https://tenki.jp/suppl/kous4/2017/04/13/21981.html 【「透明な幽霊」とは何か?宮沢賢治「春と修羅 序」前半を読み解く】より
ホシナ コウヤホシナ コウヤ
「透明な幽霊」とは何か?宮沢賢治「春と修羅 序」前半を読み解く
大正13(1924)年4月20日、宮沢賢治の生前唯一刊行された詩集「心象スケッチ 春と修羅」が出版されました。現在では知らない者はなく、多くの人に愛好されている宮沢賢治。しかし宮沢賢治の著作が今のように多くの人に当たり前のように読まれるようになったのは実は1980年代半ば過ぎごろからで、刊行からまもなく100年が経とうとする今も、賢治自身の生涯や人生については詳しく語られても、作品研究は底が浅く、厚みがないものなのです。「春と修羅 序」のまっとうな解釈すら、いまだになされていません。
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賢治の文章や思想は、体制派の都合や愛好家の自己投影でゆがめられてきた
「わたくしという現象」とは賢治のことではない
読み解く鍵は「食」と「呼吸」である
童話作家であり詩人の宮沢賢治は、1896年(明治29年)8月、岩手県花巻に生を受けました。24歳のとき、在家日蓮宗系国粋主義の新興宗教団体「国柱会」に入会、それ以降、浄土真宗を信仰する実家の父と対立し、25歳の時には国柱会に身を寄せるために家出をしています。国柱会を立ち上げた田中智學(たなかちがく 1861~1939年)は、あの太平洋戦争のスローガン「八紘一宇」という言葉を広めた人物であり(ただし田中本人は反戦主義者でした)、また宮沢賢治のもっとも有名な文章(詩ではなくメモ帳の覚書き)は戦時下、滅私奉公・清貧推奨の鏡として政治的に利用されたことなどもあり、戦後の宮沢賢治の評価は右翼・軍国主義の加担者のイメージがつきまとい、決して肯定的ではなく、ファンも多かったわけではありませんでした。
1980年代、経済成長の鈍化や環境破壊の反省から「自分探し」ブームやエコロジーブームが起こり、それにマッチする要素を持つ賢治作品が見直され、文庫全集刊行やアニメなどの影響もあり、賢治フィーバーがまき起こります。現在の宮沢賢治人気はその頃に定着したものです。そして、宮沢賢治の作品や思想から、国柱会の国粋主義や日蓮宗への帰依や影響を極力縮小し、場合によっては消し去ろうという恣意的操作が多くの信者により企てられました。「雨ニモマケズ」の最後には、「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」と書かれており、死の間際の賢治が日蓮宗、国柱会への帰依信仰を堅持していたにもかかわらず、それを無視した論争や評価が横行し、「賢治は国柱会の活動や信仰には熱心ではなかった」という嘘や、信者の中には賢治を親鸞の人物像や思想と重ねることすら行われています。賢治は親鸞の浄土真宗を信仰する父との葛藤で生涯苦しんだことを思えば、こうした歪曲は賢治への冒涜ですらあります。
過剰な「宮沢賢治」という人物像への思い入れが、かえって作品への無理解や恣意的解釈に晒されている状況は戦前から、あの有名な谷川徹三×中村稔の「雨ニモマケズ論争」を経て現在まで続いています。
賢治文学、賢治思想の根源を賢治本人が真っ向から書いたものは、「農民芸術概論綱要」を除けば「春と修羅 序」しかありません。そして宮沢賢治はそこで素直に読みさえすれば決してわかりにくくは書いてはいないのです。では、読み解いてみましょう。
「わたくしという現象」とは賢治のことではない
わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといっしょに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です(ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)
「序」の中でも特に難解とされる冒頭部分です。多くの人がまずつまづくのはまさに最初の言葉「わたくし」です。詩集の序文で「わたくし」と来れば、誰もがそれは宮沢賢治本人の自己紹介だと思うでしょう。そして、「わたしなんてものは不明確についたり消えたりしてる電燈みたいに頼りないものです。あなたもですよ」と言うような意味に取られがち。しかし賢治はここでそんな曖昧で情緒的なことを書いているわけではありません。「わたくしは」でも「わたくしという存在は」でも「わたくしなんてものは」でもないことにご注目ください。「わたくしという現象は」と書いているのです。気取ってるわけでも奇をてらってるわけでもありません。
