コバノミツバツツジ群落

http://www.hirotahonsya.or.jp/localpage/tutujigunraku.html 【県指定天然記念物 廣田神社のコバノミツバツツジ群落】より

廣田神社のコバノミツバツツジ群落

 廣田神社のコバノミツバツツジ群落は、西宮市の象徴甲山の南々東の山麗廣田山にあり廣田神社の外苑内約2万平方メートルに亘り十数カ所に分かれて大きな群落を形成し、総株数は約2万株にのぼると推定され、昭和44年兵庫県指定天然記念物に指定された。

 廣田神社の神苑は、後ろは甲山に接して六甲山を背負い、前は西宮市街を瞰下して武庫の静海を望み、摂津・河内・和泉の山野を一望の内に収めて、四方の眺めに富み、殊にツツジの満開となる四月初旬から中旬には満山ツツジを以ておおわれ、その情景は千紫万紅天に映ずるの美観にて筆舌に尽くしがたく、千古の神蹟に相応しい。

 我が国植物学の父である一大権威者の牧野富太郎博士も、その盛況な様子を遊覧されて「ただ三葉千萬人をおびき寄せ」と一句を詠まれて絶賛されたのである。コバノミツバツツジは、関西地方の低山を中心に分布し、特にアカマツ低木林内に多くみられ、本州(静岡県西部・長野県・福井県以西)・四国・九州の山地に自生する落葉低木のツツジ科の植物で、葉が小枝の先に三枚輪生する特徴があり、他のツツジ科の植物よりも早く葉が出る以前の3月末から4月中旬に一斉に開花し、紫花燃え出ずる紫雲の眺めは格別なものである。 花色は淡紫・濃紫・白色が有るが、廣田神社の躑躅は概ね淡紫色で、中には花弁に斑紋を表すものもある。

 廣田神社のコバノミツバツツジは古く元禄年間人文に詠まれ、元禄・寶永・正徳の頃(1688〜1715)に既に栽培され「廣田山の躑躅(ツツジ)」として殊に有名であったことから少なくとも300年以上に亘り人々に慈しまれて来たことが推察され、民間行事の春の山行きでも、廣田山で手折った躑躅を田の水口に挿し立てることが記録に残っている。

 ツツジ科の植物は株を叢生して拡大し、株の中央の幹は枯死するので、樹齢の推定は困難であるが、廣田神社のコバノミツバツツジは大株で樹齢約150年以上と推定され、其の高さも3、4メートルに達する。

 「国際花と緑の博覧会」の公式ガイドブックにも阪神間で唯一花の名所として紹介され、阪神間を始め各地より多くの観覧者が陽春の候には訪れているが、大東亜戦争以前には周辺地区を含め約20万株を誇ったツツジも、周辺地区の開発・宅地造成などに伴い廣田神社の神苑に残った約2万株のみとなったため、神社では市民の協力を得て植栽に力を入れており、去る平成5年にも皇太子徳仁親王殿下ご成婚を祝し、氏子崇敬者より植樹の奉賛を募り、約500株の若木を植樹した。

廣田神社のつつじまつり

例年、4月第2土日に廣田神社つつじまつりが開催されます。

【令和2年度 廣田神社つつじ祭のご案内】

廣田神社の境内には、約2万株のコバノミツバツツジがあり、2015年2月9日には、西宮市環境学習都市推進課の企画により「咲かそう!広田山のコバノミツバツツジ!」と題しましてエコツアーが開催されました。

【第5回 ツツジ植樹・保全活動 のご案内】

これからも廣田の杜の保全に全力を尽くしていきいたいと思います。


https://note.com/indigoemyu0108/n/n8e82e03bc0fb 【《兵庫・西宮市》秦氏と出雲族の痕跡も感じる廣田神社】より

兵庫・西宮の廣田神社(本殿撮り忘れw)。神功皇后の神託によって創建。

主祭神は、天照大神荒魂、正式名・撞賢木|厳之御魂|天疎|向津媛命(つきさかき|いつのみたま|あまさかる|むかいつひめのみこと)さんです。長い…w。

通称「むかつひめ」とも。瀬織津姫と同神説は有名✌️伊勢内宮の別宮・荒祭宮に祀られる神と同神であるとも。

六甲一帯の聖地のメイン玄関とも言える神社ではないでしょうか。

兵庫の神社には、えべっさん(恵比寿さん=出雲神・事代主)と八幡神(神功皇后・応神天皇親子)と秦系(松尾&稲荷)の神社がとにかく多い!

