旧正の愛宕社朝日授かりぬ 五島高資
旧正や朝日つらぬく愛宕さん 同 — 場所: 愛宕神社社務所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE 【愛宕神社】より
愛宕神社社殿 所在地 京都府京都市右京区嵯峨愛宕町1
位置 北緯35度03分35.59秒 東経135度38分04.08秒座標: 北緯35度03分35.59秒 東経135度38分04.08秒 主祭神 伊弉冉尊、埴山姫神、天熊人命、稚産霊神、豊受姫命
社格等 旧府社 別表神社 創建 大宝年間(701年 - 704年) 別名 阿多古神社 愛宕さん
例祭 9月28日
主な神事 鎮火祭(4月24日) 千日通夜祭(通称 千日詣り、7月31日夜-8月1日早朝)
火臼祭(11月亥の日)
地図 愛宕神社の位置(京都市内)愛宕神社愛宕神社
鳥居
愛宕神社(あたごじんじゃ)は、京都市右京区嵯峨愛宕町にある神社。旧称は阿多古神社。旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社。古くから火伏(火よけ)祈願の神社として知られる[1]。全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は「愛宕さん」とも呼ばれる。
概要
山城国と丹波国の国境にある愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。
火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれる。上方落語には「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。
祭神 現在は以下の神を祭神としている。
本殿 伊弉冉尊(いざなみのみこと) 埴山姫神(はにやまひめのみこと)
天熊人命(あめのくまひとのみこと) 稚産霊神(わくむすびのかみ)
豊受姫命(とようけひめのみこと)
歴史
大宝年間(701年 - 704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建とされる[2]。
天応元年(781年)に慶俊僧都、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立された。山中には、唐の五台山に模した以下の五寺があったという[2]。
日本の寺 対応する中国の五台山
白雲寺(愛宕大権現) 朝日峰 月輪寺 大鷲峰 神願寺(神護寺) 高雄山
日輪寺 竜上山 伝法寺 賀魔蔵山
その後は神仏習合において修験道の道場として信仰を集め、9世紀には霊山として七高山の1つに数えられた(愛宕信仰も参照)。なお『延喜式神名帳』に「丹波国桑田郡 阿多古神社」の記載があるが、これは亀岡市の愛宕神社(元愛宕)を指すと考えられている。この時代、本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。 江戸時代には勝地院・教学院・大善院・威徳院・福寿院等の社僧の住坊があり、繁栄を見せていた。
明治時代になると神仏分離により、白雲寺は廃絶されて愛宕神社になると同時に、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。
1881年(明治14年)には近代社格制度において府社に列格している。
明治時代には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。また、茶店では疲れた客への甘味として、しん粉 (うるち米の粉を練って作った団子) が振舞われていた。
1929年(昭和4年)には京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅から愛宕山鉄道の平坦線(普通鉄道)が清滝駅まで通じ、そこから鋼索線(ケーブルカー)で愛宕駅にいく参詣用の路線が完成した。それに伴い、愛宕山にはホテルや山上遊園、スキー場が設けられて比叡山同様の山上リゾート地となっていた。しかし、太平洋戦争中に全線が不要不急線に指定され、1944年(昭和19年)に軍需物質の不足に伴い金属類回収令によりレールを撤去して国に供出した。これによって山上のリゾート地は閉鎖に追い込まれ、再び信仰の山に戻った。
戦後は神社本庁の別表神社に加列されている。
主な祭事
鎮火祭(4月24日)
嵯峨祭(5月第3・4日曜) - 野宮神社と合同。
千日通夜祭(7月31日夜 ~ 8月1日早朝)- 通称 千日詣り。このときに参拝すると、千日分の火伏・防火の御利益があるとされ、毎年数万人の参拝者がある。清滝から愛宕神社への登山道は夜間のあいだ照明が点灯される。登山者は下山者に対して「おくだりやす」、反対に下山者は登山者に対して「おのぼりやす」と挨拶する慣例がある。
例祭(9月28日)
火臼祭(11月亥の日)
https://www.tochinavi.net/spot/home/?id=19326 【愛宕神社】より
金のトンビ、銀のイノシシを祀る開運・火防の神社
古来より愛宕神社の神の使い(神使)はイノシシとトンビとされ、神社では「金鳶」「銀猪」として祀り、御朱印の印としても用いております。石と木を組み合わせた一の鳥居は全国的にも珍しい鳥居ですのでぜひご覧ください。
https://note.com/mark_kay/n/n5781ed8b8105 【和気清麻呂を守護した山の神「猪」-『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界(第二回)』】より
「神使」「眷属」とは、神の意思(神意)を人々に伝える存在であり、本殿に恭しく祀られるご祭神に成り代わって、直接的に崇敬者、参拝者とコミュニケーションを取り、守護する存在。またの名を「使わしめ」ともいいます。
『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』では、神の使いとしての動物だけでなく、神社仏閣に深い関わりのある動物や、架空の生物までをご紹介します。
