高橋修宏の俳句表現をめぐって

https://note.com/muratatu/n/n62c8983e9453【高橋修宏の俳句表現をめぐって Ⅳ    第三句集『虚器』 ――呪術的祝祭韻律の地平】より

武良竜彦(むらたつひこ)

1 俳句の本来的なデザイン思考による独創的脱構築

 第三句集『虚器』は、第一句集『夷狄』、第二句集『蜜楼』という大いなるステップを踏んで、成し遂げられた固有の創造的世界が確立した句集だといってもいいのではないか。

 高橋修宏の第一句集、第二句集をめぐる拙論では、彼の『真昼の花火』という現代俳句評論集については触れなかった。それを精読すれば、彼が敬愛した俳人の作家論、作品論の中に、先人または同時代人としての、現代俳句たらんとする表現意識の共有化、共感の内に同様な試みをしてきたという来歴が覗える。

 彼の俳句との出会いは高校時代に、西東三鬼の俳句に瞠目した体験から始まっているようだが、学問的には考古学・人類学の道を選び、文学では詩作の道に入ったという。そして文学的才能はそこで開花し、評価を得た後、俳句の世界にも足を踏み入れたという来歴を持つ。

 彼の青春時代、現代詩の表現に取り組んだ者は、社会学、哲学思想、美学などを視野に入れた、現代文学の可能性についての、世界的な水準における思潮の影響を色濃く受けている。彼の俳句世界に視野の広さと表現の多様性が感じられるのは、その来歴ゆえだろう。

彼が『真昼の花火』で取り上げた敬愛する俳人たちに、自分と同質の表現思想を感じ、その良質の部分を自分の詩的感性で徹底的に磨き上げて創造したのだということが判る。

 俳句で師事したのが三鬼の流れを汲む鈴木六林男だった。同じ流れに属する高柳重信の新興俳句系の俳人たちも、ほぼ同じ流れの中に居る。師である六林男の俳句からは、その戦争俳人というレッテルを引き剥がし、「ある意味で〈戦争〉を欲望する人間の無意識の領域にまで触れようとする非戦の思想と呼ぶべきもの」を引き出している。厭戦、反戦というスローガンではなく、兵士として参戦させられて、深々と疵を負った者でなければ立ち上げられない、戦場における日常的な兵士の内面世界まで描きだしている視座に、「戦争」を季題的に扱うことを峻拒する表現者としてのラジカルな姿勢を見出している。

 季語についても六林男の「季語情況論」は季語を排除することで自由を手に入れようとする姿勢ではなく、その内部から脱構築してゆく方法=思想(技術)を評している。

 宗田安正が自称する「回生の秘儀」については、「〈私神話性〉とも呼ぶべき優れてフィクショナルな仮構された場所」と「定義」して、それがそのまま彼の俳句世界という場所を示す言葉になっている。この〈私神話性〉という独自のキーワードは、表現が強度と固有性を獲得する上で重要なものであると見做している彼独特の視座である。

 和田悟朗の世界には「身体化された太古への想像力」を見出し、それを自分の俳句世界でより徹底し深めている。津沢マサ子の世界には「虚無の果てに現れる日常の変容」、柿本多映の世界には「歴史的記憶の深層にひそむ闇を汲み上げようとする表現主体」、久保純夫の世界には、天皇、国家という「禁忌の場所」への侵犯を、それぞれ読み取り、自分の俳句世界でより高度に成熟させる表現をしてきたことが判る。ひらがな韻律俳句はこの久保純夫俳句にも見られるが、高橋はそれを呪術的な祝祭感をはらんだ「ことだま俳句」的韻律へと磨き上げようとしているように見える。

 私は佐藤鬼房が創刊し、高野ムツオが継承した「小熊座」という俳句会に席を置いているので、六林男と同じ西東三鬼の流れを汲む鬼房の世界についての高橋の批評には、大いに共感するところがあった。事情は六林男と同じで、六林男が戦争レッテルなら、鬼房には辺境、みちのく産土俳句というレッテルが付いて回っている。高橋はそれをいとも易々と引き剥がしてくれる評文を書いている。中国大陸という戦場でつかの間の出会いをしたという六林男と鬼房だが、鬼房にも戦争体験俳句がある。これがただの戦場俳句ではない。それこそ神話的な幻視の俳句を戦場俳句で創作しており、それは一生続いている。その特性を指摘し評した文には、出会ったことがなく感動した。六林男と同じで、鬼房もある無意味で安易に読まれている。高橋が師の六林男論で成し遂げたことを、鬼房の流れの中にある私も、いつか成し遂げなければならないという自覚を促してくれたことを、ここに特記しておきたい。

 摂津幸彦の世界では、その独創的な「禁忌の場所」の侵犯の詩法について「俳句形式が〈現在〉の根底にふれようとする言葉=詩ほんらいのラジカリズム」であると評している。摂津の「南国に死して御恩のみなみかぜ」などの句は、戦後世代の戦争を知らないが故に俯瞰し普遍化し得た「御恩」というモチーフに対する視座が、そのことに躊躇いがあった戦中世代の重信や六林男に、その世界に踏み込む契機を与えたという指摘には瞠目した。私は摂津が重信と六林男に学んで切り拓いた世界だと誤解していたのである。順番が逆だったようだ。

 安井浩司の世界には、俳句表現にとって最も大切な問題、表現主体のことを熟考した批評を書いており、安井と摂津の往復書簡を考察して「真に創造的な主体」である自ら自身、自分という唯一人のためにある、純化された位相での表現の在り方に真正面から向き合う論考を展開している。

 第一句集『夷狄』はそうして学んだことを、独自の考古学的視座と、詩的な表現力によって、独創的に立ち上げ直そうとする試みがなされた、と見ることもできよう。第二句集『蜜楼』はその延長にある洗練化であったといえよう。相対化という批評性を持つ方法論の尖鋭化ではなく、言葉の血肉化、表現に強度を与える努力がされた句集であったとみることができるだろう。

