Facebook澤田雅人さん投稿記事
皆様‼️おはようございます☺️現在の🇯🇵日本人の方々は…この一文字で表現している🌈💖【愛】と【感謝】と【調和】💖🌈を知っている方々はほとんど皆無に
等しいと思われます💢【読み方】は 👉👉🌟そしじ🌟と読む
それでは…なぜ…⁉️この文字【そしじ】が皆無なのでしょうか💥それには理由が⁉️💥
この言葉は💥【GHQ】💥により封印された言葉なのです…‼️勿論、文字を変換してみて検索🔍してみても全くでてきません。
🌟【そしじ】には絶大なるパワーが⁉️🌟痛いところにこの字を書く、すると… 貼った箇所より痛みが消える‼️枕の下に置く、すると…ぐっすり朝まで 眠れた…‼️花瓶や植木鉢の下に置く、すると…植物がイキイキしてよく育つ…‼️良い気が流れる…‼️
水道水の水をコップに入れコップのしたに文字を書いたものを置く、すると…水の結晶がきれいにできる…‼️場の空気を浄化してくれる…‼️
💥GHQ💥は終戦直後に【漢字を廃止・制限】して【ローマ字】を使用させようとしていました❗戦前には『和多志』であったものが戦後に『私』に変換『氣』が『気』に変換されました何かの理由により、そしじという漢字も消されてしまったのです。
その理由は…🇯🇵日本の言霊にパワーがあったからです…‼️
そして…日本人がこの文字を読み発する言霊が、この文字に周波数が存在して様々な事象が
起こることをGHQが恐れていたと推測できます。
現在、令和の時代の我々には…日本人がGHQにより封印された言葉や文字を現代に再現することにより日本人の本来の姿が蘇えることでしょう‼️下記のリンク先のYoTubeをご覧ください。
令和3年保江邦夫×中澤弘幸 「京都文化対 決!』 第6回 1部 <#13> 【バロン保江の日 月星辰倶楽部魑魅魍魎 2021】 (2021/02/14)
https://www.youtube.com/watch?v=e7GnOgqG274
https://aterui8.jp/about/ 【アテルイを顕彰する会】より
設立
設立 平成3年(1991年)4月27日
延暦八年(789年)、アテルイ率いるエミシ軍が現在の岩手県胆沢地方に侵攻した数万の朝廷軍と対決し、巣伏の戦いで大敗させた。この胆沢の合戦から1200年にあたる平成元年(1989年)は、アテルイ復権と顕彰活動の画期をなす記念すべき年になった。
水沢市(現奥州市水沢)の跡呂井町内会は「アテルイ王千二百年祭」として記念碑建立と巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列を実施、市民グループの延暦八年の会は巣伏の戦い大勝利1200年を記念する「アテルイとエミシ展」を開催。また県水沢地方振興局は胆江地方を「アテルイの里」と名付け、シンポジウム「いま、蘇えるアテルイ」を主催するなど、アテルイを顕彰しようとする機運は一挙に大きな流れになったのである。
一方、関西胆江同郷会は同じ頃にアテルイとモレが処刑された関西に供養碑を建立すべく運動をすすめていたが、坂上田村麻呂創建と伝えられる京都の清水寺が境内への碑建立を快諾、アテルイ顕彰の一大事業としてアテルイの地元での運動も要請されるに至った。
このような状況のなかで、アテルイ碑建立事業の推進と幅広いアテルイ顕彰活動の持続的な展開を担う組織の必要性から、広く有志が結集し、平成3年(1991年)4月27日に<アテルイを顕彰する会>が設立された。
https://aterui8.jp/ireihi.html【阿弖流為 母禮 慰霊碑】より
建立場所 岩手県奥州市水沢羽田町字御山下 羽黒山山頂
建立年月 平成17年(2005)9月17日
建立者 阿弖流為・母禮慰霊碑建立実行委員会(会長 及川松右衛門)
碑の概要
碑は黒御影石で芝台、台座をいれると高さ2.61m、幅1.66m。
石碑には阿弖流為と母禮の名前を並べ、その下に 慰霊碑と刻まれている。揮ごうは清水寺の森清範貫主。碑の脇に高さ1.2mの碑誌が建つ。
慰霊碑にはアテルイとモレが処刑された河内国の土(枚方市牧野公園内の塚の土)を分霊として納めている。
建立場所は羽黒山頂の出羽神社から西に200mほどのところで、胆沢平野を望む一段と高い絶好の場所。
碑誌文面
宝亀七年(七七六)以来、度重なる朝廷軍の攻撃に対し古代胆沢の蝦夷と呼ばれた人々は、郷土を守るべく敢然と立ち上がりました。
延暦八年(七八九)には勝利を収めましたが、その後も繰り返された戦いにより多くの命が失われ、胆沢の地は荒廃しました。
地元胆沢の長阿弖流為と母禮は、仲間五百余人と共に坂上田村麻呂に降伏します。
二人は、延暦二十一年(八〇二)八月十三日(九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。
阿弖流為、母禮をはじめとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛、友情は私たちの誇りです。