ここでの「わたくし」は賢治自身のことではなく、「私が私であると感じること」=「わたくしという現象」なのです。つまり語られているのは「自我・自意識」とは何であり、どう出来上がっているか、です。賢治は自我・自意識を「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」であるとまず規定します。「透明な幽霊」とは何か。これは「青い照明」に対比しています。自意識という明かりがつくためには何が必要か。電球であれ星であれ、照明、つまり可視光線は、目に見えない(透明な)光子・光量子(幽霊)が集合して(複合体)発現するものです。目に見えない透明な数限りない光の粒が集まって星のように輝きだすように、数限りない透明な幽霊が集まってはじめて「わたくしという現象」となってともる、と言っているのです。
そしてそれはせはしくせはしく明滅=せわしなく生まれたり死んだり、壊れたり生成したりしているのに、「いかにもたしかにともりつづける」=まるで不変に変わらずこのまま「自分は自分、他者は他者」であるかのように感じ続けている、と言います。
透明な幽霊はさまざまな「わたくし」の一部に「せはしくせはしく」移り変わり、一方「わたくし」はともって(生まれ)消えて(死ぬ)終わるのです。これを「(ひかりはたもち その電燈はうしなはれ)」とあらわしています。透明な幽霊=ひかりは存続し続けるが電燈=わたくしは消え去ってしまうものである、という理路を語っています。
生物の細胞は、ミトコンドリアレベルで全ての体験を記憶している、という説があります。とすると、分子、原子レベルでも、その体験した記憶はその者の死後も原子の中に損なわれず蓄積され、そして別の「わたくし」の一部になる、ということがあるともいえます。「透明な幽霊」として。
難解な序文の冒頭で語られている意味はそういうことです。
そして「有機交流」「因果交流」という言葉にあらわれる「交流」とは、今までの解釈でありがちの「いのちは関係しながら成り立っている」とか「人はさまざまなものから影響を受け、また与えつつ存在している」と言った一般論ではなく、ずばり「食」と「呼吸」、そして因果とは食い食われる関係で生じた食われる側の感情や痛みを食う側が自分のこととして受け取ることに他なりませんでした。
読み解く鍵は「食」と「呼吸」である
宮沢賢治は極端な菜食主義で、とある集いで刺身が出たときには「殺された魚が『こいつはせっかく死んだ俺の体を不味そうに食べている』と見つめている」と感じるほどの、「食べる」ことへの困難を抱えた人でした。これは逆に言うと、「食べる」ということが賢治にとってのっぴきならない重大な関心事であり、倫理観や思想の根源であることを示しています。
「序」の中にも、これらについて人や銀河や修羅や海胆(うに)は 宇宙塵を食べ また空気や塩水を呼吸しながら と食べること、呼吸する描写が出てきます。生きているものの生理現象はもちろん、銀河や霊的存在(修羅)もまた、何かを食べ呼吸している。だからこそ、すべてのものは、かつてあれでもありこれでもあり、将来またあらゆるすべてに「なる」のです。それが(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなおのおののなかのすべてなのですから)というくだりにつながっています。それは美辞麗句や教訓ではなく、この世の存在のありようを見れば、食べられ、食べる関係があることこそ自分が全てで全てが自分、という道理を自明のものとし、それを法華経はといている、賢治は感じていたのです。「雨ニモマケズ」にも「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と、食べ物のことが出てきます。賢治にとって「食べる」ことは楽しみでも快楽でもなく、この世界、生物たちとの「交流」であり、また同時にその「交流」は、賢治に食べられる生き物への義理を作り、その義理に対して報いるよう自らを強いる契約でした。
