②幻の蘇我氏

http://www2.plala.or.jp/cygnus/st9.html 【捨てざり難い説 幻の蘇我氏】 より

11.「小野と蘇我」

『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類していますが、それは欽明天皇の皇子「宗我之倉王」を理由とすれば、「蘇我石川氏」のことであり、系譜上武内宿禰を祖としていても「蘇我氏」が皇別とは認識されていなかったと思います。

皇別が事実であったとしたら、後世の「源氏」・「平家」の例から考えても、『蘇我氏の専横』などという歴史解釈は生まれないでしょう。

仮に、「蘇我石川宿禰」を祖とする系図を認めたとしても、「稲目」・「馬子」・「蝦夷」・「入鹿」の4代は、「蘇我倉氏」の系図に別に一系統、無理矢理はめ込まれたように見て取れます。第一、この4代の母系が不明であるということ自体異常です。いくら、『日本書紀』が「蘇我本宗家」を不名誉に記録しても、天皇に次ぐ大臣家である以上、母方の記録がないはずがありません。

ということは、「蘇我氏4代」とは架空の人物像であり、モデルとなった 本当の人物は別に記されている可能性がないとは言えない、と思うのです。

まず断言できることは、本当の崇峻天皇とは、皇后「布都媛」で重なってくる「蘇我馬子」です。というと、誤解を与えかねないのですが、『崇峻記』・『崇峻紀』に該当する天皇は、「蘇我馬子」だったということです。

 前述の「西野凡夫」氏の言葉を借りれば、「まず手始めに、崇峻天皇を自らの手で殺害して、悪大臣蘇我馬子として蘇生させたのである。」ということになり、この証明は『特別編・蘇我氏三代』に記してあります。

 他にも「蘇我馬子」は、解る限り二人の別人に変わっています。一人は「蘇我蝦夷」であり、もう一人は「小野妹子」です。

「小野」と「蘇我」は、単なる方言差による当て字に違いに過ぎないことを、『特別編・蘇我氏三代』で述べていますが、「馬子」と「妹子」との発音の類似も、転訛のうちに収まってしまいます。歴史言語学者の「加治木義博」氏は、 「小野妹子」・「蘇我蝦夷」・「蘇我馬子」の3人は同一人物だったといっても間違いはない、と言っています。

この3人を繋ぐキーワードは、皇極四年夏四月一日にエピソードが記されている「鞍作得志」です。「鞍作」に関しては皇極紀に「鞍作臣」が記されており、それは「蘇我入鹿」のことです。つまり「鞍作」は「蘇我氏」の別称であったと考えられます。「加治木義博」氏は、同一人物説を次のように説明しています。

「このエミシに、重要な手掛かりが幾つもある。まず『日本書紀』の皇極天皇四年四月の記事に、高麗の学問僧の中に『鞍作得志』という姓名をもった人物がある。この「得志」という名が役く立つ。これは真ん中に、「ミ」を挟むと「得ミ志」すなわちエミシになるからである。

これは入鹿と同国、同姓で、同族であることは間違いないから、この鞍作を単純に蘇我と置き変えただけで「ソガ・エミシ」ができあがる。『日本書紀』は、ありもしない『大極伝の場』さえでっちあげているのだから、ありえないことではない。 

 次に「得ミ志」のミを「目」に置きかえると、「得目志」になる。なぜ目に置き変えたかというと、沖縄語では目は「ミ」と発音するからである。

次に志を同じ「シ」の音のある「子」にすると「得目子」になる。これは「エミシ」と読めると同時に「ウマコ」と読める。『日本書紀』が使った原本に。この当て字があったとすれば、ある編集者は「エミシ」と読み、他の編集者は「ウマコ」と読んで、それぞれに新しい文字をあてはめる。そこで「蝦夷」と「馬子」という二人に分裂する。

 …「鞍作得志」こと「ソガ・ウマコ=エミシ」と、同じ時期に帰ってきた[ソガ・妹子]との名が、非常によく似た、ごく近い名であることが捨てておけなくなる。

[得志=得子]の「得」は「エる」と発音するが、沖縄の言葉では「イる」で、また「モ」の発音は「ム」である。だから標準語の「エモ」は、「イム」になる。この「イム」は中国の役人が妹子の名に当て字した[因]の字の発音とピッタリ同じである。

 ここまでわかると[高]は「コー」で、[子]の「コ」と同じ発音に対する当て字。[志]は[子]を「シ」と発音したものへの、別人の当て字だったとすぐわかる。

 これで小野妹子と鞍作得志と蘇我蝦夷と蘇我馬子とは、少なくとも同じ名前だったことがわかる。同一人物だといっても間違いではない。(『虚構の大化の改新と日本政権誕生』KKロングセラーズ)」

12.遣隋使「小野妹子」

 私の考えでは、少なくとも「小野妹子」の一回目の遣使はありません。「妹子」は「百済」を通過するとき、煬帝からの書が盗難にあった、と報告していますが、それはあり得ません。書は「裴世清」が持参していたはずです。

なぜなら、「使者裴世清は自ら書を持ち、」と『日本書紀』にあり、書の内容が記載されています。つまり「妹子」が盗難に遭う必然性がないのです。

『隋書』と『日本書紀』とは、外交の記録がかなり異なっています。 

  600年 『隋書』

  607年 『隋書』・『日本書紀』

  608年 『隋書』・『日本書紀』

  609年 『隋書』・『日本書紀』

  610年 『隋書』

  614年 『日本書紀』   

このうち、607~609年の外交が、国書「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや 云々」に関連した、つまり「裴世清」が「倭国」に来るに至った外交記録です。『隋書倭国伝』は、「倭国」からの使者の名、「大礼蘇因高」を挙げていません。

『中国史』おいて大使の名を記載していないことは、例のあることです。

しかし、『日本書紀』は大使「小野妹子」のことを、「大唐の国では妹子臣を名づけて、蘇因高とよんだ。」とまで記しており、さらに「大唐の使人裴世清と下客十二人が、妹子に従って筑紫についた。」とも記しているのです。

『日本書紀』はこの後、「十一日、客人裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子臣を大使とし、吉士雄成を小使とした。」と、ここでも「小野妹子」らの名を挙げているのですが、『隋書倭国伝』はわずかに「使者」の一言です。

 ところが興味深いことに『隋書倭国伝』は、「裴世清」を「倭国」で迎えた「小徳阿輩台」と「大礼哥多比」の名は冠位まで記しているのです。これは全く以て不可思議なことと言わざるを得ません。

