日本書紀が書けなかった事 聖書の続きの物語

https://kakuyomu.jp/works/16817139555110499824/episodes/16817139555114026830#end 【第34話 サタンの正体(^^)ノ】より

上社本宮の拝殿で参拝を済ませて、夫が、境内にある江戸時代の名力士、雷電為右衛門の像の前で記念写真を撮ってくれた。

その後、夫は、聖書に登場する悪魔は、ヤハウェに取り込まれた、前時代の神ですよって話しは、前にしたと思うけど、覚えているかな、と私に聞いて来たので、私は、黙って頷いた。

それを見た夫は続けて、だとしたら、このミシャクジと呼ばれる蛇神こそが、聖書に登場する最も古い神だよ。

だって、この蛇は、創世記に登場する、アダムとイヴを唆(そそのか)して、知恵の実を食べさせたと言う、あの呪われた蛇だから。

武甕槌神(たけみかづち)と建御名方神(たけみなかた)は、ミカエルとルシエルの投影だと言う発想は、裕ちゃんのものだよね。

もし、そうだとしたら、このミシャクジ神は、サタンと言う事になるよね。

出雲から敗走したとされる建御名方神(たけみなかた)は、素戔嗚尊(すさのお)の神格を分割した際に、最後まで残った素戔嗚尊(すさのお)を構成する上で最も重要な要素と考えられるよね。

つまり素戔嗚尊(すさのお)は、この要素を持っていたからこそ、高天原(たかまがはら)を追放されたんだと思う、と言った。

私が、その要素とは何かと聞いてみると、夫は、この神は、祟る、と答えた。

ミシャクジは、柱や笹や石棒へと宿る事を考えれば、この神は、天から降りて来ている事が分かるよね。

なので、ミシャクジは男性器を象徴とする、最も原初的な陽神なんだ。

男性はさ、頭と股間に、二つの意思を持つと言われてるんだけど、恐らく、こうした原初的な男性神って、繁栄や生命力の象徴と共に、男性の欲求不満に伴う、破壊衝動や支配欲と言った暴力性の象徴でもあるんだと思うんだよね。

実は、諏訪信仰には、そのミシャクジを狂喜させると言う来訪神がいて、その神の名はソソウ神と言うんだ。

ソソウ神は、女性の陰部であるソソを象徴としていて、大地からやって来る、最も原初的な地母神なんだけど、この二柱は、動物犠牲を要求する神なんだよ。

蛙狩神事(かわずがりしんじ)は二匹の蛙を贄にするんだから、蛇神であるミシャクジ神とソソウ神に対して蛙を捧げているんだろうね。

蛇の好物は蛙だから、と言う言葉を受け、じゃあ贄を捧げないとどうなるの?と私が尋ねると、夫は、この神は、祀り方を間違えると祟るよ。

崇神天皇を大いに悩ませた、蛇神の神威を侮らない方が良いだろうね。

もしも、この神が聖書に登場する呪われた蛇であるなら、その影響力は世界規模になるから、それこそ、世界規模で祟るんじゃないの、と言った。

それからしばらくして私達は、諏訪大社の下社へと向かう為、車へと乗り込んだ。


https://kakuyomu.jp/works/16817139555110499824/episodes/16817139555114069631 【第35話 キリストこそ真のルシファー(^^)ノ】より

上社から下社までは、20分程で到着するようだ。

ちなみに、諏訪の地は、中央構造線上の活断層に位置していると言う。

高天原(たかまがはら)から武甕槌神(たけみかづち)は地震を封じ込める神としても知られているが、武甕槌神(たけみかづち)が建御名方神(たけみなかた)を倒したエピソードは、活断層を抑え込み、地震を封じ込める意味合いも、あったのかも知れない、と夫が言うので、私は、何故、武甕槌神(たけみかづち)は、建御名方神(たけみなかた)にとどめを刺さなかったのか、聞いてみた。

