今、いのちがあなたを生きている

https://jodo-shinshu.info/category/radio/detail22_01.html 【鳥越 正道(熊本県 光寂寺)

第1話 今、いのちがあなたを生きている 】より

おはようございます。今日から6回にわたって、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを中心にお話していきたいと思います。この「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、4年後の2011年に行われる、親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマです。50年ごとに行われる御遠忌は、私たちが親鸞聖人の教えに出遭う大事な御縁として催されるものです。

750年前と言うと、お聞きの皆さんは、親鸞聖人という方が、ずいぶん、大昔の方に感じられるかも知れませんね。しかし、親鸞聖人という方を今も生きているかのように、大変、身近に感じておられる人たちが、今日でも多くおられるのです。歴史的な時間というのは不思議なものですね。長く感じることもあれば、つい昨日のことのように短く感じることもあります。このテーマにある「今」ということも、多くのことを私たちに教えているのではないでしょうか。この「今」には、ずっと昔からの過去が含まれているのではないかと思います。それだけではありません。将来、未来もこの「今」に含まれているのでしょう。未来のことを「當来」ともいいます。まさにきたるということです。来るか来ないか分からないような未来ではなく、確実に来る、「當来」なのです。この過去と當来を含んだ「今」と言うことです。その「今」・現在において、「いのちがあなたを生きている」と言われているのです。

このテーマの「いのち」はひらがなで表されています。「いのち」という言葉は、幾種かの漢字で表わされますね。一般的には「いのち」は「生命」や「生命」の「命」一字で表わされることが多いのではないかと思います。この「生命」や「命」という漢字で表される「いのち」は生まれて死んでいくという、限りある「いのち」のことを表わしているのではないでしょうか。その有限なる「いのち」に対して、このテーマでいうところの「いのち」はどうも違うようですね。限りある「いのち」ではなく、限りない「いのち」を意味しています。すなわち、有限ではなく、無限なる「いのち」です。この無限なる「いのち」を親鸞聖人は「無量寿」と教えられています。「無量寿」の「寿」は「寿命」の「寿」です。このように了解しますと、「今、いのちがあなたを生きている」ということは、「今、現在、無限のいのち、無量寿があなたを生きている」ということになるでしょう。

この「無量寿」は「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀」のことを意味しています。このことを踏まえれば、テーマの「今、いのちがあなたを生きている」ということを「今、阿弥陀があなたを生きている」と了解していけるのではないかと、私は思っております。さらに言えば「今、南無阿弥陀仏があなたを生きている」と言えるのではないでしょうか。このテーマを受け取る私の立場から言えば、「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」ということになるかと思います。

「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」ということは、どういうことを私に教えているのでしょうか。最初のところで、「今」には「過去・當来」を含んだ「今、現在」であると申しました。このことから言えば、ずっと昔、太古の昔から、南無阿弥陀仏は伝統・伝承されてきて、ようやく私のところまで届いたということでしょう。その南無阿弥陀仏の存在に早く気が付いてほしいという願いが、「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマには含まれていると私は了解しています。

第2回は、南無阿弥陀仏の伝統・伝承ということを中心にお話したいと思います。では第1回はこれで終わります。

https://jodo-shinshu.info/category/radio/detail22_02.html 【鳥越 正道(熊本県 光寂寺)

第2話 今、いのちがあなたを生きている】より

おはようございます。前回に引き続いて、「今、いのちがあなたを生きている」という、親鸞聖人の七百五十回御遠忌テーマを中心にお話したいと思います。第1回の前回では、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、受け取る自分の立場から言えば「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということを申しました。今日はその「南無阿弥陀仏の伝統・伝承」についてお話したいと思います。

