父の遺作書に接して 「浮かび上がってきたもの」 五島列島高天原説

http://www.hasukura.com/site/8murayama.pdf 【父の遺作書に接して「浮かび上がってきたもの」五島列島高天原説】より

会員 村山三枝子

『日本国家の起源―五島列島に実在した高天原』(松野尾辰五郎著)は、50 年ほど前に書

かれた本である。著者は、『古事記・神代篇』に出てくる沢山の神名が五島にある多くの地

名と極めてよく似ていることに気づき、『古事記伝』(本居宣長)や『五島民俗図誌』(柳田國男監修)および『万葉集』、『神道祝詞』ほか多くの文献を引用するとともに、ことばの時代変遷および五島の民俗や言い伝えおよび五島の神社祭神の名を援用しながら、神代の物語が著者の故郷である五島列島で起きたことであると述べている。

編者注 村山三枝子氏が再版された本の表紙

(一)松野尾辰五郎の五島列島高天原説著者は『古事記』に記載された幾つものテー

マについて考察している。そのいくつかを紹介すると次の通りである。

①国生み神話

ひとつは国生みの話しである。『古事記』では本州など大八洲を生んだあと「然後還坐之 さてのちかえりましし時とき」の6文字が出てくるが、これまでの研究者はこの6文字の意味に気づかなかったのだと著者は言っている。この6文字つまり“帰還するときに”、吉備の児島から始まり知呵島、両兒島までの6つの島を生むのである。これはまさに伊邪那岐、伊邪那美の2神は西(五島列島の方)に向かって帰っていったということなのである。

黄泉の国の段で、伊邪那美神が火の神である迦具土神を生んで美富登を焼かれて死んだあ

と、殯斂あがり に安置される場面がある。その場所を著者は富江(福江島)の部崎(へさき)の近くの洞窟で井穴と伝承されている場所としている。そして部崎は正しくは閇離(へさき。閇は竈のこと)、井穴は正しく齋穴であるとしている。そこで岐・美二神の争闘(死の本縁、死靈還魂)が繰り広げられるわけである。

そのあと伊邪那岐神は亡くなった伊邪那美神の穢れを祓うため、「筑紫の日向の橘の小門

の阿波岐原」で禊をし、その際に十八神が誕生する。上記“日向”について『古事記伝』では

“ヒムカヒノ”と“ヒムカノ”の2つの解釈のうち本居宣長は後者を用いている。これに対し、

著者は前者(ヒムカヒノ)の方が正しく日が向かうところ(=西の果ての五島列島である)と

解釈している。

②天孫降臨と国譲り神話

出雲の英雄・大国主神(国造りの神、農業神)と少名毘古那神(農業のヴェテラン)は日本国

中に稲作りも指導して回っている。著者は柳田國男の「どこかに稲作の先生の巣があったはず

だという」言葉や五島に伝承される踊りの呪言などをもとに、五島のチャンココ踊りの語源は

佐乃神講(ツァヌココ)踊りであって田の神の祭りであり、稲種と稲魂を分け与え稲に子ども

を産ませるべく日本国中にしかけて(掛踊り)廻ったことにあるとしている。

やがて本州での稲作りや国造りで強大な力を持つに至った大国主神(国ツ神)に対し、天

照大御神と高木神は大国主神が有している国を天孫(天照大御神直系の神)に戻させること

に、4回の試みのあと成功する(国譲り神話)。

そしてこれら天孫一行は九州本土に移動するのである。(天孫降臨)。

そのルートとして『日本書紀』、『古事記伝』では“槵くし日ひの二上ふたがみの天の浮橋より”となっているが、著者は、槵くし日ひは岐宿(きしつ)のことであり、二上は城ノ岳ではないかと考えている。そしてその後、魚津ケ崎を経由し立小島から薩摩の笠沙岬に向かったとしている。

③日子穂々出見命

次に『古事記』では木花咲耶姫の段に移り、邇々芸命が木花咲耶姫に見合って火照命と日

子穂々出見命(火遠理命)を生むことになる。いわゆる海幸彦と山幸彦の二人である。やがて

山幸彦は海幸彦から借りた釣り針を失くし、龍宮城にいくことになる。著者は橘ノ浦の海神の

宮は龍宮城だという『日本書紀』を引用しながら、種々の検討を踏まえてその橘ノ浦は若松瀬

戸のことであると述べている。

(二)松野尾辰五郎説の傍証

以上、本書の中の多くの話題の中からこれらのことに絞って説明したのであるが、これは本

書について私なりに調べていくうちに本書に記されていないいくつかの事柄に最近出会っ

たからである。それは,①出雲大社、②井穴、③禊ぎ、④日向、⑤チャンココ踊り、⑥天孫降

臨での二上、⑦龍宮城にそれぞれ関わる話であった。これらについてお話ししたい。

①出雲大社

本書では伊邪那岐、伊邪那美の2神が国生みから帰った西の先は五島となっている。これと

は別に私は出雲大社の神坐は西向きであるということが学研出版の雑誌に記されていることで知った。つまり出雲大社に祀られている大国主神は、国譲りに際し「出雲に大殿を建てて