夫は、最後の審判って、ルシファーが解き放たれる事で起きる訳だよね。

だとしたら、キリストこそが、真のルシファーなんだと思うよ、と言った。

私は合点がいかず、何故、ルシファーがキリストなのかと問うと、夫は、ある集団に属する人がその集団の正当性と力を維持するために、特定の人を悪者に仕立てあげて攻撃する事をスケープゴートと言よね。

イエス・キリストはスケープゴートとしてて屠(ほふ)られた訳だけど、普通に考えて、人々の恐れや憎しみを言い訳もせずに、ただひたすら受け続けて、地獄でこの世を支えている存在がいたとすれば、その存在こそが、この世で最も尊い者であるのは明白だと思うんだ。

私が、それがルシファーなんだ、と言うと夫は、頷き、そう考えるとさ、諏訪明神が表に出る時が、終末であり、キリストの復活なんだと思うよ、と言った。

諏訪大社下社の春宮に到着したのは、午後の2時半頃だった。

上社の張り詰めた空気感と比べると、春宮は、柔らかい春の日差しと言った感じだ。

私は、どちらの雰囲気も好きだと、夫に言うと、夫も同意してくれた。

諏訪大社は上社と下社は全く祭祀の形態が違うそうで、特に下社は、大国主神(おおくにぬし)の子で、建御名方神(たけみなかた)の兄である事代主神(ことしろぬし)を祀っている事から、下社は大和政権が上社を監視する為に建てられた神社であると言う説がある。

やはり、上社には、出て来られると困る神がいるのだろうか。

夫は、かごめかごめの唄を歌いながら、この歌って、とてもユダヤ的な歌だよね、と言った。

かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に鶴と亀が滑った、後ろの正面だあれ。

私は、それを聞いて、籠の中の鳥が出る事を恐れているような、出てきて欲しいような、そんな不思議な歌だよね、と言った。

かごめかごめの籠目紋は六芒星の形を表しているから、ユダヤ民族を象徴とするダビデの星になるよね。

籠の中の鳥は、今は閉じ込められているけれど、世の中が、最も暗い時に解き放たれる。

鶴と亀は、滑ったのか、統べたのか、僕には、どちらの意味なのかは分からないけど、御伽草子には、浦島太郎の物語の続きが記されているんだ。

太郎は老人になった後、鶴となり、蓬莱山へと飛び去った。

竜宮城のお姫様も、亀となり、蓬莱山へと向かって行った。

僕は、諏訪の神って、陰陽極まった存在だと思ってるんだ。

夫は、生命の木の実は、人に罪がある時には決して食べてはいけないとされているけど、人は生きて行く限り、必ずこの罪を背負う事になる。

罪とは、仏教で言うところの業(ごう)の事で、業(ごう)は偏った考えを持つ時に発生するものだ、と言う説明をした。

お釈迦さんは、偏らないで、中庸(ちゅうよう)が良いですよ、と言ったけれど、もしも、陰陽極まった諏訪の神が表に出たなら、人類を中庸に戻す為の浄化作用が、必ず起こると思うんだ。

これを祟りと取るか、祝福と取るかは、人それぞれの受け取り方だけど、これを耐えれば、人は永遠の生命を得る事になると思う。

まあ、永遠の命がどう言う意味なのかは、僕には分からないし、永遠の命が、どう言う形で、人類にもたらされるのかも、ちょっと想像がつかないけど、キリストの復活と、終末と、生命の木の実の秘密は、全て、この神が握っているんだと思うよ、と夫は言った。