最初に、親鸞聖人の場合は南無阿弥陀仏のことをどのように了解されておられたのでしょうか。親鸞聖人は幼くして両親に別れられ、9歳の時、出家・得度し、お坊さんになられ、その後、29歳まで20年間にわたって、京都の比叡山で修行されたと伝えられています。親鸞聖人は何のために、20年の長きにわたって、修行されたのでしょうか。親鸞聖人の奥さんの恵信尼のお手紙によると「生死いずべきみち」を求めておられたということが分かります。生と死を出て離れるみち、「生死いずべきみち」とはどういうことでしょうか。前回、有限なるいのちということを申しましたが、私たちが人間として、この世に生まれたということは、ひとりの例外もなく、必ず死んでいくということです。どんなに長生きしたところで、私たちは限りあるいのちを生きているということです。私たちは生まれて成長していくと、自分自身が最終的には死んでいくということを知ってしまいます。そのことが自分自身の問題になってきますと、いろんなことが、頭を巡らすことになります。自分は何のために生まれてきたのであろうか。何をするために生まれてきたのであろうか。何をすれば本当に満足するのか。自分が死ぬとはどういうことであろうか、等々。これらの問題は容易に答を見出すことができません。大変、困難な問題だと言わなければなりません。親鸞聖人の場合も、いのちを削っての、懸命な修行にも関わらず、「生死いずべきみち」の解決を得ることができませんでした。遂に、比叡山での修行を断念し、山を下りて、京都の中心地にある、聖徳太子をおまつりしている「六角堂」に100日間、籠られました。その95日目に夢の中で、法然上人のところにいくようにと告げられ、その後、法然上人のところに通うことになります。法然上人も比叡山で長きに渡って修行をされたわけですが、ずっと前に、山を下りておられ、京都の東山のふもとで、お念仏の教えを広く一般大衆に説かれていたのです。そのお念仏の教えを、来る日も、来る日も聞かれ、遂に念仏申す身になられたのでした。その時の出来事を、『歎異抄』で、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という法然上人の言葉として、述べられています。親鸞聖人にとって、「生死いずべきみち」の答が、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」ということであったわけです。お念仏申す身に親鸞聖人はなられたのです。長い長い月日を経て、南無阿弥陀仏が親鸞聖人のところまで届いたのです。

法然上人に出遭い、お念仏申す身になられてみると、その南無阿弥陀仏には長い長い歴史があることに、親鸞聖人は気が付かれました。思えば、遠くインド、正確にはネパールにお釈迦様が生まれられて、仏教を説かれてから、千数百年を経ており、そのお釈迦様から、多くの念仏者の方々によって伝えられ、ようやくにして、親鸞聖人のところまで届いたのでした。そのときの感激はいかばかりであったことでしょう。

親鸞聖人は南無阿弥陀仏の伝統・伝承を、後に、「正信念仏偈」でインドの龍樹菩薩・天親菩薩、中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、日本の源信僧都そして、直接、出遭われた法然上人の7人の方を七高僧として賞賛されています。この七高僧は多くの念仏者の代表者ということでしょう。多くの無名の念仏者が生まれ、その念仏者の代表として、七高僧として揚げられたのでしょう。

第2回の今日は、親鸞聖人が法然上人に出遭い、念仏申す身になられたこと、そして、その南無阿弥陀仏はお釈迦様から、多くの念仏者を通して伝えられ、親鸞聖人まで届いたことについてお話しました。次の第3回は、親鸞聖人以降、南無阿弥陀仏がどのように伝統・伝承されたかを中心にお話したいと思います。

https://jodo-shinshu.info/category/radio/detail22_03.html 【鳥越 正道(熊本県 光寂寺)

第3話 今、いのちがあなたを生きている】より

おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しております。今回は3回目になります。

前2回では、このテーマは、受け取る自分の立場から言えば「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということを述べました。そして、親鸞聖人が法然上人に出遭い、お念仏申す身になられたことをお話しました。今日は、その後、どのように南無阿弥陀仏は伝わったのかを中心に述べてみたいと思います。

その歴史は一言で言えば、波乱万丈の歴史であったと言えるのではないでしょうか。前回、親鸞聖人が29歳の時、京都東山でお念仏の教えを説かれていた法然上人に出遭い、念仏申される身になられたことを述べましたが、その東山の念仏の集いには、多くの名も無き大衆がおられました。法然上人の教えは非常に簡明で分かりやすい教えでした。それは、どのような人でも、お念仏申せば、淨土に往生し、仏様になれるというものでした。お念仏申すこと以外は一切、往生の条件にはならないと言う教えでした。それは今までの仏教の教えから見れば、画期的なものでした。それまでの教えは、親鸞聖人や法然上人も出家して、比叡山で修行されたように、世間の色々なしがらみを断ち切って、戒律を守り、修行し悟りを求めるというものでした。それに対して、法然上人の念仏の教えは、出家や戒律を守ること、修行することも必要ではないというものだったのです。そのために、それまでの仏教の教団は、法然上人の淨土宗を処罰するように、朝廷に訴えたのです。その結果、淨土宗は解散させられました。さらに、法然上人は四国へ、親鸞聖人は越後へ、そのほか6人の方が流罪になりました。それだけではなく、法然上人のお4が死罪となったのです。それは親鸞聖人が35歳の時でした。本年2007年はその流罪の年から丁度800年に当たります。今年の春、流罪の地である、現在の新潟県上越市において、越後御流罪800年の法要が営まれました。親鸞聖人は流罪によって、法然上人と別れ別れになり、その後一度もお会いすることはありませんでした。しかし、法然上人に出遭い、念仏申す身になられたことを生涯、大切な御縁として、頂いていかれました。

