「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ①」
芳賀氏の城、飛山城
宇都宮市中心部から水戸方面に向けて車を走らせると,やがて鬼怒川をわたります。橋の上から左手を見ると,鬼怒川東岸の崖の上にひときわ高い飛山城跡を望むことができます。現在ここは,国指定史跡として保存され,平成 17 年 3 月に史跡公園の開園を目指して整備がすすめられています。
飛山城は,宇都宮城の城主であった宇都宮氏の家臣,芳賀は が氏が築いたお城です。しかし,飛山城は,決して単なる宇都宮城の支城であったわけではありません。
芳賀氏は,宇都宮氏の家臣と言われながらも,宇都宮氏に対して相当に独自の立場をもっていました。それと同様に,飛山城も宇都宮城とは密接な関係をもちながらも,ときには宇都宮城を攻撃する基地として使用されることがあるなど,さまざまな動きのなかで機能していたと考えられます。
そこで,宇都宮城と飛山城の長くて深い関わりをたどってみることにしましょう。
宇都宮城の歴史「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ②」
飛山城の築城
飛山城は,鎌倉かまくら時代の後半に,宇都宮氏の重臣で,現在の真岡も お か市付近
に本拠を置いていた芳賀は が高俊たかとしにより築かれました。
飛山城がある場所は,芳賀郡と河内か わ ち郡との境界であり,鬼怒川の舟運ふなうん
などの交通路をおさえる要 衝ようしょうの地です。また,芳賀氏は飛山城に拠点を移
すことによって,宇都宮氏との関係を一層強めようとしたと考えられます。
その頃の宇都宮氏は,宇都宮泰綱やすつな・景綱かげつなが鎌倉幕府ば く ふの 評 定 衆ひょうじょうしゅう(幕府の政治を審議する役職)になり,景綱が「宇都宮弘こう安あん式 条しきじょう」(宇都宮氏が自分の領地を治めるために定めた法律)を制定するなど,繁栄の時期
をむかえていました。芳賀氏は,飛山城を足がかりに,そのように勢力が強くなった宇都宮
氏と接近し,自分の権力を強化しようとしたのでしょう。
その後,芳賀高俊の子・高直たかなおが宇都宮景綱の子・高久たかひさを養子にむかえることで,芳賀氏は宇都宮氏の一族となり,強い権力を手にいれたことにも,飛山城の存在が大きく関わっていたと考えられます。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ③」
宇都宮公綱と南北朝
後ご醍醐だ い ご天皇てんのうが鎌倉かまくら幕府ば く ふの打倒をめざして戦い始めていた正 慶しょうけい2(1333)年,宇都宮城主・宇都宮公綱きんつなは,鎌倉幕府の命令で近畿地方に出陣し,後醍醐天皇方の名将・楠木くすのき正成まさしげと戦います。このとき正成は「宇都宮氏は関東で一番の勇者だ。紀清き せ いの両 党りょうとう(益子ま し こ氏と芳賀は が氏)は戦場で命を捨てることなど何とも思っていない。」といって恐れたということです。
鎌倉幕府が滅びると,後醍醐天皇の政治が始まりますが,まもなく足利あしかが尊氏たかうじが天皇と対立し,日本全国が後醍醐天皇の南 朝なんちょうに味方する勢力と,足利尊氏を中心とする北 朝ほくちょうを支持する勢力に分かれて戦う南 北 朝なんぼくちょう時代じ だ いとなります。
この時期,公綱は南朝に味方して各地を転戦します。この間,芳賀氏の当主・芳賀高名た か なは,飛山城を拠点に宇都宮氏の実権掌握を狙っていました。建武け ん む4(1337)年,ついに高名は公綱の子・氏うじ綱つなを擁して宇都宮城を占拠し,北朝に味方する態度を明確にしました。
こうして,南朝方の宇都宮公綱対北朝方の芳賀高名・宇都宮氏綱という対立が決定的となり,下 野 国しもつけのくに(栃木県)以外の勢力の動きともからんで,宇都宮城と飛山城も大きな戦いの渦に巻き込まれていきます。
