③ 幻の蘇我氏

http://www2.plala.or.jp/cygnus/st9.html 【捨てざり難い説 幻の蘇我氏】 より

20.宗賀之倉王

 今更言うまでもないでしょうが、「乙巳の変」とは飛鳥板葺宮の大極殿で「中大兄皇子」等によって行われたという、『日本書紀』が伝える宮廷クーデターです。

 被害者は「蘇我入鹿」ですが、この結果「蘇我本宗家」は滅亡しました。しかし、「蘇我氏」は奈良時代以降も貴族として名を残しています。もちろんこれまで証明してきた通り、大極殿での殺人劇ではありませんし、事変ということでもなかったと思います。

 ただし、「蘇我入鹿」が殺されたという事実はあったに違いありません。『日本書紀』は史書ですが、奈良時代当時の人々にとっては近代書です。読者が、あの事件か~、と思い当たる事件があったはずなのです。

「乙巳の変」を伝える文献は『日本書紀』を除けば、『藤氏家伝(大織冠伝)』だけです。

『家伝』は「藤原氏」の史書ですし、天皇家の史書とも言える『日本書紀』もまた「藤原氏」が大きく関わる文献のように言われています。

「乙巳の変」の首謀者は、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」の両人ですが、この両人は各々、天皇家・「藤原氏」を代表する人物といっても過言ではありません。

 その両家の史書のみが「乙巳の変」を伝えている、ということは、この事件が両家の歴史に、上手く利用されていると考えられます。事実そうだと思います。

 この「蘇我本宗家」と言われている「蘇我氏」ですが、私は前述通り、「蘇の我氏」であり、「息長氏」の異表記だったと考えています。

「乙巳の変」の後、「蘇我氏」は「石川氏」と改め後世へと続いていくのですが、この「石川」の名乗りは、造作である「蘇我石川宿禰」を除けば、「馬子」の孫である「蘇我倉山田石川麻呂」が初めてです。つまり「石川氏」のルーツはここから始まっているのわけですが、『古事記』には欽明天皇の御子に「宗賀之倉王」が名を連ねています。

『日本書紀』の「倉皇子」と同一視される場合もあるようですが、『古事記』の系図は信頼性が高いと考えている私にとって、この二人は別人です。

 かねてより「蘇我倉山田」の「倉山田」を疑問に思っていたのですが、これは「蘇我・倉山田・石川麻呂」ではなくて、「蘇我倉・山田・石川麻呂」と読まなければならなかったのであり、「石川麻呂」は「蘇我倉氏」だったのです。

 「蘇我氏4代」は百済王家の後裔であったと考えていますので、皇別である「蘇我倉氏」とは別族です。もっとも「蘇我氏4代」は「蘇の我氏」であり、「蘇我倉氏」は「蘇我の倉氏」なのですが、漢字表記は発音どおりではないので、しばしばこのように歴史認識に混同が発生してしまいます。

「蘇我本宗家」、いわゆる「蘇我氏」の本流は「蘇我氏4代」ではなく、初めから「蘇我倉氏」であり、後裔の「倉山田麻呂系石川氏」であったと思います。

「石川」の名は「河内国石川」にちなんでいると言います。

これを理由に「蘇我氏」の出自を「倭」であったという説がありますが、「蘇我倉氏」ならば、それもあてはまるでしょう。しかし、「蘇我氏4代」には「石川」に関する名乗りは全然ありません。

「蘇我氏」の出身は「河内の石川」である、という説の根拠は、「蘇我氏」と「蘇我倉氏」を同族視するところからであって、これが名乗りのよく似た別族であったに違いないので、「蘇我氏4代」からは「河内の石川」の匂いは全然感じられません。

 むしろ知れば知るほど、朝鮮諸国に繋がるものばかりです。仮に、系図が確かだとすれば、「馬子」からみた場合「石川麻呂」も、「入鹿」も孫です。ただし私は「蘇我蝦夷」の存在を造作と考えているので、「馬子」と「入鹿」は親子なのですが、系図などどのようにも造作で

