ヤマトタケルは実在した?

https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/179203/ 【ヤマトタケルは実在した?『古事記』『日本書紀』に登場する英雄伝説を3分で解説!】より

この記事を書いた人山見美穂子

この記事に合いの手する人あきみず

ヤマトタケルは実在したか

倭から日本へ

ウルトラマンや宇宙戦艦のヤマトとごっちゃになって、ヤマトタケルを昔の特撮かアニメのヒーローだと思っていたのは、わたしだけ?

……いやいや! ヤマトタケルは神話をモチーフにしたゲームなどにもよく登場するキャラだし、きっと同じような勘違いをしている人がほかにもいるはず。

大丈夫! 私もはじめて触れたのは漫画だったので、漫画作品のヒーローだと思ってました!

あきみず

今回は名前を聞いたことはあるけどよく知らない伝説の英雄、ヤマトタケルについてざっくり解説します。

ヤマトタケルとは

ヤマトタケルは『古事記』、『日本書紀』に登場する古代の英雄。大和政権(大和朝廷ともいう)が列島を統一するために東奔西走して戦った皇子です。父の景行天皇に命じられて西方の熊襲(くまそ)を討ち、さらに東方の蝦夷(えみし)を制圧しますが、大和国(奈良県)に帰る途中で倒れ、白鳥になって天に帰ったという伝説があります。

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あきみず

『古事記』には倭建命、『日本書紀』には日本武尊という名前で登場しますが、どちらも「やまとたけるのみこと」と読みます。現代では、日本武尊と表記されるのが一般的。

ヤマトは国の名前で、タケルは勇猛な人という意味です。名前の最後につく「命」、「尊」(みこと)は、飛鳥~奈良時代に神や高貴な人の名に添えられた敬称。

「やまとたけるのみこと」は、大和の国の勇敢で高貴な人、という意味だったのですね!

あきみず

ヤマトタケルは景行天皇と皇后との間に生まれた皇子の一人で、幼名を小碓命(おうすのみこと)といいます。兄の名前は大碓命(おおうすのみこと)。

大碓、小碓という素朴な呼び名は、兄弟が生まれたときに産湯を使った石のたらいからつけられたという伝説があります。この石のたらいは、景行天皇の皇后の墓とされる兵庫県の日岡御陵(ひおかごりょう)の近くに今も残っているのだそう。

また、ヤマトタケルを名乗るようになる前の別名が倭男具那/日本童男(やまとおぐな)。おぐなというのは男の子という意味です。

ヤマトタケルの伝説

ヤマトタケルの伝説は、『古事記』と『日本書紀』とで内容が異なります。正史としてまとめられた『日本書紀』よりも情感たっぷりに、物語のように描かれているといわれる『古事記』から、エピソードの一部をご紹介しましょう。

父も恐れた、荒ぶる少年

ヤマトタケルが景行天皇から熊襲征伐を命じられたのは、まだ幼名の小碓命の名で呼ばれていたころです。そのきっかけは、家族間の殺人事件でした。

あるとき、小碓命の兄の大碓命が食事の席に姿を見せなくなり、景行天皇は小碓命に「兄をよく諭しておくように」と言いつけます。ところが何日たっても大碓命は現われません。不審に思った景行天皇が「まだ大碓命を諭していないのか」と訊ねると、小碓命は「もう諭しました。兄を捕まえて手足を引き裂いて殺し、遺体は袋につめて捨てました」と答えるのです。

え……。

あきみず

景行天皇は小碓命の荒々しさを恐れ、自分から遠ざけるために「西方(九州)にいる熊襲を倒してこい」と命じます。

熊襲征伐は色じかけ?

さて、九州まで遠征した小碓命が狙うのは、二人の熊襲健(くまそたける)兄弟です。ようすを伺っていると、どうやら宴がはじまるもよう。

小碓命は髪を下して女物の服に着替え、少女に変装して宴の席へと紛れ込みます。二人の間に座った小碓命は酒を注いでは飲ませ、敵がすっかり酔っぱらったころを見計らって懐から剣を取り出し、まず兄を殺して次に弟を襲いました。

弟の熊襲健は「これほど勇猛な人がいたとは。あなたにヤマトタケルという名を贈ろう」と言い残して亡くなります。ヤマトタケルという名前は敵を打ち倒した勲章であり、強さの証でもありました。

どうしてそんなことが言えるのだろう、と思うけれど、恐らくこうしたことって現代の価値観や視点で見てはいけないのでしょうね。

あきみず

『日本武尊 : 家庭歴史文庫』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

メンターは伊勢の斎宮

景行天皇は西方から帰ったばかりのヤマトタケルに、「今度は東方の蝦夷(えみし)を討ちに行け」と命じます。

父から遠ざけられていることを察したのでしょうか、ヤマトタケルは叔母にこう弱音を吐いています。「天皇は私が死ねばよいと考えているのでしょうか」

叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)は、伊勢神宮に仕える斎宮です。須佐之男命(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した伝説の神器、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)をヤマトタケルに授けて励まし、また「困ったときに開くように」と袋を渡して送り出すのですが……。

袋の中身はなんだったんだろう?