宇都宮城の歴史「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ④」
飛山城落城
形勢不利となった後ご醍醐だ い ご天皇てんのうの南 朝なんちょうは,東日本を勢力下におくため,北 畠きたばたけ親房ちかふさを派遣しました。親房は船で常陸ひ た ち国(茨城県)に上陸し,小田お だ城(つくば市)に根拠地をおきました。その配下の武将・春日か す が顕国
あきくには積極的に下野しもつけ国(栃木県)への攻撃を開始します。
顕国は,延えん元げん4・暦 応りゃくおう2(1339)年に八木や ぎ岡おか城(真岡も お か市)と益子ま し こ城(益子町)を攻め落とし,上三川か み の か わ城(上三川町)と箕輪
み の わ城(国分こくぶん寺じ町)の北 朝ほくちょう方の軍勢を追い払いました。
勢いに乗る南朝方は,高館たかだて山(益子町)の西明寺さいみょうじ城を下野国における
基地とし,北朝に味方する宇都宮氏綱うじつな・芳賀は が高たか名なの重要拠点・飛山城に
迫ります。
興国こうこく元・暦応 3 年(1340)年には,飛山城の管理下にあった石いし下おろし城(市
いち貝かい町)が落城し,守備の兵士は全員戦死しました。
北朝方の支援も及ばず,翌興国 2・暦応 4(1341)年 8 月 1 日,春日顕国の攻撃によって,ついに飛山城は落城します。そのときの様子は記録に残っていませんが,石下城の例から見ても,非常に激しい戦いがあったものと思われます。
こうして,宇都宮城と飛山城は,それぞれ北朝方と南朝方の最前線となって向かい合うことになったのです。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ⑤」
飛山城奪還
重要拠点である飛山城の落城は宇都宮氏綱うじつな・芳賀は が高たか名ならに大きな衝撃
を与えました。当時の記録には宇都宮城にいる武士たちがすっかり意気消沈した様子が記されています。
飛山城の落城に先立ち,北 朝ほくちょう方は 高こうの師冬もろふゆを宇都宮城に派遣し,南 朝なんちょう方の春日か す が顕国あきくにの猛攻にさらされている飛山城の支援を図りました。しかし,落城が避けられないとみた師冬は,北 畠きたばたけ親房ちかふさが関東における南朝方の根拠地としている小田お だ城(茨城県つくば市)を背後から攻撃するため,瓜連
うりづら城(茨城県那珂な か市)に移動。そこから南下して小田城に攻めかかりました。
師冬の攻撃を防ぎきれなくなった南朝方は,関せき城(茨城県筑ちく西せい市)と大宝
だいほう城(茨城県下しも妻つま市)に移動して抗戦を続けます。しかし,南朝方不
利の情勢のなかで,関東地方の武士たちは大半が北朝に味方し,両城は孤立していきます。
興国こうこく4・康永こうえい2(1343)年、関城と大宝城はあいついで陥落し,関東に
おける南朝方の組織的な活動は終わりました。北畠親房は南朝の本拠地・吉野よ し の(奈良県)に戻り,春日顕国は捕らえられて殺されました。
こうした情勢のなかで,宇都宮城を拠点とした芳賀高名は鬼怒川を越えて攻勢を強め,飛山城を奪い返しました。その日付ははっきりとはわかりませんが,関城・大宝城陥落以前だと考えられます。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ⑥」
北朝の勝利関東地方での南北なんぼく朝ちょうの戦いは,北 朝ほくちょう方の勝利に終わりました。
南 朝なんちょうの関東地方への進出は,楠木くすのき正成まさしげや新田に っ た義貞よしさだなどの有力な武将が戦死した後の劣勢を挽回する大勝負だったのです。それは,関東・東北
地方などの東日本を支配下において北朝に対抗するという雄大な構想でしたが,その企ては失敗しました。
関東地方での戦いで,南朝方の支配領域が最大であったのが,飛山城