本稿の論旨をそこに置いて、『夷狄』『蜜楼』も振り返りつつ、その二冊の句集との違いを含めて、『虚器』の固有性、独創性について述べてゆくことにしたい。

高橋俳句を読み解くためには、一語一語について、その原形質にまで思いをめぐらせる必要がある。彼が用いる季語も言葉も、その原形質が顕になるほどに白骨化、標本化して一句の中で脱構築的に用いているからだ。

『虚器』の表紙と第一章「灰の章」の巻頭を飾るのは次の句である。

  国生みのごと御不浄の初明り 

 この一語一語の原形質を取り出す試みをしてみよう。 

まず「国生み」という言葉。

「国生み」とは日本神話を構成する神話の一つで、日本の国土創世神話である。別天津神(ことあまつがみ)は 伊邪那岐と伊邪那美の二神に、まだ渾沌として漂っている大地を完成させるよう命じ、天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与える。伊邪那岐・伊邪那美は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌の大地を掻き混ぜ、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)が出来る。二神は淤能碁呂島に降り結婚し、「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどのという広大な殿舎)」を建てる。女性器は「成なり合あはざる処」と表現され、男性器は「成り余あまれる処」と表現され、国生みの「性交」は「成り余れる処を以て」「成り合はぬ処に刺し塞ぎて、国土生み成さむ」と表現される。

 聖書では神の遺志である「言葉」による命令によって、光が生まれ天地が分れて存在し始めるが、日本神話では男女神という性別を持つ神の「性交」によって国土が産まれる。神のご意志や命令という一神教的認識ではなく、複数の「神さま」たちが、最初は失敗しつつ手探りで国土の島々を生んでゆくのだ。言うならば、極めて権力分散的である。国土を生む母体の女性器が「成なり合あはざる処」という欠落的空洞感のある表現になっているところも興味深い。「成り余あまれる処ところ」という余剰性を纏う男性器の補填で日本国土は生まれたようだ。

 日本神話の中空構造を解き明かし、それが現代に至る日本人の深層心理にまで継承されていることを指摘したのは心理学者の河合隼雄だが、河合隼雄とは別の視点から日本の「表徴」における「空虚」性を指摘しているのはロラン・バルト(『表徴の帝国』)である。バルトは東京という都会の中心に「皇居」という空虚な空間が存在することを始め、日本の文化の在り方に同様のものを見出す考察をしている。「作者の死」の一編を収めた『物語の構造分析』、さまざまな文化、慣習を分析した『神話作用』などの著作を持つバルトの『表徴の帝国』は、表徴性からみた日本の俳句などの構造にもその視線が届いている。

 そういったことも想起される句集名の『虚器』という命名に、高橋修宏の時空を超えた視座が感じられる。「虚」の別の句に次がある。

  水母喰う母の子宮の虚かな

 日本という「国」はこの「虚」なる「子宮」から生み出されたのである。途中、話が逸れたが以上が掲句の「国生み」という言葉の原形質だろう。

 次は「御不浄」の原形質。

 これは予め「国生みのごと」と形容されている。「御」は丁寧の接頭語で「不浄」だけの意味だと、重要語義順に言えば、先ず「けがれていること」、また、そのさまという語義が先に来て、次が女性の月経、次が大、小便で、最後が 便所で、「御」の接頭語がついた「御不浄」は便所の語義となる。こう呼ばれてはいるが、『世界大百科事典』には「原始古代の神聖観念には、崇高、清浄、偉大、強力など畏敬すべき神聖のほかに危険、邪悪、汚穢など忌避すべき不浄な神聖も含まれており、基本的には異常な神秘として日常から隔離され俗的扱いを禁止される意味をもつ。その意味から日本語でいう〈清浄〉も〈不浄〉も単なる衛生観念ではなく、共に事象の神聖なあり方をさし、それへの対処には宗教的に特別の配慮を要する。」という注目すべき記述がある。

 以上のように、この語の原形質には今の私たちが常識としている心象とは随分違うことが含まれていたことが判る。

 最後は「初明り」の原形質。

 新年の季語で元日の明け方の光。ただの朝日ではなく神々しく厳かな空気感の中で、山陰や森の陰などから差し初める曙光の語義がこの原形質だろう。初めてのもの、地平から表れて遍く天地を照らすものとして、「初明り」は二重の、いや最上級の光輝と尊厳を持つ言葉であり、それがこの語の原形質なのだ。

 以上のように各語の原形質を発掘してきて、もう一度通して鑑賞してみよう。

  国生みのごと御不浄の初明り

 国土を造るようにして昨年までの胎内の蓄積物を排泄すること、またはその場所が、一年の始まりの厳粛な光の中で輝いているさまという、これまでみたこともないようでありながら、゛とこか懐かしい気配の光景が浮かび上がってくる。

 この句については、「国生み」という神話的な言葉を不浄のもので形容することで相対化し、私たちの常識化された感性に揺さぶりをかけている句だという評が大半を占めている。それも妥当な評の一つであり、句集『夷狄』『蜜楼』までの作者には、そんな主題性への志向が感じられ、読者もそのように読み取ってきたはずだ。

 だが、私はこの句に対して、『夷狄』『蜜楼』の句と評とは違って、批評性が奥に引っ込み、別次元の表現の時空を創造していることを感じる。脱構築的手法が、言わば新たなデザイン思考による再創造というような表現へと変容しているように感じるのだ。

 高橋が二つの句集で切り拓いて見せた現代俳句の新しい地平の表現方法は多様である。その根幹をなしているのは考古学的な永い時間軸を持つ視座で、現代を脱近代的に相対化する表現方法である。それが第一句集『夷狄』の予言性や変容性という表現を支えている。

 そして現代思潮的な脱構築の表現手法も、私たちを縛っているパラダイムやバイアスを相対化し、揺さぶり、そこから解放してくれる表現に繋がる。それが端的に表れているのがキーワード「すめらぎ」俳句における聖域・神聖なるものの相対化である。言葉の網羅性、博物学的志向が、逆に言葉が吟味、厳選された主題性の表現となっていることも一つの特性だろう。

