Facebook相田 公弘さん投稿記事
「雲」山村暮鳥
おうい雲よ いういうと 馬鹿にのんきさうぢやないか(そうじゃないか)
どこまでゆくんだ ずつと磐城平いはきたひらの方までゆくんか
※「いういうと」は「悠々と」の意味です。
☆ご年配の方で、「巨人の星」を見てて覚えてる方がいらっしゃるかな?
星飛雄馬が雲を眺めてるとき、隣の彼女がこの詩を口ずさみました。
呆気にとられるほどの牧歌性ですが、時代がますますせちがらくなってきているので、こうした詩空間には現代人が忘れている開放感があり、貴重だと感じます。
山村暮鳥は明治十七(1884年)に生まれ、大正十三(1924年)に没しました。
複雑な家庭に生まれ、幼少から苦労が多かったようです。16歳で小学校の代用教員となり、英語を学ぶかたわらキリスト教に接近。キリスト教会の形式主義と自身の文学的欲求に苦悩します。大正四年に刊行した「聖三稜玻璃」の難解な象徴詩風は嘲笑によって迎えられてしまいました。
文学的な懊悩、健康の不安などから、ドストエフスキーに傾倒。やがて、白樺派などの人道主義にひかれて転身。
以降は、自然礼賛、人間愛を明るく簡潔に歌うという作風に徹してゆきました。
このように、山村暮鳥の生涯は決して平板なものではなく、暗たんたる世界、多くの苦悩を経て、牧歌的な世界に至ったのです。
そうした山村暮鳥の明と暗、光と闇を知った方が、「雲」に代表される、明るく人生肯定的な詩に、より確かな価値を見出せます。
下記より引用 解説あり
https://kazahanamirai.com/yamamurabocho-ichimennonanohana.html?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTAAAR1vQFtppC5_8pHLCLFwfBQg5OcKeZNjDtq0QjUBkwqVnBLIXleME7IDJls_aem_AWh9el4q4CJEm2-GlCX5EWmkwRgOlID7JAXXsRKTkuivcAQ7BTe6V8z09ZTI3KjTbru7tw66tUcAxrvaCUt8DWwU 【山村暮鳥の詩「風景 純銀モザイク いちめんのなのはな」の感動を純粋化する方法。】
山村暮鳥ウィキペディア
https://ja.m.wikipedia.org/.../%E5%B1%B1%E6%9D%91%E6%9A...
Facebook小森 圭太さん投稿記事
仕事が好き、楽しいこういう状態の人は大抵上手く行っています😊好きこそものの上手なれですね 好き、楽しい、嬉しい という感情が伴わないことを続けるのは難しい
続けられない=上達しない=才能が開花しないですなので仕事が楽しくない 全く喜びを感じない なんて状態が一番良くない
それは「本当の自分を生きていない」状態だからです😭
それでは当然 才能も開花しません 幸せにも豊かにも なれない現実になってしまう
嫌なことを 頑張ってやっている状態が そもそも本来の自分の 生き方と違っている
講座では 言葉が持つパワーを 確認するワークをしてます😙
声にして発すると音波というエネルギー思考するだけでも電磁波というエネルギーを発します昔から言霊という言葉があるよう言葉自体にもエネルギーがある
そして私たちは日々無意識に色んな言葉を思考したりつぶやいたりしてます その言葉の中に
私たちのエネルギーが弱まる言葉が含まれていたりするんです
その筆頭の部類に入るのが「頑張る」という言葉 👻
私たちは「頑張る」という言葉を 自分を奮い立たせたり、 相手に奮起を促すような
良い言葉として使ってます
よーし、がんばろう!ぜひ頑張ってください! 頑張ります! などなど日常的にたくさん使ってる でも頭の中や声に出して 「頑張ります」と呟いている時 人間の筋力は弱まります
また体軸の本能的反射も鈍くなる つまり生体反応が弱まるのです
それを確認する方法 の一つがオーリングテスト イラストの要領で 力の強さを確認する方法です 試しにまず普通の状態でオーリングテストをしてみて下さい
オーリングは 親指と薬指で作った方が わかりやすいと思います
普通の状態の強さがわかったら 次に頭の中、もしくは声に出して 「頑張ります」と呟きながら その強さを測ってみて下さい
大抵「頑張ります」と 呟いている方が力が弱まる 力が弱まる=生体反応が 弱まるということですつまり 本来持っているはずのエネルギー が抜けていることに
それには深層心理が 関係する理由があります😮
「頑張る」は「頑な」になって「張る」と書きますよね この言葉にどんなイメージが湧きますか? 「固い」とか「緊張」じゃないですか?
