季語が紅葉の句

季語が紅葉の句 より

 紅葉せり何もなき地の一樹にて

                           平畑静塔

文化の日を中心にした今度の連休には、紅葉の名所にたくさんの人たちが繰り出すことだろう。それはそれで結構なことではあるが、名所の紅葉だけが紅葉ではない。たまにはこの句のような一樹にも、目をむけたいものだ。ところで、私が生まれてはじめて見た(!)本物の俳人は、静塔だったと記憶している。それこそ嵐山の紅葉の頃、京大の教室で行なわれた講演を聞きに行って、見た(!)のである。もう三十年以上も前の話。講演の中身はおろか、タイトルすらも忘れてしまった。(清水哲男)

 夕紅葉なにも雑へずかく窮る

                           竹中 宏

この人の句には、難しい漢字や読ませ方が多い。主宰誌の「翔臨」を読むときには、辞書を片手にということになる。しかし、よく読んでみると、たしかに難しい漢字や読ませ方が、作者の必然的な帰着であることが納得される。どうしても他の読みやすい漢字では代替できない境地が、そうさせているのだ。句の「雑へず」は「まじへず」と読ませ、「窮る」は「きわまる」と読む。つるべ落としの秋の日を背景に、紅葉が今日を最後とばかりに冷たくも鮮やかに映えている。このとき、「なにも雑へず」という言葉は雑木の紅葉を暗示しており、なにもまじえていない雑木という形容矛盾が、矛盾とは少しも感じられないほどに窮まっているという面白さ。やはり、これらの漢字が使われて、はじめて句は視覚的に凡庸を脱しているのである。作者は京都の人。京都には紅葉の名所は多いけれど、地元の人はそんなところをわざわざ訪ねたりはしない。この紅葉もそこらへんの紅葉、つまり雑なる場所の紅葉だろう。そこが、また好もしい。「俳句朝日」(1998年12月号)所載。(清水哲男)

 水のなき湖を囲へる山紅葉

                           深谷雄大

作者は旭川市在住。前書に「風連望湖台吟行」とある。「風連望湖台」とは、どこだろうか。北海道には無知の私だから、早速ネット検索で調べてみた。と、「北海道マイナー観光地ガイド」というページが出てきて、名寄市近郊であることがわかった。いわゆる上川地方だ。札幌からは、高速道路を使えば車で3時間10分ほどで行けるとある。「風連(ふうれん)望湖台自然公園」という水郷公園になっていて、見える湖は「中烈布湖」であることまでは判明した。が、後の情報は希薄で、湖の説明もなければ、読み方も書いてない。はなはだ不親切。「マイナー」だからこそ、きちんと説明すべきなのに……。そんなわけで、句が生まれた環境はわからない。それでも私が魅かれたのは、水のない湖(うみ)を囲む紅葉という構図そのものに、作者のリリカルなセンスのよさを感じたからだ。この句は自然に私を、我が青春の愛唱歌である塚本邦雄の「みづうみにみづありし日の恋唄をまことしやかに弾くギタリスト」(愛唱歌と言いながら表記はうろ覚え。いずれ訂正します)に導いてくれた。塚本歌がフィクションであるという差はあるが、センスのよさという意味では、両者に隔たりはないだろう。『端座』(1999)所収。(清水哲男)

 酒さめて去る紅葉谷一列に

                           島 将五

紅葉狩りのシーズンだ。今日あたりも、出かける人が多いだろう。ただし、行楽に出かけていくのはよい気分だけれど、帰りがこうなるので、酒飲みは困る。明るい日ざしのなかで紅葉を愛でながら、仕事を忘れ時間を忘れて飲む酒は、たしかにうまい。でも、そのうちに日が西に傾いてきて、幹事役が「そろそろ下りないと暗くなってしまうぞ、なにしろ秋の日は釣瓶落しだからな」などとみんなをうながし、しぶしぶ腰を上げることになる。そんな頃には、もうだいぶ気温も下がってきて、せっかくの酒もすぐにさめてしまう。後は、谷あいの細道を吹く秋風が身にしみるだけ。「一列に」という表現が、酒飲みのじくじたる心持ちをよく告げている。あと、どのくらい歩けばよいのだろう。そんなことばかりを思ってしまう。とにかく、いつだって帰り道とは遠いものである。みなさん、御苦労なこってすなア。……と、これは今日も仕事でどこにも出かけられない私の負け惜しみ(笑)だ。『萍水』(1981)所収。(清水哲男)