このような視点から、これまで『夷狄』『蜜楼』を評してきたが、それは彼の作句に向かう姿勢、精神的背景の説明になってはいても、完成した作品世界の構造の評にはなり得ていないのではないか、という思いが付き纏っているのを感じた。

 そして彼には考古学の素養と、もう一つ、今の仕事のデザインという美学的視座があるということを考えているうちに、彼は世界をデザインし直しているのであり、その視点で作品を構成していっているのでは、と思うに至ったのである。

 それを強く感じるのは先ず三冊の句集の装丁である。

 三冊は同じデザインで、銀や金そして白い本体の表紙に、その半分の面積を占める大きさの黒帯である。並べてみるとその下部を占める黒帯のせいで重厚な建物のように見える。少しずつ諧調の異なる三棟の建物。なにやら知的でありながら不穏な雰囲気を醸し出す建物群。

 キュレーションを異にする展示物を備えた三種類の博物館といったらいいだろうか。その三棟の博物館の運営者の統一された意図に基づく、異なる三種の展示物を持つ博物館。『夷狄』『蜜楼』『虚器』の三冊を並べてみるとそんな印象を抱く。

 優れて本来的な意味においてデザイン的なのである。

 もちろん、句集の装丁というものには作者の思いが反映され、それぞれの意匠が凝らされていることが多い。だがここまで徹底した訴求力を感じる句集の装丁はあまりないだろう。本の装丁のレベルを超えたものを感じる。本だから編集という概念で括ることも可能だろうが、編集はある目的をもった意図に向けて内容を整えるためのものだ。

 やはり彼の句集の装丁と内容は、ある美意識をもって表現に新しい形を与えようとするデザイン思考というものがあるのではないか。

 一般的にデザイン思考とは、デザイナーがデザイン業務で使う思考のプロセスを活用して、前例のない問題や未知の課題に対し、最も相応しい解決を図るための思考法だという。

 しかし、そもそもデザイン(design)とは、「ある計画を記号に表す」という意味のラテン語designareを語源としており、審美性を根源にもつ計画的な行為全般を指示するものである。

 さらには、前例や固定概念、バイアスといったものを一切排除して考える思考方法であり、現在の状態をより好ましいものに変えるべく行為の道筋を考案することである。それには次のステップがあるという。

 変動…変化の質・大きさ・スピード等が予測不能であること。

 不確実…これから起こる問題や物事が予測できないこと。

 複雑…数多くの原因などが複雑に絡み合っていること。

曖昧…物事の原因や関係性が不明瞭であること。

 このような認識のもとに、共感、問題定義、アイデア創造、試作、テストを繰り返して実証してゆく思考のことだとも定義されている。

 彼は企業や自治体のさまざまなジャンルのデザインや、芸術分野では例えば詩や俳句をビジュアル表現化した展覧会を開くなどの多彩なデザイン活動を行ってきた。このデザイン思考による創造性が俳句にも生かされていて、通常の文学にみられる生硬な批評性にのみ傾斜しがちな表現世界を、普遍的な創造の場へと変換しているようなところがあるように感じられるのだ。そういう意味で、

  国生みのごと御不浄の初明り

 この句は批評性よりも、私たちがこれまで見たこともなかった創造的な俳句の地平に誘う魅力と、その本来的な意味でのデザイン的表現方法の方が注目されるべきではないだろうか。

 この句が表紙と巻頭を飾る『虚器』という句集、その表題の「虚器」という言葉も、「虚しき器」というイメージだけではなく、むしろ「虚」であることの強度と豊穣を創造的に宣言している言葉と受け止められるべきではないだろうか。

 日本人が暮らしてきた国土なるものは国生み神話でいうところの、「成なり合あはざる処」という母体の女性器という「虚」なるものから生まれ、空なる美学のうちに豊穣な言葉の文化を生みだしてきた来歴を持っているのだから。

「ことだま」信仰は言葉に霊力を付与する文化的志向であり、器としての虚体に命を吹き込むのは「ことだま」の宿る言葉である。それが通常の会話や交流を目的とする言葉とは別次元の言葉であることを示すために、特殊な韻律化が施されて、まさに祝詞や歌謡という様式が与えられていった。俳句はその末裔の言葉である。

 高橋俳句は俳句にその呪術的霊力を蘇生させようと、デザインし直しているといえるのではないか。

 今仮に、それを「ことだま俳句」的手法と呼んでおきたい。

  国生みのごと御不浄の初明り

 こうして一句の中に再構築されると各語が自己更新して、まったく違う「景」を語り出す。

 経済活動分野の商品デザインなどでは、「前例のない問題や未知の課題に対し、最も相応しい解決を図るため」という問題解決という目的や、「現在の状態をより好ましいものに変えるべく行為の道筋を考案する」というような目的性を持った思考方法が取られるようだが、芸術分野である俳句の表現方法におけるデザイン思考の場合には、そんな社会貢献的な目的はない。

 芸術は何かのためになされる創造行為ではなく、創造するという個々の芸術家の、自己のすべてを傾注する行為自身が、そこにそうして自分が生きて在ることの実在的証し立てであり、それ以外の一切の目的を持たない行為である。

 この句に引き付けていうならば、それは排泄行為という生の根源的な事象を、原初的命の輝きの中にデザインし直す表現が為されているということではないだろうか。

 そして句集名の「虚器」という言葉に引き付けていうならば、そこに込められた主題性はまさに「虚」の「器」であることの表現に他ならないが、何も無いという「虚無」の意味ではなく、虚としての実であると同時に、実である虚としてデザインし直す脱領属的な作品行為自身が、この句集の本当の主題性ではないだろうか。

2 ことだま俳句―呪術的祝祭韻律へ

以上述べたように、『夷狄』『蜜楼』と『虚器』では、作者の俳句創造に立ち向かう姿勢が明らかに変容してきているといえるのではないか。前章でその変容の一例として、批評性より創造性への変容であるように述べた。

そのことを、この三句集に共通に使われているキーワードを持つ句で、具体的にそのことを検証してみよう。

 

