https://kigosai.sub.jp/001/archives/3484 【烏瓜(からすうり)晩秋】より
karasuuri【子季語】王瓜、王章
【解説】
ウリ科の多年草。山野に自生する蔓草。夏に白いレースのような 花を咲かせ秋に実をつける。実は卵形で、縞のある緑色から熟し て赤や黄に色づく。
【科学的見解】
カラスウリは、ウリ科のつる性多年草で、本州東北以南から沖縄までの山野に普通に生育している。若い果実は縞模様となるが、成熟すると朱色から紅色の鮮やかな実となる。種子は、小槌または蟷螂の頭のような形をしている。また、冬になると根が塊状になるところも特徴の一つで、果実とともに生薬として利用されてきた。(藤吉正明記)
【例句】
竹藪に人音しけり烏瓜 惟然「惟然坊句集」
まだき冬をもとつ葉もなしからす瓜 蕪村「夜半叟句集」
くれなゐもかくてはさびし烏瓜 蓼太「蓼太句集初編」
溝川や水に引かるる烏瓜 一茶「文政九年句帖
行く秋のふらさがりけり烏瓜 正岡子規「季語別子規俳句集」
夕日して垣に照合ふ烏瓜 村上鬼城「鬼城句集」
枯れきつて中の虚ろや烏瓜 長谷川櫂「果実」
https://miho.opera-noel.net/archives/458【第八十七夜 正木ゆう子の「烏瓜」の句】より
あっそれはわたしのいのち烏瓜 『静かな水』
正木ゆう子(まさき・ゆうこ)は、昭和二十七年(1952)熊本生まれ。一足先に俳人となっていた兄の正木浩一に誘われて同じく能村登四郎に師事し、「沖」の同人。俳論『起きて、立って、寝ること』で俳人協会評論賞受賞。代表句に〈水の地球すこしはなれて春の月〉がある。
掲句の鑑賞をしてみよう。
烏瓜は、ウリ科のつる性多年草で木々にからみつきながら上へと育つ。やがて夏の夕方から宵にかけて、糸状に裂けた真っ白なレースのような五弁の花が咲く。庭に植える草花ではないので、野山や雑木林に行かないと出会うことはむつかしい。秋になると、赤い夕日の色をした実をつける。小形のカラスウリを見つけたとき「あっそれはわたしのいのち」と瞬間に捉えた正木の、なんとストレートな表現であろうか。この作品を知って以来、私も烏瓜を見つけるや、まるで自分の分身の「いのち」に出会ったかのように叫んでしまう。
〈蓬食べてすこし蓬になりにけり〉〈着膨れてなんだかめんどりの気分〉など、不思議な身体感覚と詩的感性の豊かな言語感覚の作品は、とても真似をすることなどできない。蓬の句からは、色白の正木の顔がほんの少し薄緑色になったように感じられるし、真冬の吟行先で着膨れた正木に会えば、コートやら毛糸の帽子やらマフラーで完璧な防寒服姿は、ころころした「めんどり」になっているに違いない。
正木は、「生命と俳句 — 俳句とは何か」と題された文章の中で、「一句一章が切り取る瞬間」という言葉を使っているが、作品は、確かに圧倒的に一句一章が多い。瞬間を切り取ることで存在を顕現させるタイプの句を好むということであろう。さらに「自己が詩となって時を充填できるのは、今の瞬間においてだけであろう。なぜならそこでしか人は時と交差しないからだ」とも言っている。
母を亡くした直後に詠まれた句を、句集『羽羽』の中から紹介する。
此処すでに母の前世か紫雲英畑 『羽羽』
正木の眼前に広がっている紫雲英畑は、天上の母から眺めればすでに「前世」の光景である。前世と現世を二重写しにして詠んでいる。父が亡くなり母が亡くなり、兄は早逝している。筆者の私もそうであるが、父が亡くなり母が亡くなって初めて、何もかもが剥がれた素の自分を感じた。
https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20041110,20050825,20081023,20150529&tit=%89G%89Z&tit2=%8BG%8C%EA%82%AA%89G%89Z%82%CC 【季語が烏瓜の句】より
花嫁の菓子の紅白露の世に
吉田汀史