その使者は、「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興す、と聞いている。故に遣わして朝拝させ、かねて沙門数十人が、中国に来て仏法を学ぶのである。」と言ったと『隋書倭国伝』は記しています。

また、「上は文林郎裴清を遣わして倭国に使させた。」とあって、「裴世清」の「倭国」への渡航は、「倭国」の使者は帯同してないように読めます。

「裴世清」の帰国時は、「宴享を設けて清を遣わし、また使者をして清に随い…」と、使者の随行を記しています。このようなわけで、「裴世清」に随行した609年の遣隋使は、「小野妹子」だったのかも知れません。

 しかし、607年の遣隋使は国書を携えていったわけですから、正使には違いありませんが、彼らは仏法習得を目的とした留学生集団であり、そのまま中国に留まったのではないかと思われます。

よく「中国との対等外交を目指した倭国」などという説を耳にしますが、欺瞞に充ち満ちた『日本書紀』自体が、そのようなことを一切記してないのみならず、「東の天皇が、謹んで西の皇帝に申し上げます…」と『日本書紀』が記しているのですから、対等どころか充分謙っていると思えます。

 私的には、「日出ずる處の天子…」「東の天皇が、謹んで西の皇帝に…」も意味に大差なく、これは「倭国」の本意ではなく(用法の間違いは別にして)、中国側に誤解があったものと思われます。

 煬帝は、学問の道に目を輝かせた学生が、その態度とは裏腹な意味の国書を持参してきたことから、「倭国」の外交姿勢を怪しんだのであり、学生等が「隋」に留まり勉強することを希望したので、「裴世清」を筆頭とする使節団を遣わしたのだと思います。

 「小野妹子」が「蘇我馬子」の当て字だったとすれば、「馬子」が遣隋使として「隋」に渡っていることになります。前述どおり、609年の遣使に限れば「妹子」は「隋」に渡っていないとは言えないかも知れません。

 しかし、「馬子」=「妹子」の立場からみれば、絶対に遣隋使ではあり得ません。この当時の「蘇我馬子」は、畿内の大王であったと考えられるからです。

 私は、「小野妹子」が「隋」で「蘇因高」と訳されたのではなく、「蘇因高」が「倭国」で「小野妹子」と訳されたのではないか、という可能性を検討しており、「蘇因高」は「鞍作福利」のことだったのではないかと考えていますが暗中模索です。

13.「推古天皇」

推古天皇といっても、『記紀』が記す「豊御食炊屋媛」のことではありません。

推古天皇時代の本当の大王は、「物部守屋」の妹であって「蘇我馬子」妃であった「物部鎌姫大刀自連公」です。しかし崇峻天皇が亡くなったから「鎌姫」が即位したのではなく、崇峻

 は「鎌姫」に譲位したものと思われます。もちろん崇峻とは「蘇我馬子」のことです。

 推古十九年夏五月五日の条以降、翌年の五月五日まで『日本書紀』は、大変興味深い記述をしています。

「十九年夏五月五日、大和の菟田野に薬猟をした。夜明け前に藤原池のほとりに集合し、曙に出発した。粟田細目臣を前に部領、額田部比羅夫連を後の部領とした。この日諸臣の服の色はみな冠位と同じにした。冠にはそれぞれ飾りをつけた。大徳・小徳はいずれも金を使い、大仁・小仁は豹の尾を用いた。大礼より以下は鳥の尾を用いた。」-記録①

 「秋8月、新羅は沙喙部奈末北叱智を遣わし、任那は習部大舎親智周智を遣わし、共に貢をたてまつった。」-記録②

「二十年春一月七日、酒を用意して群卿に宴を賜わった。この日蘇我馬子は盃をたてまつって、八隈知、我大君、隠坐、天八十蔭、出立、御空見、万代、如、千代、如、此、畏、仕奉、拝、仕、宴杯奉。

(天下をお治めになるわが大君の、おはいりになる広大な御陵、出で立たれる御殿を見ると、まことに立派で、千代万代までこのようにあって欲しい。そうすれば畏こみ、拝みながらお仕えします。私は今、お祝いの歌を献上いたします。と寿きのことばを申し上げた。天皇が答えて歌われた。真蘇我、蘇我子等、馬、日向、駒、太刀、呉真鋤、宣哉、蘇我子等、大君、使。

 (蘇我の人よ、蘇我の人よ。お前は馬ならばあの有名な日向の国の馬、太刀ならばあの有名な異国の真太刀である。もっともなことである。そんな立派な蘇我の人を、大君が使われるのは。」-記録③

「二月二十日、皇太夫人堅塩媛を、桧隈大陵に改め葬った。」-記録④ 

①から④まで番号をふりましたが、何が興味深いのかというと、記事自体が非常に奇妙であるという点なのです。まず手始めに記録④から説いていきますと、桧隈大陵とは通説では欽明

 天皇比定陵墓、桧隈坂合陵のことと説明されています。(平成三年に見瀬丸山古墳の石室写真がテレビで放映され、これこそ真の欽明天皇陵との声も上がっていますが、それを問題にするつもりはありません。ただし、桧隈大陵と桧隈坂合陵の名称を比較すると、名称の由来から検討してみる限りでは、合葬を意味させる桧隈坂合陵のほうが、より新しいものと考えられます。従って、『推古紀』が完成したか書き改められた後、さらに『欽明紀』が書き改められたものと推測できます。)

 『記紀』は「堅塩媛」を「蘇我稲目」の娘で、欽明天皇の第三妃(『古事記』では第四妃。『古事記』は系図の改ざんがないと考えていますので、第四妃を正式とします。)、そして用明天皇・推古天皇の母であると記しています。

しかし、第四妃でしかない「堅塩媛」をなぜ皇太夫人と称するのでしょうか。なぜ、皇后や第二第三の妃を差し置いて、欽明陵に改葬したのでしょうか。これを第一の疑問、疑問①としましょう。次に記録①です。「この日諸臣の服の色はみな冠位と同じにした。」という薬猟ですが、この装束は「裴世清」を迎賓の儀礼で歓迎したとき「一書には服の色はみな冠位の色を用いたとある。」と同じ装束なのです。これが疑問②です。