  方舟の零しゆきたるにがよもぎ          『夷狄』

  方舟に戻ることなき草の絮            『蜜楼』

     ※

  方舟の灰舞い昇れ茜空              『虚器』

 単純に三句の読後の印象を比較するだけでも、その調べのトーンの違いを読み取ることができる。

 前の二句は低音で短調風で昏い。

 だが『虚器』の「方舟」は燃え尽きてしまっているのに高音で長調風の明るい不思議な響きを感じさせる。モーツアルトのト長調曲の明朗さといったら言い過ぎか。昼間より暗い「茜空」なのに、その色彩の鮮やかさで祝祭的な幻景となっている。

 そう呪術的で祝祭的なのだ。

 前の二句の昏さは、かつての句集が大切にしていた主題性に準じて、言葉が企み深き批評性を持っている故だ。

だが『虚器』の「方舟」は炎上して崩落した熾火から天に向かって灰燼が舞い昇っている。無と化して、つまり「虚」なる自己を自覚した後の爽快感、解放感のステージへと読者を誘っている。

  地の割れて炎える磐舟出でゆけり

 この句にも同じ調べがある。「地の割れて」は震災を暗示する天変地異を指す言葉だ。つまりこれは彼特有の「震災詠」なのだ。震災後、俳句界に溢れた「震災詠」との位相の余りもの違いに瞠目する。

「磐舟」は「天磐舟(あまのいわふね)」のことだろう。「日本書紀」の神武天皇即位前甲寅年に、「天磐船に乗りて飛び降る者有りといひき」とあるように、高天原から下界に降りる際に用いた船とされている。掲句は大震災で発生した大規模火災で炎上した「磐舟」が、係留していた「この世という港」を出ていったという景で、神の御遣い船まで逃げだした大災害だった、という含意の句とも読めるが、その表現の仕方が祝詞的な韻律性がある。

 批評性が創造性に変容している。批評は論理を引き摺るが、創造的たらんとする言葉は、神に捧げる祝詞のように呪術的だ。

『虚器』を一言で評するなら、言葉が呪術的韻律性を獲得してゆく過程で生み出されてゆく創造の世界だ、といってもいいかもしれない。

  胞衣を脱ぎ原子の灯煌々と

 これが彼の書いたもう一つの「震災詠」であり、なんと原発事故禍詠なのだ。「にがよもぎ」という名のチェルノブイリの地に建つ原発事故を皮切りに、それ以降繰り返された原発の人類に対するエネルギー供給という恩恵と、それに倍する加害性の歴史的事実の重さについての、表層的な批評性は封殺され、その両面性を併せ持つ「原子の灯」を、「胞衣を脱ぎ」という、まるで初々しく悍しい生誕の場を寿ぐような言葉で「煌々」と輝かせている。どんな批評の言葉より、呪術的に深く私たちの魂に染み入り、私たちの内部の何かを揺すぶらないだろうか。

 呪術的、祝祭的時空に言葉を再生させ、まったく新しい、だれも見たことがなかった「景」が創造されていないだろうか。

 もう一つ原発事故禍を思わせる句を曳こう。

  核爆ぜる音は李の内部から

 日本の原発事故はメルトダウンという原子炉の溶融事故だったが、「核爆ぜる」は広島、長崎、そして福島という核禍に投網をかけた言葉だろう。その音が「李」の内部からしているという。「李」は『万葉集』にも「李花」の記述が見られ、古くから人々の生活に馴染んでいた果実である。「李下に冠を正さず」の諺の影響で、「疑惑」「誤解」の花言葉が生まれた。その反動なのか同時に「忠実」「貞節」などが附与され両義的な意味を持つ果実のイメージとなってきている。核というものの両義性とも呼応する言葉が選択されデザインされた句だといえるだろう。同じ核のイメージの句に次の二句もある。

  核沈め細菌沈め水澄める

  雪月花時には美しき茸雲

 メルトダウンした原子炉を大量の水で冷やし続けている景も浮かぶが、核が兵器でもあるように、「細菌」も兵器にもなる。二〇二〇年二月以降の「新型コロナウイルス」の世界的パンデミックを予言したような形なってしまったが、感染症を引き起こして大量の死をもたらすウイルスの感染を沈静化させようとやっきになる人類を他所に、大地の季節はめぐり、水は澄むのだ。

「雪月花」は見上げ、屈みこんで「観る」季節感として日本詩歌に詠まれてきたが、その感性のまま「原爆禍」を季語として詠んでしまう不気味さに、私たちは自覚的だが、そのことを二番目の句は顕在化させている。原爆の茸雲が、天から見下ろされている景に感じられて空恐ろしい。

 この二句も批評性が希釈されている代わりに祝祭的、祝詞的な韻律性を持つ「ことだま俳句」になっていないだろうか。

 『蜜楼』までに顕著だった天皇制の表現はどうなっているだろうか。

  雛の間天皇いまも立ちつくす           『夷狄』

  透きとおる天皇機関説よ秋

      ※

  蛇苺ここに国家のはじまれり           『蜜楼』

  尾の見えてすめらみことの更衣       

  おおきみのかたちとなりぬなめくじら

  ちちろ鳴く闇に天皇機関説

  行幸の枯野に伏せしはらわたよ

  すめらぎのすきまだらけの芒かな

  在りて無き桜の国の陛下かな

  まいまいとなる直前の帝かな

  なめくじり万世一系たどりたる

    ※   

  降る雪や現人神は永久に留守           『虚器』

  すめらぎの羽化する朝の外厠             

  すめらぎの巣なる早乙女の肉             

  すめらぎがすめらぎ殺め野火走る           

  流されし王戻り来よ土用波              

『蜜楼』までは天皇の神聖性を相対化しようとする主題性が覗える。

『虚器』では「現人神」という言葉のように、中空構造の日本神話を継承する日本文化自身の表現の方に重点が移っている。

「降る雪や」の句では「神の留守」という季語が「現人神」そっと差し替えられて希薄化することで、日本人の深層意識にまんまと定住を果たしているかのようだ。その上五を「降る雪や」という本物の季語で抒情的に埋没させるという念の入れようだ。