さて、その後、親鸞聖人は39歳の時、流罪を許されましたが、京都には戻らずに、42歳の時、関東に移住されました。現在の茨城県笠間市を中心におよそ20年に渡って、お念仏の教えを広められました。この20年の間に関東一円に多くの念仏者が生まれました。当時の関東は田舎であり、そこに住んでいた人々はまさに「いなかのひとびと」でした。それまで、その「いなかのひとびと」は、仏教には無関係に生きておられたのではないでしょうか。その関東の地で出会われた人々は、『歎異抄』で、親鸞聖人が、「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠(でんぱく、たはた)をつくりてすぐるひとも」と述べられているような人々でした。ここで述べられている、漁業をなりわいにしている漁師、狩猟をなりわいにしている猟師は、殺生せずには生きていけない人々でありました。生き物を殺さないというのは、戒律の第一に揚げられるものです。それまでの仏教はそのような人々に対して、いわば、門前払いの状況であったのです。そのような人々にとって、親鸞聖人のお念仏の教えは、漁業、狩猟、商売、農業、などをなりわいに生活しながら、その生活のところにそのまま、お念仏の生活がひらかれているのであるという教えでありました。このように、それまで全く仏教とは無縁に思われていた人々に、南無阿弥陀仏が伝承されていくことになりました。親鸞聖人にとって、このような「いなかのひとびと」との出会いは、本当のともだちとの出会いであったと言えるでしょう。親鸞聖人は、そのともだちを「御同朋・御同行」と呼ばれ、生涯忘れることはありませんでした。

今日は流罪を御縁として、「いなかのひとびと」と出会い、その「いなかのひとびと」の中に、お念仏の教えが引がり、南無阿弥陀仏が伝承されていったことを述べました。次回は、その後の親鸞聖人を尋ねてみたいと思います。


https://jodo-shinshu.info/category/radio/detail22_04.html 【鳥越 正道(熊本県 光寂寺)

第4話 今、いのちがあなたを生きている】より

おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しております。今日は第4回になります。

このテーマは、受け取る自分の立場から言えば、「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということでお話を進めています。前回は越後に流罪になられた親鸞聖人が関東に移住し、そこで、「いなかのひとびと」の中に南無阿弥陀仏が伝承されていったことについて述べました。

今日は、およそ20年間の関東での生活に別れを告げ、京都に帰られた、親鸞聖人についてお話を進めてみたいと思います。60歳を少しすぎた頃、京都に戻られたと言われていますが、正確な時期は分かっていません。と言いますのも、親鸞聖人は自分自身の出来事について、ほとんど書き残されていないのです。昨今、「自分史」を書き残すことが流行っているようですが、そこで書かれるようなことのほとんどを、親鸞聖人は書き残されていないのです。そのような親鸞聖人が、京都に戻られての生活は、90歳で亡くなられる直前まで、いわゆる執筆活動に費やされています。関東時代には人々に直接、お念仏の教えを伝えていたのですが、それに対して、京都時代はお念仏の教えを書き残すために、全精力を費やされたと推察されるのです。主著であるところの『教行信証』をはじめ、多くの教えを書き残されています。最後の著述は88歳の時です。何が、そのように親鸞聖人を揺り動かしたのでしょうか。それは、一言でいえば、親鸞聖人亡き後の人々のためであったと思われます。法然上人から教えられたお念仏の教えを将来・當来の人々にぜひとも書き残しておきたいという大いなる願いです。親鸞聖人は『教行信証』の最後のところで、七高僧のひとり、中国の道綽禅師の『安楽集』を引かれています。それは、「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続、無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり」というお言葉です。これは、法然上人によって、南無阿弥陀仏を申す身になった親鸞聖人が、その南無阿弥陀仏がずっと伝えられていくように願って、書き残されたのであるということです。

親鸞聖人亡き後の歴史を見れば、多くの著述を残されたということが、いかに大事なことであったかが分かります。このことについては来週述べることにします。

このようにして、親鸞聖人は京都で、静かに息を引き取ります。90歳の時でした。当時としては、非常に長生きな御一生でありました。思えば、親鸞聖人の生涯は、まさに仏法ひとすじに自ら歩まれ、また、多くの念仏者を生み出されたと言えるでしょう。