次に記録②です。この記録は前年の記録と併せて読むと、おかしな記録となります。 それが次の推古十八年の記事なのですが、「秋七月、新羅の使人沙喙部奈末竹士が任那の使人喙部大舎首智買と筑紫にやってきた。」-記録A 「九月、人を遣わして新羅・任那の使者を呼ばれた。」-記録B「冬十月八日、新羅・任那の使人が都に到着した。…九日、客人たちはに拝礼した。…両国の客人はそれぞれ拝礼して使いの旨を奏上した。四人の大夫は前に進んで大臣に申し上げ、大臣は席を立ち、政庁の前に立って聴いた。終って客人らにそれぞれに応じた賜物があった。…二十三日、客人たちを迎えての儀礼も終り、帰途についた。」-記録C

 記録②は記録Aの意図的な重出ではないでしょうか。つまり新羅・任那の使者が来訪したことは一回であり、それは何らかの目的を持ったものだったということです。

 その目的とは、「客人たちを迎えての儀礼も終り ・・ ・・とあるように儀礼に間違いありません。この国賓を迎えての儀礼が疑問③です。

 そして記録③ですが、「八隈知、我大君、隠坐」とあるように、「馬子」の歌は明らかに挽歌のようなのですが、「仕、宴杯奉」とあり、悲しみを歌った歌ではありません。同時に祝辞でもあるようです。

 その「馬子」への天皇の返歌は、「大君が使われるのは。」と締めているのですから、「馬子」は大王ではないのですが、記録Cにある「客人たちは帝に拝礼した。…両国の客人はそれぞれ拝礼して使いの旨を奏上した。四人の大夫は前に進んで大臣に申し上げ、大臣は席を立ち、政庁の前に立って聴いた。終って客人らにそれぞれに応じた賜物があった。」は、(一部省略しましたので、わかりにくいかもしれませんが)文脈から推察すると、両国の客人が拝礼したのは、「倭国」側の四人の大夫にであって、その大夫らは大臣にその旨を報告したということになり、トップは大臣なのです。

 「帝」はどうかというと、大夫より以前に拝礼を終えているわけですから、地位は大夫以下になりはしないでしょうか。

『推古紀』は「裴世清」の来訪時「大門の前の机の上」とあるように、“みかど”と読ませて「大門」と書く例があります。「帝・御門(ともに“みかど”)」は、天皇を直接名指しすることをはばかった婉曲表現であるから、天皇を表現していることになるのですが、本来の意味は文字通り「御所の門」のことです。 

「帝」=「御所の門」であれば、真っ先に拝礼することは当然であるのですが、そうすると記録Cは、宮殿に天皇はいなかったことを推測させるのです。これを疑問④とします。

 これら①~④の疑問の答えは、ここに紹介した記録が一連の出来事であった、と推測できることの中にあります。

これら一連の出来事がどういうことだったのかということは、前述した記録①~③、記録A~Cの順番を組み替えれば判明します。

 まず第一に、「新羅」・「任那」の使者は何の理由もなく来訪したわけではありません。ましてや観光のため来訪していた使者等を、宮中に招いたはずがありません。

れっきとしたセレモニーのため「倭国」側に招かれた、と考えられます。そのセレモニーとは、記録④である「皇太夫人堅塩媛を、桧隈大陵に改め葬った。」・・

という儀式が一つです。

桧隈大陵は欽明天皇陵といわれています。第三妃でしかない「堅塩媛」を欽明天皇陵に追葬したと言うことは、第一妃、すなわち皇后への昇格を意味すると思います。

私見によれば、『日本書紀』は『欽明紀』から書かれていると考えられます。これを『十巻本』と述べていますが、『十巻本』の初代は欽明天皇なのです。

つまり『日本(書)紀』が『十巻本』当時の感覚では、欽明の皇后はその王朝の初代皇后となるわけです。 ・・ 

 また一つと書いたのは、改葬だけではないと考えているからなのです。 記録③の歌と返歌は、挽歌であり祝い歌です。 挽歌は「堅塩媛」への哀悼だとすぐにわかりますが、祝いは「堅塩媛」にはつながりません。

 これらの歌い手は、「蘇我馬子」と推古天皇なのですが、「馬子」は推古の住まわれる宮殿は大変すばらしいと詠い、推古は「馬子」を代え難く立派だと詠っています。

「蘇我馬子」は崇峻天皇です。このとき崇峻から推古への譲位があったと思われます。もちろん推古は「御炊食屋姫」ではなく「馬子」の妃で、「物部守屋」の妹「物部鎌姫大刀自連公」、「鎌姫」のことです。

改葬と譲位。この二つのセレモニーのために「新羅」・「任那」の使者を客品として招き、「倭国」の諸臣は冠位と同色の服装で迎え、送ったのです。

また「堅塩姫」を欽明天皇の后としたことからは、『欽明紀』から始まる『十巻本』は、蘇我王朝の史書だったと言えるかも知れません。そうすると、欽明天皇の立場が微妙になってきます。 

 つまり「蘇我氏」にとって、王朝の初代と捉えて相応しい天皇でなければ書き出す意味がありません。当然「蘇我氏」の誰かと考えたくなるところです。

「蘇我氏」と天皇家を繋ぐ人物といえば、継体天皇の皇子で「息長氏」の養子となった「息長阿豆王」ただ一人です。“そながあまめおう”、「蘇我稲目」です。 

14.「押坂彦人大兄皇子」

「阿豆王」と「広姫」の子が「押坂彦人大兄皇子」であるならば、「稲目」の子「馬子」は「彦人大兄皇子」に比定できます。

『用明紀』にある「中臣勝海連は自分の家に兵を集め、大連を助けようとした。ついに太

 子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作ったまじないをかけ呪った。」も、実は「馬子」等を呪ったわけで、つじつまが合います。

また、「隋」からの使者「裴世清」が会ったしたのも、譲位する前の大王「蘇我馬子」です。

『隋書倭国伝』が、「阿毎多利思北孤」という男王の存在を記していますが、当然です。

また「馬子」は「厩戸」と書き換えることができ、「厩戸皇子」すなわち聖徳太子は、「彦人皇子」のもう一つの姿と考えていますから、「馬子」は譲位後の聖徳太子です。

 『摂津国風土記逸文』の有馬温泉の条で、「…土人の云へらく、時世の號名を知らず。但、嶋大臣の時と知れるのみ。」という一文が残っていますが、天皇は誰であるか知らないが、嶋大臣の御代だったという重大証言です。

 「嶋大臣」とは「蘇我馬子」です。「馬子」の時代は、敏達・崇峻・用明・推古の御代と重なります。「嶋大臣」の御代とは聞いているが、その時代の天皇を知らないとは、大胆に切り捨ててしまえば『日本書紀』の記す天皇はいなかったということです。