 二句目。今の皇居には「外厠」などはないだろうが、古代の便所は小川に渡した板に簡易な小屋がけをした「外」の施設だった。自然の中での蝶などの蛹の「羽化」のように、天皇の代替わりする様を、歳時記的に受け止める日本人の感性を印画紙に焼き付けているような表現だ。

 三句目。「すめらぎ」の営巣という鳥類や山野の獸たちの行為の拠点のような表現がされていて、そこに蓄えられた餌のような表現で「早乙女たちの肉」と表現される。「早乙女」という言葉の原形質は、稲の苗を水田に植えつける女性にあり、特定の水田に祭場を設けて田の神を迎えて行う一種の神聖な祭儀であった。稲の豊作が女性の霊的な力によってもたらされるという信仰があり、「すめらぎ」はそんな観念を香餌とする存在なのである。掲句は「すめらぎ」の聖性の相対化よりも、その両義性を持つ肉感的な祝祭韻律の中に置き直しているようだ。

 四句目。皇族間の主導権争いのようにも読めるが、代替わりの儀式は前天皇の死を待って行われることも含む表現だろう。死の儀式化による皇権の継承なのだ。下五の「野火走る」は春の初めに野原などの枯れ草を焼く火なら春の季語で、野山における死の儀式化された再生への行為である。もっともこの語には野山の不審火や、野の火事の語義も含まれている。「野火」はそんな多義性の中の炎である。

 最後の句。皇族間の覇権争いで遠い島に流刑になる王や、王になりそこねた皇族もいる。季節の変り目の遠洋の台風が起こす「土用波」のごとく、彼らの亡霊、怨霊のような記憶が本土の縁の海岸に打ち寄せている。

 このように『虚器』では聖なる「すめらぎ」の空無性が、日本的自然観の韻律に再構築され、呪術的な「ことだま俳句」として表現されている。批評意識をもって相対化する手法の表現が希釈された分、いっそう強度と深度を増しているように感じられる。

 少し過剰な評言になってしまうかも知れないが、祝祭的な韻律化とは、相対化より徹底したラジカリズムを包含する「無化」である、というふうに言えないだろうか。

3 俯瞰される原郷的空間とカオス化する時間

『虚器』のもう一つの特徴は、『蜜楼』までにも天体を用いた俳句が数あったが、その表現が俯瞰的なパースペクティブを持つ視座の方へ力点が移っているようにみえる点だ。

 最初に『蜜楼』における天体関連語が使われた句を揚げる。

  月の出の木に絹糸の戦ぎおり

  轟々と月光の降る柱かな

  天高し地球に戻る弾のあり

  天体の縮めば水母脹らむや

  地球より出る細胞の鬨の声

これらの句を私は次のように評した。「近代化後の日本人の集合的無意識の変遷のありようが描き出されているように読める。天体はその意識そのもので(略)『歳時記』的抒情から際限もなく変容する『今』のそれである」と。

『虚器』の天体語俳句を読んでゆこう。

  望遠鏡覗けば地球呑む海星

 この「望遠鏡」は地球の陸地からではなく、宇宙空間の天体望遠鏡的である。視座が俯瞰的であり『蜜楼』までの天体語俳句にはなかった表現である。

  零を生む銀河の中の薦枕

「薦枕(こもまくら)」は真菰を束ねて作った枕のことで、旅寝で使う即席の枕という語義を持つ。前近代的な旅寝の漂泊感が「銀河」という天体的視座の中に置かれていて、限りなく「零」地点的な存在へ注がれる俯瞰的パースペクティブが感じられる句だ。この視点も『蜜楼』までの句集には見かけなかったものだ。

  降りそそぐ銀河の絶えて苔の花

 この句では夜空に見える「銀河」がもう「絶えて」いる。私たちが見上げているのはその残光というわけだが、「銀河」端っこの「地球」はまだ永らえて、その片隅に「苔の花」が咲いている。このように視点が宇宙から地上のミクロな命へとズームアップされる表現で、この儚さ、孤立感ゆえのかけがえのなさまで感じられる句だ。このような宇宙規模の壮大でかつミクロな抒情性も、『蜜楼』までにはなかったものだ。

  王蟲とその死後膨張よ銀河まで

「王蟲」はなんと読めばいいのか。おうちゅう、おうむし。

 本来「虫」といえば主に昆虫やそれ以外の陸上生の節足動物や様々な無脊椎動物を指す。だが「蟲」旧字体で表記した場合は「虫」に限らず、「虫」とは思われないネズミ・爬虫類や両生類など一部の脊椎動物をも含んだ表現になる。そこで想起されるのが、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』をはじめ、フィクションでは巨大昆虫や、昆虫型モンスター全般を「蟲」と呼ぶことが多いことだ。それに「王」が付いている「王蟲」である。作者の意図は計り知れないがここでは、宮崎駿に倣って「オウム」と読んでみたい誘惑に駆られる。するとその語韻からさまざまなことが想起されるが、それについて述べるのは控えておこう。いずれにしろ「死後膨張よ銀河まで」という表現で、この惑星の終末後の宇宙的時間がこの句の奥に広がっていることは確かだろう。

  地球へと戻りし脳は苔むす無

 地球という呪縛の引力に地上のあらゆる物は逆らえない。地球に生まれて死ぬという閉鎖性を超越しようとして、元々、私たちの「脳」を含む認識という存在の由来は宇宙の果てにあったはずだ、という思いが滲む。まるでその想念に宇宙を取り込めば、「苔むして無」と化すこともないはずだ、と。『蜜楼』の句「天高し地球に戻る弾のあり」の「地球に戻る」のは地球人由来の「弾」であったが、この『虚器』の句の「地球へと戻りし脳」の由来は母星からはみ出し意識をもって、自ら一度は故郷を捨てたものの帰還である点が明らかに異なる。

  断食明け尿する音は銀河より

 飽食の現代の「断食」ではなく、宗教的起源のそれだろう。妊娠出産、死など、人生の中で繰り返し現れる危機において、その難を避けるために行われるのが宗教的断食である。出産の前後の妊婦やその夫の断食、家族が死んだときの遺族の断食など、紀元前のころから人間の習慣としてある行為だという。

