http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/judi/semina/s0605/na014.htm 【大衆と芸術~芭蕉のあり方】より
不易流行
『悪党芭蕉』という本があります。著者は嵐山光三郎さんで、なかなか面白い本ですのでみなさんにもお薦めします。
この本は「不易流行」をキーワードにしているのですが、不易とは永遠に変わらない原理で善であり、流行は刻々と変化していくことで悪であるという風に一般に捉えられています。この不易と流行も、環境やデザインを考える上で、しばしば考えなければならないと私は思っています。
金澤さんの発表にも、こんな風に読めるところがあったと思います。
文芸家(芸術家)としての葛藤
「悪党芭蕉」の話を続けますが、文芸家(これは芸術家でもあるのですが)はいつも葛藤があるという話です。この本では芭蕉は不易流行を引用しながら、その本心は不易ではなく流行の方にあったとしています。流行こそが俳諧の味わいの命であって、不易は付け足しに過ぎないという認識です。
だから、俳諧は不易(=善)と思われがちですが、不易つまり悟ってしまうと文芸家は成り立たない、芸術家はいつまでも流行の側に身を置いている必要があるという理屈です。不易=永遠に変わらない原理に芸術家が到達してしまうと、もう作品は作らなくてもいいということになってしまいますから。
芭蕉はこんな矛盾をアウフヘーベンして不易流行を説いたのですが、本心は流行(=刻々と変化していく側)にあったんです。そこがなかなか難しい問題だったのではないかと思います。
「軽み(かろみ)」のねらい
芭蕉は晩年には、俳諧における「軽み」を主張しました。軽みは「率直な自然観賞による平明な読み」だとされています。軽みの対極にあるのが「重い句」で、古典的な短歌のように花鳥風月に託していろいろと脚色した派手な俳句のことです。
派手であでやかなものを良しとする世界なら、俳諧はどうしても短歌の下位に位置することになるでしょう。だからこそ芭蕉は「高く心を悟って俗に還る」必要があったのです。侘び・寂びの世界です。「甘みを抜け」とか「軽みの句を書け」と芭蕉は主張するようになったのです。
「軽み」では芸にならない
このように芭蕉は「軽み」を主張しつつ、句集を編んだりしていました。「奧の細道」を書いた頃は、そうした軽みを表現するためのまっただ中だったようです。
ところで、芭蕉は「句が巧い人は人格に欠け、人のよい人は正直だから巧い句が詠めない」と言っています。だから、芭蕉は句と人格の一致を求めて「軽み」にたどり着いたのですが、門弟達には不評でした。「軽みでは芸にならない、人が集まらない」というわけです。
この頃、俳諧師は、興行師のように人を集めた宴会の中で俳句作りをリードしていく存在でした。「面白い」とか「あでやかだ」という作品が出る所に人は集まってくるのだから、芭蕉の言う平明な「軽み」では人を集めにくいというのです。こんなことを言って、門弟の重鎮たちは次々と芭蕉を批判して離れていってしまいました。
しかし、何百年も経った今になってみると、離反した人たちの俳句は残っていません。結果的には芭蕉の句が芸術として世に残ったのですが、当時は芭蕉も世の中の風潮と闘っていたのです。デザインも実はそういうことではないでしょうか。
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