あなたが緊張してガチガチの状態ってどんな状態でしょう?
本来の力が発揮できない状態ですよね一対一だと普通に話せるのに 大勢の前だと途端に話せなくなる 緊張でガチガチになるからですね つまりその状態では 本来の力が発揮できないのです
顕著なのがアスリート 日本のトップ 世界の舞台で活躍しているアスリートって割と
飄々としてる人が多くないですか?
もちろん口では「頑張ります」とか言ってます だけど目くじら立てて 眉間にしわを寄せて
頑張ってる風の人って あんまりいないですよね?🤣
逆に「頑張れ!!熱くなれ!!」的なことを言ってる人は結局そこまで行ってない
そう思いませんか?実は私も全然頑張ってません 嫌なことはやりませんし 氣が乗らない、興味が惹かれないこともやりません
面白そう 楽しそう 興味深いと 感じることだけやってます
仕事も割と遊び感覚に近いもちろん「100%そうか?」と聞かれれば違います
でも大半は頑張ってやってることじゃないんです
大半は好きだから楽しいから面白いからやってることだからこそ上手くいくと思ってます
人の選択基準は大きく分けると二つしかありません
「愛」か「不安」かです 自分の氣持ちや 感性を尊重することは 「自己愛」です
そういう選択をする限り自己が尊重される世界を選択したことになります
量子力学の多世界解釈(パラレルワールド)的に言えばね
つまり自然と上手くいく世界を選択したということです🎉
なにも努力を否定しているわけじゃないですよ 努力であっても 好きなこと、楽しいことを
もっと高め伸ばすための努力か それとも嫌なこと 嫌いなことを こなすための努力か
その違いがとても大きい どっちの努力が上手くいくか 説明不要でしょ?
もしあなたが今「頑張ってる」なら進むべき方向が違ってるかもしれません
もちろんその頑張りを続けるのも自由 でも頑張り続けるのは しんどいですよー
オススメなのはやはり 頑張らずにできること 続けられること
つまり好きだったり 楽しめたり、 興味が惹かれること 結局その方向に
あなたの才能の芽が 隠れていたりする
当然ながら あなたの才能がきちんと 発揮された方が上手くいく 頑張り続けるか
それとも頑張り感のないことに 一生懸命になるか この選択の違いが
後々大きな違いを生むんですよ😊
Facebook田中 宏明さん投稿記事
二日前の夜中に突然ものすごい「怖れ」がやって来ました
あまりに不意にやってきたのでその瞬間はとても動揺しました
あれ?まだこんな感覚が自分の中に残ってたのか いつもわかった風な ことを書いたり話したり しているくせに あまりの怖さに「神さま助けて!」と本気で願っていました(笑)
手のひらには ものすごい汗が吹き出して 頭の中はどこにも中心が 定まらず 股間の辺りには 懐かしい不安の感覚が 波のように寄せて来ます
「えーと、えーと これどうしたら いいんやったっけ?」心臓はバクバクしてもう布団の中でプチパニックを起こしていました
内観もくそもないほどただただ「怖れ」の波が襲ってきます 瞑想なんて全く出来ません
そうして しばらくその 怖れの中にいてある瞬間ふと思いました
「よし!この怖れの正体を 見に行こう」そう決心して怖れを鎮めようとしたり逃れようとしたりするのをやめました そして怖れの渦の中に 飛び込んでみようと 全ての抵抗をやめました 気分的には 滝壺に飛び込むような 感じです
そうして、えいやっ!と怖れの中心に飛び込むと今度は笑いが止まらなくなりました
さっきまでエクソシストのように震えていたのにです^ ^なぜだと思いますか?