その後、秋宮を参拝し、今回の宿泊先である塩尻のスパホテルへと向かった。

守屋山のハイキングで心地良く疲労していた私達は、サウナやジェットバスで、ハレルヤ、復活を遂げた。

夜は焼肉屋さんで、骨付きカルビを沢山食べた。

何か、ここの骨付きカルビ、ジューシーなビーフジャーキーみたいで、めっちゃ美味しい、と私は思った。

夫は、焼肉の脂っぽさは、マッコリで流すと、マッコリをまるで牛乳のように飲んでいた。

夫は、内臓系が好きなようで、ホルモンやセンマイを食べていた。

ああ、幸せだなあ、と私は思った。

さて、新しい朝が来た。

希望の朝である。

今日は、戸隠でお蕎麦を食べる予定なので、私達は、スパホテルを七時過ぎに出来した。

もちろん、お昼の為に朝食は抜いた。

しかし、塩尻から戸隠は意外に遠いんだな。

と言うより、長野って思ったより大きい県だな、と私は思った。

私的には神も悪魔も、いるとも思ってないし、いないとも思ってない。

でももし、黙示録の悪魔が地獄から解き放たれたとしたら、陰陽師は、一体、どのように対応するのだろう。

ふと気になって、それを夫に尋ねてみた。

夫は、しばらく考えた後、個人としては出来る事なんて殆どないよ。

せいぜい、玄関に三峰山のお札を貼るとか、蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんかもん)の護符を貼るくらいしか出来ないかな、と言った。

夫が語るに、三峰の護符も、蘇民将来の護符も行疫神(ぎょうやくじん)に対して強い効力を持つと言う。

まだ菌やウィルスの存在が確認出来なかった時代は、民間信仰の中で、疫病は獣の悪霊が引き起こすと考えられていた。

風邪を引くと葱を首に巻いたり、肛門に葱を差し入れたりするのは、葱を苦手とする獣に対し、喉元や内臓を食い荒らされない為の呪(まじな)いであると言う。

安政5年(1855年)から甲斐や駿河でコレラが大流行した。

その際、コレラを引き起こすのは孤狼狸(ころり)と呼ばれる獣の妖怪であるとの噂が流れた。

この時代、獣を殺すのは狼の役割と、狼を眷属として祀る三峰詣りが大いに流行したと言う。

蘇民将来(そみんしょうらい)は、行疫神である素戔嗚尊(すさのお)を助けた事により、その後、素戔嗚尊(すさのお)によって引き起こされる疫病の難を免れた蘇民将来(そみんしょうらい)の逸話が基になった災厄払いの民間信仰である。

蘇民将来(そみんしょうらい)は安倍晴明(あべのせいめい)が編纂したと伝わる陰陽道の秘伝書、簠簋内伝(ほきないでん)にも記載があり、陰陽道との関連も深いとされる。

夫曰く、この日本における蘇民将来(そみんしょうらい)の伝承は、二本の門柱と、かもいに、子羊の血の付ける事で神の災厄を免れた事に端を発するユダヤ教の宗教的記念日である過越(すぎこし)がルーツだと言う。

夫は、疫神(やくじん)を宥(なだ)める方法はいくつかあるけれど、もしも僕に強い権限や権力があったとしたら、天の岩戸開きの神話をモチーフにして、僧侶を百人くらい集めて、法華経の読経をしてもらうかな、と言った。

私は何故、法華経なのか疑問に思い、その理由を聞いてみた。

夫は、般若心経や、真言、念仏と同じく法華経は、経そのものに霊力が宿る仏典だと語った。

更に、法華経の経文は、法華経を奉ずる者を助ける為に、あらゆる神々を召喚する経文であると言う。

そう考えると、聖徳太子は、本当に預言者だったのかもね、と夫が唐突に言うものだから、私は何で?と思わず聞いてしまった。

夫は、法華経には、唯一成仏を果たす、八歳の龍女が登場するんだ、と言った。

法華経が成立した当時も、畜身で、子供で、しかも女性が成仏するなんて、とても考えられなかった筈だよ。

でも、法華経では、そんな龍女が悟りを経て、成仏するんだよ。

つまり、法華経って、龍を成仏させる事が出来る世界で唯一の経典なんだ。

なので、しかるべき場所で、法華経の経文を唱えれば、龍を成仏させる為に、世界中から、あらゆる神々が集まって来るんじゃないかな。

聖徳太子は、恐らく、それを分かっていたから、この日本に法華経を持ち込んだのかも知れないね、と語った。

私は、真偽はともかく、夫の想像力にただただ脱帽した。

しかし、神も仏もいるのかな。

神や仏がいるのなら、世の中はもう少しマシな筈じゃないのかな。

そう思っていると、夫は、まあ、人の世は、人の世なんだから、基本的には、神も仏も助けてはくれないよね。

でも、真っ当に生きている人が、いよいよ危ない目にあった時、不思議な力が働く事があるんだよ。

それは、その人の生き方の結果なんだけど、それでも人は、自分一人の力だけでなく、何らかのお陰様で生きている訳だから。

その不可思議な現象を、昔の人は神や仏の力に喩えたのかもね、と独り言のように呟いた。


https://kakuyomu.jp/works/16817139555110499824/episodes/16817139555114129023 【第36話 世界はありのまま(^^)ノ】より