を攻め落とし,宇都宮城と対峙た い じした興国こ う こ く2・暦 応りゃくおう4(1341)年の時点でした。そのまま南朝方が勢力を拡大していれば,下野しもつけ国のくに(栃木県)を制圧し,北上して東北地方へ進出する予定だったと思われます。
この後も全国で戦いは続きますが,北朝の優勢は動かないものとなり,その中心人物である足利あしかが尊たか氏うじがつくった室町むろまち幕府ば く ふが,政権として確立していきます。
一方で,北朝に味方した宇都宮氏綱うじつなは上野こうずけ国のくに(群馬県)と越後え ち ご国のくに(新潟県)の守護し ゅ ご(一国の武士を統率し,行政や軍事をつかさどる役職)に,芳賀は が高たか名な(禅可ぜ ん か)がその守護代し ゅ ご だ い(守護の代理として実際に現地を支配する役職)に任命されるなど,宇都宮氏と芳賀氏が大きく勢力を伸ばしました。
南北朝の争乱のなかで、飛山城と宇都宮城が歴史の行方を左右する重要な役割を担った時期だったといえるでしょう。
「飛山とびやま城と宇都宮城 ⑦」
宇都宮氏と芳賀氏の対立
南 北 朝なんぼくちょう時代以降,しばらくの間,飛山城は大きな戦いや事件の舞台に
はなりませんでした。しかし,芳賀は が氏の拠点として,また,河内か わ ち郡と芳
賀郡の境界に位置する要衝として,重要な役割を持っていたことは間違いありません。
飛山城が再び歴史の表舞台に登場するのは,戦国せんごく時代のことです。
16 世紀になると,宇都宮氏と芳賀氏の間には複雑な対立関係が生じ,天文てんぶん10(1541)年,宇都宮城主・宇都宮俊綱としつなは,真岡城主・芳賀高経たかつねを
殺害しました。高経の子・高照たかてるは白川しらかわ(福島県白河市)に逃亡し,益子
ま し こ氏出身の芳賀高定たかさだが宇都宮俊綱の支持のもとに芳賀氏の当主となりました。
天文 18(1549)年,白川にいた芳賀高照は那須な す高資たかすけの支援のもとに宇都宮氏を攻撃,宇都宮俊綱は,激戦の末,五月そ お と女坂め ざ か(さくら市)で那須氏の家来・鮎ヶ瀬あ ゆ が せ弥や五郎ご ろ うの矢にあたり戦死します。
高照はたちまち宇都宮城を占領,宇都宮俊綱の子・広綱ひろつなは芳賀高定を頼って真岡も お か城(真岡市)に逃亡しました。
ここに,真岡城の宇都宮広綱・芳賀高定と,那須高資の支援を得た宇都宮城の芳賀高照が対立する状況となり,飛山城がその最前線としての役割を担うこととなります。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ⑧」
戦国時代の下野国
このころの下 野 国しもつけのくに(栃木県)をめぐる情勢は複雑です。有力な戦国せんごく
大 名だいみょうがいなかった下野国は,相模国さがみのくに小田原お だ わ ら(神奈川か な が わ県小田原市)の北 条ほうじょう氏康うじやす,越えち後ごの国くに春日山か す が や ま
(新潟にいがた県上 越じょうえつ市)の上杉うえすぎ謙信けんしん,常陸国ひたちのくに太田お お た(茨城いばらき県常陸太田市)の佐竹さ た け義昭よしあき,甲斐国か い の く に
甲こう府ふ(山梨やまなし県甲府市)の武田た け だ信玄しんげんなどの巨大勢力のはざまになっていました。
芳賀は が高照たかてるを支援して宇都宮広ひろ綱つなを真岡も お か(真岡市)に追いやった那須な す高資たかすけは,広綱を支援する真岡城主・芳賀高定たかさだの計略によって,千本せんぼん城(茂木も て ぎ町)で殺害されました。宇都宮城の芳賀高照は那須氏のうしろだてを失って孤立します。
その状況を見ていた壬生み ぶ綱雄つなたけは,北条氏康うじやすの支援のもとに,芳賀高照
を追って宇都宮城を占拠しました。行き場所を失った高照は,それまで対立関係にあった真岡の芳賀高定を頼りますが,弘治こ う じ元(1555)年高定によって真岡で殺害されました。
