日の色をかすかに別ける氷柱かな 五島高資 — 場所: 古峯神社

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静岡・大阪―ヤマトタケル 古代最大の英雄】より

静岡・大阪―ヤマトタケル 古代最大の英雄

 各国の建国神話には英雄が登場します。日本古代史の最大の英雄がヤマトタケル(日本武尊)です。手塚治虫の漫画『火の鳥 ヤマト編』にはヤマトタケルがモデルのキャラクターが登場し、哲学者の梅原猛さんはスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の脚本を書いています。

 ヤマトタケルは第12代景行天皇の第二皇子で第14代仲哀天皇の父。父に疎まれながらも九州、東北に遠征して支配地を拡大しますが、最後には非業の死を遂げる悲劇の英雄です。死に臨んで詠んだ「やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる やまとし麗し」(大和は良い国だ 幾重にも重なる垣根のような山々 山に隠れる大和は懐かしく、美しい)は望郷の歌として涙を誘います。

 ヤマトタケルには兄にオオウス(大碓)がいて、弟のオウス(後のヤマトタケル)と双子だったともいわれます。オオウスは父が好意を寄せる女性を横取りしたために、父子関係が微妙になっていました。父がオウスに「兄さんに食卓に就くよう伝えてくれ」と頼むと、オウスは言うことを聞かない兄の手足を引き千切ってしまいました。これを知った景行天皇はオウスが恐ろしくなり、兵隊もほとんど付けずに九州征伐に向かわせます。

 勝ち目がないと悩んだオウスが、伊勢神宮にいる叔母のヤマトヒメ(倭姫)に相談すると、彼女はオウスに女性の衣装を渡しました。英雄には彼を助ける女性がいるものです。

 九州に渡ったオウスは、そこを支配しているクマソタケルの宴会に美少女に変装して忍び込み、酔って油断したクマソタケル兄弟を征伐します。このとき、クマソタケルに「ヤマトタケル」と名乗るよう勧められ、名前を変えます。大和の強い男という意味です。

東国征伐

 九州を制圧したヤマトタケルが大和に帰ると、景行天皇に休む暇もなく東国征伐を命じられます。ヤマトタケルは「父は私を殺したいのか…」と悩み、また伊勢神社のヤマトヒメに相談に行きます。そこでもらったのがクサナギの剣と火打ち石です。

 まず、尾張を平定したヤマトタケルはミヤズヒメを妻に迎えます。敵の娘を妻に迎えることが支配の成立を意味していました。

 次に、ヤマトタケルが相模国に着くと、相模の国造(くにのみやつこ)が「この野の中に大沼があり、乱暴な神が住んでいます」と言うので、ヤマトタケルがその神を見ようと野に入ると、国造は野原に火をつけました。ヤマトタケルはクサナギの剣で草を刈り、火打石で火をつけ、迎え火で火を退かせました。ヤマトタケルは燃え盛る野から脱出し、国造を切り殺しました。それからその土地を「焼津」と言います。

 相模の走水から房総半島へ渡ろうとしたヤマトタケルは、浦賀水道で嵐に遭遇します。そこで后きさきのオトタチバナヒメ(弟橘比売)が海に身を投げて海の神を鎮めたので、無事に渡ることができました。

 房総から関東に出て蝦夷(えみし)と戦い、平定したヤマトタケルは、足柄峠に着き、乾した飯を食べていると、坂の神が白い鹿に化けてやってきました。ヤマトタケルが食いかけのニラの端切れを投げつけると、目に当たって鹿に化けた神は死んでしまいます。ヤマトタケルはその坂に登り、3度ため息をついて「あぁ、妻よ」と言ったので、この辺りを「阿豆麻(あづま)」と呼ぶようになりました。

 甲斐の国の酒折宮(さかおりみや)に着いたヤマトタケルは、「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」と歌を歌いました。すると、火の番をしていた老人が、「日々かが並なべて 夜には九夜 日には十日」(指折り数えると9泊10日になります)と返歌をします。ヤマトタケルはその老人を誉め、東の国造に任命しました。これがわが国における連歌の始まりとされます。酒折宮は甲府市の山梨学院大学の近くにある小さな神社です。

白鳥になって大和へ

 信濃の神を平定し、結婚の約束をしていた尾張のミヤズヒメの元へ戻り、結ばれたヤマトタケルは、草薙の剣を置いて伊吹山の神を征伐に行きます。ふもとで牛のように大きな白い猪に出会ったヤマトタケルは「この白い猪は山の神の使いだろう。今は殺さず、帰りに殺そう」と言い、山に登りました。すると山の神が、激しいヒョウを降らせ、ヤマトタケルを幻惑したのです。白い猪は神の使いではなく、山の神そのものだったのですが、ヤマトタケルが「神の使い」と見当違いしたために、怒ったのです。