自分の靈を祀ってくれるなら」との条件を天孫に出し、結果を得たのである。そして五島福江

島にて余生をおくるのである。それゆえに西の方向(五島福江島)に神坐が向いていると解釈

することができる。

②井穴(いあな)

永冶克行や竹内清文によれば、井穴は五島列島の火山活動でできた溶岩トンネルであり、富

江半島地域に複数個見られるという。本書では著者のいう齋穴は1か所のように読めるが、類

似するものが複数存在するということはどのようなことか、今後ゆっくり考えたいと思って

いるが、少なくとも古代の人々にはこのような特殊な穴が強烈な印象を与えたのではないか

と思う。

③禊ぎ

伊邪那岐神は亡くなった伊邪那美神の穢れを祓うため、「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐

原」で禊をしたが、著者は、禊のあとに生まれた神々の名が海岸沿いの地名と一致すること

も含め、禊は海で行われたと考えている。牧田茂によると五島では埋葬の式が済むと穴掘り

の者が海にいって身体や、埋葬に使った鍬などを洗ってくる潮蹴しおけという風習があったという。このことも前述の禊が五島の海で行われたことと関係しているのではないかと思う。

④日向

日向について著者はヒムカヒノとすべきとしていることは先に述べたとおりである。これ

に関して私は最近、日本地名研究所を訪ね『谷川健一全集』の一部を読んだ。その中で氏は「五島の島内に橘という地名が多いのに注目した」と述べている。そして「河務から三キロ離れた所に日向岸 ひようがし・・・という地名がある。日向岸 ひようがしは東に向いていて・・・。また有名な寄神貝塚と隣合わせに日向崖 ひうらんだつと呼ばれる場所があって,やはり

東に向いている。」と述べ,「日向の橘の小門阿波岐原」との関係で見過ごせないと結んでいる。

実は五島に橘の木が多いこと、および日向の地名もあることは、この本の勉強会である「五島

列島ドンザの会」において野崎 豊氏に伺っていたことでもある。

編者注 「ドンザの会」は岡山歴史研究会の勉強会グループ

福岡市博物館所蔵のドンザ

私は禊ぎが行われた橘の小門の阿波岐原が五島列島であったという著者の解釈に、ますま

す同感するのである。なお,谷川氏の記事については永冶氏も『五島雑学事典』の中で紹介し,またご自分の考えも述べておられる。

⑤チャンココ踊り

著者は前述のようにチャンココ踊りは田の神の祭りと言っている。最近私は本書とは別に

著者による五島文化協会『浜木綿』への寄稿文を探しあてることができた。そこでは、「その

稲作りの先生の巣である岐宿の男には、太古より男としての栄耀特権としての性風俗があっ

た」と書き、また少しその具体的な話も書いている。『岐宿村郷土史』に記載されている「岐

宿ナ良かとこ女が通う、男寝て待つごつしよどころ」という俚謡を参考にしたものでもあった。

和歌森太郎は「五島では5月の半夏生 はんげしょうに麦団子を備える事があり、これを田の神と呼んでいるのは田の開拓祖先を地神としてまつった概念にもとづくかと思われる」と言っている。やはり田の開拓者が五島にいたのではないか思われる。

⑥天孫降臨での二上

天孫降臨における“二上山”について,現在の城ノ岳を指すのではないかと著者はいって

いる。この城ノ岳は岐宿の南にあり、私はこの城ノ岳を手持ちの地図で調べ、それらしい感触

を持った。それで大正6年発行の岐宿の2万分の1地図を取り寄せてよく調べてみると、城ノ

岳の標高は 216mでありその 300mほど南にもう一つほぼ同じ高さの山があり、両者1対でラ

クダのこぶ状に読めるではないか。“二上山”はやはりここだったのだと思った。

⑦龍宮城

著者は,『日本書紀』の中の“橘ノ浦の海神の宮は龍宮城”との説明の中の橘浦とは若松瀬

戸であると言っている。若松町がある若松島を地図で眺めていると、その北端の日ノ島のすぐ

東の脇に‘龍宮小島’という小さな島が浮かんでいることに気付く。若松瀬戸の水路の中にあ

るわけではないが、水路の北側の出口近くに位置している。やはり古事記と何か関係があるの

ではないだろうか。

以上、本書の内容とは別に最近得た7件の情報を本書の内容と照らし合わせて述べさせて

いただいた。この本を理解しようと学びをひろげるほどに、関連する嬉しい資料に出会うこと

もできる。これからも、続けていきたいと思う。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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