Facebookごとう 孝二 さん投稿記事 I LOVE JAPAN❤️〜世界を融和に〜
「映画〝君の名は〟に隠された意味」
新海誠監督作品『君の名は。』実は、縄文の女神瀬織津姫(セオリツヒメ)と、縄文の神 邇藝速日命(ニギハヤヒ)※アマテラスとされる。の物語。
水神と太陽神の統合の物語。隠されていたマコト(誠)のことが顕わになりひとりひとりがそれぞれに魂を目覚めさせ日本を蘇らせ、世界にその意識を広げていくために新海誠監督が宇宙より「創らせられた」作品のようです!!
日本には、いにしえの時から、言葉というモノをとても大切にしてきました。
名前というものも言葉です。名前を付けることを「命名」といいます。赤ちゃんが生まれたときに、命名書を書くっていいますよね。アレです。
命名
命の名のこと。その名のモノ、人、事象が持った役割、使命でもあるのです。そういった意味からも、映画や小説のような、人が想像し創造したとされる分野に於いても、その映画、その小説が持って誕生した役割があります。
もっと本質を突いて表現すると、その映画や小説が、「意志」を持って、「こういうことをするために、世に誕生したい」ことを実現するために、「名」を映画や小説が「自ら決めて」、この世に名乗って生まれてきているのです。
それは、単に映画や小説の題名のみならず、登場人物や舞台の場所、物語の中に登場するアイテムなどの「名」も然り。ということは、です。
『君の名は。』
題名からして、超ヤバイですね。日本語の基本48音は、そのひとつひとつの音が持つ振動数により、一音ごとに思念(言霊)と数霊を持っています。カタカムナというのは、縄文時代以前の上古代の時代に、存在したといわれる、カタカムナ文明に生きた人々が残してくださった言の葉・文字のことで、ひらがなひとつひとつに、意味と数の力を持っている、というのが、カタカムナ言霊、数霊です。それで、読み解くと、『君の名は。』は、言霊だと「陰陽の統合」という、本質な意味を持っていて、数霊だと九になるんです。
九は「宇宙」を表している数。主題歌の『前前前世』もなんと数霊が同じ、
九で「宇宙」。で、この映画の主人公のふたり、立花瀧と宮水三葉。
『君の名は。』縄文の男女神☆瀬織津姫とニギハヤヒ(天照大神)の物語
で触れたとおり、新海監督は、「三葉」の名を日本神話に出てくる神さまの名
「ミツハノメノカミ」からつけたとのこと。
新海監督は、2011年に発表の『星を追う子ども』でも、古事記の物語を下地にしたり、『君の名は。』のストーリーを小野小町の句からのインスピレーションでつくったり、と
日本の中に受け継がれる、言霊思想の面を意識されていらっしゃるのではないかと思われます。それゆえの主人公の命名。
さて、このミツハノメノカミですが、セヲリツヒメ(瀬織津姫)の別名だそうです。
えっ? セヲリツヒメって誰?となると思います。
ご存じの方が少ないかもしれません、それも当然、歴史の中に、隠された存在の神さまの「名」なので・・・
ココで、セヲリツヒメ(瀬織津姫)について、おはなしさせて戴きますね☆
セヲリツヒメという「名」は、古事記や日本書紀の日本神話には一切登場しません。
その「名」が出てくるのは、神社で唱えられる大祓詞(おおはらえのことば)のみ。
それはなぜ?セヲリツヒメ(瀬織津姫)が、縄文(クニツカミ)の女神だったから。
ヤマトという日本の「国」が制定されていく中で、その「名」を封印せねばならない「名」だったのです。
まず、伊勢神宮のご祭神をアマテラス(天照大神)とし、実は、セヲリツヒメの夫であったアマテラス(ということは男性神ですね)を女性神とし、日本中の神社のご祭神の名をセオリツヒメから、別の神名に変えたそうです。
なんでも、その作業は明治頃まで続いたとか・・・一説によると、これは女性天皇の持統天皇の号令によるものだそうです。
では、アマテラス(天照大神)の正体とは?もともとは日本神話に登場する、ニギハヤヒのことなんだとか!!