 飲水だけは認められているから、掲句は食べ物の気配が消えた、文字通り「水」のように身体を洗ってきた「尿」であろう。下五の「銀河より」で、「断食」した主体は人間ではなく宇宙的生理現象の一つという意味に逆転する。「天の川」の畔で宇宙的「断食」修行をした神話的人格が放った「尿」のようだ。

  わが地球視ておる蛆のごときもの

 この句になって次第に、高橋俳句の宇宙的俯瞰表現の意図がおぼろげながら得心されてくる。天からの視座といえば、創造主たる人智を超えた聖なる神の「まなざし」だと思い込む、私たちの祖先から続くパラダイムの変換が意図されている表現なのだ。「蛆のごときもの」は、その視線の投げている宇宙的存在さえも、宇宙的汚物の中から「自然」に沸いてきたものの如くだ、というのだ。ということは地球も、わたしたち人類という存在も、そのようなものである他はない。

  はんざきの君や銀河を産湯とし

「はんざき(オオサンショウウオ)」は特別天然記念物で捕獲して食利用することは禁じられているが、それ以前は貴重な蛋白源として食用としていた地域も多く、「からだを半分に裂いても生きている」からとか、体表の模様が花柄のようにも見えることから「花咲き」から転訛したといった説もあるが、確たる根拠はない。「オオサンショウウオ」の名の方は、さばいた際に強い山椒の香りすることからついた名だともいう。進化を忘れた動物のひとつのような語られ方もして、多くの文芸の題材にもなっている。(井伏鱒二の短編小説『山椒魚』、つげ義春の『山椒魚』、カレル・チャペックの『山椒魚戦争』など)

私はここに作者の諧謔的自己投影の微かな匂を感じる。

  穂絮とぶ地球となのる浮島に

 やはり宇宙から地球を見ている視座の表現だ。地球が宇宙の中の「浮島」のように表現されている。「地球」とは地球人が作った言葉であり、それを名乗ることができるのは、そこに「穂絮」を飛ばして自己繁殖するような、自己承認をするものの行為である。 このような視座で人間存在自身の相対化の表現をした俳句は他にないのではないか。

  森羅万象悉く文字銀河かな

「文字」で切れる句だろうが、「文字銀河」という創作熟語的に鑑賞すると別の感興が湧く。わたしたちという「存在」意識は、博物学的辞書の中の複合語で構成されている。高橋俳句が創作されるときの超時空的足場を提供しているのも、その辞書である。

  藁灰となれば地球の闇親し

 藁というものは稲作で生じる副産物にするものだ。藁を用いて作る民芸的品々があるが、残りは焼いて灰にして田の土に戻す。掲句は藁が焼かれて「藁灰となれば」なのか、何か別のものが「藁灰」のような状態になればと言っているのか曖昧にされた表現だ。地球の闇が孕み包んでいるものの一端が表現されて、そこに何か親しみを見出している表現のようだ。これも俯瞰的表現である。

  

  樋の水抜かれ地球の寂かなり

 雨水の溜まっていた樋なのだろう。そこから水が抜かれてゆく。水の惑星地球から水を抜いているかのような景を思い浮かべてしまう。すると生物たちは死滅する。その果ての静寂か。

  硝子瓶音なく割れて銀河かな

 これは銀河の表現になっていて「硝子瓶」はもはや地球由来ではなくなっている。

 俯瞰的視座への傾斜は時間のカオス化を同時に引き起こす。「硝子瓶」が「音なく割れて」という様子は時間の表現だが、そこから音が抜かれると、破砕というよりゆっくり溶融し拡散するイメージとなり、時間が均等に流れている感じがしない。

 ここに引いた以外の句も時間軸が歪み溶融して、懐かしい昔の風景のようでもあり、その喪失感を丸ごと抱え込む現在でもあり、永劫という名の未来でもあるような表現がされている。俯瞰は空間と時間を遠望しカオス化させる視座だといえるのではないか。

『夷狄』と『蜜楼』には、考古学的視座による現在への過去の掘り起しという時間の溶融が表現されていた。

『虚器』では、そこに遠望的俯瞰という視座が加わり、祝祭的な多元時間性を持つカオス空間が浮上しているようだ。

『虚器』に収録された句が書かれた二十一世紀明けの激動の期間が、彼にその表現方法を切り拓かせたのだろう。

「後記」で彼はこう述べている。

   ※

(……)次々と生起した歴史のテクストに記されるような大きな出来事によって、それまで見えづらかった何ものかが一気に露出してきたことを感ずる(…)

   ※

 そんな時代と切り結ぶ表現をするためには、遠望的俯瞰という視座と、祝祭的な多元時間性を持つカオス的表現をもって対峙する他はないと思い定めたのではないだろうか。

4 禁忌の祝祭的韻律化による無化へ

 前掲の『真昼の花火』という現代俳句評論集の中で、「禁忌」ということについて述べられた箇所がある。国家や天皇制と自然観の中の「禁忌」が次のように認識されている。

   ※

(……)語ろうとすればするほど、遠ざかってしまうもの。むしろ、多くを語ることを禁ずることにおいて、その核心に近づきえるもの。たとえば、いかに論理化しても容易にたどりつけない「天皇制」や「国家」の闇。すでに私たち日本人の血から血へ流れつづけ、まるで歳時記の季題と同じく、ひとつの〈自然〉のように受けつがれつづける禁忌の場所(略)

   ※

 そのことを俳句の題材としている俳人もいるが、高橋は評論でこのように独自の視座を示している。このような認識上での表現に向かう方法論の明確化によって、それらの題材、結果として『虚器』で開花するにいたる彼の独創的表現に繋がっていったといえるだろう。

 この方法意識の一端も前掲書の続きのくだりに記述されている。

   ※

(……)俳句形式のオリジナリティは、その近代的な消極性ゆえに、脈々と受けつがれつづける歳時記という〈自然〉の中に詩的小宇宙を創り出すことを可能にした。しかし、それは一方で〈自然〉と化した禁忌の場所を侵犯しうる契機も逆説的に胚胎させていることを見落としてはなるまい。

