蓮の話・双頭蓮と蓮の曼陀羅

https://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/51368_56013.html 【植物記】より抜粋

蓮の話・双頭蓮と蓮の曼陀羅

 諸君は、諸処の池に於て「蓮」を見ましょう。その清浄にして特異なる傘状の大きな葉とその紅色もしくは白色の顕著なる花とは、一度これを見た人の決して忘るる事の出来ぬ程立派なものであります。またその蓮根と呼ぶものを諸君は食事の時に時々食するでしょう。その孔の通った畸異なる形状は、これまた諸子の常に記憶する所のものでありましょう。

 通常蓮根と呼んで食用に供する部分は、世人はこれを根だと思って居りますが、これは決して根ではありません。それなればこれは何んであるかと言えば、これは元来ハスの茎の先きの方の肥大した一部分であります。この茎はすなわちハスの本幹と枝とであって宛あたかもキュウリやナスビなどの幹と枝とに同じものです。このキュウリやナスビなどはその幹枝が空気中にありて上に向い立て居りますが、ハスでは幹枝が水底の泥中にあって横に匍匐ほふくして居るのです。かくの如ごとく泥中や地中にある幹枝を、学問上では根茎とも言えばまた地下茎とも言います。それゆえ通常世人が称する蓮根なるものは、学問上より言えば地下茎一名根茎と言わねばなりません。またこの蓮根を雅に言えば蓮藕また単に藕とも称えます。

 この蓮根の食用に供する部は、諸君が知る如く肥厚して居るが、しかしハスの地下茎はその全部本の方も末の方も皆かくの如く肥大であるかと言うと決して左様ではありません。すなわちその大部分は細長くて通常泥の中を走って居り、諸処に節ありてこの節から枝を分ち、また葉もしくは花を出すのです。この細長で太い紐の如き部分をハイネ(這い根の意)すなわち※(「くさかんむり/密」、第4水準2-86-71)みつといいます。この蓮根のこの細長い部は余りに痩せて居るので食用とするには足らぬのでありますが、しかしその嫩わかき部を食すればその味がすこぶる宜しい。この細長い部は春より夏にかけて段々長く生長しその節と節との間、すなわち節間の長いものは凡およそ二尺にも達するものであります。前述の如くこのハイネより葉も出せば花も出し、また節に一本ずつ互い違いに多い場合は三、四十本の枝(この枝よりまた枝を出す)を分ち、数間より長きものは凡そ二十間位の長さに伸長して遂に秋に至ってその先端ならびに枝の先端の二節間位が始めて漸く肥大し(この部は泥中にて少し下さがりに向いて居る)この処に多量の養分を貯蔵して来年萌発の用意をなし、晩秋より冬にかけてその後部の痩長な部は漸く枯死しこの肥大な部、すなわち通常世人が蓮根と称して食用に供する部のみ年を越して泥中に残り、来年になればこの部の前端の芽が前年に貯蔵せられたる養分のため漸次に生長を始めて伸長し、前年の如くまた痩長なるハイネを生じて秋に至り、また前年の如くその先端に肥厚の部すなわちいわゆる蓮根を生ずるのであります。

「第一図 (イ)ゼニバ (ロ)ミズバ (ハ)蓮根 (ニ)水面 (ホ)泥、斜線ある葉はトメバ」のキャプション付きの図

第一図 (イ)ゼニバ (ロ)ミズバ (ハ)蓮根 (ニ)水面 (ホ)泥、斜線ある葉はトメバ

 通常蓮根と称する部を併せての全体はこのようなものでありますが、それなればその真の根は何処にあるかと言えば、真の根は繊維の形すなわち鬚の状をなして、その根茎の節より多数に生じて居る。かくの如き繊維状、すなわち鬚状をなした根は学問上でこれを繊維根、一名鬚根と称えます。

 蓮根を切れば多少白汁が出ます。そしてそれに大小幾条かの孔が通って居る。この孔は細胞の間の空隙で自ら気道を作って居って、その大小数条の気道の排列には自ら一定の規定があります。すなわち第二図(上)に示すが如くその蓮根の上になって居る処と、その下になって居る処とはその孔の排列が違うから、その孔の状を見れば、直すぐにその蓮根の上下が分ります。すなわちその孔は左右は同じことであるが、上下はその大小排列が違って居ます。上の方に小さき孔が二つあるが、下の方には大きな孔がただ一つしかありません。ハイネを切ってもまた同様であります。(第二図下の右)