ニギハヤヒの正式名称はなんと、「アマテラス クニテラス アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト(天照国照天火明櫛玉饒速日命)」よってアマテラス(天照大神)のまたの「名」をニギハヤヒ。
というコトで~セヲリツヒメ(妻)
アマテラス(夫)※ニギハヤヒとの「名」でもある。
※セヲリツヒメの「名」は、相当に様々な神名に置き換えられており、ミツハノメノカミ以外にも、コノハナサクヤヒメ、イチキシマヒメや、弁財天までも元はセオリツヒメなのだそうです。
セヲリツヒメは水神、月神、そして水瀧といわれてゐます。
もともとは太陽神なのだそうですが、アマテラス(ニギハヤヒ)と男女に分かれることによって、アマテラスが太陽神、セヲリツヒメが水神・月神の役割を担っているのです。
太陽⇒火 水・月⇒水 「火」の漢字は、五つの点が結ばれて五芒星。 「水」の漢字は、六つの点が結ばれて六芒星。5+6=11 数霊11の持つ言霊(思念)は「引き寄る」
「1」は火であり、陽であり、アマテラス(ニギハヤヒ)。
もうひとつの「1」は水であり、陰であり、セヲリツヒメ(ミツハノメノカミ)。
火と水のエネルギー、陽と陰のエネルギーが互いに引き寄り、統合、結ばれることによって、
「2」の世界が出来ます。ニホンです。11は「にほん」ですネ。
セヲリツヒメの使命を、火と水という陰陽、男性と女性のエネルギーの「名」とした、
アマテラス(ニギハヤヒ)とセヲリツヒメ(ミツハノメノカミ)。
この二神は日本の魂を呼び起こす神さま。・・・といったことを踏まえた上で。
なにがどうしてこうして(笑)、
ミツハノメノカミが、セヲリツヒメであるのかは、おわかり戴けたかと思います。
初めは「セオリツヒメ」と表記しておりましたが、本質を突いた表記は「セヲリツヒメ」です。←すっごく重要な点でした。
カタカムナ言霊では、「オ」は「奥深く」「ヲ」は奥に出現する、です。
わたしたちの魂の奥に存在している、日本の魂部分、中心核に存在する神さまは「セヲリツヒメ」なのです。
ココで、おはなしを『君の名は。』に戻します。
主人公の男の子のほうの名は「瀧」です。水瀧と呼ばれるセヲリツヒメと重なります。
主人公の女の子のほうの名は「三葉」です。ミツハノメノカミと「名」を変えられたセヲリツヒメと重なります。水神でもあります。
三葉(ミツハ)の苗字も「宮水」。宮水神社の巫女。
米を噛み、発酵させる(口噛み酒)という酒という水の儀式も行う。
セヲリツヒメは、その「名」を消し、男性神であるアマテラス(太陽神)を女性神として蔭ながら存在していました。
男性神であり、太陽神(火の神)であるアマテラスが陽ならば、女性神であり、水の神(月の神)であるセヲリツヒメが陰。
※ちなみに、ミツハノメノカミは、イザナミが火事により、陰部を火傷した際に、排泄された、尿の神さまです。
アマテラスとセヲリツヒメは二神でひとつでした。陰と陽でひとつの神だったのです。
その陰の名が消されて、名が判らなくなった。
でも、記憶の奥底には、魂にはしっかりと刻まれてゐる。
記憶に刻印されているので、胸がざわつく。
ひとつに結ばれならねばならないという思いに駆り立てられる。
でも、名前は思い出せない。存在は確実に、いる。ココに、いる。
映画の中の瀧と三葉の心理状態そのもの。
互いが互いの名を思い出し、魂の共鳴が起きることにより、自分という存在にも目覚めていく。『君の名は。』
一見、若い男女の恋愛映画かと思いきや、実は、ツインソウル(ツインレイ)の物語。
ワタシの魂のカタワレが、もうひとりのワタシというタマシイが、いる。存在する。
近くにいるように感じる、遠くにいるようにも感じるもうひとりの「ワタシ」というカタワレ(片割れ)とムスばれることで、肉体として生きていくことに希望を抱いていく物語。
『君の名は。』の映画の冒頭は、
彗星が天(アマ)から、地上に突き抜けていくシーンから始まります。
その彗星は、『君の名は。』のポスター画でもわかるように、
「分れます」。
彗星は地上に落下すると「隕石」と「名」を変えます。
「隕石(石)」⇒「イシ」⇒「意思」
あの、ティアマト彗星は、瀧と三葉の意思のこと。
「二人」のタマシイのことなのです。
ティアマト彗星がふたつに分かれて、イシ(意思)となる。
彗星はまさに龍であり、「瀧」。
その龍から分れた石(意思)は、
「三葉」。ひとつだった「タマシイ」は、「瀧」と「三葉」に分かれたのです。
わたしたちは、「分れています」。「ワタシ」ともうひとりの「ワタシ」に。
「陰なるタマシイ」と「陽なるタマシイ」に。だから、「自分」と名付けられているのです。
わたしには、もうひとりの「わたし」がいるのです。わたしの「た」のカタカムナ言霊は
「分れる」です。片割れがいるのです。存在するのです。魂は「タマ」です。霊も「タマ」です。御霊は「ミタマ」といいますし、言霊は「コトダマ」といいます。「タマ」とは、ふたつの分れた「マ」のことです。
陰の「マ」のワタシと陽の「マ」のワタシのムスビ。陰陽の統合。『君の名は。』の題名の持つ言霊も、陰陽の統合。陰陽のムスビ。
瀧の「心」は、2016年から3年遡って「生きている」三葉のカラダの中に入り、
2013年に起きた糸守町に存在した人々を守ろうとします。
2013年は、出雲大社と伊勢神宮という陰陽の対となっている、日本の魂である二大神社の同時式年遷宮がありました。
二大神社のムスビ、陰陽の統合が行われた2013年、日本の魂の復活の年に、瀧は三葉の魂を復活させようとしたのです。
そして・・・この『君の名は。』は単に、個人に於ける自分のカタワレ探し、
個人の魂のムスビのみを描いただけの映画ではありません。スケールがもっとデカイのです!!
