https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202401060003/ 【「坂上田村麻呂の群像」宇佐八幡信託事件。】より 川村一彦
宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮[1]より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件。
道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の10月1日(11月7日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。
事件の経緯
道鏡の政界進出
弓削道鏡は、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。天平宝字8年(764年)、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こす(藤原仲麻呂の乱)と上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼした。
乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位する(重祚)ことを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には「法王」となる。こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。
だが、反仲麻呂派の貴族の大勢はあくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。
称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。
天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上の禁忌となっていった。
2つの神託
神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。
清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9㎡の僧形の大神が出現。
大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
道鏡を天皇に就けたがっていたと言われる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべのひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された。
10月1日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自ら(称徳天皇)自身が決める事を改めて表明する。
事件決着後
宝亀元年(770年)に孝謙天皇が崩御すると、『続日本紀』の記述によると群臣の評議の結果、皇太子を白壁王(後の光仁天皇)とする孝謙天皇の「遺宣」が発せられ、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷(配流)された。
なお、この時(宝亀元年8月21日)の白壁王の令旨に「道鏡が皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていない。
解釈
日本の皇室は、歴史の中で幾度も危機を迎えたが、一般に僧・弓削道鏡によるとされるこの皇位継承の企みは、その中でも衝撃的な事件であった。
この事件については『続日本紀』に詳細が書かれ、道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育においてしばしば取り上げられてきたが、既に江戸時代に本居宣長によって一連の神話的な事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている(神託には皇位継承については触れられていない)とする説も存在する。
道鏡の皇位簒奪疑問説
神託由義宮遷都説
中西康裕は、以下のような解釈を提出している。
道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば極刑に該当する重罪であるにもかかわらず称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたという説は「後付」ではないか。
最初の神託は皇位継承以外の問題(道鏡の故郷である河内国弓削の由義宮遷都はこの年に行われた)に関するものであって、これに乗じた藤原氏(恐らくは藤原永手とその弟の藤原楓麻呂か)が和気清麻呂を利用して白壁王あるいはその子である他戸王(称徳天皇の父・聖武天皇の外孫の中で唯一皇位継承権を持つ)を立太子するようにという神託を仕立て上げようとしたことが発覚したために清麻呂が流刑にされたのではないか。
しかし、この神託由義宮遷都説は根拠が憶測の域を越えるものではないとする見方もある。また、他戸王が立太子後に藤原氏によって廃位されて後に変死しているという指摘もある。
その一方で、称徳天皇や道鏡が清麻呂を流した事で2番目の神託を否認した以上、最初の神託に基づいて道鏡への皇位継承を進めることも可能であった筈なのに事件以後に全くそうした動きを見せていない事や逆に藤原氏らの反対派がこの事件を直接の大義名分として天皇や道鏡排除に積極的に動いていない事から、道鏡がこの事件に深く関わっていたとする証拠を見出す事は困難である。