動物を通して、神社仏閣の新たなる魅力に気付き、参拝時の楽しみとしていただけたら幸いです。
前回からお届けしている『神々の意思を伝える動物たち 〜神使・眷属の世界』の第二回。
今回は「猪」についてお話しいたします。
私の干支は「猪」。
「猪」といえば「猪突猛進」のイメージですが、実は柔軟に方向転換できるのだとか。
私も一度、こうと決めると揺るがないところがありますが、どちらかといえば慎重で、比較的柔軟な発想ができると思ってはいるのですが・・・
神使「猪」
猪は、仏教において「摩利支天(まりしてん)」が乗る動物として知られます。摩利支天は陽炎(かげろう)の神格化した存在です。
陽炎とは、局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことによって、光が屈折する現象のことを指します。晴れた暑い日に、道路の上がモヤモヤと炎が揺らめいているように見えることがありますが、それが陽炎です。
この陽炎と同じで、実際には手に触れられない、実体もないけれど、確かにそこに存在し、太陽や月から発せられる光線とともに前へ前へと突き進み、私たちの前に立ちはだかる障害を取り除いてくれる神として崇敬を集めました。
摩利支天を祀ったお寺には、猪の像が置かれています。建仁寺の塔頭である禅居庵、南禅寺塔頭の聴松院などが有名です。
神社の神使としての猪は、和気清麻呂による「弓削道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)」に端を発します。
奈良時代の僧侶、弓削道鏡は孝謙上皇(のちに重祚して称徳天皇となる)の病を癒したことで、上皇の寵愛を受け出世街道を上っていきます。
僧籍を持ったまた太政大臣、法王にまで上りつめた道鏡は政治への影響力も強めます。
その頃、道鏡の弟で、大宰府の長官職(太宰帥)にあった弓削浄人(ゆげのきよひと)と、大宰府の祭祀を司る役職、大宰主神(だざいのかんづかさ)であった中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が、『道鏡を皇位につければ國平らかにならん』という宇佐八幡宮の託宣(神のお告げ)を奏上します。
天皇の地位を欲した道鏡と、その弟による共謀だったのは明らかですが、この託宣の真偽のほどを確かめようと称徳天皇は、側近の貴族であった和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣します。
天皇の勅使として宇佐八幡宮に参宮した清麻呂の前に、八幡大神が現れて以下の神託を与えます。
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」
つまり「皇室の血筋ではない道鏡は、早く掃い除くべし」という託宣だったのです。
この真実の神託を朝廷に持ち帰ると、道鏡の野望は白日の元にさらされることとなります。
これに怒った道鏡は、清麻呂を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させた上、降格、左遷。さらに清麻呂は脚の腱を切られて、大隈国(鹿児島)」へ流されてしまいます。
これでも怒りが収まらない道鏡は清麻呂の謀殺を試み、刺客を送りますが、突然300頭の猪が天地雷鳴とともに現れて、清麻呂を護ります。
猪に護られながら、宇佐神宮にお礼参りに訪れた折に、霊泉に浸かると腱を切られた足は見事完治します。八幡大神の守護により、数々の奇跡が起きたのです。
和気清麻呂は、「弓削道鏡事件」の舞台となった宇佐神宮の末社である、護王神社に祀られています。
以来、和気清麻呂は学問、交通安全、護国の神としての他、足腰の神としても信仰されるようになりました。このことから全国の和気清麻呂を祀る神社では、清麻呂の命を救い、宇佐神宮まで導いた猪を神使として崇めたのです。
足立山妙見宮(福岡県北九州市)
全国の愛宕神社でも、猪が神使となっています。
これは和気清麻呂が鎮護国家の道場とするため、京の西北(戌亥=乾)にあたる愛宕山に愛宕大権現を祀り、白雲寺(のちに神仏分離令により白雲寺が廃絶し、愛宕神社となる)を建立したことが由来とされています。乾=戌亥=亥=猪、というわけですね。
愛宕神社は、火伏せ(防火・鎮火)のご利益があります。また、第一回の記事でもご紹介したように、白い猪は山の神の化身ともいわれます。山火事などが発生すると、山中にある寺社に被害が及び、山に棲む様々な生物たち、そして麓の集落に住む人々の生活の糧をも奪ってしまいます。
そうした命の源を守護し、育む存在として、猪は親しまれ、時に畏怖される存在となったのでしょう。今では害獣として、麓の町に現れては駆除される猪。複雑な気持ちが湧き上がります。
http://shinshizo.com/2015/06/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%A8%E9%87%91%E9%B5%84%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%82%93%E3%81%97%EF%BC%89/ 【金色のトビ 金鵄(きんし)】より
投稿日 10年 前 by 福田博通
神武天皇の東征を援けた 「金鵄(キンシ)」と呼ばれる 「金色の鵄(=鳶 トビ)」の伝承が、 日本書紀などに載ります。
神武天皇と金鵄
神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)は日向(宮崎県)の高千穂宮を発って東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦を強いられました。このとき、金鵄(キンシ、金色の鳶)が天皇の持つ弓の上端に飛来してとまり、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして戦意を削いで勝利をもたらしたと伝えられます。その後、神武天皇は、大和を平定し、橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされます。