「第二図 (上)蓮根の切口 (中)ハイネの切口 (下)葉柄の切口」のキャプション付きの図

第二図 (上)蓮根の切口 (中)ハイネの切口 (下)葉柄の切口

 蓮根を採るには白花のハスの方が宜しい。観賞用としては多くは紅花の品を植えています。蓮根が出来て最早もはや掘ったらよい時分には泥がヒビ割れる程に水を排除せば蓮根はよく固まります。またハスを栽え付くるには、その前年の蓮根を掘らずに置いて春の八十八夜の前後十日すなわち八十八夜を中にして凡およそ二十日位の間にこの掘らずに種に残して置いた蓮根を掘り来ってこれを栽え付けるのですが、その蓮根を横に泥中に入れ少しく後方に曳いて置くのです。この蓮根は後部は少々泥中より出て居っても差支えはないが、前端すなわち芽のある方はよく泥中へ埋め置かねばなりません。この種たね蓮根は一坪に凡三、四本栽えるのであります。

 支那バスは、蓮根の節間が短くて肥大して居る。東京の市場で普通に売って居って支那バスあるいはチャンバスと呼んで居り、東京附近の地に作ってこれを市内へ持ち込むのです。その蓮根の肉は煮れば柔くなり世人は余りこれを歓迎しません。花は紅白淡紅の三品があります。このハスは明治九年〔一八七六〕に支那から渡り来ったものであって、その詳細の記事が明治十二年三月博物局発行の『博物雑誌』第三号に載って居ます。

「第三図 幼き小刺」のキャプション付きの図

第三図 幼き小刺

「第四図 老いたる小刺」のキャプション付きの図

第四図 老いたる小刺

 ハスの葉はいわゆる荷であって、前述の蓮根、すなわち地下茎の上に生じますが、春前年の蓮根の中央の節に出ずる葉は形が小くて水面に浮んで居ます。これをゼニバすなわち荷銭と称えます。これに次で旧蓮根の前方の節より出ずる葉は形ちがやや大きくこれも水面に浮んで居ます。これをミズバすなわち藕荷と唱えます。それから後の葉は右の旧蓮根の前端の伸長して出来た新地下茎より出ていわゆる※[#「くさかんむり/支」、U+82B0、88-11]荷といって水面に浮ぶことなくて、皆水面上に出でて居り、その大なるものは数尺の高さに達します。一番終りの葉は少々形ちが小くてトメバと称えます。このトメバは熟視すれば直すぐに他の葉と見分けがつきます。このトメバが出たらその前方に肥大の蓮根が出来た証拠で、蓮根を取るにはこのトメバを見て掘るのです。このトメバの裏面はよく紅色をさして居る。これらの葉は皆ハイネすなわち地下茎の節より一つずつ出て、かつ各長き葉柄を具そなえて居ます。この葉柄はかく地下茎の節より出ずるものだが、この節には数片の始め白色後黒色になる膜質の大なる鱗片が生じて居ます。葉柄はゼニバ及びミズバのものは痩せかつ弱いが、タテバのものは強くて直立し円柱形をなしてその表面に小刺を散布して居る。この小刺はやや下に向いて居り多分自体を保護する為に出来て居るのでありましょう。この葉柄の内部には数条の孔が通って居ます。この孔は蓮根とその性質が同じことで、やはりこれも細胞間の空隙で気道である(第二図下の左)。この孔の排列が背部と腹部とで違って居ることは恰あたかも地下茎のそれに比して同様であります。またこの孔の内面にはその壁面に疎に毛が生じて居ることはこれを裂いて見ればよく分ります。しかし地下茎の方には毛がありません。またこの葉柄を折って見れば苦き白汁が出ます。また無数の至細な糸が引出されます。すなわち昔藤原豊成の女、中将姫が和州当麻寺たいまでらにあるハスのこの糸で曼陀羅を織ったと言い伝えられて居ます。この曼陀羅は横凡およそ三尺許ばかりにして、極楽の諸仏の図を写し著わしてあります。この糸は恰も蜘蛛の糸の様であるが(第五図の右)これはその葉柄の組織の中に多き維管束中の螺旋紋導管の周壁をなしたる螺旋状をなせる糸であります。葉柄を折ればこの糸が引張り出され、螺旋状になり居るものが両方へ引かれるために伸びて出て来るものであります。また地下茎すなわちハイネよりいわゆる蓮根を通してまた同じくこの糸があります(第五図の左)。