あきみず

草薙剣があれば無敵

天叢雲剣は、歴代の天皇が受け継いできた三種の神器の一つで、とても貴重なもの。

ヤマトタケルはこの天皇の証ともいえる神器を、見事に使いこなします。

それは一行が駿河のあたりで賊に襲われ、野原で焼き討ちにあったときのこと。ヤマトタケルは天叢雲剣をふるって草を薙ぎはらい、炎をも退けるのです。それで天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになったのだとか。

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あきみず

また、袋を開くと中には火打石が。ヤマトタケルは火打石で火を起こし、逆に敵を焼き尽くしたといいます。このエピソードは、静岡の焼津という地名の由来としても伝えられています。

『日本武尊 : 家庭歴史文庫』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

わが妻よ、東に眠れ

相模から船で海を越えて房総へ上陸したヤマトタケルは、常陸へと北上して蝦夷を制圧します。

けれどもその途中、荒れ狂う海を鎮めるために、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海に命を捧げるという出来事もありました。

ヤマトタケルが「あずまはや(わが妻よ)」と悲しんだことから、東日本を東国(あずまのくに)と呼ぶようになったという伝説があります。

最後は杖をついて……

その後も、ヤマトタケルは旅を続けます。甲斐から信濃、美濃へと内陸を歩いて、土地の人々、山の神々までも抑えていくのです。しかしあるとき、油断をしたのでしょうか。草薙剣を置いて手ぶらで戦いに出かけて、深手を負ってしまいます。

草薙剣は守護の剣でもあったのでしょうか。

あきみず

叔母の待つ伊勢へ、そして大和へ帰りたいと、ヤマトタケルは杖をついて歩き続けました。けれども伊勢の能褒野(のぼの)という地で歩くことができなくなり、最期を迎えます。伝説はヤマトタケルが白鳥に姿を変えて、大和の方へ飛んで行ったと伝えています。

白鳥伝説と三つの墓

三重県の亀山市には、ヤマトタケルの墓とされる熊褒野御墓(のぼのおんぼ)があります。また、白鳥となったヤマトタケルが降り立ったといわれる大和の琴弾(奈良県)、河内の古市(大阪府)にもヤマトタケルの墓とされる白鳥の陵(みささぎ)が残されています。

ヤマトタケルは実在したか

ヤマトタケルは天皇の皇子でしたが、自らは天皇になることなく亡くなってしまいました。

景行天皇の後を継いだ第十三代成務天皇は、ヤマトタケルの異母弟です。けれども、第十四代仲哀天皇はヤマトタケルの息子。天皇の系譜は、ヤマトタケルの名の下に続いていくのです。

ヤマトタケルは実在したのでしょうか?

『古事記』と『日本書紀』には、日本の神話と歴史が記されています。

ヤマトタケルの父、第十二代景行天皇は神々と人とをつなぐ時代の天皇にあたり、実在はしていないという説が有力。ヤマトタケルもまた、列島を平定した軍事力を人に例えたのではないかと考えられています。

倭から日本へ

ヤマトタケルの名前は『古事記』の倭健命と『日本書紀』の日本武尊、二つの漢字表記があります。

倭という字には「小さな」という意味があり、元々は中国などが古代の日本を指して呼んだ名前でした。いつ頃から国の名前が日本になったのかは、はっきりとしませんが、ちょうど『日本書記』が成立した八世紀初頭前後とする説が有力です。

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あきみず

倭(やまと)から日本(やまと)へ。

天皇の皇子として生まれ、神器を使いこなして列島をまとめた英雄は、日本という国の誕生を象徴しているのかもしれません。

アイキャッチ:『日本武尊 : 家庭歴史文庫』(国立国会図書館デジタルコレクションより)

参考書籍:

別冊太陽 日本書記 編纂1300年(平凡社)

現代語古事記(学研)

日本人なら知っておきたい英雄ヤマトタケル(産経新聞社)

決定版人物日本史(育鵬社)

日本大百科全書(ニッポニカ)

デジタル大辞泉


https://note.com/denjinamazu/n/n0b4dad41044e 【実在したヤマトタケルノミコト】より

ヤマタノオロチ伝説で有名なヤマトタケルノミコトは、古事記では『倭建命』という表記、日本書紀では『日本武尊』と表記されています。以下、ヤマトタケルと略称しますが、彼は伝説上の人物で実在していないとするのが通説です。しかし、日本書紀ではヤマトタケルは実在の人物として描かれています。彼は第十二代・景行けいこう天皇の皇子で、小碓皇子おうすのみこと呼ばれていました。