 唯一大臣の「蘇我馬子」が畿内の大王だったということがわかります。しかしその称号に騙されてはいけません。

『真説日本古代史』本編中に書いたことがありますが、君・臣・連に格の違いはなく、最終的に君家が天下を掌握したので、上下関係ができあがったものと考えており、大君・大臣・大連もすべて大王のことでした。「嶋大臣」は、すなわち「嶋大王」なのです。

もう一つ証拠を挙げましょう。『播磨国風土記逸文』に「原の南に作石(つくりいし)有り。形、屋の如し。長さ二丈、広さ二丈五尺、高さも亦かくの如し。名号けて大石と曰ふ。 伝へて云へらく、 『聖徳王の御世に、弓削大連が造れる石なり』といへり。」という一文があります。この「弓削大連」は「物部守屋」であることは言うまでもありませんが、「守屋」は聖徳太子摂政時代の人物ではなく、聖徳王は「厩戸皇子」ではあり得ません。

 この一文を挙げ聖徳太子=「厩戸皇子」は天皇だったという説がありますが、「守屋」在命は崇峻天皇の御代のことです。

結局、崇峻天皇の御代=嶋大臣の御代=聖徳王の御代となり、このことから聖徳王は「蘇我馬子」に比定できます。

『日本書紀』は「蘇我馬子」を持ち上げながら、その一方で、彼が大王であった実態を隠匿するために、さまざまな工夫を凝らしています。

それが『敏達紀』では「彦人大兄皇子」に名を変え、『用明紀』では聖徳太子となり、『崇峻紀』では天皇殺しの汚名を着せられてしまうのです。 

15.舒明と敏達

舒明天皇の和風諡号は、息長足日広額天皇といいます。「息長」とある以上、この時代では「蘇我氏」の誰かと考えなければなりません。

舒明の父は「押坂彦人大兄皇子」です。それは「蘇我馬子」と見なすことができました。

そうであるならば、舒明は「蘇我入鹿」と見ることができます。

 舒明天皇が、イコールで「蘇我入鹿」ではなく、舒明天皇と言われていた時代は、「蘇我入鹿」天皇の時代だったということです。従って、『日本書紀』編纂の後に舒明に充てられた人物は、すなわち、「田村皇子」ですが、トップとして君臨していません。

 継体天皇以降、「百済」が九州へ進出してきてからの「倭国」は、いわゆる二朝並立状態が続いていました。

 九州の「百済」は、多武峰(奈良県桜井市)を畿内拠点にし、「倭京」側と対峙していたのですが、舒明天皇はわずかな時間ながら両朝が統一し、そのトップに立っていた皇帝であったと考えています。

下記の系図は、私が二朝並立の説明の時よく持ち出しますが、─敏達────────舒明──皇極(斉明)┬・・・・天智 近江京 │(合体)

  ─────蘇我馬子──入鹿────────┴孝徳     倭京  物部鎌姫大刀自連公

  もう少し書き換えれば、

           ┌皇極(斉明)──────┬・・・・天智 近江京

  ─敏達──────┴┐           │

            ├皇帝舒明(入鹿) 孝徳(合体)・天武 倭京

  ─────蘇我馬子┬┘           │

           └物部鎌姫大刀自連公───┘

ということになり、実際の舒明も両朝立場を超えた皇帝だったと思います。

このとき「倭国」にあった王朝は、「百済」昆支王系の「蘇我氏」の畿内王朝(「倭京」)と、先に述べた九州にあった「百済」分国の二朝でした。

 とはいっても、九州「百済」のほうは朝鮮半島にあった「百済」宗国に対して分国なので、朝廷というには無理があるかも知れません。

この九州「百済」のルーツは、聖明王の第二王子「恵」(兄は威徳王)だと考えています。

「恵」は欽明天皇の十六年、「十六年春二月、百済王子余小昌は、弟の恵を遣わして奉上し、『聖明王』は賊のために殺されました』と報じた。」とあります。

 このとき「恵」は来訪し、欽明十七年春一月、「百済王子の恵が帰国を願い出た。よって多くの武器・良馬のほかいろいろのものを賜わり、多くの人々がそれを感歎した。阿倍臣・佐伯連・播磨直を遣わして、筑紫国の軍船を率い、護衛して国に送りとどけさせた。

 別に筑紫火君を遣わし、勇士一千を率いて、弥弖に送らせ、航路の要害の地を守らせた。」

  これが帰国時の記録です。錚々たる内容となっています。

「恵」は、兄「威徳王」の滅後、第28代百済王に即位していますが、在位はわずか1年です。この百済王子「恵」こそ、敏達天皇の父であったと考えています。残念ながら確証はありませんが、「白村江の戦い」前段で百済王子「余豊璋」を、百済王として朝鮮半島に送り出した「中大兄皇子」の立場からさかのぼって推測してみると、そうなのです。

『日本書紀』をみると、「恵」の来訪は欽明十六年のこととなっています。

後の敏達天皇の立太子が欽明十五年(『欽明紀』)なので、一見親子関係は成立しそうもありません。ところが『敏達紀』をみると、立太子は欽明二十九年のことと記されています。

「恵」は欽明十七年に帰国しているので、親子とすれば敏達立太子時の年齢はおおよそ12~13歳になります。

敏達は敏達十四年(585)崩御ですから、その年齢は27歳くらいですが、敏達の崩御年を記す史書は、「扶桑略記」・「水鏡」24歳、「愚管抄」37歳、「皇代記」・「簾中抄」48歳、「神皇正統記」・「仁寿鏡」61歳と、全然一致していません。

 この理由は、『敏達紀』と『推古紀』間に挿入された、 『用明紀』・『崇峻紀』と、実際の推古天皇が誰だったかに原因の大本があるように思えます。

「推古即位前紀の豊御食炊屋姫(推古天皇)の年代データには矛盾がある。 豊御食炊屋姫は敏達5年(書記年紀では576年)、18歳の年に敏達皇后に迎えられている。ここから豊御食炊屋姫の生年は559年と計算できる。

書記の推古崩年は628年なので宝算は70歳となる。これに対し、書記の宝算は75歳であり一致しない。

 又、豊御食炊屋姫34歳の時に夫帝敏達天皇が崩御したという。書記の年紀によると、敏達崩年は585年なので、ここから計算される推古即位は552年であり、宝算は77歳となる。書記の推古即位592年12月(元年は593年)であり、この年に39歳であった。ここから計算される推古生年は554年、宝算は75歳であり、書記の宝算記録と一致する。