怖れの中に入っていったらですね そこは空っぽだったからです
何にも実体もないただのがらんどうだったんです ああ、やっぱりな 超安心^ ^
でも超あほくさい^ ^ そう思った瞬間に 笑いが出てきたんです
ただ久しぶりに動揺するほどの 怖れを経過して感じたのは 単純に「マジで怖い」
でした^ ^
この怖れが頻繁に やって来たら 確実にノイローゼになるなぁ と改めて思いました
そして、それは 若い頃の自分の状況 そのものだったなぁと
もし今 こんな発作的な怖れや パニックに襲われている 人がいたら それは本当に
辛いだろうなと感じました^ ^
もしそんな人が今読んでくれていたら伝えたい😊
その怖れはあなたのせいじゃない それは小さな頃まだ何も知らずに この世界にやって来て
たくさんの理不尽や 惨めさを経験した 無防備で純粋だった あなたのハートの 痛みなんです つまり、誰もが 生まれた以上 持ってる痛みなんです^ ^
だから安心して欲しい 人生は痛みから 始まります そしてその痛みを 通して世界を学んで いくのです その最大の学びは「あなたはわたし」ということを知ることです
なぜなら その時はじめて「慈愛」という 高い意識に触れることが出来るからです^ ^
慈愛とは 自他が消えること
そして 自他が消えた時 世界には愛しかないと わかります
全ての痛みや怖れは 分離の中でしか 生まれないとわかります だから今 あなたの中にある 痛みや怖れは 世界と一つになれば 消えてしまうのです
どうすれば 一つになれるでしょう?
それは簡単です^ ^ 痛みや怖れを受け入れてしまうのです
何一つ抵抗せずに その中に飛び込んで しまうのです
そしたら 気づきます 抵抗そのものが 苦しみの源だったのだと^ ^
抵抗とは自我の 防衛反応です その防衛がいらないんです😊 その防衛が怖れを創り出しているからです^ ^
だから もう何も抵抗せずに ただ怖れと一つに なってみてください
そうすれば それがただの幻だったと わかります
その感覚こそが「目覚め」です深いエゴの夢からの目覚めです
エゴが見る夢は必ず最後は 悪夢に変わります なぜならエゴが見る夢はどこまでも
世界とわたしという分離の夢だからです こんな孤独な夢を 見て楽しめる人は いません
さぁ、もう 目覚めてください 悪夢はもう十分でしょう?^ ^
みんなで和やかに 全ての命が共生する 新しい地球を 生きましょう
もうそんな 時代になってまっせ^ ^
今日はなんだか 壮大な話しになりました でも、まぁいいか^ ^ 誰かのハートに
届きますように✨🌈😊らぶ💓
***
自分史その3
潜在意識に眠るものは 自己神化の欲望?いいえ、決して。今ですら「無になって結構」が和多志の本音です。
潜在意識に眠るものは 愛欲?多分満たされていると思います。
地位と名誉?今更、十分です。しかし自己実現への欲求は明らかに願いとして存在します。
以前スリー・イン・ワンという プログラムの中で 自分の心の小部屋を見たことがあります。
心の小部屋には 紫光に満ちていて 全てが一つに溶ける様な安らかで平穏な部屋があるとともに 深い、真っ暗な部屋がありました。
そのワークを導いたリーダーは 「その穴に蓋をしなくていいか?」と尋ねましたが 「和多志の中にあるものだから構わない」と答え 穴に下りていく階段さえイメージしました。
