵な風景に出会える場所です。ぜひ、あなたなりのベストショットを撮影してみてください。
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昨夜から今朝にかけて我が書籍「阿波邪馬台国説」の記事を五十六ページ作成しました。
今回は、「第四十四章」「阿波翡翠」と「ぬなかわ族」と「忌部族」の「翡翠伝承」の歴史を紹介したいと思います。
「第一章」「邪馬台国」の始まりは古代阿波!
「第二章」「古代の神々」から伊邪那岐の誕生!
「第三章」「伊邪那岐」の始まりの国は、剣山の中間部!
「第四章」「天の岩戸地域」は、伊邪那岐の支配地!
「第五章」「伊邪那岐」領地を天照大神に譲り淡路に遷都!
「第六章」「伊邪那岐」は、淡路を本拠地とする!
「第七章」「伊邪那岐」の国作りは、淡路から始まる!
「第八章」「伊邪那岐」あわのうた広める!
「第九章」「高天原」鮎喰川で、少女が不思議な石を発見!
「第十章」「奴奈川族」の長が淡路島を意匠にした勾玉献上!
「第十一章」「伊邪那岐」の翡翠勾玉文化が始まる!
「第十二章」「伊邪那岐」翡翠勾玉を貨幣とする!
「第十三章」「伊邪那岐」御倉板拳之神を天照大神に与える!
「第十四章」「天照大神」の翡翠勾玉文化が高天原で始まる!
「第十五章」「天照大神」が翡翠勾玉鬼道で民を救う!
「第十六章」「天照大神」阿波神山に遷都し居城を作る!
「第十七章」「天照大神」と「須佐奈緒」の阿波国取り物語!
「第十八章」「天照大神」と「須佐奈緒」のうけい(うけひ)!
「第十九章」「天照大神」須佐奈緒の乱暴に天岩戸に隠れる!
「第二十章」「天岩戸」の神楽岩で、天宇受売踊る!
「第二十一章」「須佐奈緒」高天原から神々に追放される!
「第二十二章」「須佐奈緒」阿波佐那河内を支配地とする!
「第二十三章」「須佐奈緒」長の国(出雲)を支配する!
「第二十四章」「須佐奈緒」阿波出雲国を大国主に譲る!
「第二十五章」「大国主」奴奈川姫の支配地に侵略する!
「第二十六章」「大国主」奴奈川姫を略奪して妻にする!
「第二十七章」「大国主」奴奈川族の勾玉技法を手に入れる!
「第二十八章」「大国主」翡翠勾玉交易で勢力を拡大する!
「第二十九章」「大国主」耳ご石を使い鉄矢の製作を始める!
「第三十章」「大国主」鞴(ふいご)技術に翡翠を使い火力を上げる!
「第三十一章」「大国主」天照族との戦いに敗れる!
「第三十二章」「阿波出雲」は天照大神に支配される!
「第三十三章」「空海(弘法大師)」の「秀真伝再編纂」
「第三十四章」「空海(弘法大師)」と「秀真国」
「第三十五章」「秀真国」は、「阿波出雲(長の国)」
「第三十六章」「秀真国」は、「スサナオ」と「大国主」の国
「第三十七章」「空海(弘法大師)」が、残した「太龍寺縁起」
「第三十八章」「空海(弘法大師)」の「秀真国ここにあり!」
「第三十九章」失われた「秀真伝」の元本
「第四十章」「宇和島小笠原家」に残る「秀真伝」の写本
「第四十一章」阿波の「小笠原家」は、「阿波一宮城主」
「第四十二章」失われた「秀真伝」の「元本は何処」に
「第四十三章」「四国翡翠」の歴史と「阿波剣山」の翡翠
「第四十四章」「阿波翡翠」と「ぬなかわ族」と「忌部族」の「翡翠伝承」の歴史
「第五十五章」「四国翡翠」の歴史と「阿波剣山」の「翡翠鉱脈」
「第五十六章」「阿波翡翠」と「ぬなかわ族」と「忌部族」の伝承の歴史
「第五十七章」未定
「第五十八章」未定
「第五十九章」未定
「第四十四章」「阿波翡翠」と「ぬなかわ族」と「忌部族」の「翡翠伝承」の歴史
日本国内における「翡翠文化」の発展において、阿波のぬなかわ族の伝統を受け継いだ四国の「阿波忌部族と高知忌部族」は重要な役割を果たしたと考えられています。
特に、四国で発見された翡翠が、古代における「忌部族」の活動と深く結びついている可能性があります。阿波には、古代から「勾玉文化」が栄えた記録があり、その中心に「阿波忌部族」が存在していました。