「坂上田村麻呂の群像」多賀城赴任はあったのか?
また、白壁王の擁立については藤原氏一族は一致していたものの、その次の天皇については早い段階で白壁王の子供のうち、他戸王を推す藤原永手ら北家と山部王(後の桓武天皇)を推す藤原百川ら式家との間で意見の対立があり、他戸皇太子の廃位も政権の主体が北家から式家に移った直後に発生している事から、北家主導下で光仁擁立→他戸立太子が行われた事と式家への政権移行後にその廃太子が行われた事には矛盾は無いと考えられている。
称徳天皇首謀説
中西説に対して、細井浩志は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に“不正の暴露”などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判した。
細井は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の神護景雲3年10月の詔勅によって称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調している事から、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。
また細井は、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。
『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしている。
宇佐八幡宮側の内部事情説
また、道鏡側よりも宇佐八幡宮側の事情が強く関わっているという説もある。
山上伊豆母によれば、天平感宝元年(749年)に宇佐八幡宮から祢宜の外従五位下・大神社女と主神司従八位下・大神田麻呂が建設中の東大寺盧舎那仏像を支援すると言う神託を奉じて平城京を訪れた。
これによって宇佐八幡宮は封戸と「八幡大菩薩」の称号を授けられ、これを勧進した両名にもそれぞれ朝臣の姓と従四位下と外従五位下の官位が授けられた。ところが、天平勝宝6年(754年)にはこの時の両名が薬師寺の行信と組んで厭魅を行ったとして位階と姓の剥奪と流刑に処せられた。
これは宇佐八幡宮の社会的影響力の増大が、皇室と律令制・鎮護国家が形成する皇室祭祀と仏教を基軸とする宗教的秩序に対する脅威になる事を危惧したからだと考えられる。翌年には宇佐八幡宮から再神託があり、先年の神託が偽神託であったとして封戸の返却を申し出たとされている。これも朝廷からの宇佐八幡宮への圧迫の結果であると見られる。
このような路線確立に大きな影響力を与えてきた藤原仲麻呂が失脚して、仏教僧でありながら積極的に祈祷を行うなどの前代の男巫的要素を併せ持った道鏡が政権の中枢に立ったことによって、宇佐八幡宮側が失地回復を目指して道鏡側に対して接触を試みたと本説は解釈する。
後世への影響
神託事件にゆかりのある大阪府八尾市(道鏡の出身地)・岡山県和気町(和気清麻呂の出身地)・大分県宇佐市(宇佐神宮の所在地)は相互に姉妹都市となっている。
4「多賀城赴任はあったのか?」
宝亀2年(771年)閏3月1日に佐伯美濃が陸奥守兼鎮守将軍となり、苅田麻呂が安芸守となるまで半年ほどの在職期間ではあったが、その間は鎮守府のある多賀城に赴任していたものと思われる。
多賀城(たかのき/たがじょう、多賀柵)は、現在の宮城県多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡に指定されている(指定名称は「多賀城跡 附 寺跡」)。
奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃までの東北地方の政治・軍事・文化の中心地であった。
なお、周辺はかつて「潟の世界」が想定されていたが、1,900~1,500yrBP.にはすでに潟湖的環境は存在せず、かつて「潟」が存在した証拠の一つと例示された砂押川最下流部の「塩入」「塩留」「塩窪」などの地名についても再検討されている。
奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため、軍事拠点として松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。
平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能した。創建は神亀元年(724)、按察使大野東人が築城したとされる。8世紀初めから11世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われた。第1期は724年 – 762年、第2期は762年 – 780年で天平宝字6年(762)藤原恵美朝狩が改修してから宝亀11年(780)伊治公砦麻呂の反乱で焼失するまで、第3期は780年 – 869年で焼失の復興から貞観11年(869年)の大地震(貞観地震)による倒壊および溺死者千人ばかりを出した城下に及ぶ津波被災まで、第4期は869年 – 11世紀半ばで地震及び津波被災からの復興から廃絶までに分けられる。
なお、多賀城の「城」としての記載は『日本三代実録』中の貞観津波が「忽至城下」が最後であり、翌貞観12年の日本三代実録では「修理府」、藤原佐世『古今集註孝経』の寛平6年(894)朱書「在陸奥多賀国府」ほか、「府」あるいは「多賀国府」と記載されている。
