https://www.kokugakuin.ac.jp/article/130837 【草薙剣で東国を平定した英雄ーヤマトタケル】より
研究開発推進機構教授 平藤 喜久子
日本最古の書物『古事記』。世界のはじまりから神様の出現、皇位の継承まで、日本の成り立ちがドラマチックに描かれています。それぞれの印象的なエピソードには今日でも解明されていない「不思議」がたくさん潜んでいます。その1つ1つを探ることで、日本の信仰や文化のはじまりについて考えていきます。
草薙剣を持つ日本武尊像(日本平・静岡)
ヤマトタケルは『古事記』の中巻に登場する英雄です。第12代景行天皇の御子ですが、力が強すぎて、誤って兄を死なせてしまい、父である天皇に疎まれます。
天皇は彼に、朝廷に従わないクマソタケルを討伐しに西方へ向かうよう命じます。ヤマトタケルは伊勢にいる叔母ヤマトヒメからもらった衣装で女装して敵に近づき、見事に討ち取りました。
悲劇の英雄を待ち受けていたもの
大和に戻ると、休む間も与えず天皇は東の敵を倒すよう命じます。さらなる試練を与えられて嘆くヤマトタケルに、ヤマトヒメは草薙剣を与えて送り出しました。この剣は、スサノオが怪物ヤマタノオロチを退治したときにオロチの尾から現れたもので、アマテラスに献上され、さらに天孫へと下され、三種の神器の一つとなったものです。
ヤマトタケルはこの草薙剣を手にいくつもの困難を乗り越えます。その最後に尾張国で伊吹山の神を討つことにします。そのとき彼はこれまで危機を救ってきた草薙剣を置いていきました。素手でも大丈夫。おごる気持ちがあったようです。ところが白い猪の姿をした神の圧倒的な力に負け、瀕死の状態に。なんとか故郷に帰ろうと歩みを進めますが、とうとう能煩野(三重県亀山市)で力尽き、亡くなります。
父に疎まれながらも、その父の命令に従って戦い続け、故郷を思いながら亡くなったヤマトタケル。まさに悲劇の英雄です。
武器を持つ世界の神々や英雄
彼の亡くなる原因の一つと考えられるのが、草薙剣を置いていったこと。それだけこの剣はヤマトタケルにとって重要なものだということでしょう。
自分の代名詞ともいうべき武器を持つ神や英雄は少なくありません。インド神話のインドラはヴァジュラ(金剛杵)で怪物を退治します。ギリシャ神話のゼウスは雷霆で戦います。北欧神話のオーディンであれば槍のグングニルです。イギリスの伝説の英雄アーサー王は聖剣エクスカリバーを持ちます。彼はエクスカリバーを岩(あるいは鉄床)から抜いて、周囲に正当な王と認めさせ、亡くなるときには湖に剣を投げ込ませました。
すぐれた武器を持つということは、それを使いこなす能力があり、持つにふさわしい資格があるということ。だからこそ、その武器を失ったときが英雄の最期となるのかもしれません。
http://www.furumine-jinjya.jp/yuisho2.html 【古峯神社の由緒・御神徳】より
【御祭神】 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
火防縁起日本武尊
火防縁起(吉原北宰筆) 草を薙ぎ払い、野火を征する御祭神、日本武尊
○ 鎮座地 ○ 御社名
当神社は栃木県鹿沼市草久古峯ヶ原(こぶがはら)に鎮座しております。
古峯ヶ原とは地名(神社の所在地)であり、その面積は凡そ500ヘクタール・(500町歩)におよぶ広大な領域に達しており、その中に古峯の大神様が鎮まっておられます。標高は約700メートルの地点にあります。
御社名は、
古峯神社(ふるみねじんじゃ)と申し上げます。
一部地方の崇敬者の方には、こみね(古峯、または古峰)さん、こぶがはらさま、などと愛称されておりますが、ふるみねじんじゃが正しい御社名です。
○ 御祭神 ○ 御神徳
御祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をお祀りいたしております。