   ※

 この方法論的な認識から、季語を含む多様な言葉を、考古学的に発掘し、「白骨化」するまで標本化し、言葉の原形質を取り出し、位相の違う組み合わせによる脱構築的手法や、相対化の表現が精鋭化されていったのだと思われる。そこまで徹底しようとした俳人は少ない。

 その方法意識が前面に出ていたのが『夷狄』『蜜楼』という二冊の句集であり、その方法意識が背後に隠れて見えなくなるほどに、成熟させたのが、今回の『虚器』という句集だといえるだろう。

 その句集名にもその熟成の度合いが表れている。再び句集の「後記」の言葉から曳こう。「虚器」という言葉に込めた想いについて、次のように述べている。

   ※

(……)わが列島弧に連綿と受け継がれつづける空虚なる中心へ、さらには俳句形式という器それ自体への想いも同時に込めている。

   ※

 日本文化の中空構造性、俳句という表現の「器」の空虚性、この大小の二つの容れものの中の、存在の諸相を描くという主題性の明確化が、この『虚器』でひとつの文学作品としての確立に繋がったといえるだろう。ここに至って、彼の『夷狄』から始まる創作過程が、ひとつの文学的成熟の軌跡として可視化されてくる。

そのほぼ完成形と見做せる表現方法に、韻律性の重視があるだろう。

 その方法も多様だ。

 その一つ、内在律的な韻律性を持つ表現で、音としての韻律性ではなく表現内容、言葉の意味性が玉突き連鎖してゆく韻律性だ。

  空爆のあとを南京玉すだれ

 この句は「南京玉すだれ」という日本の伝統的な大道芸の「謡い」を内包していて、そのリズム感で意味的な玉突きリズムが生まれる。

「南京玉すだれ」は長さ二十から三十数センチメートルの竹製の小型の簾を持ち、唄にあわせて簾を刻々と変化させてゆく芸だ。釣竿、橋、しだれ柳、旗などに次々と変容してゆく様を、そのお囃し的韻律「アさて、さて、さてさてさてさて、さては南京玉すだれ、ちょいとひねれば、ちょいと、ひねれば、日米国旗に早変わり。日米国旗をちょいと伸ばせば…」という唄で延々と続けられるのである。無論、簾の変容には限りがある。

掲句はその韻律性を「もどき」つつ、この簾の「限り」ある限界性を突破してゆく。短く韻律を提示するだけなので、そこに無限の連続性が出現してしまうのだ。

 何の連続性が?

「空爆」の連続性が、である。

 どう連鎖するのか?

 日本の加害としての南京「空爆」から、加害を因縁とする逆襲的被害である日本本土への無数の空襲、その果ての二発の原爆。そして第二次世界大戦後も終わることのない世界規模の、兵器も手法も進化多様化した各種の「空爆」の連鎖的継続。それは現代を生きる私たちに空しさ、諦念、虚無感を植え付け続けて止むことがない。

掲句は相対化や批評性よりもラジカルな、どこか祝祭的でさえある韻律による、文学的な無化の表現が実現している。

  おおきみのへにこそしなめかたつむり

 この句もその中に元歌の内在律を呼び込む韻律重視の表現だ。元歌は周知のごとく万葉集の大友家持の、天皇への献歌であると同時に死んだ兵士たちへの鎮魂歌である。「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ史なめ 顧みは せじ」という死を賭けて忠義を尽くすという内容の歌である。不謹慎だがこの歌には密かに庶民の中で流行した替え歌があり、「辺」のところを「屁」に替えて酒の席で唄われた来歴を持つ。ひらがながきはそんな来歴まで拾いつつ、結びを「かたつむり」という自閉的渦巻き状、鈍足生物を置くという謎の向こうに放り出すという俳諧的諧謔味のある表現である。

もうひとつの韻律重視表現は、意味の玉つき連鎖も抱え込みつつ、選ばれた言葉自身にも韻律を持たせる方法だ。

  蟇の声曳きひろひとの影長し

「蟇」の「ひ」、「曳き」の「ひ」、「ひろひと」の「ひ」で頭韻を揃えた韻律。「ひろひと」はもちろん昭和天皇「裕仁」のひらがな書きで、「影長し」は寿ぐ言葉であり、身長ではなく、御世の永さとその御力の遍くあることを湛える言葉だ。臣民の前に御影を顕した聖なる方をお迎え奉っているのが「蟇」の後を退くような長い「声」なのだ。大真面目な儀式の場面を茶化したような景であり、その全体を祝祭的な雰囲気で包み込むという手の込みようだ。この韻律的な無化作用の力は強靭である。その空無性の中にありながらも、日本という社会の中に「存在」し続けている自同律的不快感までが込み上げてくる。

どんな相対化による批評性より文学的強度を持つ表現ではないか。

 もう一つ、上五、中七、下五の頭韻を踏み、口誦的ひらがな書きの韻律俳句という表現もある。

  くちなわのくるしく君子くねりけり

  すめらぎのするめいとしや砂日傘

  ぽよぽよの国ぽよぽよの水くらげ                  ひそやかにひめをひらけばひらく蘭

  さくらばなちるちるみちるエデンかな

 幽かに意味性も保持しつつ、言葉が軟体化して実体を失ってゆくような奇妙な感覚に誘われる表現である。この実体喪失感も本句集の「虚なるもの」の表現の一つだろう。古謡的、呪術的、そして祝祭遊戯的韻律の前面化、強化によって、言葉の背後深くに沈められた高度な文学的主題性が、逆に読者の感覚をじわりと包囲するような表現だ。

この高次の主題性を持つ表現こそ、彼の独創であるといえるのではないか。

  小夜更けてさりんさんさんさまよえる

 この句の「さりん」は、オウム真理教団が引き起こした毒薬散布による無差別大量殺人事件の「サリン」のことだろう。「さんさん」の語韻が降り注ぐ意味を引き連れてくるのが怖い。

