https://www.tokiwa-ss.co.jp/journal/news/post-39.html 【徳川幕府を支えた江戸の金座】より
1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、翌年、全国規模の流通を目的とした金銀貨である慶長金銀を制定しました。その後、1603年には家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に徳川幕府を開きます。
当時、わが国で最大の金の産出量を誇っていた佐渡金山は、貨幣の原材料となる金を供給することを通して、幕府の通貨制度や財政を支えました。佐渡で産出された金は、厳重な警護のもと、毎年佐渡の小木港から対岸の出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)へと運ばれ、北国街道を経て中山道に入り、江戸まで運ばれていました。
中山道から江戸の中心部に入る際には、筋違橋門(すじかいばしもん)を経由し江戸金座に運ばれていたと考えられます。なお、筋違橋は現在の万世橋と昌平橋の中間に位置し、神田川に架けられていた橋であり、現在は跡を残すばかりとなっています。
佐渡産出の金は江戸金座において金貨に鋳造されました。徳川幕府で最初に金貨鋳造の中心を担ったのは、豊臣秀吉の家臣として金貨鋳造を担っていた後藤庄三郎・光次であり、以後金貨は江戸時代を通して、後藤庄三郎家が長として統轄した金座で鋳造されることとなります。
1695年(元禄8年)には、慶長金が元禄金に改鋳されるに当たり本郷に鋳造所が設立され、江戸、京都、佐渡に分かれていた原判金の鋳造をはじめ、後藤家で実施されていた検定作業等も全て本郷に集約されることとなります。
そして1698年には、その本郷の鋳造所が廃止されるとともに、江戸本町1丁目(現在日本銀行本店が所在する日本橋本石町)の後藤家の屋敷内に鋳造所が開設され、この地は以後「江戸金座」と呼ばれるようになりました。
この時、京都、佐渡は、京都金座、佐渡金座となり、江戸金座の出張所として位置づけられることとなります。両金座が江戸の出張所として位置づけられることとなったのは、規模が江戸に比べて小さく、金貨の鋳造が継続的に行われなかったこと、幕府が金貨を改鋳する際に職人を江戸に集めて作業させたことに理由があるとされています。
なお、佐渡金山は1989年に資源枯渇のために操業を休止し、400年近くに及ぶ長い歴史に幕を閉じましたが、現在ではその殆どが国の重要文化財等に指定され、世界文化遺産候補として本登録に向けて準備が進められています。
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_05_jp.html 【徳川幕府の金山】より
佐渡金銀山の採掘・製錬から小判製造までの工程を描いた絵巻の一部
佐渡島で製造された小判の一例「正徳佐渡小判」の表(右)と裏(左)(縦7.0センチメートル、横3.8センチメートル、18世紀初頭のもの)
「佐渡金山絵巻」に描かれた、金を圧延して延べ板にする工程を再現したジオラマ(「史跡 佐渡金山」展示資料一部)
日本海に浮かぶ佐渡島(さどがしま又はさどしま)の佐渡金山は、17世紀初頭から徳川幕府直営となり、採掘された金は、幕府の財政を支えた。
日本の本州北西、新潟県の佐渡島は、日本海に浮かぶ面積約850平方キロメートルの島で、5万人余の人々が暮らしている(2020年統計)。佐渡島は、かつて、日本の金の一大生産地であった。17世紀前半において、世界の金の生産量の約2割を日本産が占めていたが、そのほぼ半分が佐渡島で生産されていたという*。
佐渡島が金の一大生産地となるきっかけは、1601年に金、更には銀の大鉱脈「相川金銀山」が発見されたことである。その直後の1603年に幕府を開いた徳川家康 (1543〜1616年)は、同年に佐渡島を幕府の直轄地とし、鉱山の開発を本格的に始めた。その後、徳川幕府が日本を治めた江戸時代約260年にわたって、佐渡島の金山(以下「佐渡金山」)は幕府の財政を支える重要な鉱山として発展することとなる。