 紅葉づれる木にターザンの忘れ綱

                           服部たか子

懐しいな、ターザン。イギリス貴族の末裔にして、ジャングルの王者。五十代半ば以上の世代で、この有名人を知らない人はいないだろう。「アーアーアー」と雄叫びを上げながらジャングルを駆け回り、蔓を使って枝から枝へと飛び移り、人食いワニのいる河などものともせずに泳ぎきる。これぞ正義の味方、世界最強の男。五輪の水泳選手だったワイズミュラー主演の映画は十二本制作されているが、ほとんどが日本でも公開されたのではなかろうか。私は学校の巡回映画で、そのうちの何本かしか見ていない。遊び道具など何もなかったころ、男の子はすぐに影響されて「ターザンごっこ」に突っ走った。なにしろシチュエーションとして、周囲に人工的なものがなければないほどよいのだから、山の子には好都合だったということもある。いくらでも、ジャングルに見立てられる場所があった。いちばん熱心にやったのが、木の枝に蔓ならぬ縄をくくりつけてぶら下がり、枝から枝へ飛ぶのはさすがに恐かったので、思いきり弾みをつけて遠くまで飛ぶ遊び。このときに、柿の枝が折れやすいことを実感として知った。掲句の作者は「紅葉(もみ)づれる」(紅葉しつつある)木の枝に、子供らのターザンごっこの痕跡を認めて微笑している。「紅葉づれる」という古語と「ターザン」の今風語との取り合わせが面白い。作句意図とは別に、俳句はよくこのように時代の流行り物や風俗習慣などを後世に残す装置でもある。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)

 山桜もみぢのときも一樹にて

                           茨木和生

桜の紅葉は早い。早い地方では九月の終わりころから色づきはじめ、他の樹の紅葉を待たずに早々と散ってしまう。ただ、句の場合は「山桜」だから、どうなのだろうか。子供のころの山の通学路に、それこそ山桜の「一樹」があったけれど、花の季節ならばともかく、紅葉のことなどは何も覚えていない。子供に、紅葉を鑑賞するような風流心はないし、あったら気色が悪い。端正な句だ。かくされているのは「花が咲くときも」であり、こうしてひっそりと年輪を重ねていく山桜の存在感をよく表している。私はこの種の自然のありようを人生の比喩として捉えるのは好まないが、掲句にはおのずからそのように読ませてしまう力が働いているようだ。やはり「一樹」だからだろう。盛りのときも枯れてゆくときも、せんじ詰めれば、しょせんは人も「一人」という思いを誘い出される。二十年も前のことだが、黒衣のシャンソン歌手ジュリエット・グレコが私の番組に出演してくれたことがあった。スタジオの窓からは皇居の紅葉がよく見える季節で、しばらく眺めていた彼女は「あれは私の色よ」と、かすかに微笑した。「私の色、人生の秋の色ね」と繰り返した。さすがにシャンソン歌手らしく上手いことを言うなと感心すると同時に、日本人なら「人生の秋」とまでは誰もが言うけれど、その色(紅葉)までを自分の年齢になぞらえることはしないなとちらりと思った記憶がある。むろんグレコが見たのは山桜の紅葉ではなかったが、掲句を読んで、ふっとそんなことも思い出されたのだった。『野迫川』所収。(清水哲男)