「第五図 (右)蓮の糸 (左)ハイネを折りたる状」のキャプション付きの図

第五図 (右)蓮の糸 (左)ハイネを折りたる状

 葉面はこの長き葉柄の頂に楯形に着いてその大なるものは直径凡二尺余もありましょう。そして浅き杯形をなして天に向って居ますが、しかし通常やや前方の方に向うて居る。葉形は円いがその上端をなせる葉頭とその下端なる葉底とは直ちに見分が付く様になって居ます。すなわち葉頭も葉底も葉縁がやや凹んで、かつ小尖点があります。しかしゼニバ、ミズバの方はやや凸出して居る事が普通です。その葉頭はその葉がやや側を向く時は必ずその上部をなし、かつ地下茎の後の方に向うて居ます。その葉底すなわちアゴは必ず下部をなし前方に向うて居ります。しかしてその中央より葉頭に走る脈と葉底に走る脈とがあり、その他中央より発出する葉脈は右の葉頭葉底に走る葉脈の左右に必ず同数を以て発出して居ります。それゆえその左右より巻きたる巻き葉に在あっては葉脈は左右必ず同数で、その脈に両側とも相対して居り、すなわちその左右には各十条許ばかりの葉脈があって下面に隆起して居りますが、ミズバならびにゼニバには左右各六、七条の葉脈があります。

「第六図 葉頭及び葉底」のキャプション付きの図

第六図 葉頭及び葉底

 ハスの葉の表面へ雨などの水滴が落ちて来ても、少しもその表面は湿いませぬ。その水は恰あたかも水銀の如く光を放って遂に葉面より転げ落ちます。かくの如くその表面は少しも湿わず、かつその水滴は珠玉の如く光を放つのはいかなる訳かといいますと、これはその葉の表面に細微なる刺状の突起(表皮の細胞の一方上になってる方が突き揚がって居る)が沢山あり、仮令たとい水滴がその表面に堕ち来てもその小突起の間に空気があるので、水をして葉体に膠着せしめないからであります。またその水滴に光りのあるのは、その水滴が件くだんの空気の触接している表面が恰も鏡の如く強く光線を反射するからであります。サトイモの葉の表面もまたこれと同様、その表面に細突起があってその表面に堕ちる水滴を同じく珠玉の如く見せるのであります。この浄き水の白ら玉を左の如く詠じたるものがある。

濁りある水より出てゝ水よりも浄き蓮はちすの露のしら玉

 ハスの葉には、一種の香気があります。物ずきな人は時に飯にこの香気を移して楽しんで居ます。夜間ハスの生えている池辺を逍遥すればこの香気が忽たちまち鼻を撲うち来りて頗すこぶる爽快を覚えます。

 ハスの花は古人は花之君子者也とか世間花卉無踰蓮花者とか言って誉めそやして居ます。いわゆる※(「くさかんむり/函」、第3水準1-91-2)※(「くさかんむり/陷のつくり」、第4水準2-86-33)かんたん(※(「くさかんむり/倍」、第4水準2-86-60)蕾ばいらいの時をかく言うともいう)は長き花梗を有し、葉と共に一個ずつ根茎すなわち地下茎の節より出ています。その位置は葉柄の腋にあるのでなくて却ってその背の方にあって鱗片の腋より出て居る。すなわち節上に葉一個と花一個とが出ています。そして高く水面上に抽ぬきなお葉より高く出ずることが多い。花梗は葉柄とその形状大小が同じで、やはりその表面に小刺があります。かくの如く葉もなくただその上に花ばかりある花梗をば学問上では※(「くさかんむり/亭」、第4水準2-86-48)と称えます。

 花はその事の頂端に一個宛ずつありて甚はなはだ大きく、花色は紅色のものが普通でありますが、また白色のものがあります。また花色にも濃淡等ありて園芸家は種々の品種を作って居ります。白色のものは蓮根のよいのが出来ますから、蓮根採取用として処々に植えられています。