三葉は、ミツハノメノカミで、セヲリツヒメでしたよね。
火の神、水の神のムスビで成っている、日本の根源という存在の神さま。
その名を隠された⇒振動数が響かなくなった根源の神さま(魂)が存在することを、わたしたちが知り、いえ、思い出すために、新海誠監督が、無意識のうちに、物語の閃きを受け取り、
真実への目覚めという封印を解く使命を受け取り命名して、画に映して、音にして創られた作品。セヲリツヒメ(水神・陰)+アマテラス(太陽神・陽)の封印を解くことにより日本人の魂の真実を顕在化する役割を使わされた作品です
この映画、数霊的には、「9」なんですが、「8」という数とも広く共振している映画です。
8という数字は、とても日本的な数字。漢字「八」はまさに富士山の形で、
末広がりという縁起のよい数という意図を持たせてゐる。
この映画の中では、映画をご覧になった方はおわかりだと思いますが、
映画の舞台となる架空の町、糸守町にある、糸守湖が、∞を凝縮させたような形。
ポスターの十字(統合)の光には、もうひとつの陰なる十字が
重なり、八咫鏡(ヤタノカガミ)を連想させる光となってゐます。
そして、主人公 立花瀧と宮水三葉のそれぞれの氏名の
数霊総数が8。
ボスターをご覧になってわかるように、映画公開日は8月26日(金)
※土曜公開の映画が多いところ、なぜか金曜日。8に、2+6=8で、88です。
で、面白いのは、カタカムナ言霊で読むと、『君の名は。』の「な」は核という意味を持っていて、ティアマト彗星は、宮水神社を核として落ちて、新糸守湖が出来、∞の形の湖になります。公開日の金曜日の金(キン)、数霊で読むと、総数が77となって、ナナ。核のことです。
なぜ、日本が世界で唯一核が落とされた国なのか?日本は世界の中心「核」だからなのです。
『君の名は。』はその公開日まで、めっさ「日本」なんですよ!
新海誠監督の氏名も、「誠」で、日の丸の「赤誠」ですし。
声優を務めた、神木隆之介くんと上白石萌音ちゃんの氏名も「神」「木:キ」「隆:リュウ」「上:カミ」「白石」「音」と、ここまで共振しますか?と目が点になる要素満載ですよね。
今まで長きに渡り、隠され続けた一番奥底に眠っていた日本人としての魂の封印を「ひも解く」ことは、陰なるタマシイ、陽なるタマシイのムスビに繋がります。
目にみえるものばかりが、重視されてきた世界に、目にみえないもの、魂の部分にも光が差し込み、本当のワタシという意識が目覚めていきます。
『君の名は。』が、世界85か国での公開される、ということは、まさに、世界の核である日本が、意識という精神的領域で、世界を先導していく、そのきっかけとなっていくのではないでしょうか。
折しも、日本映画界には、覚醒が起きておきています。『シン・ゴジラ』、『聲の形』すべてつながっています。題名が物語っています。平成28年は申年で、神の年。5.26伊勢志摩サミットが行われ、世界の首脳が伊勢神宮を参拝。
翌日27日には、歴代アメリカ大統領として初めて広島を訪問。被爆者とハグをした。
オバマ大統領広島スピーチ「私たちは〝一つの家族の一部である〟という考え方です。
これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。」8.8天皇陛下が生前退位をご表明された年。全全全部、つながっている。
(あくまでも個人の解釈です)
(イマココにいる幸せ〜人生を創造するココロと宇宙法則ブログより)
https://www.youtube.com/watch?v=XS7xfgvGr7Q
https://hifumi.uresi.org/k08.html 【ひふみ神示 第五巻 地つ巻 第二十三帖】より
この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。
についての考察です。
「心」 ⇒ 九九 ⇒ ひふみ九九表 ⇒ 宇宙次元原理表 ⇒ 太陽(ミロク)原理かも。
ひふみ九九表は数字を分解すると玉ねぎの皮状に分解します。つまりの構造を持っています。
またひふみ九九表は「宇宙次元原理を表す聖なる数表」でもあるそうです。