 にわとりも昼の真下で紅葉す

                           あざ蓉子

さて、「にわとり」は「紅葉」しない。「昼間」には「真下」も真上もない。それを承知で、作者は詠んでいる。あえて言うのだが、こうした句を受け入れるかどうかは、読者の「好み」によるだろう。わからないからといって悲観することはないし、わかったからといって格別に句を読む才に長けているわけでもあるまい。何度も書いてきたように、俳句は説得しない文芸だ。だから、読みの半分くらいは読者にゆだねられている。そこがまた俳句の面白いところであり、どのような俳人もそれを免れることはできない。従って、掲句が読者に門前払いされても、致し方はないのである。でも、私はこの句が好きだし、理由はこうだ。まず浮かんでくるのは、しんとした田舎の昼の情景である。すなわち「昼の真下」とは、天高くして晴朗の気がみなぎる地上(空の「下」)の光景だろう。そこに一羽の老いた「にわとり」がいる。このときにこの鶏は、間もなく死に行く運命にあるのだが、その前に消えてゆく蝋燭の火が一瞬鮮やかな光芒を放つように、生き生きと生命の炎を燃やしているように見えた。その様子を周囲の鮮やかにしてやがて散り行く「紅葉」になぞらえたところが、私には作者の手柄だと写る。くどいようだが、この読みも当然私の好みのなかでの話であり、作者の作句意図がどうであれ、このように私は受け取ったまでで、俳句の読みはそれでよいのだと思う。俳誌「花組」(第24号・2004年10月刊)所載。(清水哲男)

 紅葉見のよりどりの赤 絶交

                           志賀 康

最近「絶交」という言葉を聞かなくなった。それほどみんなが仲良くなったというのではなくて、そもそも絶交宣言するような深い交わりの相手がいなくなったからではなかろうか。ほどほどの付き合いには、絶交などあり得ない。また、男女の別れに絶交とは言わないようだから、相手はすべて同性だ。よほどのことがないかぎり、同性の友人と決別する気持ちにはなりそうもないから、絶交のほうが男女の別れよりも大事(おおごと)かもしれない。さて、どういう謂れからかは知らないけれど、昔から絶交状は「赤」で記すことになっている。掲句は、そのことに引っ掛けてある。それにしても「紅葉」を見ながら「絶交」を思うとは、意表を突かれた。実感句ではなく、言葉の面白さをねらった作だと思うが、なかなかの飛躍ぶりである。たしかに「よりどりの赤」であり、どの色で奴に絶交状を書いてやろうかしらんと、どこか舌なめずりをしているような感じもあって、第三者にはユーモラスに写る。つまり絶交状にもスタイルがあるし、そこには相手に馬鹿にされないよう、恋文とはまた違った意味での細心の注意を必要とするわけである。幸いにして書いたことはないけれど、いざとなるとこりゃ難しそうだ。『山中季』(2004)所収。(清水哲男)

 紅葉の真ッ只中の力うどん

                           川崎展宏

晴天好日。全山紅葉。峠の茶屋(というのは、ちと古いか)のようなところで一休みして、うどんを食べている。食べるうどんは何でも構わないようなものだが、この場合はやはり「力うどん」がいちばん良く似合う。「キツネうどん」や「タヌキうどん」だと、いささか「力」不足。どこかひ弱な感じがしてしまう。真っ白なうどんに、真っ白な餅。いかにも盛り盛りと「力」が湧いてきそうではないか。「真ッ只中」という強い言葉に、少しも負けずに張り合えるのは「力うどん」しかないだろう。いつも思うのだが、町のうどん屋の店内はどうしてあんなに暗いのだろうか。西洋風レストランみたいな明るさのうどん屋には、お目にかかったことがない。あれはきっと、うどんの白を強調するための策謀じゃないかと思ったりするのだけれど、同様にそば屋だって暗いのだから、この推論は残念ながら間違いだ。でも、見た目も味の一部なのだから、何かもっともな理由がありそうである。そんなところで食べ慣れているうどんを、たまたま句のように明るい戸外で食べることがあると、東京辺りの真っ黒い(!)汁も意外に薄くて丼の底まで透けて見えるほどだ。となれば、うどん屋の照明はうどんの色を際立たせるためではなくて、むしろ汁の色加減に関係しているのだろうか。などと、埒もないことを考えるのも、俳句を読む楽しさにつながっている。「俳句研究」(2004年12月号)所載。(清水哲男)

