Facebookメル さかさん投稿記事
宮沢賢治は、一瞥体験後に覚醒して、詩集「春と修羅」の「序」において、次のように述べています。
それは、「私」とは全体というワンネスの一部だと述べているんですね✨
『わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です(ひかりはたもち その電燈は失はれ)』と。。
それは、空の意識の詩人的なとても素敵な表現でもありますね。
同じ意識から別の表現でストレートに言うと、こうなるのかな…
「私」そのものが、全体の活動の一部です✨生命?意識?一つなるものの活動の一部ですね❣️
だから、どこにも分離がないですね。全ての全てが繋がっているので…✨
それは、一つであり、全てです✨
Facebookくろさわ まちこさん投稿記事
高木さんの投稿とコメントです、とても大切なメッセージ。宮沢賢治の詩の紹介と。
♡
私が私だと思っている私とは、過去から未来へと続いていく、成長を求めて上昇していく固有の何かなどではなく、時空を超えて引かれ合った数多の光(情報)の集合体です。
私と名付けられた移ろいゆらぎ続けるこの現象は、常に集合離散し、始まりと終わりを繰り返します。
私から離れて行った光は、新たな宇宙において、その宇宙における私現象を構成する要素となります。
肉体的な死を迎える時にそれが起きるのではなく、生も死も、今この瞬間に起きていることです。
今世は諦めたので来世やりますとか言ってる人に、いつも僕が言うのは「そんなものは来ない」です。今出来ることを今やりましょう😉
自分とは何なのかということを思うとき、僕は、宮沢賢治の春と修羅の序文を思い出します。
わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
騰 飛
私が私だと思っている私とは、過去から未来へと続いていく、成長を求めて上昇していく固有の何かなどではなく、時空を超えて引かれ合った数多の光(情報)の集合体です。
私と名付けられた移ろいゆらぎ続けるこの現象は、常に集合離散し、始まりと終わりを繰り返します。
Facebook嶋村 伸夫さん投稿記事
けふのうちに とほくへいってしまふ わたくしのいもうとよ みぞれがふって おもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゅんとてちてけんじゃ)
(春と修羅:永訣の朝 宮沢賢治)
宮沢賢治には4人の兄弟がいたが、もつとも親密な関係だったのが2歳年下の妹トシだった。彼女は飛びぬけた才媛で、花巻高等女学校では、1年生からずっと主席を続けている。トシは東京の日本女子大学へと進学し、大正時代の流行作家阿部次郎の講義も受講している。ところが、在学中に結核を患い、郷里の花巻へと戻って療養を余儀なくされた。
成績優秀ゆえに見込み点での大学卒業が許可され、やがて花巻高等女学校の教師となる。しかし、賢治の状況中に再び病状が悪化して、彼も急きょ戻って看病する。しかし、その甲斐もなく1922年(大正11年)11月27日に24歳の若さで息を引き取った。
最愛の妹の死への思いは、「春と修羅」に収録されている。「永訣の朝」、「無声慟哭」、「松の針」などに、その思いが記されている。
Facebook田中 彰さん投稿記事
・賢治と響き合う人たち(その2)
☆賢治 vs. 西田幾多郎
『春と修羅』の序文を読むと、賢治はその冒頭で「わたしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」と述べている。そして(あらゆる透明な幽霊の複合体)という言葉を付け加えている。
これを素直に読むと、大乗仏教の「無我」の思想について語られているように思われる。わたしたちの存在とは実体を持たぬただの現象にすぎず、「透明な幽霊」と形容されても仕方のない存在である。そう、賢治は考えていたように思う。「無我」なのは「わたし」だけではない。「風景やみんな」もまた、せわしく明滅する(現象)にすぎないのだ。そしてそれを描くことが(自然を写す「詩」ではなく)「心象スケッチ」なのである。
西田幾多郎にも共通する世界観があるように思う。西洋近代科学が想定するように主体と客体とが独立して存在することを否定し、その両者のいわば交点としての「純粋な経験」だけが唯一リアルに存在すると西田は考える。主体と客体の区別はそもそもの始めから存在せず、「客観世界は自己の反映といい得るように、自己は客観世界の反映である」と主張する。
また賢治が四次元世界を想定したように、西田も「時間と空間は客観的な実在ではなく、経験の内容を統一する形式にほかならない」と考えた。ここでもまた共通する大乗仏教の影響が二人を結びつけている。
★賢治 vs. ムイシュキン
賢治は自分を修羅と自覚していた。そして同時に菩薩を理想像とも考えていただろう。『雨ニモマケズ』の最後に「みんなにデクノボーとよばれ……さういふものに わたしはなりたい」と書いている。「ほめられもせず くにもされず」ただひたむきに人々を支えつづけるもの、それがデクノボーであり、賢治が熱烈に信仰した「法華経」の常不軽菩薩である。
賢治の地域活動は農民にはなかなか理解されず、数年後に病いに倒れたこともあり、彼の社会変革への思いは確かな実を結ぶことはなかった。親に支援を受けながらの世間知らずの道楽息子のお遊びと批判されることもあったろう。また賢治は文学的には優れたものを残したが、社会的には無力な理想主義者にすぎなかったという後世の厳しい評価もある。
その点で、小説の世界ではあるが『白痴』の主人公であるムイシュキン公爵も賢治と非常によく似た心優しき理想主義者だと思う。相手を分けず誰にでも慈悲と思いやりの心で接し、貧しい者や子供たちをなんとか救ってやりたいという尋常ならざる誠実な思いが彼に菩薩のような崇高な印象を与えている。しかし、世知にたけた大人たちからは知恵遅れの精神病者と蔑まれていた。
賢治とムイシュキンのことを思うたびに、彼らから学ぶべき点が多いことに気づかされる。その社会的無力さからもまた学ぶべきなのだ。プラスにもマイナスにも。
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