尊は別名小碓尊(オウスノミコト)・倭男具那命(ヤマトオグナノミコト)とも申しあげ、第12代景行天皇の皇子であらせられます。
幼少より、特に心身共に人並み外れて勝れ、天皇より詔勅(御命令)を拝受し、天皇の御分神として国民の幸福と平和とを願いつつ、西国の熊襲と東国の蝦夷を制し国家の統一に大きな業績を遺された神様であります。
日本武尊の御神徳は、焼津の原(現在の静岡県)での火難を除かれた故事により、火防の神として全国の崇敬者より絶大なる信仰を仰いでおります。
また走水海(現在の静岡県から千葉県にかけての一帯の海)での、海神の怒りを鎮め奉ったという故事から、海上安全、大漁満足、或いは五穀豊穣の神として、農村・漁村の人々より熱烈なる信仰も集めております。
このように人智人力の及ばない処に、古峯の大神の弥高い御神威が得られるとされ、国家安泰はもとより、家内安全・商売繁盛・交通安全・当病平癒・身体健全などの、総ての開運・除災・心願成就の神として崇られるに至り、関東随一の稀に見る霊山・古峯神社として現在では一段の信仰を仰ぐ的となりました。
○ 由緒
今を去る1300余年の昔、隼人というお方が京都からこの地に移り、尊(御祭神・日本武尊)の御威徳を慕いつつ、京都よりこの古峯ヶ原の淨地に遷座(創祀)申しあげたのが始まりといわれております。
その後、古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道上人という僧侶の修行の場となり、上人は古峯の大神の御神威によって、古峯ヶ原深山巴の宿において3ヶ年の修行の後、天応2年(西暦782年)日光の男体山に初めて登頂し大日光開山の偉業を成しとげられました。
この縁起にもとづき、日光全山26院80坊の僧坊達は、勝道上人の修行にあやかって、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれました。
古峯神社はこのような古峯大神のご利益の顕著を以って全国稀にみる霊地として、火伏信仰、天狗信仰などに代表する諸人の敬虔な信仰を集め、久しきにわたってその御神威を保って参りました。明治初年には太政官布告により、神仏分離が行なわれ、仏具一切を取り除き、純然たる古峯神社となり、現在にいたっております。
○ 天狗信仰
当社は別名「天狗の社」とも呼ばれ、神社内参籠室や廊下には所せましと天狗の面、或いは、扁額・威儀物(火ばし、下駄、わらじ、天狗人形)が掲げられております。
これは熱心な崇敬者から心願成就の暁に奉納されたものばかりです。
天狗はご祭神のお使いとして、崇敬者に災難が起こった時、直ちに飛翔して災難を取り除いてくれる(災厄消除・開運)偉大なる威力の持主として広く根深い民間信仰を集めております。
顔が赤く鼻の長い天狗を「大天狗」、黒いくちばしのある天狗を「烏天狗」と申します。
烏天狗像大天狗像
神社拝殿に納められている天狗の木像。大天狗(右)と烏天狗(左)
○ 講中と代参
当神社には、講組織をもち、交替で代参を行う附属の講中がございます。その数は約二万を数え、崇敬者は二百万を越します。春秋の代参時には、こうした参拝者が全国より集まり、ひときわ社頭を賑わします。このように、当神社は、数多くの附属の講中をもつ神社として、全国でも稀にみる社の一つに数えられています。
講中崇敬者 御祈祷
※ 講とは
古峯神社を参拝するため、崇敬する人々が集まって組織する仲間のこと。講元・世話人が中心となり、古峯神社参拝に関する費用や総ての運営をその仲間の人々達で行います。
※ 代参とは
講員の中から毎年、幾人か選出(くじに依る所が多い)し、講中の代表で古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、参拝に当らなかった講員に御札を授与する。その代表で参拝する人のこと。毎年交替で全講員が代参人となります。
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