その小部屋から出る時 ドアに鍵をかけるように勧められましたが 人工的な鍵をかけたくなく ありのままに置いておきたいイメージで終わりました。
その穴は 虚無の淵、孤独の淵でした。今は 死の淵と思えます。
それ故、和多志は霊現象とともに死の淵をさまよい続けたのかもしれません。
愛する者との死別が 「デビルチャイルド」以上に 和多志の 今生で乗り越える必要のあったテーマかもしれません。(激しい嘆きが生じました。 多分そうだと思います。)
幼い頃、我が家では 母と兄の死はタブーとして扱われ それに向き合ったのは 30代になってからです。
大学院の 聴講科目の課題で「ファミリーツリー」を完成する必要が生じ、可能な限りの戸籍を取り寄せ、抵抗を振り切って 義母やレイプをした腹違いの兄から できる限りの情報を収集しました。
父も自分の母を幼い時に亡くしています。最初の妻を亡くし、和多志の母を亡くし、
その母との間に生まれた愛子(私の兄)を見送っています。
最初の妻を失ったことに伴い 仕事も、住まいも、娘も失い 自律神経失調症になりました。
それは父の持病となり 晩年それが昂じて自死をしました。
両親に全面依存する 幼い子は 両親の不仲や 自分が虐待される状況に置かれると 自分が「悪い子」だからだと 考えると言われます。
母と兄が「和多志の出生」が原因で亡くなったと信じた故、母や、兄(聞き取りによると 母と兄は自分を無条件に守り、愛してくれた存在だったようです)以外の者を愛してはならないし 愛されてはならないと 自分に命じたと考えられます。
周囲に愛があっても「愛を受取らない枠組み」を自分に嵌めることになったとも言えます。
ニヒリストであった思春期 「武者小路なんて、なんと甘い!」と考えていました。
愛なんて歯が浮くような欺瞞だとも決めていました。
そんな思いは 渇望しても得られない願いを誤魔化すための 自我の防衛機制だったとも考えられます。
人生の最終点が死であるのであれば 自分を満足させてくれるものを求め 切羽詰まれば死ねばいいと 考えていました。
「自分を満たしてくれるもの」 「自分の存在の意味」を 脅迫的に求め続けました。
しかし一番渇望しているものを封じ込めていたため ニヒリズムに足を掬われ 中学生半ばから学業も放棄してしまいました。
キルケゴールは 死とは絶望を生き続けることだと言います。
つまりは 和多志にとっては 虚無と孤独と死が一つだと言えるのかもしれません。
Facebook津留晃一の世界投稿記事
あるがままに 大切なことは自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けることです。自分でいて下さい。自分のままでいて下さい。自分そのままで、ありのままで
ありのままにいることの美しさに気付いて下さい。ありのままでいることの気楽さを知って下さい。ありのままでいることの楽しさを堪能して下さい。そこには愛があります。
おしつけがましさのない、義務感のない柔らかな愛です。負い目を感じさせない風のごとき無条件の愛となります。
そこには悦びがあります。最高に貢献する姿があります。他を生かす形となります。
私はあなたが善人であるか悪人であるかには興味がありません。
あなたが心の中でつぶやくいいわけは、いったい誰のためなのでしょうか?