色々見えてくるものがあって、もんっのすごい‼️興味深く参拝させていただきました🙏😍✨瀬戸内❣️


Facebook柳田 剛二さん投稿記事

ラビ・コーヘンの口調の薄気味悪さに、度会(わたらい)も思わず身構えた。

「…現在、日本の神社本庁管轄の神社は約八万社⛩️、管轄でない神社を含めると約十二万社⛩️ありますが、そのなかで一番多いのが稲荷神社。全国に約三万社あります。

総本宮は、京都の伏見稲荷大社⛩️で、創建したのは秦伊呂巨(はたのいろこ)名前の通り、秦氏です」三万社⛩️の総本宮- 確かにすごい影響力だ。度会は唇に皺を寄せながら頷いた。

「次に多いのは八幡神社⛩️ですが、管轄でないものを含めると最も多く、約四万社⛩️あります。総本社は宇佐神宮で、現在の大分県、秦氏の本拠地にあります。主祭神は秦氏を日本🇯🇵に受け入れた応神天皇で、祭祀を司っていた辛嶋氏は秦氏の支族。もちろん秦氏系です」

三万社と四万社で七万社- 神社の半数以上だ。いくら何でも、すごすぎないだろうか。

度会の胸に何かが引っかかり始める。

「京都の秦氏の本拠地にある八坂神社⛩️は、全国に二千九百社あります。ちなみにヤサカは日本語では特に意味はありませんが、『イヤサカ』はヘブライ語で「ヤァウェ偉大なり」と、神を称える言葉です。  それから二千七百社ある白山神社⛩️。 白山信仰の聖地である白山を開いた僧の本名は泰澄(たいちょう)で、秦氏です」

ここまで聞いて度会は茫然とする。

眉間の影もすでに濃くなっていた。

「さらには約二千社ある日吉神社⛩️、日枝神社⛩️もしくは山王神社⛩️。 これらが祀るオオヤマクイは別名、松尾大明神といい、全国で二百社ほどある松尾神社系の神社⛩️で祀られています。その総本社・松尾大社⛩️を創建したのは 秦都理(はたのとり)、もちろん秦氏です。

それから四国を中心に千九百社ある金比羅神社⛩️、これも以前は秦宮(はたのみや)と呼ばれていて秦氏系です」

「今ざっと数えてみたんですが、約八万社。日本の神社⛩️のほとんどが秦氏系ですか?」

ラビ・コーヘンはゆっくり頷いた。

「それだけではありません、日本🇯🇵の神社⛩️や神職の家系で、最も多い家紋がこの家紋なのです」

そう言いながら、タブレット上でその家紋を示す。度会は始め何のことか分からなかった。

「これって、柏の葉の家紋ですよね?」「よく見てください。これは三つのメノラーを隠した家紋ですよ」度会はハッとすると、思わずその家紋を見続けてしまった。

メノラーは、典礼具の一つである七枝の燭台🕎のことである。神の命令によって幕屋に置かれ、エルサレム第二神殿の聖所でも引き継がれた。 ユダヤ人にとっては神との出会いを意味する神殿を表現する重要な象徴であった。

↑↑↑↑↑ 本より抜粋📖

ユダヤもキリストも~シュメールもエジプトも仏教も、すべて日本🇯🇵に入って来てます✨

日本🇯🇵で大成しているのです🌈

しかしながらそれはあくまでも✨里帰り✨であって、 太古の日本🇯🇵から始まって世界の文明や宗教が形作られて行ったことを理解しなければなりません。 元はひとつ⭕

元は一つ⭕ なんです。しかもそのルーツの起源は、 🌀宇宙🌀  であること…


Facebook小坂 達也さん投稿記事 【アマテラスの暗号】

作家の伊勢谷さんから送って頂きました。

私がYouTubeでアップしている日ユ同祖論の動画でアマテラスの暗号を紹介したところ、伊勢谷さんがご覧になってくれたそうで、声をかけて頂きました。

不思議な縁ですね。

この本を読むと、ビックリするような内容が書かれています。

さらに、海外から来た人たちが祖国の共通点を探る小説になっているところが素晴らしい!