「阿波翡翠」は淡い緑色を特徴とし、加工しやすい特性から勾玉や装飾品として重宝されました。「阿波忌部族」は、「勾玉の製作」だけでなく、翡翠の採掘と加工においても高度な技術を持っていたとされています。
「阿波地方」で発見される翡翠は、「自然信仰や祭祀」において重要な位置を占めており、「神聖な石」として扱われていました。
「阿波忌部族」の人々は、これを「神々への供物や儀式」に用いることで、「伊弉諾命」から始まるその地域の「翡翠文化や信仰」を支えたとされています。
一方、高知県に拠点を持つ「高知忌部族」は、「阿波忌部族」から受け継いだ翡翠を加工し、他地域へ流通させる役割を担ったと考えられています。
高知は太平洋沿岸に位置し、海上交通の拠点となる場所であるため、「翡翠や勾玉」がこの地域を経由して日本各地に広がった可能性が高いです。
「高知忌部族」は、阿波や高知で採掘された翡翠をさらに精巧に加工する技術を発展させたとも言われており、これにより四国全体の翡翠文化が一層深まったと推測されます。
四国における「翡翠の発見と加工」」に関する伝承は、「忌部族の神話や記録」に多く見られます。
「忌部族」は、古代日本の「石文化」における先駆者であり、「黒石や翡翠や勾玉」の普及を通じてその技術を後世に伝えました。
この伝承が事実であるならば、「阿波忌部族」と「高知忌部族」は、日本国内における「翡翠文化」の起源を語るうえで欠かせない存在です。
今後、「考古学的な調査」や翡翠に関する研究がさらに進めば、これらの伝説がさらに解明されることでしょう。
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高野山は実は山ではなく、周囲の高い山々に囲まれた約1000メートルの場所にある盆地です。
周囲の山々は蓮の花びらで高野山の盆地は蓮の蓮台と、浄土のシンボルである蓮の花に見立てられるこの聖地を、人々は「この世の浄土」と呼びました。
「内八葉」である内側の8枚の花びらは金剛峯・小塔峯・山王峯・遍照峯・転軸山・楊柳山・摩尼山・姑射山、「外八葉」である外側の8枚の花びらは剣崎峯・南虎峯・宝珠峯・薬師山・山王峯・神応岳・小塔峯・勝蓮花峯ではないかという説が有力ですが、諸説あるようです。
それ故名称は重要視せず、内外合わせて16枚の花びらのような山々に囲まれた、その蓮台にあたる平らな場所に高野山があることを知っておくだけでいいでしょう。
泥水に浸かった迷いの世界である穢土(えど)から、その清らかなる蓮華を咲かせた浄土へ上っていくように、高野山への道を登って行きます。
その高き平らな場所へ辿り着くと、入口に大きな朱塗りの楼門がお出迎えしてくれます。
それが「大門」です。
もともとは神様がお祀りされる山として「鳥居」が山の下にあったわけですが、1141年に仏教色を強めた「山門」として今の場所に建てられたといいます。
当時は仏教界堕落の頃といわれており、高野山と東寺の支配と独立の綱引きや、高野山内でも改革派である覚鑁と保守派である琳賢の激しい争いがあった頃のようです。
改革派覚鑁が高野山から去った後、琳賢が役職を担ってこの大門を建立したことが記されています。
実はこの時代のことを調べたのが僕の大学の卒業論文であり、悪くいえば高野山が「貪瞋痴」に大きく翻弄された時期の象徴、良く言えばその混乱を統合した第一歩の象徴として、大門は僕の中に記憶されています。
とはいえ本当に堕落していたのかどうかさえわかりません。
正そうとする人たちにとっては悪のレッテルを誰かに貼り付ける必要がありますから。
高野山がこの世の浄土であることは、自分自身が証明すればいいでしょう。
その後2階建ての楼門に建て替えられ、二度の焼失と再建、経年劣化による補修、屋根替え、建て替えが行われてきたそうです。
現在の大門は1986年に全面解体修理をしたものだということです。
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