 ヤマトタケルは山を下りる途中、玉倉部(たまくらべ)の清水にたどり着き、休息すると、落ち着いてきました。三重村に到着したヤマトタケルは「わたしの足は三重に曲がった餅のようで、とても疲れた」と言ったので、その土地を「三重」と呼ぶようになります。

 弱った体で大和に帰ろうと、能煩野(のぼの/三重県亀山市)に到着したヤマトタケルが故郷を想い歌ったのが冒頭の歌で、ヤマトタケルは当地で亡くなります。

 知らせを聞き、大和からやって来た后や御子たちが陵墓を築きます。すると、ヤマトタケルは白鳥になり、大和に向け飛んで行きました。これが白鳥伝説で、その白鳥が飛来したという伝説が、堺市の大鳥神社はじめ各地にあります。

 ヤマトタケルは、大和朝廷が各地を平定しながら成立する過程で活躍した、何人かの英雄を統合させた架空の人物なのでしょう。古事記と日本書紀で記述が異なったり、類似の話がほかにもあるのはそのためです。


https://nihonsinwa.com/page/32.html 【ヤマトタケル】より

漢字・読み 日本武尊 別名 日本童男・倭男具那命(ヤマトオグナ)

概要

日本人なら誰もが知るヒーロー

景行天皇の第二子。兄弟に兄の「オオウス尊(大碓)」がいます。オオウス尊は双子とも言われます。ただヤマトタケル尊の存在は、ヤマト朝廷が成立する過程で活躍した何人かの英雄を融合させた架空の人物像とも言われています。古事記と日本書紀、その他書物の記述では微妙にキャラクターが違いますが大筋は同じです。

兄殺しから父親に疎まれ、最後は非業の死

兄オオウスは父親である景行天皇が気に入った女性を横取りしたために、父子関係が微妙になっていました。景行天皇がオウス(後のヤマトタケル)に、「(軽い気持ちで食卓にあがるように)話をして来てくれ」と頼むと、オウスは兄オオウスの手足を引き千切って、打ち捨ててしまいました。これを知った景行天皇はオウスが恐ろしくなり、部下もほとんど付けずに九州征伐に向かわせます。九州征伐を成し遂げ、ヤマトタケルと改名して帰国すると今度は東国征伐を言い渡されます。父親との関係に苦悩しながら、東国の征伐をするのですが帰国の途中で死んでしまいます。

物語・由来

兄オオウス殺し・景行天皇との不和

兄オオウスを殺し、景行天皇に怒られ、疎まれた結果、九州征伐を命じられます。オオウスは双子とされますが、日本書紀では兄殺し(オウス命の蛮行)の件は無く、景行天皇にも疎まれてはいない。九州への征伐にもちゃんと部下も付けられ、女装のシーンも無くなっています。

参考:オウス命の蛮行

西征・九州征伐・ヤマトタケルへ改名

部下も居ないために勝ち目が無いと、叔母のヤマトヒメ命(倭姫命)に相談するとヤマトヒメ命から伊勢神宮で女性の衣装を貰う(オウス命は倭比売命から援助を受ける)。九州のクマソタケルの宴会に美少女に変装して忍び込み、酔って油断した兄弟を殺した(クマソタケル兄弟を征伐)。このとき、クマソタケルに「ヤマトタケル」と名乗ることを勧められ、これ以降「ヤマトタケル」と名乗るようになります(ヤマトタケルのクマソ征伐)。ヤマトタケルというのは、ヤマトの強い男という意味合い。

イズモタケル

イズモタケルと親交を深めた後、ヤマトタケルは偽者の刀を用意し、イズモタケルの刀と交換して戦います(ヤマトタケルとイズモタケル)。イズモタケルの刀は偽者なので当然抜くことも出来ず、そのままヤマトタケルに殺されてしまいます(刀を取り替える策略)。

東国征伐

大和に帰国するとまた景行天皇にすぐ東国征伐へと派遣されます(東国12カ国へ)。「父は私を殺したいのか…」と悩み、また伊勢神社のヤマトヒメに相談に行くと、クサナギの剣と火打ち石を貰います(草那芸剣と袋を受け取る)。