しかしながら、世間的に見れば、決して順風満帆な道ではありませんでした。幼くして両親と別れ、比叡山での20年間の修行を断念した後、法然上人との出遭いにより念仏申す身になったかと思えば、流罪となり、別れ別れの道を歩まれることになりました。まさに業縁のままに、念仏者として、一切を受け容れて生涯を全うされたと言えるのではないでしょうか。お念仏申す身になること、そして、そのお念仏が伝わっていくことは、順縁、順調な恵まれた縁、またその反対の、逆縁が共に大いなる御縁となって、初めて可能なことであると、つくづく痛感致します。特に、逆縁と言われる御縁こそ、自分自身にとっては大事な仏縁になるのではないかと、これまでの自分の生活を振り返り、感じることです。

今日は、京都に戻られた親鸞聖人の、90歳で亡くなられるまでの、およそ30年間の執筆活動に費やされた生活の意義についてお話し致しました。来週は親鸞聖人が亡くなられた後、お念仏、南無阿弥陀仏はどのように伝わっていったのかを中心にお話したいと思います。

https://jodo-shinshu.info/category/radio/detail22_05.html 【鳥越 正道(熊本県 光寂寺)

第5話 今、いのちがあなたを生きている】より

おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しています。今回は第5回になります。

このテーマは、受け取る自分の立場から言えば、「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということで、お話を進めています。前回は、親鸞聖人が、京都で亡くなられるまでの、およそ30年間の大半を、後世の人々のために、念仏の教えを書き残されたことについて述べ、その事が、その後の歴史を見れば、非常に大事なことであったということを指摘しました。今日は、そのことについて、述べてみたいと思います。

親鸞聖人のお念仏の教えを直接聞かれた人々の多くは、関東に住んでいた方でした。42歳から、およそ20年間にわたっての、いわゆる布教活動により、多くの念仏者、御同朋御同行の人々が生まれてきたことを第3回で述べました。その後、親鸞聖人は京都に戻られてからは、直接、お念仏の教えを広めるというよりも、その教えを書き残すことに精力を費やされました。その晩年においても、関東の御同朋御同行の間において、親鸞聖人の教えをめぐって、それぞれ異なった受けとり方をする人たちがでてきたことが、唯円の『歎異抄』などを見ると分かります。また、京都におられた親鸞聖人のところまで、お念仏の教えを直接尋ねに来られたことも、同じく『歎異抄』に記されています。これらのことは私たちに何を教えているのでしょうか。親鸞聖人生前中においてさえ、親鸞聖人のお念仏の教えをめぐって、すでに、受けとり方の違いがおきていたのです。まして、親鸞聖人が亡くなられた後のことは、どのようになるのか、容易に推察されるのではないでしょうか。このようなことは、親鸞聖人にとって身に覚えのあることでした。それは法然上人に直接教えを受けた人々の間においても、同じようなことがあったからです。法然上人の淨土宗の了解も受け取る人々によって、少しずつ、異なってくるということです。おそらく、このような経験から、法然上人から教えられた淨土宗、お念仏の教えを、力の限り、書き残しておきたいと願われたのではないかと思います。

このことがやがて重要な意味をもってくることになります。少し時代はとびますが、本願寺の第8代の蓮如上人が後を継がれた頃の本願寺は、参詣者もほとんどなく閑散としていたと伝えられています。現在の東西の本願寺から見れば、想像もできないような状況だったのです。この蓮如上人は淨土真宗を再興された方として、親鸞聖人と共に、現在に至るまで、大きな影響を与えています。蓮如上人は6歳の時、事情があり、母親が本願寺からひとり出て行かれます。その母親が別れの時、幼い蓮如上人に向かって、親鸞聖人の淨土真宗を再興して欲しいと言い残して、去っていかれたと伝えられています。蓮如上人の御一生は正に、その母親の願いである真宗再興ひとすじに歩まれたと言えるでしょう。蓮如上人は43歳で、本願寺第8代を継がれるまで、長年にわたって、親鸞聖人が書き残された『教行信証』や『和讃』を始め、多くの淨土真宗に関するお聖教、書物を学ばれています。『教行信証』その他、蓮如上人が書き残されたものが現在でも伝えられています。8代目を継がれてからは、新しいことを試みています。その第一は門徒さんへのお手紙です。このお手紙は『御文』や『御文章』と呼ばれています。その内容の中心は「信心」に関することです。蓮如上人はこの『御文』の中で、しばしば、口で南無阿弥陀仏を称えただけでは不十分であり、南無阿弥陀仏のいわれ、意味を聞いていくようにと教えられています。第二は、「正信念仏偈」と「和讃」を出版されたことです。そして、その「正信念仏偈」と「和讃」による朝夕の勤行・お勤めの形を決められたことです。このことによって、各門徒の家庭の中で、お念仏が自然に伝わっていったのです。これらのことが、今日まで南無阿弥陀仏が伝統・伝承されてきたことに大いに寄与してきたと言えるでしょう。