多賀城創建以前は、仙台郡山遺跡(現在の仙台市太白区)が陸奥国府であったと推定されている。陸奥国府のほか、鎮守府が置かれ、政庁や食料を貯蔵するための倉などが置かれ、附属寺院が設けられていた。
「坂上田村麻呂の群像」坂上田村麻呂家系と道鏡の関り。
縁起譚
坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。また彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、山梨県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にも残されている。
しかし、田村麻呂が直接行ったとは考えられない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の和歌山県や岡山県にも伝説が残る。特に多くの伝説が残されているのは福島県田村地方であり、生誕伝説から地名伝説そして寺社伝説に至るまで約80種類(うち30種類は寺社伝説)を数える。次に多いのが宮城県で約40種類(うち25種類は寺社伝説)の伝説が残されている。
寺社建立伝説
坂上田村麻呂が建立したという由緒をもつ寺社は宮城県の観音寺を中心に全国に100以上を数える。
平泉雑記
「奥州七観音」も参照
江戸時代の安永年間(1772年 – 1781年)に相原友直が仙台藩の風土を記した『平泉雑記』に「田村将軍建立堂社」の1節が設けられ、『封内名跡志』を参考に若干の例を加えた次の21例を挙げている。
「幼少期」、または三男として誕生。
坂上 苅田麻呂(さかのうえ の かりたまろ)は、奈良時代の公卿・武人。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。大和守・坂上犬養の子。官位は従三位・左京大夫。勲等は勲二等。
坂上氏は、代々弓馬の道を世職とし馳射(走る馬からの弓を射ること)を得意とする武門の一族として、数朝にわたり宮廷に宿営してこれを守護した。
天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵方に加勢するのを防ぐことを目的に、首謀者の一人である賀茂角足が事前に武勇に優れた人を集めて酒宴を開いた際、苅田麻呂も招待者の一人として名が挙げられている。天平宝字年中に授刀衛少尉に任官。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱が発生する。太師(太政大臣)・藤原仲麻呂(恵美押勝)が謀反との連絡を受けた孝謙上皇は、仲麻呂に擁立されていた淳仁天皇の中宮院(御所)に少納言・山村王を遣わし、皇権の発動に必要な玉璽と駅鈴を回収させた。
しかし、仲麻呂の命を受けた訓儒麻呂に玉璽と駅鈴を奪い返されたことから、勅命を受けた坂上苅田麻呂は授刀将曹・牡鹿嶋足と共に訓儒麻呂を襲い射殺した。この功により苅田麻呂は即日正六位上から従四位下と5階級昇叙の上、大忌寸の姓を賜与され、同年中に中衛少将兼甲斐守に任ぜられた。
さらに、翌天平神護元年(765年)正月には勳二等の叙勲を受けた。神護景雲2年(768年)従四位上に叙せられる。
宝亀元年(770年)称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、道鏡の姦計を告げて、その排斥の功績により、正四位下・陸奥鎮守将軍に叙任される。光仁朝では中衛中将を務める傍ら、安芸守・丹波守と地方官も兼ねた。なお、宝亀3年(772年)には大和国高市郡の郡司職に関して、代々郡司職にあった檜前氏(檜前忌寸)ではなく、ここ数代は別の氏(蔵垣忌寸・蚊帳忌寸・文山口忌寸)[3]が郡司職に任ぜられていることを上奏し、今後は檜前氏を郡司職に任じる旨の勅を得ている。
天応元年(781年)桓武天皇の即位後まもなく、正四位上・右衛士督に叙任。延暦元年(782年)正月氷上川継の乱に連座して解官されるが、同年5月には再び右衛士督に復職している。
のち、伊予守・備前守・下総守・越前守と地方官も兼ねる。延暦4年(785年)2月に従三位に叙せられ公卿に列す。
同年6月に一族は後漢の霊帝の子孫であるにもかかわらず卑姓を帯びていることを理由に改姓を上表し許され、一族の11世16名が忌寸姓から宿禰姓へ改姓する(嫡流の坂上氏は大宿禰)。
同年7月左京大夫に任じられた。
延暦5年(786年)1月7日薨去。享年59。最終官位は左京大夫従三位兼右衛士督下総守。
3「田村麻呂家系と道鏡の関り」
生年は田村麻呂の薨伝に記録された没年からの逆算。母のことは一切不明。父の苅田麻呂は31歳、生まれた場所についてもあきらかにされていない(出生節も参照)。
田村麻呂の生まれた「坂上忌寸」は、後漢霊帝の曽孫阿智王を祖とする漢系渡来系氏族の東漢氏と同族を称し、代々弓馬や鷹の道を世職として馳射(走る馬からの弓を射ること)などの武芸を得意とする家系で、数朝に渡り宮廷に宿衛して守護したことから武門の誉れ高く天皇の信頼も厚い家柄であった。
曽祖父の坂上大国は右衛士大尉として武官にあり、祖父の坂上犬養は少年期から武人の才能を讃えられて聖武天皇から寵愛されると左衛士督に昇り、父の苅田麻呂は武芸によって公卿待遇を与えられた。
しかしながら坂上氏は地方的豪族な存在にすぎなかった。そのため大国から苅田麻呂までの3代は氏族の没落を防ぐ試みに全力を尽くし、武人の供給源という特性を坂上氏の特徴にまで育てあげると「将種坂上氏」として武芸絶倫という家風を確立し、田村麻呂とその兄弟は幼少期から武芸を好むよう教育された。幼少期の田村麻呂については史料こそないものの、宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位すると、父・苅田麻呂が道鏡の姦計を告げて排斥した功績により同年9月16日に陸奥鎮守将軍に叙任されている(宇佐八幡宮神託事件)。