戸隠には昼前には到着したが、お昼には、まだ少し早かったので、私は、前もって調べておいた忍者屋敷へ行こうと、夫を誘った。

夫は、子供じゃあるまいし、と渋っていたが、いざ忍者屋敷に入ってみると、子供みたくはしゃぎ始めて、終わる頃には、顔がテッカテカになる程、楽しんでいた。

私が、忍者屋敷も、バカにしたものじゃないでござるぞ、と言うと、夫は、ニンニンと激しく同意して、戸隠に来たら絶対に行った方が良いでござると、大絶賛だった。

私達は、戸隠神社の中社の近くにある蕎麦屋さんで、蕎麦を手繰った。

蕎麦も天ぷらも大満足の美味しさで、余韻を楽しんでいると、店員さん同士が会話をしているのが耳に入った。

どうやら戸隠の鏡池には、これからはバスでないと行けないらしい、と言う話しをしていた。

それを聞いた私達は、これは、鏡池に行けって事だろうと、ご都合主義全開になり、早速、鏡池へと向かう事にした。

夫は相変わらずの腰の低さで、蕎麦屋の店員さんに鏡池の詳しい行き方を聞いていたが、蕎麦屋からすぐ近くだと言う。

鏡池に到着すると、私達以外には誰もおらず、私は、その絶景を独り占めにしているようで、思わず、贅沢だな、と呟いた。

夫は、鏡池の前で、後ろを向いて前かがみになり、股から顔を出して、逆さまになった鏡池に映る景色を眺めていた。

すると、夫が、こうして見ると、どっちが上なのか下なのか分からなくなるから、やってみて、と興奮気味に私に言って来たので、私も試しにやってみた。

まあ、誰かいたら、絶対にやらなかっただろうけどな。

そこで見た鏡池に映った景色は、本当にどちらが本当の世界なのか分からない程、美しかった。

私は、直感的に、ここは神話の舞台なんだと思った。

しばらく、私達は、鏡池で遊んでいたが、思い付いたように夫が、牛の神と蛇の神の話しを始めた。

山梨岡神社にはさ、夔(き)の神って言う、妖怪のような神が祀られているって話しをしたよね。

夔(き)は、江戸時代中期の思想家の荻生徂徠(おぎゅうそらい)が山梨岡神社に古くから伝わる、一本足で不気味な木像を、これ古代中国の夔(き)じゃね?と言い出したのが、始まりとされてるんだよね。

この夔(き)は、夔龍(きりゅう)や夔牛(きぎゅう)とも言って、牛の神でありながら、風雨を起こす性質から龍神でもあると考えられているんだよね。

夔きは、紀元前17世紀頃に興おこった古代中国の王朝である殷いん王朝を中心に信仰されていた神なんだけど、伝説では夔(き)は世界に三頭しかいないとされているんだ。

一頭は、黄帝が捕まえて、皮を剥いで太鼓にし、もう一頭は、秦の始皇帝が捕まえて、同じように太鼓にしたと言うよ。

ただ、最後の一頭だけが、何処にいるのかが分からないとされているんだけど、仮に、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の言ったように、山梨岡神社に伝わる謎の神像が夔(き)であるなら、最後の一頭は、大陸から海を渡って、この山梨岡神社にやって来たって話しになるよね。