誰に対して飾ろうとしているのですか? あなたが心の中でつぶやく不平は一体誰が聞いているのでしょう。そして人は何を得るのでしょう。
それは自己愛ではありません、自身を傷つけるものでしかありません。
神はあなた自身を大切にしなさい、労りなさい、愛しなさいといいます。
そこであなたはより快適でありたいと思い、快適さを追求します。
ところが、この「快適でありたい」という願望は、実はあなたの不快の種そのものとなります。あなたが今とても快適な状況に満足しているとしましょう。そこにあなたの快適さを
妨げる何者かがやってきたら、あなたはどのように感じるでしょう。
その侵入者に対し人は不快感を覚えます。とても神のごとき愛そのものとしてい続ける事は出来ません。実はあなたが、あなたの外的世界に対して、快適さを求めた瞬間(自分が自分以外になろうとした瞬間)、あなたはその身の内に不快の種を宿すのです。
快適さと不快さは一枚のコインの表と裏にすぎません。別の何かではないのです。
あなたが外的世界に対して何かプラスを求めれば求めるほど、あなたが手に入れた
プラスと同じだけのマイナスの要因をその懐深くしまい込んでいるのです。
自分が自分以外の何かになろうとすればするほど苦しみの種があなたの身の内で成長を始めます。
「それじゃこの世は最悪じゃないか」、「それでは人間は幸せにはなれないじゃないか」、
「だったら生きている意味がないではないか」と反論が聞こえそうです。
でもそれがこの三次元世界そのものなのです。
実に多彩で、多面的なパラドックスの世界です。そしてそれこそがこの三次元世界の
真の意味での存在理由であると知らされました。
無限の快適さの世界から、そうでない環境を体験したいと考えた意識体が、その「不快さ」なるものを体験してみたくて、この二極の対立の世界の中へわざわざ入ってきた、というのが真相のようです。
「不快さ」は根源の無の世界では決して感じる事の出来ない、大きな魂の昂揚感を体感させる要因であるとも言えるのです。
黒が白を際だたせ、悪が善を引き立てます。三次元物質世界とはそういうところなのです。
英雄には敵役が必要なように・・・。あなたは意識の進化を求めて存在しています。
人はこれまで意識の進化を求め続けて転生を繰り返してきました。
それを外的社会環境で成功を求め続ける事と勘違いし続けてきました。
意識の進化とは、神に還るという事です。神に還るとは、元々自分が神そのものであった事を思い出す事です。元々神であるものが、神以外の何者にもなる事など出来ません。
あなたは今現在もその本質は神であり、今後のどの時点においても神以外の何かになる事など
出来ません。
今そこが、その瞬間がすでに完全です。今はその不自由ささえ感じてみたくて、そこにそうしているだけです。「そんなことを言っても信じられない」という人がたくさんいます。
でもこれはあなたが信じるか信じないかという問題ではなく、あなたがこの考えを受け入れるか受け入れないかの選択の問題なのです。理性で考えて判断できる問題ではないでしょう。
そのため人は気の遠くなるような年月をかけ、難行苦行の修行にはげみ続けてきました。
そしてもうそろそろ悟りとは修行の果てに手にするものではなく、元々あなたの足下にあったことに気付く時がやってきました。
あなたの表面意識がどう考えるにせよ、トータルなあなたにとって、今その状態がベストポジションなのです。そこ以外のどこかへ行こうとしないで下さい。
あなた以外の誰かのように成ろうとしないで下さい。
総ては唯そうなっているだけなのです。唯そのままを感じて下さい。それがあなたが今そこにいる理由だからです。不都合そうに見える状況に意味を与える必要もありません。
唯そうであるだけなのです。自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に
何か別のプラスを求めなさいという事ではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高である事を知りなさいという事です。
今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。あなたが今、最高の環境にあると満足しているときに、その環境が破壊されたとしたら、そこもまたその瞬間が最高であることを疑わないでいると、「一体何が起きたのだろう」、「この破壊によって私には一体どんな学びが出来るのだろう」と、いつもただ起きてくることをワクワクと楽しめるようになってきます。それがあなたの悟りです。自分を大切にするという事です。
自分を最高に労るということです。今あるがままを愛して下さい。
そのままの自分を受け入れて下さい。