「坂上田村麻呂の群像」 各地の坂上田村麻呂の伝承。
東北地方
青森県
青森ねぶたは昭和末期までは田村麻呂の蝦夷征伐が起源と言われていた。もちろん史実の上では現在の盛岡市までしか北上していないことになっているが、青森市内には蝦夷征伐が行われたこと伝える史跡が複数残っており、いずれかの人物が来た可能性は高い。
文室綿麻呂は811年に蝦夷大征伐を行っておりその大半が田村麻呂没後である。 この前年、薬子の変にあたり誤認逮捕されていた綿麻呂が田村麻呂によって解放されたことから、綿麻呂自身がみずからの戦功を田村麻呂に捧げたとも考えることができる。
岩手県
「大武丸」も参照
気仙郡の猪川観音(長谷寺)、小友観音(常膳寺)、矢作観音(観音寺)の気仙三観音の勧進由来では、大嶽丸の残党と目される三鬼の残党の退治譚が記される。
宮城県
宮城県白石市斎川の古将堂の勧進由来では、田村将軍が東征の際に、悪路王や赤頭という荒土や丹砂を塗って化けた妖魁を鈴鹿御前の援助で討伐したので、この地に2人を祭祀したとある。
秋田県
秋田県三種町と能代市にまたがる房住山では、鬼面と呼ばれる阿計徒丸、阿計留丸、阿計志丸の長面三兄弟が住み、眷属を指揮して良民を苦しめるも、坂上田村麻呂将軍に倒された。
将軍が房住山で鬼の慰霊法要をしていると、東の山上から日高山の麓の洞穴に逃れ生き延びた阿計徒丸が目を覚まして「身の丈1丈3尺5寸ある大長丸(おおたけまる)と申す」と叫んだ。
山形県
山形県では『奥羽観蹟聞老志』「長谷堂城の項目」や、長井市の總宮神社などに田村麻呂による建立としている寺社は確認出来るものの、田村語りに関連した伝承は皆無に等しい。阿部幹男は、阿玉桜(伊佐沢の久保桜)は、かつて山形県でも田村語りが語られていた痕跡ではないかとしている。
福島県
郡山市田村町の田村神社では『鎮守山縁起』に取り込まれている。田村郡では大滝根山が、白河市付近では国見山が鬼神や大武丸の住みかとして設定された。
関東地方
関東地方では、茨城県鹿嶋市鹿島神宮、那珂市上宮寺、城里町桂地区下野達谷窟、栃木県矢板市木幡神社、将軍塚、那須烏山市の星宮神社、大田原市那須神社、群馬県三国峠田村神社、埼玉県東松山市正方寺などが挙げられる。
埼玉県
「風洞の字名」も参照
東松山市では、大同元年に田村将軍が正法寺の岩殿観音に祈願して毒竜を退治し、弁天沼に首を埋めたという話が残る。
同様の話は児玉郡美里町でも田村麻呂による大蛇退治として語られ、その際に美里町小茂田・沼上・十条・阿那志・古郡の5か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって(北向きに)祀った、北向大明神とか北向神社と称される神社を建立。
中部地方
中国地方では、山梨県富士吉田市小室浅間神社(冨士山下宮)、長野県安曇野有明山、長野市松代町西条清水寺、若穂保科清水寺、諏訪市諏訪大社、静岡県浜松市岩水寺や有玉神社が挙げられる。
長野県
長野県の安曇野をはじめ松本盆地一帯には田村麻呂が魏石鬼八面大王を妻の紅葉鬼神ともども征伐したという伝説が広く残されている。
これは『信府統記』「第十七」の記述に基づく伝承であるが、『仁科濫觴記』に見える田村守宮を大将とする仁科の軍による八面鬼士大王を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられている。
近畿地方
近畿地方では、三重県亀山市片山神社、滋賀県甲賀市田村神社などが挙げられる。
鈴鹿山脈は古来より交通の要所であり盗賊が横行したことから鬼や賊の伝承が残されている。田村麻呂が鈴鹿御前や鈴鹿山の鬼神・大嶽丸を討伐した話として『鈴鹿の草子(田村の草子)』、奥浄瑠璃『田村三代記』を通じて坂上田村麻呂伝説が広く知られている。鈴鹿峠を滋賀県側へ下ったところに坂上田村麻呂公を主祭神とする田村神社が鎮座する。
三重県
「金平鹿」および「藤原千方の四鬼」も参照
熊野の周辺では鬼ヶ城伝説を中心に泊観音(清水寺)、大馬神社などの縁起に坂上田村麻呂伝説が残されている。
熊野近くの南牟婁郡御浜町尾呂志でも、鬼ヶ城で鬼の首魁や手下を討伐した田村将軍が四鬼の窟に棲む鬼を征伐したという伝承が伝わっている。
滋賀県
甲賀市には、鈴鹿山の悪鬼を平定した田村麻呂が残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。
矢の落ちたところに自分を祀れ」と言われ、矢の落ちたところに本殿を建てたとされている田村神社や、鈴鹿山の山賊討伐の報恩のために堂宇を建立して毘沙門天を祀ったという櫟野寺がある。東近江市には十一面観世音菩薩の石像を安置して鬼神討伐の祈願をした北向岩屋十一面観音、討伐した大嶽丸を手厚く埋葬したという首塚の残る善勝寺がある。
中国地方
中国地方では、岡山県倉敷市児島由加神社などが挙げられる。
岡山県
岡山県倉敷市児島由加にある由加山には、この山を根城とした阿久良王[注 3]という妖鬼を退治にきた伝説が残る。通生の浦へ船でやってきた田村麻呂は神宮寺八幡院で7日7夜に渡って鬼退治の祈願をしたという。
岡山市南区および玉野市の金甲山は、田村麻呂が由加山の鬼退治に向かう際に、戦勝を祈願して神の峰に金の甲を山頂付近に埋めたという伝承が名前の由来とされる。ふもとの円通寺の竜王様に戦勝御礼として金の甲を奉納したという。
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