 歩きまはればたましひ揺らぐ紅葉山

                           本郷をさむ

そろそろ都心の街路樹も色づき始めた。淡い色彩で満開になる桜と違い、鮮やかな赤や黄色が満載の紅葉を視界いっぱいに映していると、くらくらとめまいがするような心地になる。それは、単純に色だけの問題ではなく、もしかしたら科学的に身体や視覚に作用するなにかがあるのかもしれないと調べてみたら、紅葉の仕組みはまだ解明されていない点が多いらしい。花見や月見と違って、紅葉を見物することは紅葉狩、「見る」ではなく「狩る」なのである。秋の山の奥へ奥へと進み、紅葉する木々を眺めることは、花や月を愛でつつ飲食を伴う遊山とは違う、きりりと張り詰めた緊張感があるように思う。透き通った空気のなかで原色の世界に身を置く不安が「足を止めてはいけない」と、心を揺さぶるのだろうか。ところで、書名となっている「物語山」とは、群馬県下仁田町にある実在の山だという。名の由来には諸説あるらしいが、この風変わりな名を持つ山では、きっと魂を閉じ込めておくのが難しいほどの美しい紅葉を見せてくれるのではないかと思うのだった。〈物語山返信のやうに朴落葉〉〈コンビニを曲りて虫の村に入る〉『物語山』(2008)所収。(土肥あき子)

 かたつむり紅葉の中に老いにけり

                           大串 章

実見だろうか。実見にせよ想像にせよ、いまの季節に「かたつむり」に着目したセンスの良さ。紅葉との取り合わせが、実に鮮烈だ。俳句に限らず、こうしたセンスを生かせる能力は天性のものと言ってよいだろう。勉強したり努力したりして、獲得できるものではない。ここらへんが、人間の面白さであり味である。紅葉の盛りのなかで、かたつむりがじっとしている。梅雨ごろにはノロマながら這い回っていたのに、いまは死んだように微動だにしていない。かたつむりの生態は知らないけれど、寒さのゆえにじっとしているというよりも、作者は老いたがゆえだと断定する。根拠は無い。無いが、その様子にみずからの老いてゆく姿(このとき作者は五十代後半)を投影して、近未来の自分のありように重ね合わせている。これは頭ででっち上げた詠みではなくて、ごく自然に口をついて出てきたそれである。章句の良さは、情景から思わずも人生訓などを引き出しそうになる寸前で詠みを止めてしまうところだ。最近は、とくにそう感じることが多い。これもまたセンスなり。数多ある紅葉句のうちでも、秀抜な一句である。『天風』(1999)所収。(清水哲男)

 障子閉めて沖にさびしい鯨たち

                           木村和也

冬の日ざしを受け鈍く光る障子は外と内とをさえぎりつつも外の気配を伝える。ドアは内と外を完全に遮断してしまうけど、障子は内側にいながらにして外の世界を感じる通路をひらいているように思う。「障子しめて四方の紅葉を感じをり」の星野立子の句がそんな障子の性質を言い当てている。掲句では障子を閉めたことでイマジネーションが高まり沖合にいる鯨が直に作者の感性に響いているといえるだろう。大きく静かな印象をもつ鯨を「鯨たち」と複数にしたことでより「さびしさ」を強めている。冬の繁殖期に日本の近海に回遊してくる鯨。その種類によっては広大な海でお互いを確認するためさまざまな音を出すという。「例えば、ナガスクジラは人間にも聞き取れる低い波長の音を出し、その音は海を渡ってはるかな距離まで響き渡る。」と、「世界動物大図鑑」に記述がある。閉めた障子の内側に坐して作者は沖にいる鯨の孤独を思い、ひそやかな鯨の歌に耳をすましているのかもしれない。『新鬼』(2009)所収。(三宅やよい)

 全山をさかさまにして散る紅葉

                           岡田芳べえ

今年は猛暑のせいで曼珠沙華の開花が遅かった、と先日のテレビが報道していた。紅葉はどうなのだろうか? 直近の情報をよく確認して出かけたほうがよさそう。紅葉は地域によってまちまちだが、今はまだ「散る」というタイミングではないのかもしれない。たしかに紅葉は木の枝から地上へ、つまり天から地へと散るわけだけれども、芳ベえは天地をひっくり返してみせてくれた。そこに俳句としてのおもしろさが生まれた。自分ではなく対象をひっくり返したところがミソ。風景をさかさまにすれば、紅葉は〈地上なる天〉から〈天なる地上〉に散ることになるわけだ。山火事のごとくみごとに紅葉している全山を、ダイナミックにひっくり返してしまったのである。天地を逆転させた、そんな紅葉狩りも愉快ではないか。作者はふざけているのではなく、大真面目にこの句を詠んだにちがいない。芳べえ(本名:芳郎)は詩人・文筆家。「俳句をつかんだと思った時期もあったが、それは一瞬ですぐ消えた。つかめないままそれでも魅力を感じるので離れられない」と述懐している。まったくその通り、賛同できますなあ。他に「暮の秋走る姿勢で寝る女」「鍋が待つただそれだけの急ぎ足」などがある。「毬音」(2005)所載。(八木忠栄)