 豊御食炊屋姫は敏達5年18歳で敏達皇后となり、34歳の時に敏達天皇が崩御しているので、敏達崩御は敏達21年となる。これに対し、書記の敏達崩年は敏達14年である。このように推古即位前紀の豊御食炊屋姫の年代データは敏達紀、推古紀と一向に整合しないのである。」

上記は、『新設日本古代史』文芸社・「西野凡夫」著からの抜粋ですが、ここで言いたいことがすべて書かれております。

 敏達だけに限れば、敏達五年に豊御食炊屋姫を皇后とし、34歳で崩御しています。ここから計算された在位21年間が正しいように思います。そうすると、敏達立太子時の年齢は13歳と計算できるのです。

 九州には「百済」領がありました。「白村江の戦い」で、朝鮮半島にあった滅亡後の「百済」にかわって、宗国となった九州「百済」、それは「倭済連合」の「倭」のことです。

 その「倭」の首都は後世の太宰府であり、「白村江」での敗戦の後そのまま「唐」は占領政府として樹立させました。日本書紀』編纂チームは、その証拠ををうっかり抹消し忘れたのです。それが『天智紀』に記された「筑紫都督府」です。

ところで「恵」と「蘇我稲目」は、敵対する間ではなかったと思います。

「百済」聖明王が戦死して、滅亡寸前の「百済」から「恵」を「筑紫」に脱出させた「余昌」でした。一年後「恵」は、武器・軍船・兵を率いて「百済」救援に向かいました。

 来訪した「恵」が面会したのは、「許勢臣」と「蘇我臣」です。『日本書紀』には「蘇我臣」とあるだけなので、大王「稲目」なのかどうかはわかりませんが、「許勢氏」は「蘇我氏」の眷属です。「恵」と「蘇我」は、同じ「百済」王族の血を引くもの同士です。「恵」

 が「蘇我氏」を頼りにしてきたことは当然でしょう。

またこのときの九州「百済」は、「百済」領に過ぎず国家ではありませんでした。

 植民地を国家レベルまで引き上げたのは敏達です。その理由も敏達が、「百済」王族であったから、と考えています。同族の「蘇我氏」と対等以上であることを望んだのだと思います。つまり、敏達のほうがより百済王朝の血に近いという主張です。

 敏達が百済王であった叔父や父と同様、王でありたいと強く思ったときから、もう一つの「百済」を誕生させたわけであり、言うなれば敏達は朝鮮半島にあった宗国「百済」に対して、分国「百済」の王だったのです。

 その分国であった九州「百済」が、半島の「百済」滅亡後に百済王子、「余豊章」を王として送り出しているのです。この時点での宗国は完全に九州であり、ついに立場が逆転した瞬間でもあったのです。

16.「田村皇子」

 「蘇我入鹿」=舒明天皇を推すにしても、入鹿舒明は『日本書紀』の舒明天皇と同体ではありません。舒明天皇は「田村皇子」です。「田村皇子」は実在だったのでしょうが、即位して舒明天皇ではなく、繰り返しますが舒明天皇時代の皇帝は「蘇我入鹿」だった、ということです。「田村皇子」の子の一人に天智天皇がいます。また「田村皇子」の父は、「彦人大兄皇子」です。大化二年三月二十日の条に、「皇祖大兄」という表現がありますが、この皇祖とは「彦人大兄皇子」のことです。

 『日本書紀』に皇祖という表現は、天照大神と「彦人大兄皇子」の二人だけであり、天智天皇にとってアマテラスは皇祖と言えますが、「彦人大兄皇子」は祖父であり、皇祖とは言えません。「彦人大兄皇子」を皇祖とするならば、それ以前の天皇と天智との関係はないものになります。

 天智系が万世一系ならば、「彦人大兄」は皇祖ではあり得ません。「田村皇子」と「彦人大兄」は親子ではなく、『日本書紀』で親子とされた間柄に過ぎなかったのです。

そして「彦人大兄」を皇祖とする別の大王系があったのです。「彦人大兄」は「蘇我馬子」です。「蘇我馬子」を皇祖と言えるのは「蘇我入鹿」以外にいません。

 この時代のトップが「蘇我入鹿」だったと言える傍証に、「田村皇子」は天皇とは言い難いことがあります。

「田村皇子」、すなわち『日本書紀』のいう舒明天皇ですが、皇后は後の皇極天皇です。

 ここで『欽明紀』から『皇極紀』のうち、ねつ造である用明天皇や聖徳太子、潤色であった崇峻天皇を差し引いてしまうと、「蘇我氏」の政権時代は欽明王家とともに始まり、「竹田皇子」が亡くなる(死亡記録はない)と欽明王家は衰退し、「蘇我氏」が王家として台頭してくるというストーリーが成り立ちます。

 その後「稲目」を嗣いだ「馬子」は、推古天皇(「物部鎌姫」)を大々王とし、自ら皇祖大王になります。

 一方九州を拠点にして大井に都を構えた敏達王家ですが、敏達が初代であるため、敏達亡き後の王家はありません。「橘豊日皇子」(用明天皇)を後継者であるように記載していますが、用明はねつ造であるため、あり得ない話です。そもそも、「橘豊日皇子」が皇太子であったという記録は、『欽明紀』の、「次蘇我大臣稲目宿禰女曰堅塩媛。(堅塩、此云岐柁志。)生七男六女。 其一曰大兄皇子。是為橘豊日尊。…」( )内は注意書きであり、

 「その一を大兄皇子という。これを橘豊日尊と為す。」という不自然な表現だけです。

  他の皇子・皇女に関して言えば、「其四曰豊御食炊屋姫尊。其五曰椀子皇子。其六曰大宅皇女。其七曰石 上部皇子。其八曰山背皇子。其九曰大伴皇女。…」なのです。なぜ不自然なのかと言うと「其一曰橘豊日」ではないからです。つまり、本来あった「○○皇子」○○の部分を「大兄」と書き改め、さらに「橘豊日尊」を書き加えたと考えられるのです。

 さて、敏達の皇后であった推古天皇こと「豊御食炊屋姫」とは「糠手姫」のことです。このこと及び以下は、本編他で幾度か説明していますので詳細は省きますが、彼女は「田村舒明」の母です。そして父は、「彦人大兄皇子」であるといいますが、これが本当だとすれば『日本書紀』の血の論理では、「田村皇子」は即位できません。