景行天皇・小碓皇子の頃の大和朝廷は、全国統一の途上でした。当時の天皇の宮は大和にあり、そこが政治の中心地でした。大和から離れた九州や関東・東北地方は、たびたび反抗し朝廷の命に従わないことがありました。小碓皇子は、九州の熊襲くまその鎮圧を父である景行天皇から命じられました。このとき、小碓命は女装して熊襲の首長の館に潜入し、誅殺に成功します。

この時熊襲の首長から、大和やまとの勇者として”ヤマトタケル”と名乗って欲しいと言われました。この後、彼はヤマトタケルと言われるようになりました。しかし、”女装した勇者”というのにはピンときません。現代風に考えると、ちょっと卑怯な気がするのは私だけ?。価値観は時代とともに変わります。”目的のためには手段を択ばない”行為は、その当時は英雄的だったのかもしれません。

次に、ヤマトタケルには関東・東北の蝦夷えみしのが騒いでいるため、景行天皇は再びヤマトタケルを派遣しました。彼が駿河に入ると、騙されて野に火をつけられ殺されそうになりますが、草薙剣くさなぎのつるぎで難を逃れました。草薙剣は三種の神器のうちのひとつです。

ヤマトタケルには、まだまだ面白いエピソードがありますが、最終的には伊吹山の神々を鎮めるために遠征した際に病気となり、その後亡くなってしまいます。その後、ヤマトタケルの魂は白鳥になって空高く飛んでいきます。英雄のエピソードにしては、悲しい最後です。ヤマトタケルが実在したかどうかはわかりませんが、同じような境遇の皇子がいた確率は高い気がします。

古代は残存する文献が少なく、史実を明らかにするのが難しい時代です。それだけに、想像力が刺激されます。


https://www.rekishijin.com/36332 【英雄・ヤマトタケルの「名の由来」と皇太子であったのに「天皇になれなかった」理由とは⁉】より

日本人ならばだれしもがその名を聞いたことある「ヤマトタケル」。ここでは彼の名の由来と皇太子として生まれながら天皇になれなかった理由について迫る。

■残酷な殺し方をすることでそう呼ばれた「ヤマトタケル」

日本武尊 

明治時代に勃興したロマン主義を代表する洋画家・青木繁による油彩で明治39年(1906)のもの。青木は『古事記』を愛読しており、古代神話をモチーフにした作品を多く手掛けた

 ヤマトタケルは、一般的には「大和の勇猛な人」と解されているが、ヤマトタケルは敵に対して大変残酷な殺し方をする。そのような殺され方をした相手から与えられた名前が「ヤマトタケル」なのだ。そこには「ヤマトの猛々しい人」という意味が込められている。

 その名は、父から熊襲征討を命じられた際に殺害されたクマソタケルの兄弟の弟から奉られた名前である。その後、出雲に立ち寄りイズモタケルをだまし討ちにして帰還した。ところが今度は天皇から東方十二道の征討を命じられる。ヤマトタケルは、伊勢の地で「天皇は私に死ねとおっしゃっているのか」と嘆く。これに対し、叔母のヤマトヒメは、クサナギノツルギを与えヤマトタケルを送り出す。

 この後、ヤマトタケルは相模(あるいは駿河)において火攻めに遭い、クサナギノツルギ(草薙剣)で切り抜けた。しかし、三浦半島から房総半島に向けて走水(馳水、浦賀水道)横断時に海の神の怒りをかい最愛の妻オトタチバナヒメを失って、「あづまはや」と嘆く。「あづま」という地名の由来である。

 さらに近江のイブキヤマ(伊賦岐山、五十葺山)で山の神を軽んじたことが命取りとなり、病にとりつかれ伊勢国・能褒野(のぼの)で死去し、白鳥となって飛び立つ。

■海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかった

 ヤマトタケルの生涯をざっとまとめると以上のようになるが、最後に太子でありながら何故、最終的に天皇になれなかったのかといった点を考えてみたい。

 『古事記・日本書紀』によれば、ヤマトタケルを苦しめたのは海の神と山の神である。記には、倭国の王の統治理念として「食国之政」と並んで「山海之政」という言葉が登場する。「山海之政」とは山の神や海の神との調和のもとに山野河海を統治していこうとする理念である。

 ヤマトタケルは、海の神や山の神の支持を得られず天皇になれなかったというのが『古事記・日本書紀』の主張である。モデルは、山の民や海の民を十分に支配できなかった王族将軍である。

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