現在は廃止されていますが、明治22年に制定された、軍人の最高位の勲章、「金鵄勲章」(キンシクンショウ)はこの伝承に由来したものでした。
紀元二千六百年
明治政府は、明治5年(1872)に、古事記や日本書紀などの記載から神武天皇が即位された年を西暦紀元前660年と定め、その年を紀元(皇紀元年)としました。このことは、「記紀」などの神話(物語)を史実(歴史)としてとらえ、天皇制度を正当化しようとする一環でした。
昭和15年(1940)は、紀元(皇紀)二千六百年に当ることから、皇国の国威高揚のため、国を挙げて式典などのイベントが行われました。神武天皇を祀る橿原神宮も整備され、「金鵄」などの記念切手も発行されました。当時の国民学校の低学年用修身の教科書には、「神武天皇と金鵄」の口絵も載り、「紀元節(キゲンセツ)」などを学ぶカリキュラムでした。幼年期から、皇国の体制と皇国臣民(少国民)としての自覚を刷り込まれました。翌、昭和16年12月8日には太平洋戦争に突入しました。
境内に、「神武天皇」と彫られた背高の碑があります。石柱上にとまっている鳥は、神武天皇を援けたとされる「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鳶(トビ)」です。確認し忘れましたが、この碑は、皇紀2600年を記念して昭和15年(1940)に建てられたものと思われます。
橿原市・近鉄大和八木駅前 奈良県橿原市
奈良県橿原市の近鉄大和八木駅前に、「建国文化都市」と書かれた柱上に金色の鳥がとまった碑があります。この鳥は、日本書紀に載る「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鵄(鳶 トビ)」です。神武天皇は、金鵄に援けられた後、大和を平定し、橿原(カシハラ)で初代天皇として即位されたとされ、この近鉄大和八木駅の隣駅にある「橿原神宮」に祀られています。
金色の鳶は、橿原市の市章(マーク)にもデザインされて、雄飛と平和を象徴しています。
付録
仙台城跡の金鵄 宮城県仙台市青葉区川内1
上項の「神武天皇の金鵄」に因んで、仙台城(青葉城)跡にある「昭忠塔」と呼ばれる慰霊碑の頂にも金鵄(きんし)がありました。しかし、東日本大震災(2011.3.11)で高さ約20メートルの慰霊碑の上から落下、破損し、現在は、碑前の建屋に収容されています。
昭忠塔は、西南の役(明治10年)、京城事変(明治17年)、日清戦争(明治27・28年)の内外の戦いで、戦死した東北地方の将兵(第二師団)を慰霊するもので、明治35年(1902)に建立されました。塔の頂上の金鵄(きんし)は、地上20mにあり、青銅製で、翼は6.7m、重さは17.5トンもあり、東京美術学校(現東京芸大)の若手助教授ら(櫻岡三四郎氏鋳造など)によって制作されたものです。
仙台城跡「昭忠塔」の金鵄(東日本大震災前の状態)
http://www.tomioshoshinkai.com/kinshi.html 【金鵄(きんし)伝説って・・】より
《神武天皇聖跡 鵄邑顕彰碑》
金鵄(きんし)とは、初代・神武天皇が宿敵・長脛彦(ながすねひこ)と戦ってピンチに陥ったとき、 天空から舞い降りてきて、弓矢の先に止まった金色に輝く鵄(とび)のことです。
敵軍は金鵄の光に幻惑されてしまい、これが勝機となって神武天皇は戦に勝つことができました。
伝承によると、金鵄の舞い降りてきた場所は、現在の富雄川上流付近にある、鵄山(とびやま)付近。
写真は、やや下流の出垣内(でがいと)付近にある、皇紀2600年を記念して建立された記念碑です。 記念碑には、金鵄伝説の簡単な説明と共に、金鵄が舞い降りた村を鵄邑(とびのむら)と名づけたと刻まれております。
《日本の国旗》
赤い丸は太陽(天照大神)、日の丸を掲揚する為の旗竿(はたざお)の先にある金玉(きんぎょく)は金鵄、 柄の部分の白黒のストライプは八咫烏(やたがらす)を象徴しています。
神武東征って・・
「記紀」(古事記・日本書紀)からの概略
カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)がに九州の日向を出発し、大和の地を平定するまでの戦いの事。
現在の東大阪付近に上陸し長脛彦の軍勢と戦うも内陸への進行を阻止される。
カムヤマトイワレビコの兄は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。
廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言って、南の方へ回り込むことになる。
紀伊半島に沿って南下し、熊野村(和歌山県新宮市)付近で上陸し大和に向かう。
タカミムスビの命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至る。
長脛彦はカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔、
天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしい、あなたは偽物だと指摘。
カムヤマトイワレビコと長脛彦は共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかっが、戦いを止めなかった。
戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先(ハズ)にとまり、黄金に輝き、長脛彦の軍は眩惑されて戦闘不能になった。
その後、大和の豪族を服従させ、カムヤマトイワレビコは畝傍(橿原)の地で即位し、初代天皇・神武天皇となられた。
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