きたであろうこの時代に、「蘇我蝦夷」・「入鹿」親子が天下の大悪人だとすれば、「石川氏」が自祖とした理由が理解できないのです。

 結論から言ってしまうと、「蘇我氏」の悪人ぶりは『日本書紀』による造作であったということです。先にも述べましたが、『籐氏家伝』は「藤原氏」の私書であり、『日本書紀』の編纂には「藤原不比等」が大きく関わっていた、と言われています。その両書だけが「乙巳の変」を伝えているわけです。

 特に『籐氏家伝』は「入鹿」をライバル視しています。これを逆手にとって考えれば、「蘇我入鹿」は「藤原氏」の政敵でこそあったのでしょうが、大悪人であったはずがありません。

 私は「馬子」・「入鹿」を、それぞれ崇峻・舒明に比定しています。「石川氏」は『古事記』が述べているように欽明天皇に繋がる皇別ですから、何も「蘇我氏」を祖とする本系図である必要はありません。 

もちろん、外圧によって書き換えさせられたのでしょうが、どこかに真実を隠しておくものです。「石川氏」の祖「倉山田麻呂」の竪系図は、石川宿禰─満智─韓子─高麗─稲目─馬子┬蝦夷─入鹿  │ └倉麻呂─倉山田石川麻呂

となっていますが、「蝦夷」は実在ではないと解釈しているので、これを削除します。「倉麻呂」と「倉山田石川麻呂」は明らかに同一人物だと思いわれますが、「蝦夷」一代を挿入したため二人になったと考えます。

さらに「崇賀之倉王」が欽明の皇子であるので、石川宿禰─満智─韓子─高麗─稲目─馬子────入鹿

 欽明─崇賀之倉王─倉山田石川麻呂

となり、「稲目」が欽明でない限りこの堅系図は交わりません。

しかし「石川氏」の主張はこの一点にあるとしか思えません。実は「稲目」が欽明天皇であり、継体天皇の皇子「息長阿豆王」であったということです。

そうすると、「蘇我氏」と「石川氏」は通説通り同族であり、私の唱える元々は別の氏族の説明が成り立たなってしまいます。

ところで、倉山田石川麻呂の「山田」・「石川」は地名であると言われています。

 石川は「河内国石川」であることはよく知られていますが、「山田」もまた「石川地方」の地名「山田郷」であったと言います。

 「河内国山田郷」の所在地については、「交野郡山田」(現大阪府枚方市)とする説と、「大阪府太子町山田」とする説があります。

 また「山田」は「倉山田石川麻呂」の氏寺「山田寺」にも、その名を残していますが、「山田」が地名というのならば、「山田寺」の山田のネーミングは不自然です。

 「倉山田石川麻呂」は「山田麻呂」と呼ばれることもありますから、彼の氏寺が「山田寺」ならば、この「山田」は「山田麻呂」の「山田」に違いありません。

 「山田寺」界隈も「山田」・「山田道」(奈良県桜井市山田)という地名がありますが、こちらの由来は「山田寺」からでしょう。

「山田寺」は「山田麻呂」の氏寺だから「山田寺」であると考えられます。ほかにも「山田」を名乗りにする者は、安閑天皇の后、山田皇后がいます。

  山田皇后は仁賢天皇の皇女で、「和珥臣日爪」の女「糠君娘」との間の皇女です。「春日山田皇女」といいます。『仁賢記』では、「和邇の日爪臣の女、糠若子郎女を娶して、生ませる御子、春日山田郎女。」となっています。

  ところが、「春日の日爪臣の女、糠子郎女を娶して生ませる御子、春日山田郎女。

 次に麻呂古王、次に宗賀の倉王。(『欽明記』)」

  「春日日抓臣の女を糠子という。春日山田皇女と橘麻呂皇子を生んだ。(『欽明紀』)」

 となっています。

 「春日臣」は「和珥臣」の支族が大和国添上郡の春日に移住し、その地名を姓として名乗ったのであって、『欽明紀・記』と『仁賢紀・記』はまったく同じ記述となっているのです。