 花は黎明の前後に開き午後には閉じるのであります。四日間かくの如く開閉して終りに開いたまま、花弁は散落します。世人はハスの花が早朝開くとき音がすると信じて居るが、そんなことは決してありません。これはその包むが如き花弁の開くときポッと音がする様に想わるる迷誤より来ったる説で、実際には決して音はしません。またある人はそれは開花に際し花弁のすれ合う音だと言うけれども全く牽強附会の説であります。花は蕚と花弁とを併有するが、蕚片と花弁とはその境界が判然しません。外部の四片は勿論もちろん蕚片であり、内部のものは花弁であります。花弁はその数がすこぶる多く、二十枚位あり長楕円形で内にかかえ、かつ縦に皺があります。蕚片は花弁より短くかつ早く散落します。

 雄蘂は多数ありて放大せる花床すなわち花托の下に多数相生じ黄色を呈し、葯の上部は棍棒状の附飾物となって居ます。

 子房は、数が多く個々倒円錐形の大形花床すなわち花托(蓮房もしくは蜂※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)と称する)の上平面の凹処に陥在し、卵円形で中に一個の卵子(誤称の胚珠)がある。この卵子は後に種子となる。そしてその背部に一個の小き突起がある。この子房には各一個の極めて短き花柱があって、この花柱は花托の表面に出て現われて居る。その花柱の末端に柱頭があって楯形をなして居ます。花がすんだあとこの子房は日を逐うて段々大きくなりて生長し、遂に楕円形の堅い果実をなすときその海綿質の花床(花托)も一層増大して、その状宛あたかも蜂の※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)すに蜂の子が居るような様をなして居ることは諸君がよく知る所でありましょう。この花床すなわち蓮房が後には下に点頭して倒さかさまになり、その果実が段々その蓮房より離れて水中に落ちます。落つれば果実の先端が下となり、その蓮房に附着していた本の方が上になる。そうすると中の胚は丁度上に向く様になる。芽だつ時にはこの果実の尻が破れて中の芽が出るのであるが、ハスの果実は皮が甚だ硬いから、かくの如く芽だつ事が容易でありません。世人はあるいはこの大花床を果実と思い、その表面の凹処に陥在せる果実を一つ一つの種子だと思うものがあるけれども、そうではありません。この一個一個の果実はすなわちいわゆる蓮実で一見種子の様に見ゆるけれども、決して種子でなくて果実なのです。この果実は始めは緑色であるけれども成熟するときは、果皮が非常に堅くなりて革質様の殻質を呈しその色も黒くなります。この時これを石蓮子と称えます。この緑色の時は内部の種子なお未熟の際ですから柔かで生で食べられます。この種子は果実の中にただ一個あってその種皮は甚だ薄い。この薄皮内の白肉は味が甘いがこれはいわゆる蓮肉であります。この蓮肉は学問上でいう子葉で、元来二片より成り、多肉で半球形をなしその辺縁は相接着して球形を呈し、その中部は空洞となり、そこにいわゆる※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)よくと称する緑色の幼芽があります。この幼芽は味が苦いからまた苦※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)とも称えます。この苦※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)は学問上の語は幼芽であって、二枚の幼き葉があってその葉はその葉柄が内曲して居ます。この果実を植える時砥石あるいは鑢やすりでその頭を磨り破るか、あるいは焙烙ほうらくで炒って置くときは、水が滲み込み易い故早く芽が出ます。その芽が泥中で果実を出れば既に果実中に用意せられた二、三枚の葉すなわち※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)の葉は増大生長して可愛らしい円形の葉面(ハスの葉は始めから全く円形で決してオニバスの初生葉の如き一方に裂け目がない)を水面に浮べ(ハスにはカワホネの様に全く水中に沈在せる葉はありません)これと同時にその茎がやや長じて鬚状の根を出し、また同時に地下茎すなわちハイネを横に出して日を逐うて延長し、その節々より鬚根を生じ、また葉を出しこの葉は水面上に抽き出ずるのであります。