こうして宇都宮城の 主あるじが入れ替わり,北条氏の支援を得た宇都宮城の壬生氏と,真岡城にいる宇都宮広綱・芳賀高定の対立となりましたが,飛山城は相変わらず真岡方の最前線となっていました。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ⑨」
強大な戦国大名の下野侵入
弘治 3(1557)年,宇都宮広ひろ綱つなと芳賀は が高定たかさだは壬生み ぶ綱つな雄たけに対抗するため,常陸ひたちの国くに太田お お た(茨城いばらき県常陸太田ひ た ち お お た市)の佐竹さ た け義よし昭あきに支援を求めました。
同年 12 月,佐竹義昭は五千人の軍勢を率いて飛山城に入城。宇都宮城の壬生綱雄に対して強い圧力を加えました。これは,宇都宮氏と壬生氏の争いというだけでなく,そのうしろだてとなっていた佐竹義昭と相模さがみの国くに小田原お だ わ ら(神奈川か な が わ県小田原市)の北 条ほうじょう氏うじ康やすという,強大な戦国せんごく大 名だいみょうの抗争とも言えるものでした。飛山城と宇都宮城が,佐竹氏と北条氏の最前線となっていたのです。南 北 朝
なんぼくちょう時代以来,飛山城は最大の軍事的な緊張状態に置かれたことになります。しかし,壬生綱雄は全面対決を避けて鹿沼か ぬ ま城(鹿沼市)に退去し,宇都宮広綱が宇都宮城に入りました。こうしてほぼ10年ぶりに宇都宮城が宇都宮氏の本拠地として復活することになったのです。以後広綱が宇都宮城主となり,高定が広綱を補佐する体制ができあがりました。
翌永禄えいろく元(1558)年,越後国えちごのくに春日山か す が や ま(新潟にいがた県上 越じょうえつ市)に本拠をおく戦国大名・上杉うえすぎ謙信けんしんは,北 条ほうじょう
氏康うじやすに対抗するため関東地方に侵攻。5 月には,下野国(栃木県)に来襲し,小山
お や ま(小山市)の小山高朝たかともを降伏させたのち,宇都宮領の多功た こ う城(上三
か み の川かわ町)に攻め寄せました。
宇都宮城の宇都宮広綱と真岡も お か城(真岡市)の芳賀高定は多功城の救援に駆けつけ、激戦の末かろうじて上杉勢を退けました。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ⑩」
飛山城のおわり
宇都宮城とのかかわりの中で,重要な役割を果たしてきた飛山城ですが,戦国せんごく時代の終わりごろ,宇都宮氏が北 条ほうじょう氏に対抗するため多気た げ城(宇都宮市田た下げ町ほか)を築き,本拠地を宇都宮城から多気城へ移すと,その地位が低下しました。
それは,芳賀は が氏の本拠地の真岡も お か(真岡市)と宇都宮氏の本拠地を中継するという機能が,宇都宮氏の本拠地が遠くなったため,果たしにくくなったからだと考えられます。
天 正てんしょう18(1590)年,豊臣とよとみ秀吉ひでよしが北条氏を滅ぼした後に,「不要な城は破却はきゃくせよ」という命令を出しました。その際,役割の低下していた飛山城は
廃止の対象となったと考えられます。
「飛山とびやま城じょうと宇都宮城 ⑪」
400 年の眠りから覚めた飛山城
飛山城の発掘調査の際に,わざわざ土塁ど る いを崩して堀を埋めた痕跡が発見されました。これが,「破却はきゃく」の際に行われた城を放棄するための行為の跡だと考えられます。
それ以後,飛山城は城として復活することなく,長い眠りについていました。
現在,400 年の眠りから覚めて,史跡公園として整備された飛山城に立てば,晴れた日には宇都宮の市街地や日光連山を一望することができます。
鎌倉時代から戦国時代までの 300 年間,ここに立った数多くの武将たちは,その景色をどのような思いで見ていたのでしょうか。
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