もし今あなたが「自分は自分のことを一番大切にしているのに、どうも世の中が今一つうまく行かない」と思っているとしたら、それはきっと自分を大切に思うあまり、自分の意識を小さく小さく閉じこめてしまっているのかも知れません。
自分が不快感を感じたくないからといって、苦手な人を避けているとあなたはいつも、また苦手な人に出会うのではないかと怯えながら生き続けることになります。
快適でありたいと、不快さを避けてばかりいると、どんどん自分の住む世界が狭くなって、
そのうち自分の部屋から出られなくなってしまいます。
あなたの外界に見える世界は実はあなたの意識が写し出す幻影です。
苦手な人と、そうでない人を分けるとは、自分の意識を半分に分けているということです。
人は好きな物と嫌いな物を分け、自分の意識を分割し、いい環境と悪い環境を分けまた
自分の意識を半分にして、都合のいい出来事と都合の悪い出来事を作りだしてはまたまた自分の意識を更に細かく分けていきます。
こうしてあなたは自分の意識を自らちっぽけな存在へと駆り立てているのです。
自分を愛するとは自分の意識を広げるという事です。自分を大切にしたい人は、人を拒絶するのではなく受け入れていく事です。
あなたが今嫌いな人を受け入れるたびにあなたの意識は拡大します。
都合の悪い出来事を受け入れた時、あなたの意識が広がります。「嫌いな人を好きになれといわれてもそんなの無理だよ」と思っているのも解っています。
しかし人が人を嫌いに感じるには分けがあります。それはあなたの意識の中に、こういうことをすることはいけないことであり、許せないといった考え方があるからです。
あなたの中のこういう認識が一つ消えるたびに、他を分ける思いが消え、あなたの意識が広がります。ある人があなたを非難します。するとあなたは突然その人に敵意を感じます。
「あの人は失敬な人だ。俺は悪くない。人の話もろくに聞かずにいきなり人を罵倒するとは
なんという無礼な人だ。あんな人は断じて許せない。あんな人がいるからこの世がおかしくなって来るんだ」などと、あなたのエゴのつぶやきは心の中でエスカレートしていきます。
あなたのエゴは傍若無人、こんな時は無理やりエゴを黙らせたりせず、思う存分エゴに
喋らせてあげて下さい。
ただし人のいないところでやることをお奨めします。
エゴはとても飽きっぽいのです。無理やり理性でブレーキをかけたりせず、好きなだけ発散させてあげると、やがて波が引くようにあなたのエゴの声は小さくなり、おとなしくなってお休みします。
その瞬間本物のあなたが意識の表面に上がってきて、「あれ、俺はどうしてこんなにイライラしていたんだ?」と感じます。
起きた現実を、目覚めた状態で観察してみると「どうやら俺は人から非難されたときにカッとなる性質があるようだな」と自分の内部にある認識に気付きます。
こうなればしめたもの。現実の渦に巻き込まれず、常に醒めた状態で観察し続けると「人から非難されたとき俺はなぜ怒りの感情が出るんだ?
あいつがいきなり俺を非難したということは、きっと何か俺のことが原因であいつの感情を逆撫でしたに違いない。きっとあいつは自分の感情を癒したくて俺にあんなことを言ったんだ」
人は怒りや恐れの感情にいるとき、人を愛することが出来ず人を責めてしまいます。
それが人の常です。本当はあなたを阻害する人なんかいないのです。
もしそのように見えたり感じたとしたら、単にその人は、今、自らを守るために必死で戦っている弱い人でしかありません。本当に自分のことが解ってくると、世の中に悪い人などいないということが解ってきます。世の中に悪い人がいないということを確信すると、嫌いな人はいなくなります。
あなたが今そのままで最高であるように、あなたのまわりにいるどの他人も例外なく、今その瞬間が最高なのです。たとえ今怒り狂っているように見える人がいたとしても、その人の進化にとってそれがよいことだから起こっているわけです。
この世界で真の意味で困っている人など一人もいません。あなたの意識が透明で無色になってくると、比較するための基準が無くなり、人や出来事や環境を比較しなくり、総てをあるがままに受け入れられるようになってきます。
まずあなた自身、今あるがままをそのまま抱きとめ、今そのままを心から愛し大切にして下さい。大切な事は自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けること。
それがブッダの言った中道に入るということです。自分が自分であるとは、普通であること。
あなたにとってどんな特別な状態もないところ、最もいやすいところ、それがありのまま、
あなたが最も他に貢献できるポジションです。
悟りとは、手の届かない高みにあるわけでなく、総てを手放したときそこにあったことに気付きます。
大切なことは自分が自分であること。それが究極の悟りです。
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