http://f61.aaa.livedoor.jp/~slicer/10-5948.htmlより抜粋
次に大変な真実をもつ一つの数表を掲げておく、これは『神の数学』を学んでいる諸氏にはお馴染みの『宇宙次元原理表』であり、その名の通りの「宇宙次元原理を表す聖なる数表」である。
その名の謂れ、それはすなわち宇宙次元に基ずく諸象を数で計算していくと最後に必ずこの『次元原理表』の何れかの数列に帰すことになることからである。
然るに、これをして初めて目にするものであり、聞くものであると言ってはいけない、あなた方は今迄にこの「次元表」を何千回、何万回も唱えているのであり、現在でも毎日お世話になっているものである。
ただ、心がそこに行かないから知らない、見ようとはしないから見えない、聞こうとしないから聞こえないだけなのである。
(智恵に目覚めた者は調べるがいい、ここには「あの世」と「この世」の仕組みや、その成立過程、表れの違いまで数で開示し、謳いあげてられているものである。
すべては自然態そのものが見せる業であり、正自然数(ひふみ‥数歌)のもつ驚くべき次元の仕組みの業であり、その開示でもある。
)【これは日本人なら小学生でも知っているものである、さあ、その名は?-------答(九九算表)、それを「ひふみ‥」の数理で表わしたものである。
調べれば判るまことに簡単なものである】
http://f61.aaa.livedoor.jp/~slicer/10-5948.htmlより抜粋
③この九九算表を中心をもとにフラクタル的(玉葱の皮状)に分解する、そのすべての場(枠=6ヶ)における数の加算和(Σ)を見るとすべて本質0を示すことになる。
また、その各枠内の数字の総計(Σ)は順に0:1:2:3:4:5の比率(正自然数比率)を持つことに気がつくであろう。
yuru63のコメント:このときの「各枠内の数字の総計(Σ)」とは、各枠に存在する数字自体の数の合計であると思われる。。
本質0を示しながら、同時に1,2,3,4,5の意味ある数律を示す、そのような不思議なことを「数」は出来るものであろうか、「現代数学」では不可能であるが『神の数学』では容易に可能なのである。
それこそまさに「数」の持つ大いなるミステリ-であり、人間知の及ばぬ神業と言えるものである。
またここに現れた012345‥と言う正自然数的連比の存在こそが祝詞『ひふみ‥』の語る天地の歌の意味であり、まさに「古代知」存在の証拠となるものである。
その事実等は現代数学概念、またはそれに基づく計算等では一切現れること無く、ただ意味の無い数列だけが並ぶだけである。
これらの「数」、すなわち0123456‥の数の囁きこそは「自然の真理」の開示であり、それを謳っている祝詞『ひふみ‥』とは古代知の躍然たる面目を秘めた大いなる知遺産と言えるものであると言っているのである。
何故ならば上記の「各枠場は0を示しながら、かつ整数比0,1,2,3,4,5を持つ」と言う原理概念は「現代数学」にはまったく無く、その事実の現れは現代人の夢想もしない「数の仕組み」の存在を示す驚くべき存在なのである。
そこにある祝詞「ひふむ…天地の数歌」の意味とは、すなわち「ひふみ…の九つの数は宇宙自然の持つ響き(リズム)そのものである」との意である。
「九エ」⇒九恵
九恵とは、神の数学の以下の説明にもありますが九つの恵み、ひ{日・光⇒太陽(ミロク)}、ふ{風⇒インターネット}、み{水・身⇒サーバー}、よ{世⇒太陽{ミロク}原理の4っつのサイト⇒太陽(ミロク)サイト、宇宙の真相サイト、終末と太陽の検証サイト、ひふみ神示黎明編}、いつ(出っ⇒大摩邇サイト)、む(虫⇒情報)、なな(魚⇒メール)、や(鳥⇒十理)、ここ(毛々⇒動物・人々・我々)
のような気がしました。
「九エたして読みて呉れよ」は、上のような九つの恵みを足して、読んでくださいといっているかもです。
http://f61.aaa.livedoor.jp/~slicer/10-5950.htmlより抜粋