尾張(愛知県)を平定しミヤズヒメを妻に迎えました(ミヤズヒメとの婚約)。

相模(神奈川県)で国造に騙されて火攻めにされますが、クサナギの剣と火打石で迎え火をして難を逃れ、国造を殺す(焼津の火攻め)。

神奈川から房総半島へ渡る浦賀水道で船が嵐に合いましたが、オトタチバナが海に身を投げて海の神を沈めたことで海を渡ることが出来た(弟橘比売命の入水)。

そこから蝦夷(関東以東の異民族のこと)と戦い平定したヤマトタケルは神奈川県と静岡の間の「足柄」に至ります(足柄山の白い鹿)。

次は長野県を経て尾張のミヤズヒメの元へ。ミヤズヒメと結ばれたヤマトタケルは草薙の剣を置いて息吹山の荒ぶる神を征伐に行きます(息吹山の神を素手で殺す)が、逆に呪いを受けてそのまま死んでしまいます(嬢子の床の辺)。

神社や関連する土地

熱田神宮 建部大社 十和田神社 刈田嶺神社 都々子別神社 鷲神社 花園神社

焼津神社 気比神社 大鳥大社

歴史背景

景行天皇の子、仲哀天皇の父親。古事記・日本書紀を見ると、場面が変わるとヤマトタケルの呼び名が変化する。このこともヤマトタケルが複数の人物を混ぜ合わせたキャラクターとされる所以。

ヤマト朝廷が日本全体を制圧した時代

この物語が成立した時代がヤマト朝廷が日本全体を制圧した時期と重なっている。ヤマトタケルが各地の豪族を征伐・従えていく中で、特にクマソと出雲では、力でねじ伏せるのではなく「策略・だまし討ち」となっている。どうもスサノオのヤマタノオロチ退治もそうですが、日本のヒーローは策略家のよう……と書くと汚らしい、ずるい、という印象がしますが、ヤマト朝廷が全国を制圧していった時期は他の時代と比べても、戦争に巻き込まれて死んだ人間が少ないのです。策略はイメージが悪いですが、ヤマト朝廷が比較的緩やかで平和的(あくまで他の国の政権に比べるとということですが)な政権だったと考えられています。

雑記

●「常陸国風土記」では天皇として扱っている。

古事記でも「大御食」「幸行」「詔」という天皇にしか使われない表現があるので、ヤマトタケルは天皇だったのではないか?という指摘もある。

●ギリシャ神話のヘラクレスと類似点が多い。

生まれは良いが、故郷を追われる。苦難に遭う。多くの女性に愛される。多くの敵と戦う。

不遇の最後

●同時にスサノオの物語とも類似点が多い。

主権者(アマテラスと景行天皇)の家族。乱暴者で疎まれ、追い出される。だが主権者を慕う。歌(芸術)に関わりが深い。

個人的コラム

ヤマトタケルは本当に架空か?

ヤマトタケルは複数の人物を混ぜたもの。というのが定説ですが、ヤマトタケルが平定した順路は不自然なものとはいえないし、ヤマトタケルという名前も雄略天皇の幼名が「ワカタケル(ワカが修飾でタケルが強い男)」であることを考えると、ヤマトタケルがありきたりであっても、不自然とは言えない。

祟神天皇の時代に四道将軍が派遣され、他地域を平定したことがあります。ヤマトタケルより古い時代のことなのに、わざわざ統合せずにおいたのは不思議です。

ヤマトタケルは実際に一人の人物であり、細かい物語は創作であっても全体は史実と考えていいのではないのでしょうか??

ただ「迦具漏比売命への系譜」にあるように、ヤマトタケルの曾孫がヤマトタケルの父親景行天皇の妻の一人になっているところを見ると、まぁ、疑問にも思います。

優秀な皇太子が天皇にならずに死ぬ という不幸

ヤマトタケルは悲劇のヒーロー。実はもう一人、優秀なのに天皇になれなかったヒーローが居ます。それが聖徳太子です。現在では聖徳太子は居なかったという説が流れていますが、厩殿王子(ウマヤドノ王子)は確実に実在しています。聖徳太子という名前が鎌倉時代につけられた名前だからと言って「居なかった」というのは無理があります。それはともかく……

厩殿王子は仏教を取りいれつつも、優れた「憲法」を制定し、律令国家・中央集権国家を作ろうとしました。その精神性や優秀さを「理想のリーダー」とした鎌倉時代には「聖徳太子」と呼ばれるほどでした。ところが天皇にはなれませんでした。なぜか??

中継ぎだったはずの推古天皇が異常に長生きしたからです。

ヤマトタケルと聖徳太子の「天皇になれなかった不運」は同時に国の発展を阻害された「国民の不運」でもあったわけです。国民というか当時の権力中枢の貴族でしょうけど。それでも、「オレが!」というのではなく「優秀な人が上に立つべき」と多くの氏族が考えていたとなると、古代とはいえ「凄い」。

そのヤマトタケルと聖徳太子の不運、そして損失を繰り返さないように、歴史上初の「皇極天皇の譲位(生きているうちに天皇の位を譲ること)」に繋がったのではないか? と思います。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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