社会への敵愾心、悪意の黒雲から降る雨のようだ。「小夜更けて」の「小」の「さ」は小さい、つまり本格的な夜が始まる前の入り口の、闇の入り口という意味もあるが、接頭語でこの句全体の始まりの調子を整える役目も果たしている。古謡的調べで、あの大事件を表現することで、言葉を尽くしたどんな社会批評よりも、あの事件の本質に迫り得ていないだろうか。

オウム真理教団が引き起こした数々の事件を、遠巻きに「眺めて」いた「私たち」という社会が、その社会への底知れぬ敵愾心を抱く存在を産み出したのであり、私たちもまた、閉塞感漂う社会情況の中で彷徨っていたのではなかったか。

5 『虚器』を彷徨う

 前章までに取り上げなかった句で、印象に残った句を各章ごとに揚げてみる。本稿で述べたことのお浚いにもなり、『虚器』世界とその時代をもう一度彷徨ってみたい。

⑴ 灰の章

  黒潮に乗りて椿花の喚ぶなり

  綿津海に着たきりの姉奉る

  またの世も母に邪淫の霞立つ

  天文や枯山水の爆心地

  うすものにうすもの襲ね被爆国

  臨界点越えゆく螢闇の束

  夏の沖ゆく舟唄は死者隠し

  首都五月屈めば見ゆるされこうべ

  魂降るや電子の蟲を祀る塔

  文字みな象の体温もち泛かぶ

  灰の降る花野たちまち妣の国

  身の丈を刻みて沖の柱かな

  胎内を灯し千年木守柿

⑵ 玉の章

  白椿はみ出している東夷伝

  骨の火を点して沖へ飛花落花

  和を以てなお淫らなるさくらかな

  爆死その地を這いまわる桜蕊

  すめらぎや黄泉より戻るほととぎす

  ふらここは戻らずユーラシアの空

  巨蛾生みて天の岩戸は半開き

  鯨面の叔母みな羽抜鶏の裔

  ひまわりをのぼりゆくものみな火刑

  井筒よりユーフラテスに向かう蝉

  パレードのあとの肉片の驟雨かな

  虹の根を問えば舌もつ巌あり

  帝その涎は蒼き天の河

  神と寝てもぬけの空の烏瓜

  日々凍る父無き父の精子かな

  戦争はまだかと枯野声を上げ

  水漬く島より寄生木のみどり見ゆ

  冬の虹この世はなべて爆心地

⑶ 鏡の章

  燃えつきて浄土の西へ墜ちる蝶

  朕の雲脂まぎれし昼の花ふぶき

  クローン孕みまた夜桜の吐息かな

  黄砂降る柩は王を入れかえて

  母を呑み一花も降らぬ椿山

  磐舟を秘めたる千の椿かな

  くちなわに巻かれて妹歌漏らし

  瀧を吐き少年なべて田を壊す

  いくどめの攘夷を叫び青芒

  即位して夜明けの床に月の暈

  降臨のあとは月下の芒原

  月明り埋めし土偶の首無数

⑷ 贄の章

  火を産みしことのはじめの苦艾

  一本の畦火にソドム炎上す

  隕石を祀りし宮の蝉の穴

  渤海へ玉返したる麦の秋

  影なくば炎昼の木伐られけり

  向日葵や躰の中も影は伸び

  まいまいの渦より飢餓のはじまりぬ

  蚊柱に蚊柱ふれて亡国や

  月見草被爆の影を抜け出して

  こめかみにくちなわを飼う帝かな

  八月の水またしても水を呼ぶ

  柘榴笑む百の童子を贄として

  惑星の軌道淋しき草枕

  赤蜻蛉ふいに消えるも満州ぞ

  母国とは絵本の中の草の絮

  あやとりの吊り橋渡る狐の火

  狼となれず少女の産毛哭く

  詔吊す枯木として立てり

  髪を切る鋏の彼方まで枯野

  ぬばたまのよもつひらさか煮凝りぬ

⑸ 蜜の章

  陽炎の底より破船浮かびけり

  風花となるまで母は泣いており

  夭折のつづきに葱を刻む音

  またしても人が人買う桜闇

  散りながら骨となりゆくさくらかな

  在日のふところ深く花吹雪

  東志那夢見る春の湯舟かな

  鳥帰る柩の上の星条旗

  打水は桶に戻れずバビロンへ

  青嵐吹くたび空となる柩

  水脱ぎて水に遅れる蝮かな

  精虫の泳ぐあたまの冥き昼

  くちなわを出てゆく虹の迅さかな

  本籍と呼ぶ炎昼の裸の木

  鬼灯を揉めば点りし妣の国

  抜歯する叔父みな菊の匂いして

  枯芒起こせばもとの倭なり

  父祖飛ばし煮崩れにけり千々の島

 

まさに言葉のカオスでありラビリンスである。

惑星もユーラシアもユーフラテスもバビロンもソドムもあれば、すめらぎはもちろん、倭国の天の岩戸、被爆国、電子の蟲、クローン、そしてびっくりするのは在日まであることだ。

ここには古今東西から精選されたあらゆるものがある。

博物学的でかつ考古学的であり、そのような広い視野の中に日本という虚器が置き直されて多様に表現されている。

キーワード別に整理して一句ごとに感想を書きたくなるが、『蜜楼』でそれはしたので、今回は控えておこう。

俯瞰的な視座と、美学的なデザイン思考でしっかりと脱構築的世界が生成されている句集だが、このような内容をテーマ詠的に詠むと、観念的な概論、総論風に上滑りする表現になりがちだ。しかし、高橋俳句にはそれがない。自分の血をしっかりと係留する兄弟姉妹と両親、血縁の姿も多様に描かれて地に足がついている表現がされている。かといって過剰に内省的になることもない。そんな表現が見られたのは『蜜楼』までで、たとえばかつて自分の深層心理の象徴だった「枯野」という場所は、

戦争はまだかと枯野声を上げ

というように「禁忌」に対して挑発的な言葉を発する場所へと変貌している。この句に高橋俳句の批評性、主題性の表れ方の変貌の象徴をみる思いがする。

そしてなにより、呪術的な祝祭韻津を持つ俳句は、今後の更なる洗練を待つばかりであろう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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