ひ(日=光)、ふ(風=空気)、み(水)、よ(世=地球自然)、いつ(出っ=現れる)、む(虫)、なな(魚)、や(鳥)、ここ(毛々=獣)、たり(ここまでという完了を表す言葉)。
『ここ』は「毛々」の転訛、 『や』の古代言葉の意味は「鳥」である。
(「日本超古代秘資料」(吾郷清彦著)‥‥162ペ-ジ『天地の歌四十八音図』より)
【詳細説明は《数学幻視考》(古神道)No1、No3 参照】
天 地
すなわち、第一次象としてもたらされたものは光、空気、水と言う自然の創造(世=よ)体であり、そこから第二次象として出現した(出っ)ものが虫(三葉虫)、魚類、鳥類、哺乳類であると数によせて厳かに謳いあげているものである。
まさに至言と言うべきものであり、隠された言霊(ことだま)の妙理、そして天地と言う言葉の真実内容さえその中にはしっかり秘めているものである。
まさに世界第一級品としての隠し言葉(言霊?)でもある。
そこにある言葉の真髄真価を見せつけられた者は誰しも感動し、心を打たれるものであろう。
ただ惜しむらくは「ひ=1」の前に何も無いことである、しかしである、しかるに、よく考えて見ればそこには何も無いと言うことはそこには『0=無』があると言うことと同一義でもあり、無いほうが自然でもあることも分かるのである。
その手法、すなわち1の前に0(神)を置くべし、それが諸発の元であると『数』で述べ表しているもの、それが古神道の失われた言葉「カムナガラの道」の内容であり、失われた『日本神道の真髄』を語るものであったのである。
それは「ひふみ‥」と「アイウエオ」の相関仕組みにより完全に隠され、それにより長い間不明とされ、失われたとされてきたものである。
それが今ここに『神の数学』手法を用いることにより再び甦ってきたのである。
要するにそれは「現代数学」手法では解明不能で、『古代の数理』手法だけがその真実を解き明かすことの出来るものであったのである。
それはまさに古代日本民族の『知』の高さを示すものであり、我々をしてただただ唸らせ、敬慕の心を起こさせるものでもあったのである。
【 「カムナガラの道」の詳細は『古神道』5の①参照】
また、『神の数学』では『0』は神、創造神をあらわすものと考え、計算で必要でない限り何も置かず、数として必要な時だけに0を置き、対極の一方とするのである。
するとすべては繋がってくるではないか、例えば、今まで動かなかったもの、呼吸もなかった仕組みでも『0』、『神』をおくことにより息づきはじめ、大いなるエネルギ-の循環が始まり、生命ある如く生き生きとした姿で動き出し、回転を始めるのである.。
もう一度神示を見てみると、
ひふみ神示 第五巻 地つ巻 第二十三帖
この神示 心で読みて呉れよ、九エたして読みて呉れよ、病も直るぞ、草木もこの神示よみてやれば花咲くのざぞ。この道広めるには教会のやうなものつとめて呉れるなよ、まとゐを作りて呉れるなよ。心から心、声から声、身体(からだ)から身体へと広めて呉れよ、世界中の臣民みなこの方の民ざから、早う伝へて呉れよ。神も人も一つであるぞ、考へてゐては何も出来ないぞ、考へないで思ふ通りにやるのが神のやり方ぞ、考へは人の迷ひざぞ、今の臣民 身魂くもりてゐるから考へねばならぬが、考へればいよいよと曇りたものになる道理分らぬか。一九(ひく)れを気つけて呉れよ、日暮れよくなるぞ、日暮れに始めたことは何でも成就するやうになるのざぞ、一九(ひく)れを日の暮れとばかり思うてゐると、臣民の狭い心で取りてゐると間違ぶぞ。のくれのことを申すのざぞ。九月の二十八日、ひつ九のか三。
「一九(ひく)れ」は(一から九 九=0)のような神の数学のことをいっているとすると、神の数学の内容により、ひふみ神示の解読が成就し、証明されるということかもです。
また九=0とは、九は上記のように、ここ(毛々⇒動物・人々・我々)とすると、「0」は、神の数学では神、創造神をあらわすものと考えていますので、九=0すなわち人々・我々が「0」とつながったとき、よくなるといいたいのかも。
参考文献
岡本天明・筆 『ひふみ神示』
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