  山田皇后は安閑天皇の后としながら、『安閑記』では皇后の名がみえません。つまり『古事記』は安閑后である山田皇后を認めていないのです。

『欽明紀・記』、『仁賢紀・記』のどちらかが誤記であることは間違いありません。

『古事記』の系譜をより確からしいものとしているので、『欽明紀・記』を正しいものと考えますが、おそらく正解だと思います。

 「春日山田皇女」は欽明天皇の皇女であったのです。そう考えると、「春日山田皇女」の「山田」と、「宗賀之倉王」系である「蘇我倉山田石川麻呂」の「山田」は同類の名乗りであり、『古事記』にしか「宗賀之倉王」の記載がなくても、「蘇我倉氏」は皇別氏族である証なのですが、話を元に戻しましょう。『日本書紀』だけを見れば、安閑の皇后であった「春日山田皇女」の弟に「蘇我倉皇子」はいません。

「蘇我倉氏」の後裔である「蘇我臣」が「石川臣」と改めたのは、天武天皇十一年(682)十二月であるとのことですが、草稿はあったと思われますが、この時はまだ『日本書紀』ですら成立していません。私見による『古事記』の成立はもっと新しく、平安時代初期であろうと考えています。

 皇別氏族とは、祖が天皇・皇子と同じであるという氏族です。「蘇我倉氏」が「蘇我氏」と同族でなければ、「蘇我倉氏」を皇別氏族と位置づける文献は『古事記』だけです。      

 実際に皇別であった「蘇我倉氏」が、「蘇我入鹿」の死後「蘇我氏」を名乗っていたために、天武朝で「蘇我臣」の氏人、つまり構成員とされてはたまったものではありません。 

「石川臣」の竪系図は、もともと「蘇我宗家」の造作した「武内宿禰」 を始祖とする系図に「石川宿禰」を追加し、前半を「石川臣」系図に取り込み、氏上を主張したのだと思います。

  「諸氏の人たちは、それぞれ氏上に適当な人を選んで申告せよ。また一族の者が多い場合は、分割してそれぞれの氏上を定め官司に申告せよ。官司では事情を調べた上で決定するので、官司の判定に従え。ただしとるに足らぬ理由によって、自分の一族でない者まで、自分の族に加えてはならぬ。」 これは、天武十一年十二月三日の詔です。

 申告制という何とも大胆な詔ですが、この制度の発足があっての「石川臣」への改姓なのですから、改姓後の「石川臣」にとっては、ラッキーな制度であったと思います。

  しかしながら、「壬申の乱」は「蘇我倉氏」の後裔であった「蘇我氏」の活躍により勝利したとも言えます。物理的な面から言えば「尾張氏」の協力無しの勝利はあり得ないでしょうが、「近江朝」を脱出した「大海人皇子」を安全な場所まで護衛したのは、「蘇我赤兄臣」・「蘇我果安臣」であり、彼らは系図上「蘇我倉麻呂」の息子です。

 この氏姓制度はラッキーだったのではなく、むしろ天武天皇の配慮だったのかも知れません。そして「蘇我宗家」とは、滅亡した「稲目」─「馬子」─「入鹿」、の「息長」名乗り系ではなく、「宗賀之倉王」系であったと見るべきではないでしょうか。

 平安朝以降、歴史の表舞台から名を消した「石川臣」ですが、一部一族の移動の土地は、石川県として現代にまで名を残すほどの豪族だったのですから、こちらこそ「蘇我宗家」と言うに相応しい一族であったと思います。

「蝦夷」・「入鹿」の「蘇我宗家」が滅び、支族が生き延びたのではなく、「蘇我倉宗家」として滅ぶことなく面々と続いて行ったのです。

21.乙巳の変 

「要するに、『改新』後の政治路線とそれをおし進めた人びとは、蘇我本宗家の滅亡にもかかわらず『改新』前のそれらの展開線上認められるものである。(「門脇禎二」氏著『「大化改新」史論』思文閣出版)」

