facebookSammaditthi Asakuraさん投稿記事
心が変われば態度が変わる。態度が変われば、行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、運命が変わる。運命が変われば、人生が変わる。-古代インドの言葉より-
すべての始まりは心からです。瞑想で心を良き状態にたもち明るく笑顔で過ごすようにして、素晴らしい人生にしましょう。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」仏陀の言葉より
https://gakuen.koka.ac.jp/archives/467 【ものごとは心にもとづき、心を主とし、
心によってつくり出される。中村元訳(『真理のことば』1-1)】より
『真理のことば』(一般に『法句経』と呼ばれる釈尊の初期経典の一つ)の冒頭を飾るこの文章の中に人間存在の基本原理が簡潔に表明されている。ものごととは、私たちが毎日経験し、また目にしている生死・善悪・愛憎・苦楽・幸不幸・・・の悲喜劇すべてをいう。そして、これら二元性は私たち自身の心から生じてくるというのだ。とりわけ意外に思われるかもしれないが、生死さえ心より起こるのだ。しかし、仏教はこの二元葛藤するサンサーラの世界(生死輪廻する世界)にあって、いかにうまく世渡りをし、生き延びるかを説いているのではない。むしろ、これら二元性が生じてくる心に誑(たぶら)かされ、どちらにも執着してはならないと教えているのだ。さらに言うならば、心によって私たちは天国から地獄までも作り出すが、夢(心が投影したもの)に実体がないように、いずれも幻影の世界であり、人間界もその一つに過ぎないのだ。だからと言って、釈尊をはじめ、古の聖賢たちはこの世界を離れたどこかに二元性を超える一真実の世界を求めたのではない。要は、心が消え去るならば、生死をはじめとする二元葛藤する世界はあるだろうかということだ。果たして、心を除き、真理に目覚めた覚者(仏陀)たちの目に、この世界はどのように映っていたのであろうか・・・。(可)
https://shakuryukou.com/2020/12/29/buddhism12/ 【ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される―お釈迦様のことばに聴く】より
一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。―車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。―影がそのからだから離れないように。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P10
いよいよこれから『真理のことば』を読んで参ります。
上に紹介したことばはまさしくこのお経のトップバッターです。このことばからお経が始まっていきます。
皆さんもこのことばを読んで感じられたことと思いますが、非常にシンプルでわかりやすいですよね。
ことばの最後に「車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように」という風にたとえ話があるのもありがたいです。これがあることでより話がイメージしやすくなりますよね。お釈迦様はたとえ話の達人でこの後もこうしたたとえ話がたくさん出てきます。
『真理のことば』は読みやすく、誰でも簡単に親しめることから世界中で愛読されているお経です。こうした簡潔でわかりやすいことばが最後まで続いていくのがこのお経の特徴です。
さて、今回紹介したことばは仏教の基本的なものの見方を表したものになります。
「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。」
私たちは私たちの外に実際に世界があると考えてしまいますが、お釈迦様はその見方に少しだけ注釈をつけるのです。
「たしかに私たちの外にものはあるかもしれませんが、それを実際に見て感じているのはあなたの心です。もしあなたの心がなければそれを見て感じることもできないのです。」とお釈迦様は述べるのです。
これは一見当たり前のようですが、よくよく考えてみるとたしかにこれは難しい問題です。
たとえばリンゴが目の前にあったとします。
私たちはそれを見て、「ここにリンゴがある」とわかるわけです。
ですがもし私が目が見えなかったり、このリンゴにまったく気づかなかったとしたらこのリンゴは私の知っている世界には存在していないのと一緒になってしまうのです。
私が今見て感じている世界は、私が知っている世界でしかない。もし私がそのリンゴに気付かなければ、たとえリンゴがそこにあったとしても、私の世界にはそのリンゴは存在しないということになるのです。
言い換えれば、私の知っている世界は私自身しか知らない世界なのです。世界中の人が私と同じ世界を見ているわけではないということなのです。
さらに言えば仮に同じリンゴを見ても、実は人それぞれリンゴの見え方が違います。目の見え方によってリンゴの細かい形や色はひとそれぞれ違って見えます。リンゴは赤くて丸いと言っても、厳密に言えばその赤みや丸みは人によって違って見えているのです。今はリンゴを例として挙げましたがこれは世界のあらゆるものに当てはまります。
こういうことから自分たちの外にある世界というのは絶対的なものではなく、世界は私たちの心が作り出したものだという考え方が生まれてきたのです。
そしてお釈迦様が仰るように「もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う」ということにもなり、「もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。」というその人の心の在り方によって人生が苦悩に満ちるか幸福になるかが決まっていくということになるのです。
以前紹介したショーペンハウアーが『人間の幸福は「外部のもの」ではなく「自身のあり方」にある』と述べていたのもここに根があるのです。
私達の外にある地位や富、名誉、パートナーが幸せをもたらすのではない。幸せを感じるかどうかは自分の心のありようにかかっている。いくら地位や富、名誉があっても心は満たされることはない。だからそこに幸せはないのだと彼は述べるのです。
自分の心によって世界が変わる。
これが仏教の基本的なものの見方です。
ではどうやってその心を磨いていくのか、どうすれば苦しみを減らすことができるのか、それをこのお経でこれから説いていくわけです。
『真理のことば』のトップバッターが「心が世界をつくる」というのは非常に意義深いものであるなと私は感じました。
以上、「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される―お釈迦様のことばに聴く」でした。
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