そもそも、蛇を超える神格の龍って、中国発祥じゃなくてメソポタミア神話が発祥なんだよね。

だから、僕は、この夔(き)の神って、古代メソポタミア神話の神がモチーフになってるような気がするんだよ。

そもそも夔(き)は古代中国の青銅器の文様に見られるそうだよ。

青銅器文明は、古代メソポタミアや、エジプトで発達した文明だけど、やがて様々な国を経由して中国に流入した訳だよね。

同じように、メソポタミアの神々も、同じように様々な国の勃興を経由して、中国に伝わるまでには、大きく変容を遂げていたんだと思うんだ。

だから、そう考えると、夔(き)のルーツは、青銅器と共に中国へとやって来た、古代メソポタミアの神なんじゃないかと思うんだよね、と夫は語った後、まあ、アカデミックな説ではないけどね、と自嘲気味に笑った。

夫は続けて、旧約聖書に登場する最初の預言者、アブラハムってさ、メソポタミアの出身者だから、乱暴な言い方をすれば、聖書ってメソポタミア神話が元になってるとも言える訳だよ。

前にも、ちょっとだけ話したと思うけど、メソポタミア神話には、エンリルと言う、嵐と雄牛を象徴とした神と、エンキって言う、水と蛇を象徴とした神の対立って言うのがあるんだよね。

この対立って、聖書で言う所のヤハウェと蛇との対立だったり、農耕民であるカインと、遊牧民であるアベルの対立とも見て取れる訳だよ。

もっとも、日本は、古来から家畜を飼う習慣が盛んでなかったからか、牛の神の信仰も、あんまり普及しなかったんだけどさ。

まあ、そんな中でも日本神話の素戔嗚尊(すさのお)による八岐大蛇(やまたのおろち)退治のエピソードは、元々古代メソポタミアまで遡る、牛神と蛇神の対立がモチーフになってるんじゃないかと思うんだよね。

牛頭天王(ごずてんのう)と集合されたのは素戔嗚尊(すさのお)だけど、日本神話に登場する、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)って人も、素戔嗚尊(すさのお)と同じように、牛が象徴になってる人なんだよね。

確か、前にも言ったと思うけど、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、角がある人って意味で、この都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)には、天日槍(あめのひぼこ)って言う別名があるんだ。

天日槍(あめのひぼこ)って、元々は新羅の国の王子だったんだけど、妻を追って日本へ渡って来ちゃうんだよね。

この天日槍(あめのひぼこ)の妻って言うのが、阿加流比売神(あかるひめのかみ)と言う、女神なんだけど、この神の出生の逸話が、かなり面白いんだよね。

新羅国の阿具沼(あぐぬま)で寝ていた女の股間に、虹色に輝く日が射して、女はたちまち妊娠し、産んだのが、赤い玉だった。

女の出産を見ていた商人の男が、その玉を譲って欲しいと女に願い出て、赤い玉は、男のものになった。

ある日、商人の男が商いの為に、食料を括り付けた牛を引いていると、道すがら天日槍(あめのひぼこ)と出会う。

思い込みが激しいのか、天日槍(あめのひぼこ)は、牛を引いた男を見て、男が牛を食べようとしてると勘違いして、男を罰し牢に入れようする。

男は勘違いだと弁明するも、天日槍(あめのひぼこ)は許さない。

最後は、赤い玉を差し出して、男は、やっと天日槍(あめのひぼこ)に許してもらえた。

その後、天日槍(あめのひぼこ)が赤い玉を持ち帰って床の近くに置くと、なんと赤い玉はたちまち美女に変化したので、天日槍(あめのひぼこ)は女を正妻とした。

女は美味しい料理を作り、お互い楽しく暮らしていたが、ある日、驕り高ぶってしまった天日槍(あめのひぼこ)の暴言に怒り、女は両親の国へ帰ると言って、難波の津へと旅立ってしまった。

それを、追って日本へとやって来たのが、天日槍(あめのひぼこ)なんだ、と夫が言った。

天日槍(あめのひぼこ)は神功皇后の先祖だから皇室には、新羅の国の王子である、この人の血が入っている事になるんだけど、この天日槍(あめのひぼこ)のエピソードって、牛とか、生贄とか、太陽なんかの牛神を構成する要素が多分に盛り込まれているよね。