 もちろんこの論文での「彦人大兄皇子」は「蘇我馬子」の仮託ですが、ひとまずそれは置いておいて、「彦人大兄皇子」が『日本書紀』の証言通りならば、母は「息長真手王」の女「広姫」であり敏達皇后、父は当然敏達天皇になります。

「蘇我氏」の血は一滴も交じっていません。『日本書紀』を研究すれば、この時代は大王家直系もしくは「蘇我氏」の血こそ王位継承者に最低限必要なものであったことは、自ずと判明します。

 従って、傍系で「蘇我」腹ではない「彦人大兄皇子」は「大兄皇子」の資格はなく、その子「田村皇子」に王位継承権は回ってくることはないのです。ただ王系の断絶や滅亡があった場合は除きます。この説を逆手にとっても、つまり天皇家側、蘇我側のどちらの立場に立って理論を展開していっても、同じ結論になってしまいます。

 『日本書紀』が史実を隠そうとつじつま合わせの努力をしても、「蘇我氏」の実態が垣間見えてしまうのです。まさに蘇我王国だったのです。

「田村皇子」にスポットが当たった理由は、彼が「乙巳の変」クーデターの立役者「中大兄皇子」の父であったからです。

 この瞬間、「田村舒明」が誕生し、「蘇我王家」は天皇家をないがしろにした悪玉豪族として排除されてしまったのです。

17.皇極天皇

 皇極天皇こと「宝皇女」は「田村皇子」の妃でしたが、『日本書紀』によれば母を「吉備姫王」、父を「芽淳王」(ちぬおう)といい「彦人大兄皇子」の孫です。

 血統から言えば「田村皇子」と同様、絶対に即位はできません。ただこれさえ疑わしいことには違いありませんので、『日本書紀』従えば、というにとどまります。

私見ですが(全編に渡ってですが)「宝皇女」は、九州「百済」王家を引き継いだものと考えています。というよりも、引き継ぐ結果になったと思うのです。

「入鹿」は倭国内にあった二つの「百済王家」、「蘇我王家」と「九州百済王家」を、「蘇我王家」を核にして一本化しようとしたと考えています。

 これも本編で述べた結論ですが、皇極天皇の最初の夫は「高向王」であった、と『斉明紀』は述べています。

 「天豊財重日足姫天皇は、初め用明天皇の孫高向王に嫁して、漢皇子を生まれた。後に舒明天皇に嫁して、二男一女を生まれた。」この謎の人物「高向王」は「蘇我入鹿」と同体です。「漢皇子」は「大海人皇子」、すなわち天武天皇のことです。

 『日本書紀』は舒明を父、皇極を母として天智・天武が生まれたと記していますが、天智の父こそ舒明ですが、天武の父は「入鹿」だと考えています。 

 「宝皇女」は「入鹿」の妃に迎えられ「漢皇子」を生んだ後、「田村皇子」に嫁いだことになりますが、もちろんともに政略結婚のはずです。

 この結果、両王国は一本化し新制「倭国」が誕生しました。

このときから、皇帝「入鹿舒明」の時代が始まったのです。それはわずか二十年あまりのことだったのですが。『落日の王子』の著者「黒岩重吾」氏は、「入鹿」と「宝皇女」は相思相愛であったように記していますが、もしそうであったなら「入鹿」の、「倭国」安定への思いはかなり強烈であったことになります。「宝皇女」もまたしかりです。

しかし、『善光寺縁起』にある、地獄で「皇極天皇が引き立てられていく姿に出会いました。」という記録は、「宝皇女」の生前の罪の大きさが、広く民衆に知られていたということになります。天皇が地獄に堕ちるほどの罪とはいったい何だったのでしょうか。

 『日本書紀』の中から推測すると、1.「高向王」と別れ、舒明天皇と再婚したこと。

 2.「乙巳の変」で「入鹿」を見殺しにしたこと。のどちらかではないかと思われます。

 先述したとおり、「高向王」とは「蘇我入鹿」のことです。舒明との再婚が「入鹿」の意志ではなかったとしたら、「宝皇女」は大変な悪女だったようにも思えます。ほかにも労役が重い土木工事を強いたことが、民衆の怒りを買ったともありますが、地獄に堕ちるほどの罪では

 ないような気がします。

 興味深いことに、地獄と関係がありそうな説話が『斉明紀』に記されています。

「(斉明七年)秋七月の甲午の朔に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉宮の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ。」

これによると鬼が斉明天皇の葬儀を見下ろしていた、というのです。また斉明元年には、

「空中に竜に乗れる者あり。貌は唐人に似て、青油笠を着て、葛城嶺より、馳りて生駒山に隠る。牛時に至るに及び、住吉の松の上より西を向いて馳り去る。」とあります。

 この鬼と竜に乗る者が別人とは考えにくいことです。(UFO、宇宙人説もないことはありませんが。)

 後世の『扶桑略紀』にいたっては、『日本書紀』の竜に乗る者をそのまま引用し、

 「時の人言ふ。蘇我豊浦大臣の霊なり。」と結んでいます。

 この「豊浦大臣」とは「入鹿」か「蝦夷」のどちらかということになるのですが、「蝦夷」は実在じゃないという立場からすると、当然「入鹿」になります。・すると斉明にまとわりついていた物とは、「蘇我入鹿」(の霊)だったということになるのです。

皇極天皇、重祚して斉明天皇ですが、「入鹿」の霊だったとすれば「入鹿」が亡くなった直前の出来事が原因となっているはずです。とすれば、「乙巳の変」しかありません。

 皇極は大極殿で「中大兄皇子」が「入鹿」に斬りつけたと同時に、場を立ち去っています。

  「私にいったい何の罪があるのか、そのわけを言え。」「入鹿」が発した最期の言葉です。つまり見殺しにしたわけですが、皇極には、『日本書紀』が書いていない他の理由があるのではないでしょうか。それこそが地獄に堕ちて当然と誰もが思う理由なのではないでしょうか。そう考えないと「入鹿」の霊について説明できません。

 そもそも「乙巳の変」は飛鳥板蓋宮の大極殿で起こったことではありません。

現存する遺跡飛鳥板蓋宮伝承地には大極殿は確認されておらず、飛鳥浄御原宮が最初ではないか、と言われています。

 また「籐氏家伝」にも「乙巳に変」は『日本書紀』とほぼ同様に記されています。「藤原氏」にとって「乙巳の変」はその活躍を大いに誇示していいはずであり、実際そのように記されています。ところが、その舞台であった大極殿は出てきません。