ここに多くの賛同者の浄財により、ゆかりの地に慰霊碑を建立し、永く顕彰します。
平成十七年(二〇〇五)九月十七日
後 藤 晨 撰文
碑説明板
アテルイ・モレ顕彰の地
朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄・毛人・蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。
胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。
その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。
二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出でて官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。
平成二十一(二〇〇九)年九月十七日
アテルイ・モレを慰霊する会 及川洵 撰文
建立経緯
京都清水寺に平成6年に碑が建立され毎年法要が行われているが、地元では顕彰すれども慰霊する碑はなく、 碑建立はアテルイに関心を寄せる地元関係者の長い間の念願になっていた。 当会の及川洵会長をはじめとする水沢市(現奥州市水沢)羽田町の有志を中心に、同町の羽黒山頂への建碑を呼びかけ、2004年2月に碑建立実行委員会(及川松右衛門会長)が設立され、準備が進められた。 同年11月には、アテルイとモレが処刑された河内国の土を分霊として慰霊碑に納めることとし、枚方市の片埜神社の協力を得て、隣接する牧野公園の塚の土をもらいうけた。
翌年の7月27日に地鎮祭を行い、9月17日の「アテルイの日」に合わせて入魂並びに除幕式を行った。
慰霊祭
毎年9月の第2土曜日に慰霊碑の前で執り行われます。
阿弖流為・母禮を慰霊する会(佐藤健寿会長)の主催で、当会も毎回開催に協力、参加しています。
https://aterui8.jp/area/isawa3.html 【跡呂井(アトロイ)の地】より
準備中
昔、安土呂井村
奈良時代、岩手県内の蝦夷の最大遺跡
1996年9月から発掘調査が進められていた水沢市の杉ノ堂遺跡(跡呂井二ツ壇地区)
奈良時代の焼失住居跡五棟が発見された。
「胆沢の合戦」大パネル
「胆沢の合戦」大パネル
平成10年(1998)5月16日、水沢市(現奥州市水沢)花園町の花園ポケットパークに設置された。
中一弥画「胆沢の合戦」(河北新報社所蔵)は、延暦8年の巣伏の戦いで、馬上で指揮をとるアテルイ とエミシ軍が朝廷軍を北上川に追い落とす場面を描いている。
1980年秋に河北新報社から水沢市にその拡大パネルが寄贈され、跡呂井の地名が残る花園町に 設置されていたが、傷みが目立ってきたことから、ポケットパークの整備にあわせて水沢市が県補 助と河北新報社の協力を得て移設、新調した。当会は記念にシダレザクラを寄贈し植樹した。
アテルイ王記念碑
アテルイ王記念碑
平成元年(1989)年9月、水沢市(現奥州市水沢)跡呂井地区町内会が町内の神明社境内に建立。
アテルイ率いる蝦夷軍が五万を超える朝廷軍を撃破した「巣伏の戦い」から千二百年目となることを 記念して、石碑には「古代東北の英雄 アテルイ王千二百年祭記念碑」と刻まれている。
3年に一度開催される「アテルイ歴史の里まつり」は、この碑の前での神事から始まる。
北方の王者アテルイ像
北方の王者アテルイ像
平成4年(1992)10月20日、水沢市(現奥州市水沢)常盤地区のストリートシンボルとして製作され、 東大通り三丁目のアテルイ広場の西奥に設置された。
表面に抽象化したアテルイの顔が描かれた大火炎土器の形状で、 高さ約6m、上部直径約3m、下部約2mの円筒形。夜間は赤い目が光るようになっている。
市内の及川哲夫氏の制作で「北方の王者アテルイ」の題名がある。
阿弖流為の郷碑
阿弖流為の郷碑
平成6年(1994)5月24日、東水沢地域振興協議会により、水沢市(現奥州市水沢)東大通り三丁 目の「アテルイ広場」の前面に建立された。
石碑は台座を含め高さ1.8m、横2.15mの黒御影石。
表面に後藤晨水沢市長の揮ごうで「阿弖流為の 郷」と刻まれ、裏面にはアテルイ広場の説明と地名(跡呂井)の由来などが記されている。
この石は当会が京都清水寺への碑石候補として大東町の首藤哲夫氏より寄贈を受けていたもので、 同氏の賛意を得て寄贈した。
アテルイ生誕の地の標柱
アテルイ生誕の地の標柱
水沢市(現奥州市水沢)の四丑地区の住民95人で組織するアテルイ河川歴史公園を推進する会 が、平成15年(2003)からアテルイの史跡の場所を紹介する看板と標柱の設置に手作りで取り組み、 3年がかりで完成させた。
この「アテルイ生誕の地 跡呂井」と記された標柱は、神明社(奥州市水沢神明町)境内に設置され ている。
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