今日は、蓮如上人が果たされた非常に大事な役割について述べました。今日まで、南無阿弥陀仏が伝統・伝承されてきた大きな要因として、このことを揚げておかなければなりません。来週はいよいよ最終回になります。


https://jodo-shinshu.info/category/radio/detail22_06.html 【鳥越 正道(熊本県 光寂寺)

第6話 今、いのちがあなたを生きている 】より

おはようございます。親鸞聖人の七百五十回御遠忌のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」を中心にお話しています。今日が私のお話としては、最終回になります。このテーマは、受け取る自分の立場から言えば「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということで、お話を進めてまいりました。

前回はその南無阿弥陀仏が今日まで伝統・伝承されてきたことに大きな役割を果たされたのが、蓮如上人であったということを述べました。蓮如上人によって、閑散としていた本願寺は、多くの真宗門徒が参詣するお念仏の道場として、よみがえることになりました。母親が、幼き蓮如上人に託した、真宗再興の願いは、85年の生涯を懸けての活動により、見事に実現することができました。蓮如上人が御門徒に語られたことは、信心を賜り、お念仏申す身になる事、そして、その南無阿弥陀仏のいわれ、意味をよくよく尋ねていくことの大切さでした。このようにして、南無阿弥陀仏は伝統・伝承されることになりますが、その後の歴史も波乱万丈であったと言えましょう。例えば、真宗門徒における一向一揆があります。時の為政者と命懸けで戦った時期があります。一向一揆の評価は賛否がわかれるかと思いますが、真宗門徒の多くのいのちを懸けての活動が、お念仏を伝えてきたと言えるのではないでしょうか。また、江戸時代の九州の薩摩藩・相良藩、これは現在の鹿児島県・宮崎県、熊本県の一部に当たりますが、そこでは、真宗のお念仏は禁止されていました。その中で、「かくれ念仏」として、真宗門徒は命懸けでお念仏を伝えてまいりました。キリスト教が禁止された中で、生き抜かれた「かくれキリシタン」のことは多くの方が知っていると思いますが、同様のことが、真宗のお念仏においても、九州の一部で行われていたのです。

その後、明治時代においては、一時期、廃仏毀釈運動によって、寺院、仏像などの破却、焼き打ちがおきたり、また、国家神道として、国民は氏子になるように強制されるなど、次から次へと困難な状況をかいくぐってきたと言えます。そのような歴史を経て、今日まで、南無阿弥陀仏は伝承されてきたことを思いますと、感慨深いものがあります。親鸞聖人以降、有名・無名の念仏者によって伝えられた、お念仏がようやくにして、私まで届いたことを思わずにはおれません。

自分自身を振り返ってみますと、私が19歳の時、それまで元気であった父が、心筋梗塞で急死すると言う出来事がありました。その縁を通して、自分の生死の問題、生きる意味、何をしたら本当に満足できるのか、等々の問題が、自分の問題となりました。しばらくしてから、お念仏の教えを聞く聞法会、学習会などに出かけるようになり、その中で、お念仏の仲間、御同行の方々に出会うことができました。御同行の方々は、まさに、現にお念仏の中に生きておられたのです。南無阿弥陀仏が生きてはたらいているのです。その頃、「自己発見」という言葉に妙に引かれたことを思い出します。お念仏申す身になるとは、南無阿弥陀仏の自己に出遭う、さらに言えば、南無阿弥陀仏の自己に成る、ということを教えられました。その自己を、親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」・「煩悩成就の凡夫」と教えられています。私たちは、この自己を求めて、さまよっているのではないでしょうか。その自己に背いて生きていることを、露知らず、生きているのではないでしょうか。南無阿弥陀仏の自己とは、全く救われない者、「罪悪生死の凡夫」という機の深信によって、教えられる自己です。この機の深信とは、深く信じると書きますが、真宗の信心を表わす大事な言葉です。その南無阿弥陀仏の自己によって、様々な人々との関係が開かれてくると言えるのではないでしょうか。

6回にわたりまして、親鸞聖人の七百五十回御遠忌テーマである「今、いのちがあなたを生きている」を、受け取る立場から言えば「今、南無阿弥陀仏が私を生きている」と了解できるのではないかということで、お話してまいりました。早朝の時間、お聞きいただきありがとうございました。それでは、2011年の親鸞聖人の御遠忌に、お会いできるのを楽しみにしております。これにて終わらせていただきます。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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