 興味深いことに、「入鹿」と「鎌足」を比べる記述もあります。「吾が堂に入る者に宗我大郎に如くはなし。ただ公の神識奇相は、實にこの人に勝れり。(吾が堂で宗我大郎に匹敵する者はいない。しかし公の神識奇相は実にこの人に勝る)」

 これは仏僧「旻法師」の堂に集まって『周易』を読む催しの時の説話ですが、「鎌足」を褒め称えていることはもちろんですが、結果として「入鹿」をも賞賛しており、『日本書紀』ほど「入鹿」に対し悪意は感じられないのです。

それらを踏まえて考えると、「乙巳の変」を仕掛けた張本人は皇極天皇に違いないのです。

それも大極殿などという宮中ではなく、白昼での出来事だったと考えています。

18.孝徳天皇

『日本書紀』によれば「乙巳の変」が6月12日、翌日の6月13日には「蘇我蝦夷」が殺されています。そして6月14日に皇極天皇は「軽皇子」に譲位し孝徳天皇が誕生していますが、この皇極の譲位はまったくもって理解できません。なぜ譲位しなければならなかったのでしょうか。それも「入鹿」が殺されたわずか二日後のことであり、これでは「入鹿」の死が譲位の原因だったと考えざるを得ません。

 ここで少し考えて頂きたいのですが、私見による「蘇我入鹿」は皇帝でした。連合国の皇帝であると同時に「倭京」の大王でもあったのです。皇帝「入鹿」が殺され、わずか三日後に孝徳天皇が即位したということは、不在となった「倭京」の大王位を、「軽皇子」が継いだということになるのではないでしょうか。

 皇極は「多武峰百済」(九州百済・百済京)の大王でしたから、「倭京」の人事は関係ありません。孝徳天皇は皇極の弟ではないか、という声はもちろんありますが、私はそれを疑わしいと思っています。

 なぜなら、孝徳の御陵は南河内郡太子町の磯長谷古墳群にあり、おおよそ一つの古墳群の被葬者は同族と考えられます。この古墳群には用明・推古・聖徳太子等の御陵があり、不明なものも含めて約30基から成っています。

 人物比定されている陵は、ほとんどが蘇我系です。ほとんどというのは、敏達天皇比定陵があるからですが、この陵は他の蘇我系の陵とは違い前方後円墳です。敏達比定陵を除けばその多くは大型の方墳や円墳(八角墳)であり、後期末葉から終末期古墳に属するものとみられます。

 敏達比定陵は、585年没とされる敏達以前の中期古墳的な様相であることから、敏達陵と比定するには問題が多いとされており、現時点では解決されていません。

 孝徳は『日本書紀』に反して「蘇我氏」の血が濃い天皇であった可能性が考えられます。「漢皇子」と同一人物かも知れません。つまり、皇極と入鹿との子であるかも知れないということです。また「高向臣国押」の言葉も非常に気になります。

 「われらは君太郎の罪によって殺されるだろう。蝦夷大臣も今日明日すぐにでも殺されることは決まっている。ならば誰のために空しく戦って皆が処刑されるのか。」と言って、弓矢を捨てて散り逃げたといいますが、確かに殺されるかも知れません。

  しかしここまでの一連の説話が『日本書紀』通りであったとしたら、天皇家さえ手出しができないほど専横を極めた「蘇我氏」が、戦って負けることなどあり得ません。

 天皇家にとって正攻法の戦いは即敗戦であるから、「乙巳の変」という騙し討ちのシナリオを描くことしかできなかったのです。

 それを前提に考えると、「倭京」の大王であり連邦の皇帝が殺されたにもかかわらず、何事もなかったように次期人事が決まっていったということは、

 1.両国とも皇帝「入鹿」の退位を望んでいた。ということが背景にあって、実は

 2.「入鹿」の殺害は計画的ではなかった。と考えられ、大極殿での「乙巳の変」はなかったと思います。

『日本書紀』からみた孝徳朝は、「倭京」・「百済京」の協力で成り立っているように読めます。後には分裂してしまい再び対峙することになりますが、少なくとも「中大兄皇子」が一族を連れて難波を去るまでは、「入鹿」亡き後も連邦は成立していたということです。

「関祐二」氏によれば、「近年盛んに取り沙汰されているのは、七世紀の改革事業は蘇我氏によって推し進められていたのではないか、ということである。すなわち、聖徳太子や蘇我氏が律令制度の先鞭をつけ、その後、中臣鎌足の末裔がこの事業を引継ぎ、完成させていた疑いもでてきたのである。『入鹿と鎌足 謎と真説』(学研文庫)」とし、律令制度はそもそも「蘇我氏」が手がけた事業だったといいます。

「蘇我氏」が台頭してきた安閑・宣化の時代以降、「蘇我氏」屯倉の増設に力を注いでいます。

欽明十七年七月には、「蘇我大臣稲目宿禰らを、備前の児島郡に遣わして、屯倉を置かせた。

葛城山田直瑞子を、田令(屯倉経営のための中央から遣わされる役人)とした。」とあって、屯倉の設置は中央集権国家推進への過程に違いないのです。

また同時に、有力豪族の経営する土地を奪い取る、または献上させることでもあるので、過度な屯倉制度は豪族等の反感を買う結果になったことだと思います。

 この頃の「倭国」は、豪族達の合議制で成り立っていた国でした。

『日本書紀』をみれば、天皇一人決めるのも豪族達の合議に依らなければならなかったことがわかります。そんななかで屯倉制度を推し進めていく「蘇我氏」は、天皇家も含めた他の豪族達よりも、かなり突出していたと考えることができます。良くも悪くも、まさに専横を極めていたことでしょう。

 豪族達は反感を持っていても、「蘇我氏」の前では屈服するしかなかったことと思われます。それは「蘇我氏」と同族であろうとも同様だったはずです。

 繰り返しますが、このような状況下で、三韓の調に乗じて「入鹿」を討ったという「乙巳の変」があったと考えることは困難で、仮に「入鹿」が独りで大極殿に入り、「乙巳の変」が実行されたとすれば、宮殿を取り巻いていた「蘇我氏」の護衛隊から一斉攻撃を受けることは間違いありません。そもそも「蘇我入鹿臣の人となりが疑い深くて」と記されている「入鹿」が、独りで大極殿にやってきたという記述自体が、おかしいのであって、護衛隊が侍らしてあったと考えることのほうが、よほど自然です。