更に、女の股間に射し込んだと言う虹は、蛇の暗喩になるから、蛇神との繋がりも示唆されている。

この逸話って、何か怪しいよね。

古事記には、素戔嗚尊(すさのお)と大宜都比売(おおげつひめ)と言う女神とのやり取りがあって、素戔嗚尊(すさのお)も大宜都比売お(おげつひめ)の提供した食事に対して怒り、大宜都比売(おおげつひめ)を斬り殺したりしている。

日本書紀では、素戔嗚尊(すさのお)は新羅の曾尸茂梨(そしもり)と呼ばれる牛頭山(ごずさん)を経由して出雲に天降っているから、どうにも、この新羅王子の天日槍(あめのひぼこ)と素戔嗚尊(すさのお)には、幾つか共通してる部分があるんだよね。

夫は何か思い付いた様子で、聖書に登場する、最初の預言者のアブラハムは、メソポタミア地方のウルって言う都市の裕福な遊牧民だったそうだよ、と言った。

アブラハムは神から直接啓示を受けて、約束の地カナンを目指すんだけど、それ以前は、故郷のウルから、ハランと言う街に長い間、滞在してるんだよね。

ウルもハランも、月神ナンナを崇拝する宗教都市だから、ここに暮らしていたアブラハムは、恐らくヤハウェが登場する以前の月の神であるナンナを信仰していたと思うんだ。

ナンナは牛の角を象徴とする三日月をシンボルにしている神だから、恐らく、この神が、日本神話の素戔嗚尊(すさのお)のモデルなんだと思う、と夫は語った。

月神ナンナの別名はシンと言い、モーセが神から十戒を授かったシナイ山は、この月神シンが語源であると言う。

だとしたら、シナイ山でモーセに十戒を授けた神は、この牛の角をシンボルとする月神シンなのではないか。

月の神。

日本神話で言う所の月神は、月夜見尊(つくよみ)である。

この月夜見尊(つくよみ)は、伊邪那美(いざなみ)を追い、黄泉へと降った伊邪那岐命(いざなぎ)が、地上に戻る際に、黄泉の穢を禊いだ事によって産まれた神であり、天照大神(あまてらす)や、素戔嗚尊(すさのお)と並ぶ、三貴神(みはしらのうずのみこ)の一柱である。

しかし、それだけ高貴な神であるにも関わらず、月夜見尊(つくよみ)のエピソードは極めて少ない上に、大宜都比売(おおげつひめ)を斬り殺すエピソードが、古事記では素戔嗚尊(すさのお)なのに対し、日本書紀では、月夜見尊(つくよみ)となっている。

この事からも、月夜見尊(つくよみ)と素戔嗚尊(すさのお)は、実は同じ神であり、大宜都比売(おおげつひめ)もその名から、月との関係が示唆されていると思われる。

モーセは、エジプトのファラオの圧政に苦しむイスラエルの民を率いてエジプトを脱出したとされる。

徐福もまた、モーセと同じように秦の始皇帝から逃れる為に、一族郎党を率い、日本へとやって来た。

ならば、徐福もモーセと同じように角を象徴とする月神を奉じていたのではないか。

仮に、素戔嗚尊(すさのお)が、ユダヤの民である徐福の宗教的背景を表現しているのであれば、全ての辻褄が合う。

月と黄泉。

古代、女性の子宮は黄泉と繋がっていると考えられていたと言う。

医療が発達していない古代は、誕生と死は常に隣り合わせであった。

また、月経は月の穢けがれであり、黄泉の穢れである事から、月と黄泉は密接に繋がっていると考えられて来た。

月見里(つきみざと)と書いて、やまなしと読める人は、そうそういないだろう。

しかし、古くから、月が綺麗に見える場所は、月見里(やまなし)と呼ばれたと言う。

その事からも、古代の甲斐国と月は、非常に深い関係だったのではないか。

万葉集の甲斐の国の枕詞が、生黄泉(なまよみ)であるのは、そうした理由もあるのではないかと、夫は語った。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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