徳川幕府は、開発当初から、日本各地から鉱山の専門技術者を佐渡島に集め、伝統的な技術でありながら、採鉱から精錬に至る一連の工程で、当時としては、最先端の技術が佐渡島の金山の金生産に結集した、その結果、精錬された金は、純度99.54パーセントまでに高まったとされる。この純度は、機械や化学薬品を用いて金生産を行っていた当時の西洋よりも高いものだったという*。
江戸時代の佐渡金山の様子の模型展示や、実際に使用されていた坑道跡を見学できる佐渡島にある観光施設「史跡 佐渡金山」を管理する株式会社ゴールデン佐渡の名畑翔(なばた しょう)さんは語った。「佐渡金山の大きな特徴は、伝統的な手工業による金の生産が長期間にわたって行われていたことです。17世紀以降、諸外国の鉱山は機械化が進んでいきましたが、日本では幕府が厳しく海外との交流を制限したこともあり、江戸時代に佐渡金山での金生産は機械化されませんでした。しかし、絶え間なく技術改良が加えられることで、佐渡金山の金生産は“手工業による金生産システムの最高到達点”と言われるほどの高いレベルに達し、品質の高い金を生産し続けたのです」
佐渡島で採掘された金で、主に作られていたのが「小判」と呼ばれる金貨である。江戸時代、幕府は金貨、銀貨、銅貨(銭貨)による貨幣制度を導入し、「大判」と呼ばれる金貨もあったが、主に儀礼用として限定的に生産されたことから(参照Open a new window)、小判は日本の貨幣経済を担う重要な役割を果たした。幕府は佐渡島に幕府の金貨製造の工場を設け、1621年から約200年間、小判の製造を行なった。
佐渡島で製造された小判は、国外にも広がった。徳川幕府は海外との交流を制限していたが、中国とオランダとの貿易は継続し、その利益を独占していた。当初、生糸や陶磁器などの輸入品の購入の支払いは銀であったが、大量に銀が外国に流出したことから、17世紀半ばには銀での支払いは禁止された。その代わりに、小判での支払いが行われるようになり、以降、小判が幕府の貿易を支えたと言っても過言ではない。「史跡 佐渡金山」の展示資料館では、それらの小判を展示するとともに、製造工程を解説する展示も見ることができる。
徳川幕府の治世が終わった明治時代(1868〜1912年)以降には佐渡金山も機械化が推し進められ、引き続き多くの金や銀が産出されたが、20世紀後半には次第に生産量が減少し、ついに1989年に閉山した。
佐渡金山には、今も、江戸時代当時の様子をうかがわせる坑道や施設が遺構として数多く残っている。伝統的手工業による採掘から精錬までの生産工程が残る遺跡としては、世界的にも稀有であることから、日本政府は、「佐渡島(さど)の金山」を、世界文化遺産への登録をユネスコへ推薦している。徳川幕府の財政を支えた佐渡金山は、世界の鉱山の歴史の中でも極めて貴重な存在である。
Facebook山本 義彦さん投稿記事
あまりにも知られた静岡金座稲荷神社のお宮 まさに江戸時代に金貨を鋳造した
このすぐ隣に近く日銀静岡支店 これは戦時下の1943年に開業している。意外に遅い。
第一、お隣の長野県の松本支店は、明治期の開業だから。それは近代日本を代表する製糸金融のためであった。しかし静岡は、明治初期以来、殖産興業の掛け声の前から、林業や茶業の発展著しく、金融基盤自体が強く、全国有数の銀行が乱立していたほどだったから、産業の自律性が育っていたこともあろう。現に元老院議官関口隆介の明治中期の東海四県地域経済報告を見ても明らかだ。国立銀行の数も全国有数だった。
むろん報徳金融に根差した地域の信用機関が隆盛を極めていた。それを示す信用金庫もまた強固だった。
この体質は意外にも近代を貫き、現代にまで通じている。地方銀行が、未だに静岡銀行、清水銀行、不祥事が先に報じられた駿河銀行と鼎立し、バブル期の不祥事を抱えた農協金融、労金も高い地位を占めてきた。
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