皆さんも是非ご覧になってください。

動画はこちらです。

https://youtu.be/hUqXi_iujXk

Facebook斉藤 一治さん投稿記事

「出雲王国とヤマト政権(富士林雅樹著)」によりますと、徐福の日本渡来は3回行われ、第一回目は山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡付近に上陸したとされています。

この上陸地は富士林氏の推定のようですが、この地から山東人骨と呼ばれる当時の中国人らしき集団の骨が発掘されていたり、中国由来の陶塤(とうけん:土笛)等も多く出土しているので、この地が上陸比定地となったようです。

このときは出雲王国と戦争になり、徐福は中国へ逃げ帰ったようですが、BC219年頃、今度は出雲王国の沖合に徐福の先遣隊が現れ、出雲王に献上品を捧げて上陸交渉を行ったようです。

この時の献上品は編鐘(へんしょう)と呼ばれる青銅製の打楽器で、のちにこれが銅鐸へと進化したということです。

その翌年、徐福の率いる大船団が現れ、島根県太田市の五十猛(イソタケ)の磯に上陸したということです。

ここで徐福とスサノオの関連が出てきました。

記紀によりますと、五十猛命はスサノオの息子という設定になっています。

これが出雲の伝承では徐福の息子となっており、スサノオ=徐福説の一つの根拠となります。

また、徐福の集団が居住した地域とされる出雲市の斐伊川河口地帯は、スサノオの八岐大蛇退治の舞台となったところでもあります。

ここでもスサノオと徐福の影がだぶります。

徐福は出雲王の娘・高照姫と結婚し、王族となります。

この点もまた、出雲王・手名椎の娘・櫛稲田姫と結婚したスサノオの行跡とそっくりです。

しかし、その後がいけません。

徐福はこともあろうに、義理の父となった出雲王の暗殺をたくらみ、ヤチホコとコトシロヌシという出雲国の王と副王を二人とも殺してしまいました。

このことが露見して命を狙われることになった徐福は中国に逃げ帰ります。

このときの徐福の悪行が、記紀においてはスサノオの横暴な振る舞いとして記されたということです。

徐福の名前を記載せず、スサノオと変えて記載した理由は、出雲人が徐福の悪事を思い出さないようにするため、ということです。

出雲国造家の果安という人物が、記紀の編纂者のひとりであった忌部子人という人物に頼んだということまで書かれています。

その後、徐福はBC210年頃に三回目の渡来をし、北九州の吉野ヶ里遺跡付近に住んだらしいのです。

徐福は出雲ではホアカリ、北九州ではニギハヤヒと名乗ったとも書かれています。

この二つの名前は非常に重要で、ホアカリは天孫ニニギの兄として、ニギハヤヒは神武天皇の親族として記紀に登場する名前であり、これらがすべて同一人物だったとすると、徐福の血筋はヤマト王権の内部にしっかり残されたことになります。

その事実を記紀が隠匿しています。

スサノオのルーツは朝鮮半島の伊西国にあり、その前は高句麗、さらにその前は中国南部の江西省、と辿って行くことができます。

これは徐福の渡来ルートとは異なるものであり、徐福=スサノオと完全一致させてしまうと矛盾が生じます。

これを解くカギは、記紀における「切り張り手法」にあるのではないかと思います。

スサノオというのは個人の名称ではなく、スサノオ族という民族の名称を呼んだものであり、その族長をスサノオと呼んだ。

だから歴史上スサノオは何人もいて、記紀に書かれたスサノオのエピソードは一人の人物の行動を追いかけたものではなく、多くの人物の行跡があたかも一人の行動のように記されています。

これはアマテラスやツクヨミ、あるいは神武天皇といった人物の描写にも当てはまることで、数人のエピソードを一人としてまとめているので、スサノオにおいてはイコール徐福であるときと、徐福ではない人物であるときがあります。

記紀が編纂された目的の一つは、日本が中国に対して独立した国であることを主張することでした。

日本という国はその開闢の時から、中国とは別個の王統を延々と維持してきた国であるということを主張し、中国の政治介入をはねつける必要があったのです。

そのため、徐福という人物は記紀から抹消されたと考えられます。

中国出身の人物の血がヤマト王権の中にあってはまずいのです。

さらに、三千年前の周王朝の後継者候補でありながら日本に逃れてきた太白、呉越戦争に敗れて九州に逃れてきた呉王夫差の子孫などのことも記紀は記しておりません。

念には念を入れて、中国から人は来ていない、という歴史が編まれたのです。

記紀に富士山に関する記述がないのも、晩年そこに行った徐福の記憶を思い出させないため、という配慮からのことだったのかもしれません。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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