藤の花おのが闇より生まれにけり

Facebook斉藤 一治さん投稿記事

人間は、宇宙全体の一つの生命とつながって生まれ、生き、死んでいく小宇宙なので、その枠をはみ出したものを「般若心経」は、転倒夢想と言っています。

色即是空。宇宙に存在するすべてのものは、宇宙全体の一つの生命につながって存在している兄弟姉妹です。

したがって自分の力で生まれたり、死んだり、花を咲かせたり、散らせたり、増加したり、減少したりするものではなく、眼でものをみるのも、耳で音を聞くのも、鼻で香りをかぐのも、舌で味をききわけるのも、すべて宇宙全体の一つの生命につながって初めて可能となるのです。

人間は自分中心に物事を考え、発展繁栄とか、合理的とか、計画的とか、不老長寿などを目指して四苦八苦しているが、人間は自分の力では呼吸一つ、五臓六腑一つ動かすことはできない。 

お釈迦様は、最後の教えに「宇宙全体の一つの生命(法)を拠りどころとしなさい。

それと同時に宇宙全体の一つの生命につながっている自分の生命を拠りどころにしなさい」と自灯明、法灯明の光を残してくれました。

これが、転倒夢想を遠離する唯一のともしびであり、五蘊皆空の世界を知る唯一の般若波羅蜜の灯明であります。


Facebook出口光さん投稿記事【「陰」と「陽」】

みなさん、おはようございます。

西洋のフラワーアレンジメントでは、満開の花々を生けます。

一方、日本の茶席では、つぼみを生けます。どうしてだと思いますか。

つぼみは、開く前のエネルギーを湛えこれから咲こうとする花のエネルギーを感じさせてくれます。まだ「陰」の状態なのに、次の「陽」を暗示しているのです。

花は、現象世界ではつぼみなのに私たち「見手」の心には咲くことができる。

花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春を見せばや

これは、利休の「詫び」を現わす歌として紹介された藤原家隆の和歌です。

冬は、単なる雪の荒涼たる景色ではなくその中にも新しい命の息吹を湛えている。

私には、希望の兆しのように思えるのです。

詫びとは、「陰」の中に次に来る「陽」の兆しを捉える感性かもしれませんね。

私たち人間の中にも、醜さと美しさ、善と悪、大きさと小ささ冷たさと温かさ、陰と陽の両面があります。

しかもそれら両極は、実は同じものの裏表なのです。

自分の心の冷たさを観るとき 実はそれはあなたの「愛の兆し」であるとしたらどうでしょうか。

もし私たちが、人の「陰」の中に「陽」を捉えることができたら素晴らしいですね。

今日は、人の「陰」の中に、「陽」を見てみませんか。


Facebokoクミアイ化学工業株式会社投稿記事

垂れ下がるようにたくさんの花を咲かせる「藤」。

満開になる時期には、藤棚の名所を訪れる方も多いのではないでしょうか?

「藤」は、多くの文献の中に想いが残されているほど、古くから日本の歴史と深く関わった花で、古事記や万葉集などに登場しています(*˘︶˘*)。

特徴ともいえる長くしだれた花房の一つ一つに、2cm程度のかわいらしい小さな花が咲き、風が吹くたびにふわりと揺れる姿はとても幻想的。

この機会に「藤」を見に、遠くまで足を運ぶのも楽しいかもしれませんね♪


https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498733321.html 【現代の俳句3 五島高資】より

 山藤は山藤を吐きつづけてをり   五島高資(ごとう・たかとし)

 季語・・・山藤(やまふじ)・春

 「俳句スクエア」主宰。長崎県生まれ、栃木県在住。血液学の医師でもある。

 五島高資は現代俳句のもっとも有能な作家の一人だ。

 戦後、俳句の世界では伝統派俳人と新興派俳人との間で、これからの俳句について激しいせめぎあいと論争があった。

 結局、両者は相入れることが無く、決別したが、その後の世代に伝統派の確かな「描写力」と「格調」、新興派の鋭い「感性」や「言語感覚」を併せ持った作家があらわれることになる。 私はその最たる作家が彼だと思う。

 彼はまだ30代後半の作家であるが、早くから頭角をあらわし、伝統派、新興派の俳人両方から支持されている逸材である。

 新興派の俳人によって結成された現代俳句協会のホープであるが、流派を超えた迫力と確かな実力を持っている。

 近作では、 目の覚めて白河駅は銀河なりという壮大で不思議な秀句も発表していた。

 さて、掲句であるが、この句も現代的感覚と確かな描写力に満ちた傑作であると思う。

 山藤は公園や神社などの藤棚に咲く藤の花とは違い、山の雑木に混じって長く、鮮やかな花房を垂らす野趣のある花だ。

 その山藤が咲き継ぐ、荒々しく美しいさまを、彼は山藤が山藤を「吐きつづけている」と描写した。 この把握は「究極の写生」だと私は思う。「写生」とは見たものをそのまま写し取ることではないのだ。

 松尾芭蕉のいう「ものの光り」、つまり「ものの本質」を描写することである。

 この句は、山藤の持つ野性的な趣と美しさという、その本質を見事に表現している。

 「吐きつづけをり」という字余りが、句に迫力を与えていることも見逃せない。

 彼の持っている言語感覚の冴えも伺える。


Facebook高木 道郎さん投稿記事  ✿藤の雨 陽射し遮り 降りしきり(道)

藤の花が美しく揺れる季節になりました。

私が住む街の名前は「藤沢市」で実際に藤棚は多いためてっきり藤の花の多い沢(湿地)が地名の由来かと思ったら藤沢という地名の由来はどうやら違うようです。

『日本書紀』に登場するこのあたりの地名は高座郡で藤沢という地名が登場するのは『太平記』が最初とか。

ただ、地名の由来としては淵沢、富士見沢などからの転訛説723年に片瀬諏訪神社が創建されたから藤(23)諏訪→藤沢という説源頼朝が感応院にある三嶋大明神を勧請するとき藤沢清親に奉行させたためとの説も。

ま、しかし、住む側としてはこの季節に藤の花が多いのは嬉しいものです。

藤沢市という地名が定着してから地名にちなんで植えられたのかもしれません。

藤の魅力は何よりも淡紫の花色と風に揺れる房状の形でしょうか。

『枕草子』には「色あひ深く花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる」とあり

「めでたきもの」に加えられてます。

✿藤の花雫とめたるたまゆらや(芥川龍之介)

✿吹出して春の外まで藤のはな(加賀千代女)

✿物がたり読さして見る藤の花(加舎白雄)

芥川龍之介の句は藤の花が雫をとどめているさまを詠んだ美しい作品です。

「たまゆら」は玉がこすれ合うかすかな響きのことで藤の花先にたまった雫がまるで玉のようにこすれ合っていてこすれ合う音さえきこえるようだ、という形と色と音の世界。

一時期、精神を病んで鵠沼の旅館東屋に治療投宿していましたからその頃に詠んだ句なのかもしれません。違うかな?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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