季語は「露の世」で秋。「露」に分類。この場合の「露」は物理的なそれではなく、一般的にははかなさの比喩として使われる。むなしい世。「花嫁の菓子の紅白」は、結婚式の引き出物のそれだろう。いかにもおめでたく、寿ぎの気持ちの籠った配色だ。それだけに、作者はかえって哀しみを感じている。結婚が、とどのつまりは人生ひとときの華やぎにしか過ぎないことを、体験的にも見聞的にも熟知しているからだ。といって、むろん花嫁をおとしめているのではない。心から祝いたい気持ちのなかに、どうしても自然に湧いてきてしまう哀しみをとどめがたいのである。たとえば萩原朔太郎のように、少年期からこうした感受性を持つ人もいるけれど、多くは年輪を重ねるにつれて、「露の世」の「露」が比喩を越えた実際のようにすら思われてくる。かく言う私にも、そんなところが出てきた。考えるに、だからこの句は、菓子の紅白をきっかけとして、思わずもみずからの来し方を茫々と振り返っていると読むべきだろう。同じ作者に「烏瓜提げ無造作の似合ふ人」がある。その人のおおらかな「無造作」ぶりを羨みながら、いつしか何事につけ無造作な気分ではいられなくなっている自分を見出して、哀しんでいるのだ。俳誌「航標」(2004年10月号)所載。(清水哲男)
汝が好きな葛の嵐となりにけり
大木あまり
季語は「葛(くず)」で秋。「葛の花」は秋の七草の一つだが、掲句は花を指してはいない。子供の頃の山中の通学路の真ん中あたりに、急に眺望の開ける場所があった。片側は断崖状になっており、反対側の山の斜面には真葛原とまではいかないが、一面に葛が群生していた。そこに谷底から強い風が吹き上がってくると,葛の葉がいっせいに裏返ってあたりが真っ白になるのだ。葛の葉の裏には,白褐色の毛が生えているからである。大人たちはこの現象を「ウラジロ」と言っていて、当時の私には意味がわからなかったけれど、後に「裏白」であると知った。壮観だった。古人はこれを「裏見」と称し「恨み」にかけていたようだが、確かにあれは蒼白の寂寥感とでも言うべき総毛立つような心持ちに、人を落し込む。子供の私にも,そのように感じられたが、嫌いではなかった。「全山裏白」と,詩に書きつけたこともある。ところで、掲句の「葛の嵐」が好きな「汝」とはどんな人なのだろう。この句の前には、「身に入むと言ひしが最後北枕」、「恋死の墓に供へて烏瓜」の追悼句が置かれている。となると、「汝」はこの墓に入っている人のことだろうか。だとすれば、墓は葛の原が見渡せる場所にあるというわけだ。無人の原で嵐にあおられる裏白の葛の葉の様子には、想像するだに壮絶な寂しさがある。それはまた、作者の「汝」に対する心持ちでもあるだろう。「俳句」(2005年9月号)所載。(清水哲男)
省略がきいて明るい烏瓜
薮ノ内君代
まことに省略のきいたものは明るい輝きを持っている。俳句もしかり、さっぱりと片付けた座敷も。ところで秋になると見かける烏瓜だけど、あれはいったいどんな植物のなれの果てなのだろう。気になって調べてみると実とは似ても似つかない花の写真が出てきた。白い花弁の周りにふわふわのレースのような網がかかった美しい花。夏の薄暮に咲いて昼には散ってしまうという。「烏瓜の花は“花の骸骨”とでも云った感じのするものである。遠くから見る吉野紙のようでもありまた一抹の煙のようでもある。」と寺田寅彦が『烏瓜の花と蛾』で書いている。烏瓜というと、秋になって細い蔓のあちらこちらに明るい橙色を灯しているちょうちん型の実しかしらなかったので、そんな美しい経歴があろうとは思いもよらなかった。実があるということはそこの場所に花も咲いていたろうに、語らず、誇らず枯れ色の景色の中につるんと明るい実になってぶら下がっている。省略がきいているのはその形だけではなかったのね。と烏瓜に話しかけたい気分になった。『風のなぎさ』(2007)所収。(三宅やよい)
青鷺の常にまとへる暮色かな
飛高隆夫
青鷺は渡りをしない留鳥なので何時でも目にする鳥である。東京上野の不忍池で観察した時は小さな堰に陣取り器用に口細(小魚)を抓んでいた。全長93センチにもなる日本で最も大きな鷺であり、餌の魚を求めてこうした湖沼や川の浅瀬を彷徨いじっと立ち尽くす。その姿には涼しさも感じるが、むしろ孤独な淋しさや暮色を滲ませているように感じられるのである。他にも<藤垂れて朝より眠き男かな><耳うときわれに妻告ぐ小鳥来と><よき日和烏瓜見に犬連れて>などが心に残った。「暮色」(2014)所収。(藤嶋 務)
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