 ハスの果実は、蓮房すなわち花床(花托)の上面の凹※(「穴かんむり/果」、第3水準1-89-51)の中に寛ゆるく座って居って、成熟の時分その蓮房を振ればガラガラと音がする。しかし俳人がこの果実すなわちハスの実がポンと音して自然に蓮房より遠くへ飛び出る様に想うて居るのは誤であります。チョット飛び出そうに見えるから早合点してそう想ったのであろう。「蓮の実と思ひながらも障子明け」と詠じたのは実況ではありません。

 ハスの種類の中に観音蓮と呼ぶものがあります。これは※(「くさかんむり/亭」、第4水準2-86-48)すなわち花梗の頂に二ないし五花許ばかり集りて開くもので、花弁相層かさなりて八重咲をなし、花心に蓮房がない。それゆえこれは実が出来ない。前に述べた彼の中将姫が織ったという曼陀羅はこのハスの糸を以て作ったとの事であります。

 また通常の蓮花で、梗頭に二花開くものを並頭蓮といって居る。これは別に特別の種類でなく、ただハスの一時の変形である。東京上野公園の不忍池にはハスが沢山あって、年々無数の花が出るが、かくの如き変形物は稀れに見受けるに過ぎません。

 ハスはまたハチスという。ハスはこのハチスの言葉の縮んだものである。しかしてハチスは元と上に記したる蓮房の形より来たものであります。蓮の字は元来はハスの花床(花托)の名であるが、今は通常その全体の名に用いられて居る。芙蓉というはハスの一名であるが、今世人が芙蓉と呼ぶものは元来は木芙蓉なので、これはゼニアオイ科中の一灌木の名であります。花が大きくかつ美麗であって、ハスの花の様だからこの植物を木芙蓉と呼んだもので、これと混雑を避ける為にハスの事を水芙蓉とも草芙蓉とも言って、この両者を区別して居ります。

 ハスは日本でも古くから作って居りますが、無論原もとは他国から渡りしものであります。隣邦の支那にも往昔より栽培して居るが、しかしその原産地は天竺すなわち英領の印度なので支那も始めは固もとより同国より輸入したものでありましょう。なおハスはペルシア・マレー群島ならびに濠洲にも分布して居ります。

 支那のハスは、前にも述べたように蓮根の節間が短くて太いが、我邦に往古から栽培せられて居るものは、諸君が知らるる如く節間が長く延びて居る。我邦のも元は支那産のものの如く切迫せる節間を有せるものであったのでありましょうが、永き年の間泥及び水などの状態のため、漸次にその原形を変じて遂に今日の如き痩長形のものとなったのではないかとも思いますが、これは正確の考えだか架空の説だか、今少しよく詮索せねば分りません。

 始めこのハスはヒツジグサ属すなわち Nymphaea 属だと学者が思って居ました。それゆえその時の名は Nymphaea Nelumbo L. であったが、後ちこの属のものでないことが分って別にハス属が設けられました。それゆえ今はその名を Nelumbo nucifera Gaertn. と称し、一名を Nelumbium speciosum Will l. といいます。また Nelumbo indica Poir. ならびに Nelumbo javanica Poir. の異名があります。このネルンボすなわち Nelumbo は印度セイロン島でのハスの方言であって、直すぐこれを採ってその属名にしたものであります。北アメリカには黄花を開くハスがあります。これは固よりアジア方面のハスとは異って、花色が黄色であるから園芸品として我日本へ輸入したら大いに喝采を博することでありましょう。この黄花のハスはその名を Nelumbo lutae Pers. と称えます。ハスについてなお詳説すべきことは多々ありますが、これは他日に譲るとします。しかしてその中で一番世人の蒙を啓きたいことはハスの花も葉もその真相がよく分らず、またその根を総ていわゆる蓮根だと思い違えて居り、否な寧むしろ見ずして空想を逞たくましうして居ることであります。ここに至っては文字ある学者先生でも事実を知り居ることについてその多くは、文盲なるハス掘り奴に及ばぬのであります。

〔補〕以上叙する事実は今から三十三年前の明治四十二年〔一九〇九〕に世に公にしたもので、この様に蓮についての種々な事柄をほとんど残りなく詳つまびらかに知っていた世人は当時まだ世間には無ったのである。そして右の文章によってそれが始めて明瞭になった点が多い。今その一例を挙ぐれば蓮の花は彼の多肉な蓮根から出て咲いているという謬想を打破してこれを是正した類である。

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