https://tenki.jp/suppl/miyasaka/2018/12/13/28685.html 【煤払いと忠臣蔵の関係は?ー12月13日の歳時記】より
12月13日は、煤払いの日。煤払いとは、新年を迎えるために家の内外を清掃する年中行事のこと。電気が無い昔、囲炉裏で薪(たきぎ)を燃やす生活では、部屋に煤が溜まったのです。この日江戸の街では、煤竹売りが声をあげて、煤払い用の竹箒を売り歩きました。煤払いが済むと祝儀酒が振舞われたり、終了後の風呂を「煤湯」と名付けるほどの一斉行事で、当時からたくさんの俳句が詠まれています。
ところで元禄 15 (1702) 年、煤払いの翌日の12月14日夜半に起こったのが、赤穂浪士討入事件。その前夜に俳人二人が出会った物語が、忠臣蔵もので生き生きと語られています。そんなエピソードを覗いてみましょう。
正月準備の松迎え
現在では、実用的な大掃除は、年末の大晦日近くに実施されるのが一般的。しかし元々は朝廷、幕府、民間ともに、年神(としがみ)祭りのための物忌みに入る12月13日が、正月準備の事始めとされていました。井原西鶴の『世間胸算用』にも、「毎年煤払いは極月十三日に定めて」と書かれています。浮世絵にも、手ぬぐいを被った男女たちが、威勢良く煤払いに取り掛かっている描写があります。一年間の厄を払う意味もあった折り目の行事は、江戸っ子たちにとっては、半ばお祭り騒ぎのお楽しみでもあったのでしょう。
煤払いは、当時から俳句にもバラエティー豊かに描かれています。
・旅寝して見しやうき世の煤払ひ 〈芭蕉〉
・煤掃てしばしなじまぬ住居かな 〈許六〉
・煤はきやなにを一つも捨てられず 〈支考〉
・煤払て寐た夜は女房めづらしや 〈其角〉
・我が家は団扇(うちは)で煤を払ひけり 〈一茶〉
これが世の中の煤払いなるものかと、旅の途中に浮世離れした目線で呟いている芭蕉。しかしその芭蕉の門弟たちの句は、もっと庶民感覚です。許六は、煤払いで綺麗になった自宅がかえって居心地が悪そうですし、支考は、せっかくの大掃除なのに結局断捨離できなかった、と愚痴る始末。其角の「めづらしい」は、古語での「すばらしい」「新鮮である」の意味と思われ、奥さん思いで微笑ましく。のちの世代の一茶に至っては、我が家の大掃除は竹箒を使うほどでもない、団扇で充分だ、と少々自虐モードです。
年の瀬や水の流れと人の身はあした待たるるその宝船
忠臣蔵の物語には、先に述べた其角が登場します。赤穂浪士の討ち入り前夜、其角は両国橋の上で、煤竹売りに変装して吉良邸を監視していた四十七士の一人・大高源吾と、ばったり出会います。源吾は俳人としても有名でしたが、その変わりようを見て其角は、はなむけに「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠みます。
その発句に対して源吾が「あした待たるる その宝船」と返し、討ち入り決行をほのめかしたという逸話があり、歌舞伎の『松浦の太鼓』では大事な鍵となっています。どうやらこのエピソードはフィクションだったようですが、実際に源吾と其角は交流がありました。宝船が正月や吉報を意味することからも、年の暮れや煤払いのリアリティーが膨らみます。
上野より富士見ゆる日や煤払ひ
煤払いは、現在の作句では、ストレートに年末の大掃除のことを言い、竹で煤を払わなくても、電気掃除機を使っても構いません。それでも、寺社の掃除や伝統家屋での昔ながらの煤払いや、勢いよく埃を叩く掃除の様は、ユーモラスにも、リズミカルにも表現されています。最後に、近現代の煤払いの句をご紹介して、お正月の支度に弾みをつけることにいたしましょう。
・吊鐘の中掻きまはす煤払〈吉岡句城〉
・命綱つけて天守の煤払ふ〈伊藤一子〉
・煤払でんでん太鼓捨てきれず〈半崎墨縄子〉
・煤払ひ神官畳めつた打ち〈林 徹〉
・煤払ふ忍者屋敷の忍者たち〈八鳥泗静〉
・上野より富士見ゆる日や煤払ひ〈沢木欣一〉
【句の引用と参考文献】
『新日本大歳時記 カラー版 冬』(講談社)
『カラー図説 日本大歳時記 冬』(講談社)
『第三版 俳句歳時記〈冬の部〉』(角川書店)
https://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/shinnen_junbi/kotohajime/ 【正月事始め】より
12月13日は「正月事始め」といい、「煤払い」「松迎え」などの正月の準備にとりかかる日とされています。もともと12月中旬ぐらいから正月準備を始めていましたが、12月13日は婚礼以外は万事に大吉とされる「鬼宿日」にあたることから、年神様を迎える準備を始めるのにふさわしい日とされ、「正月事始め」として定着していきました。
また、12月8日の事始めから正月準備をするところもあります。
※事始めについてはこちらをご覧ください。 → 事始め・事納め
煤払い
正月に年神様を迎えるために、1年の汚れを払い、清めることが「煤払い」です。
江戸城で12月13日に煤払いをしていたことから、江戸庶民もそれにならって煤払いに精を出したそうです。昔の火種は薪や炭だったので、天井や壁についた煤の汚れを落とすことが重要だったのでしょう。竹竿の先に藁を取り付けた「煤梵天」(すすぼんてん)という道具を使って、高いところの煤を払う習慣もありました。
大店といわれる商家では、煤払いが終わると主人を胴上げし、祝宴を開いたといわれます。1年間の汚れを払い隅から隅まできれいにすると、年神様がたくさんのご利益を持って降りてくるといわれているので、煤払いも盛大で賑やかな暮らしの行事のひとつだったようです。
松迎え
門松にする松やおせちを調理するための薪などを、12月13日に採りに行きました。
これを「松迎え」といいます。
また、お歳暮を12月13日頃から贈るのは、お歳暮が正月用のお供えものだったことの名残りです。「煤払い」や「松迎え」が済み、年神様やご先祖様を迎える態勢が整う頃に届けるというわけです。
年男
その年の干支にあたる男性を「年男」と呼びますが、もともとはお正月の行事を取り仕切る人のことを「年男」と呼びました。昔は家長が「年男」を務め、暮れの大掃除、お正月の飾りつけ、年神様への供え物、おせち料理を作るなど、お正月全般を取り仕切っていました。
このように、「年男」として大変忙しい役目を家長が担っていましたが、次第に長男や奉公人など、若い人が務めるようになりました。いまでは、お母さんが大活躍ですね。
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