 あたたかく靄のこめたる紅葉かな

                           深川正一郎

霧よりやや視界がよいのが靄、ということだが、霧は走るけれど靄は走らない、とも思う。この句の場合、山一面の紅葉が朝靄に覆われているのかもしれない。が、私には、湖の対岸にくっきりと見えていた一本の鮮やかな紅葉に今朝はうっすらと靄がかかっている、という景色がなんとなく浮かんだ。そこに朝日が差しこんでくると、湖面はかすかな風を映して漣が立ちはじめ、紅葉の彩をやわらかくつつんでいた靄はしだいに薄れていく。あたたかな靄の晴れてゆく湖畔で、作者は行く秋を惜しんでいるのかもしれない。『正一郎句集』(1948)は、川端龍子の装丁がしっとりとした作者の第一句集。四季別にまとめられているがその扉の、春、夏、秋、冬、の文字だけが水色で美しい。(今井肖子)

 啓蟄のとぐろを卷いてゐる風よ

                           島田牙城

まだ冬のコートをしまいきれないが、今日から3月。そして来週には啓蟄。地底深くぬくぬくと冬ごもりしていた虫たちが土のなかから出てくるには、まだちょっと早いんじゃないの、といらぬ心配をしたくなる。それでもひと雨ごとに春の陽気となっているのはたしかで、花はその身を外気にさらしているのだから花の時期を見極めているのだろうと推量できるが、土のなかにいる虫たちはどうしてそれを知るのだろう。ちょうど今時分、今年最初の雷が鳴り、これが合図になっていたと考えられて「虫出しの雷」という言葉もあるが、まさか聞こえているとは思えず、なんとも不思議な限りである。掲句がいう風は強くあたたかな南風かもしれないが、「とぐろ」と称したことでどこか邪悪な獣めいた匂いをもった。目が覚めてのんびり土から出た蛙が、一番最初に吹かれる風がこれでないことを祈っている。〈汗のをばさん汗のおぢさんと話す〉〈土までが地球紅葉は地球を吸ふ〉〈ひるまずに降る雪さては雪の戀〉『誤植』(2011)所収。(土肥あき子)

 月一つ落葉の村に残りけり

                           若山牧水

今の時季、落葉樹の葉はすっかり散り落ちてしまった。それでも二、三枚の枯葉が風に吹かれながらも、枝先にしがみついている光景がよくある。あわれというよりもどこかしら滑稽にさえ映る。何事もなく静かに眠っているような小さな村には、落葉がいっぱい。寒々と冴えた月が、落葉もろとも村を照らすともなく照らし出しているのであろう。季重なりの句だが、いかにも日本のどこにもありそうで、誰もが文句なく受け入れそうな光景である。牧水が旅先で詠んだ句かもしれない。この句から「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」の名歌が想起される。作者は冬の月を眺めながら、どこぞでひとり酒盃をかたむけているのかもしれない。暁台に「木の葉たくけぶりの上の落葉かな」がある。牧水には他に「牛かひの背(せな)に夕日の紅葉かな」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)