 門脇氏の言わんとするところは、「大化改新」前の政治路線は、「改新」後も引き継がれたということです。「改新」後とは孝徳朝のことですが、孝徳天皇は皇極天皇の同母弟であり、皇極の譲位により即位した天皇です。

 孝徳朝は皇極朝の政治路線を引き継いで当然のように考えられますが、皇極朝の政治とは専横を極めたと言われている「蘇我氏」の政治です。

 つまり孝徳朝が引き継いだ政治路線というのは、「蘇我氏」の政治路線だったわけで、何も変わってないということになります。

 特に不可解なことは、「乙巳の変」の直接の原因となった「山背大兄皇子」殺害の実行犯である「巨勢徳太」が、孝徳朝の中枢に居ることです。

  「乙巳の変」は『日本書紀』の記述に従えば、まぎれもなくクーデターなのですが、これでは「乙巳の変」の遂行に大義名分が立ちようがなく、単に「入鹿」が邪魔だったから殺したというテロ行為になってしまいます。

 ただし孝徳天皇が「入鹿」側で、「入鹿」亡き後の政治を引き継いだとすれば、何も変わってないことはむしろ当然のことです。 結局そういうことなのです。

  「入鹿」殺害を除けば「乙巳の変」は有名無実であり、『日本書紀』上の物語であったに過ぎなかったのです。

 「入鹿」殺害は史実だと思います。 なぜなら、『日本書紀』成立時から見れば、「乙巳の変」は近代史であり、読者が「ああ、あれか。」と思い当たる事件がなければ、記述に不信を持たれるからです。

 まず第一に、皇極天皇から「軽皇子」への譲位はあり得ません。

  皇極天皇は、九州百済王朝の「田村皇子」に嫁いだ「高向王」の元后で、「田村皇子」の死後、九州百済王朝の頂点に立ったかも知れませんが、皇極と「田村皇子」との政略結婚後の日本列島の皇帝は「高向王」、すなわち「蘇我入鹿」であり、舒明天皇時代の本当の大王です。「軽皇子」すなわち孝徳天皇が引き継いだものは、「入鹿」政権であり、皇位も「入鹿」から受け継いだものです。

 『日本書紀』によれば、皇極天皇は孝徳天皇を隔てて斉明天皇へと重祚していますが、譲位も重祚もしておらず、「田村皇子」の死後「中大兄皇子」が台頭するまでの間、ずっと九州百済王朝のトップでした。 

しかし「日本国」としての大王は、舒明─皇極─孝徳─斉明ではなく、

 入鹿─山田─孝徳 皇極(斉明)は合体王朝であった孝徳朝が、「中大兄皇子」のゲリラ戦

により弱体化し分解した間隙を縫って立った天皇で、即位という意味では、斉明の時の一回です。

 さて、「倭国」の「高向王」=「入鹿」は政略結婚のため、自身の后、「宝皇女」を「九州百済」の「田村皇子」へと嫁がせました。人質でもあったでしょう。

 「田村皇子」の死後、「宝皇女」は「明日香」の地に移ってきました。『日本書紀』では「蘇我倉山田石川麻呂」を仲介役として記していますので、実際もそうであり有能な外交官だったと思います。

「蘇我入鹿」は大極殿で暗殺されたのではありませんでした。 要害堅牢な城と化している甘樫の丘の入鹿邸に、わずかな手勢で侵入し殺害を試みることは、よほど親しい者でもない限り不可能でしょう。