 また、考えてみてください。嘘か真か『日本書紀』ですら、「入鹿」は帝位を傾けようとしている、と証言しているくらいですから、他の豪族はいうに及ばず、天皇家さえも「蘇我氏」に対抗できるほどの力はない、と当たり前の考えられます。

このようなことから、「入鹿」の死は皇極天皇の手によるものであり、それも愛憎のもつれから起こったものと考えます。・・ 

 皇極は「入鹿」と彼の子を心底愛していたのではないでしょうか。

政略のため「入鹿」と別れ舒明に嫁いだ「宝皇女」です。嫁いだ当時こそ「入鹿」と志を同じくしていましたが、舒明亡き後「多武峰百済」を引き継ぎ大王となった今、障害はないのです。

19.建王

「今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か歎かむ」(今木の小丘の上に、せめて雲だけでもはっきり立っていたら、何の嘆くことがあるだろうか。)

「射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の 若草の 若くありきと 吾が思はなくに」(射かけた鹿のあとをつけて行くと、行きあたる川辺の若草のように、幼かったとは私は思わないのに。)

「飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも」(飛鳥川が水をみなぎらせて、絶え間なく流れていくように、絶えることもなく、(亡くなった子のことが)思い出されることよ。)「建王(建皇子)」は天智天皇の皇子で「太田皇女」と「鵜野讃良皇女」の同母弟で、8歳でこの世を去ったと『日本書紀』は記しています。

 「建王」は、「唖にして語ふこと能はず」とあり、言葉を発することはありませんでした。

上記三種の和歌は、斉明(皇極)天皇が「建王」の殯に詠んだ歌です。

「建王」は天智と「蘇我倉山田麻呂」の娘である「遠智娘」(おちのいらつめ)との子であり、その出自には三説あって、

  1.遠智娘(或本は美濃津子娘)が太田皇女・鸕野皇女・建皇子の順に生んだ。

  2.遠智娘が建皇子・太田皇女・鸕野皇女の順に生んだ。

  3.芽淳娘が大田皇女・鸕野皇女の順に生んだ。

 とすべて『日本書紀』による説なのですが、1が定説、2と3は異説扱いとなっています。

 「遠智娘」、「美濃津子娘」、「芽淳娘」の三人は同一人物という解釈です。

 さらに『日本書紀』は皇太子妃「造媛」(みやつこひめ)をあげています。

 彼女は、「父大臣が塩に斬られたときいて、…造媛は心を傷つけて死に至った。」と記されています。この父大臣は「蘇我倉山田麻呂」のことなので、皇太子妃「造媛」は「遠智娘」と同一人物となります。

 彼女の死は、大化五年(649)のことであり、「建王」は斉明四年、(658)に8歳で亡くなっていますから、「遠智娘」は「建王」を生むことはできません。

 また斉明は、群臣に詔して、「わが死後は必ず二人を合葬するように」と言われたといいますが、天智六年春二月二十七日には、「斉明天皇と(天智の妹である)孝徳皇后とを小市岡上陵に合葬した。」と記すのみです

さらに斉明は、紀の湯に行幸したときにも歌を三首詠んでいます。

「山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ」(山を越え海を渡る面白い旅をしていても、建王のいた今木の中のことは忘れられないだろう。)

「水門の 潮のくだり 海くだり 後ろも暗に 置きて行かむ」(海峡の塩の激流の中を、舟で紀州へ下って行くが、建王のことを暗い 気持ちで、後に残していくことであろうか。)

「愛しき 我が若き子を 置きて行かむ」(かわいい私の幼子を、後に残して行くことであろうか。) 

このような歌を残すほど、斉明は「建王」を溺愛していたと言うのですが、これら六首の歌は、亡くなった「建王」を思い慕って詠われたのでしょうか。

 それは明らかに違うと思います。先入観なしに読めば、愛してやまない幼き我が子を後に残し、旅立たなければならない母親の心情を詠ったものとわかります。またこれらの歌の解釈は、「全現代語訳『日本書紀』(講談社学術文庫)」からの引用ですが、 ・「山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ」 この歌の解釈は、・・・

 (山を越え海を渡航していても、面白しろかった今木の中のことは忘れられないだろう。)

が正しいのではないでしょうか。ただそれでは、『斉明紀』との整合性がとれなくなるのです。「今木」とは「建王」の墓所で、「面白かった今木の中」では、墓の中が面白かったことになってしまうからです。

 また、「畿内」から「紀州」に行幸した際に詠まれた歌であるならば、「水門の 潮のくだり 海くだり 後ろも暗に 置きて行かむ」この歌のように海を渡ることはありません。 

私は、この「水門」に瀬戸内海・関門海峡を想像してしまいます。つまり斉明が渡航した先は北九州です。そこには「九州百済」がありました。

 これら一連の歌は、斉明が政略結婚のため「高向王」と別離し、「倭京」から「九州」へ立っていく。愛しい我が子「漢皇子」を残して行かなければならない悲哀を詠んだもの、と推察します。

 「高向王」は「蘇我入鹿」です。斉明の政略結婚とは、「倭京」の皇后が「九州百済」への人質になったということです。

 ところで、「建王」の実際はどうだったのでしょうか。「建王」の初見は『斉明紀』なのですが、『斉明紀』には言葉が不自由であったとは記されていません。

 また上記通り、斉明と「建王」の説話は造作です。

 「唖にして語ふこと能はず」これは『天智紀』での一文です。

 天智天皇には四人の皇子がいました。「建皇子」「施基皇子」「川嶋皇子」「大友皇子」

 これら四人のうち、母が蘇我系である「建王」以外は采女の子であり、政変でもない限り皇位継承権はありません。

「建王」が亡くなっていれば、弟の(年齢的な疑問有り)「大海人皇子」が唯一の継承者です。従って「大友皇子」の立太子は天智のゴリ押しです。

 その裏付けとはなりますまいか、「施基皇子」・「川嶋皇子」は天武側につきました。

 「皇孫建王は八歳で亡くなられた。」これは事実だと思います。ただ

 「唖にして語ふこと能はず」これに薄気味の悪さを感じてしまいます。こう断言する『天智紀』は、語らせないという暗号を隠しているような気がします。

 「建王」が証言すれば、都合の悪いことがあったのではないか。そう考えてみると、「建王」は「遠智娘」の子ではないという異説が気になります。

 語ることのできない母の名を語らせれば、同母妹「間人皇女」の名が飛び出してくるかも知れません。

  

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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