 山頂の櫨の紅葉を火のはじめ

                           矢島渚男

夏の間は灼熱の太陽に焼かれ、生気を失ったような山肌も、秋風とともに瑞々しさを取り戻して来る。とりわけて風の道となる頂上付近では、いちはやく秋の植物たちの活動が活発化する。櫨(はぜ)の紅葉も九月には見られる。私の田舎でも、そろそろ色づきはじめる頃で、子供のころには風流心のかけらもなかった私にも、櫨の紅葉は燃えるようで目に沁みるかと思われた。その紅葉を、作者は「火のはじめ」と決然と言いきっている。「火のはじめ」とは、全山紅葉のさきがけとも読めるし、他方ではやがて長くて寒い季節に入る山国の、冬用意のための「火」のはじめだとも読める。むろん、作者はその両者を意識の裡に置いているのだ。櫨の紅葉は燃えるような色彩で、誰が見ても美しいと思うはずだが、その様子を一歩進めて、山国の生活のなかに生かそうとした鋭い目配りには唸らされてしまう。と言おうか、紅葉した櫨を見て、作者は観念的に何かをこねくりまわそうなどとは露思わず、まことに気持ちがよいほどの率直さで、心情を吐露してみせている。『采微』所収。(清水哲男)

 うぐいす張り刀引き寄す夜寒かな

                           西川悦見

高円寺北口2分の所に、居酒屋「赤ちゃん」があります。現在の店主、赤川徹氏の尊父が歌人だった縁で、周辺に住む文人墨客が集った酒場で、店名は、井伏鱒二の命名です。映画・演劇・文学を好む客が多く、その流れで最近は、店で定期的に句会を開いていて、誰もが自由気ままに参加しています。また、店主が将棋好きとあって、腕自慢の酔客とカウンター越しに指すこともしばしばで、時折プロ棋士も立ち寄ります。先夜、久しぶりに将棋を指しに行ったところ、「第十八回赤ちゃん句会」の作品一覧三十余句を見せられて、「これは訳がわかんない」と断言したのが掲句です。他に「秘めごとの牛車を止める良夜かな」があって、これは蕪村の平安調の作りみたいだね、なんてしたり顔で喋っていたところ、掲句の作者が店に現れ私の横に座り、焼酎割りを呑み始めました。「西川さん、秘めごとの句は蕪村調で面白いけれど、うぐいす張りはチンプンカンプンだよ」。すると、「うぐいす張り」は、廊下を歩くと音が出る仕掛けのことで、武家屋敷の忍者除けであることを教えてくれました。そういえばそうだった、なるほど!これで俄然、寒夜の緊迫感が伝わってきました。「張る・引く・寄す」は、緊張つながりの縁語と言ってもよいのでしょう。西川氏は、蕪村の「宿かせと刀投げ出す吹雪哉」の歌舞伎的な作りが好きで、換骨奪胎の句を作ってみたかったといいます。蕪村の句は大音声の荒事で、西川氏の句は「引き寄す」動作が機敏で静かな侍のリアリズムです。これは、蕪村もほめてくれるでしょう。他に、「原発も紅葉もつぶしゴジラ征く」。この夜、西川氏の俳号が不損(ふそん)と決まりました。(小笠原高志)

 蹲踞をよぎる日月火焚鳥

                           原 朝子

蹲踞(つくばい)は茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。この手水を使う日月もいつしか永らえて人生の一部となってしまった。この季節に決まって渡ってくるジョウビタキが今日もヒィーッ、カチカチと鳴いている。日月に続くヒタキの表記に火の字の火焚鳥とは何とお洒落なことだろう。日常は今週も日月火と繋がってゆく。<夜長人火を足す如く言葉継ぐ><代代の器用貧乏蔦紅葉><山茶花や日輪忽と雲を割る>。「俳壇」(2015年1月号)所載。(藤嶋 務)

 山頂の櫨の紅葉を火のはじめ

                           矢島渚男

子供のころには風流心のかけらもなかった私にも、櫨の紅葉は燃えるようで目に沁みるかと思われた。その紅葉を、作者は「火のはじめ」と決然と言いきっている。「火のはじめ」とは、全山紅葉のさきがけとも読めるし、他方ではやがて長くて寒い季節に入る山国の、冬用意のための「火」のはじめだとも読める。むろん、作者はその両者を意識の裡に置いているのだ。櫨の紅葉は燃えるような色彩で、誰が見ても美しいと思うはずだが、その様子を一歩進めて、山国の生活のなかに生かそうとした鋭い目配りには唸らされてしまう。と言おうか、紅葉した櫨を見て、作者は観念的に何かをこねくりまわそうなどとは露思わず、まことに気持ちがよいほどの率直さで、心情を吐露してみせている。(清水哲男)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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