 「乙巳の変」(の元となった事件)は、そのよほど親しい者であった皇極天皇こと「宝皇女」の単独犯だと考えています。

  「宝皇女」が「明日香」の聖王「蘇我入鹿」殺しの犯人だったからこそ、『善光寺縁起』にある地獄に堕ちたり、葬儀に鬼、豊浦大臣の霊が現れたりしたのです。

 「黒岩重吾氏」の著書のひとつに、『落日の王子・蘇我入鹿』があります。今は文春文庫から発行されており、手軽に読むことができます。

  その一文に、次のような箇所があります。皇極天皇と蘇我大夫と、私の唱える立場とは逆ですが、「入鹿」が殺害されるとしたら、こういう情景だろうな、と思えてなりません。

  「厩坂宮から畝傍山までは僅かな距離だった。入鹿は兵士達に離れて警護するように命じた。兵士の一人が入鹿の馬の手綱を取った。采女達も二人から離れ、咲き乱れている花々を摘みながら楽しそうに歩いていく。薄紫の藤の花や白い卯の花、触れるだけで指が染まりそうな紫色のかきつばた。様々な色をしたあじさいが山野を彩っていた。微風と共に花の香りが匂って来る。当時の山野には、現代では想像出来ないほど花々が多かった。

 采女達にとって、この季節の山野の散策は楽しみの一つだった。

自然宝皇女と入鹿から注意が外れる。入鹿は三尺ほど後ろから歩いたが、宝皇女は野の花を摘みながら入鹿を待つ。そんなことを繰り返しているうちに次第に二人は肩を並べて歩いていた。」「宝皇女」は「入鹿」を愛していたのに違いありません。

 政略結婚により、愛する子から生き別れにされた「宝皇女」の辛み悲しみは、いつしか遺恨となっていたことでしょう。それを愛する者がしくんだのですから、なおさら強い怨恨となって心奥深く蓄積されていったことだと思います。

 どういう状況で面会することになったかはわかりませんが、おそらく、「入鹿」が事前に使者を遣い、訪ねていったことだと思います。

 徐々に警護の者から距離を取り、逆に近くなっていた二人の距離が、殺意の大きさと変わっていった瞬間だったと推察します。

  とっさ的な反抗だったと言えば、そういうことになるでしょう。しかし、この反抗だけが「乙巳の変」という大場面に姿を変えたわけではないと思います。

 それには「蘇我倉山田石川麻呂」の冤罪、そして自殺へという一連事件をヒントにしていると思います。

「山田大臣」は冤罪により自殺しました。しかしなお、「大臣の首を斬らせた。」

「太刀を抜いてその肉を刺し、叫び声をあげてこれを斬った。」という死者に対する行為は、それが「乙巳の変」の最大の協力者であるはずの「山田大臣」に対してですから、まさに異常としか言いようがありません。つまり協力者という立場は『日本書紀』の造作です。

  現在では、「乙巳の変」のほうが「大化改新」として日本史の教科書で露出が多いため誰もが知っているほど有名ですが、正直、残虐さと無謀さでは、「乙巳の変」を超えています。

  この事件のカモフラージュに「乙巳の変」をねつ造したのではないかと考えられるほどですし、そう考えています。「入鹿」の死後、皇帝位に就いたのは「蘇我倉山田石川麻呂」です。 そして、山田大王の死後、新皇帝に就いたのが「軽皇子」孝徳天皇であり、「白雉」と改号したのでした。

「大化改新」否定論者は、元号の「大化」も認めていない傾向です。

  「乙巳の変」後、「大化」と改号。

  「山田麻呂事件」後、「白雉」と改号。

  このタイミングは、コピーかと思えるほどそっくりです。  

奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている山田寺仏頭は、その名の通り山田寺のものでした。興福寺側が山田寺より強奪したのです。

その経緯は省略するものの、興福寺が火災にあったため、現在は頭部しか残っていないということですが、これが「山田麻呂」の屈辱感の現れのようでたまりません。 

 最期に、皇極元年十二月十四日に、「十四日、息長山田公が歴代の日嗣ぎの次第を誄によんだ。」とあります。これは「蘇我倉山田石川麻呂」のことだと思います。

 「蘇我倉氏」が「蘇我氏」と同族化した後の記述と考えています。

                        2014年 1月 了

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