しかし、というかそれでありながら賢治が直面するのは、殺されるもの、食われるもの悲しみ、愛するものと別れるときの「私」の悲しみがどこから来るのか、ということでした。最愛の妹トシの死は、賢治の最高傑作「銀河鉄道の夜」をはじめ、童話・詩の数々の傑作を生み出すことになりますが、トシの死をうたった「永訣の朝」でもひとわんの「あめゆき」という食べ物(雪)をトシに持ち帰ることが詩の主旋律となっています。
「よだかの星」では、他の鳥からいじめられてダメージを受けていたヨダカは、夜口を空けて虫を食べていたときにふいに悲しみがこみ上げてきて、星の世界へと駆け上っていきます。「(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。)「よだかの星」より」一方、「なめとこ山の熊」では、殺し殺される関係である淵沢小十郎と熊たちとは互いに悲しみを分かち合う不思議な共感と慈愛の関係として描かれます。「雁の童子」では、天人たちは猟師に殺されるために雁に転生します。「銀河鉄道の夜」では、鷺取りに捕まる鷺は眠るように捕まえられ、自ら美味しい砂糖菓子へと変化します。
と、このように見ていくと、「殺し殺される関係が悲しい、つらい」と感じることはその者が修羅道にあるからである、と賢治が考えていただろうと推測できます。より解脱し、菩薩、如来へと高まっていけば、殺されることなどなんでもない、喜びであるという境地を賢治が希求していたことは明らかです。
やや高踏的で思弁的な前半部と比べ、後半では賢治らしいのびのびしたポエジーで、人間の歴史認識と科学の進歩が、そう思われているような普遍的客観性に基づくものではないことを説きます。これについては「春と修羅 序 後半を読み解く」にて、詳しく叙述したいと思います。
参照
日本の詩歌 宮沢賢治 中央公論社
https://tenki.jp/suppl/kous4/2017/05/30/23141.html 【がらんどうの銀河の岸辺で・宮沢賢治「春と修羅 序」後半を読み解く】より
5月もいよいよあと2日を残すところ。春は終わり、季節は梅雨、夏へと向かいます。
さて、先ごろ、拙文「『透明な幽霊』とは何か?宮沢賢治『春と修羅 序』前半を読み解く」で、宮沢賢治生前唯一の詩集「心象スケッチ 春と修羅」の、難解とされる序文の前半について解釈を試みました。賢治の人間観/生命観とは、生命は摂食と呼吸によりたえず外界と交じり合い、未来や過去とも行き来する(銀河交流)電燈だとするものである、と読み解きました。「序」の後半では、賢治の科学・文化観が、詩的イマジネーションをもって叙述されます。
「春と修羅 序」は既存の歴史や宗教への挑戦状だった
「変換」により、見えなかった透明な生物たちがあらわれ出る賢治はトシに出会えたのか?
「春と修羅」出版から約一年経ったあとにしたためられた私信で、賢治は「春と修羅 序」についてふれています。
前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。
(大正14(1925)年2月9日 森佐一あて封書より)
反響の少なさに落胆していることから卑下した表現をとっていますが、賢治がその「序」にこめた思いが、壮大な既存世界への挑戦状だったことがわかります。では何を、どう「変換」しようとしたのでしょうか。
記録や歴史 あるいは地史といふものも それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)われわれがかんじてゐるのに過ぎません
人類が営々と記録してきた書物による「記録」は、「けだし(考えてみるに)」人が感覚器官を通じて感じたりさまざまな印象を抱いたりするのとまったく同じで、私たちがそう感じて受け取っている印象、イメージに過ぎない、と賢治は言います。
歴史資料も科学の示す証拠(エビデンス)も、全てただの無意味な主観にすぎないのだ、と賢治はいっているのでしょうか。
「序」はここからこう続きます。
おそらくこれから二千年もたつたころは それ相当のちがつた地質学が流用され 相当した証拠もまた次次過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には 青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりからすてきな化石を発掘したり あるいは白堊紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を発見するかもしれません
ここで語られている「氷窒素」の気圏から発掘される「化石」は、すでに多くの研究者に指摘されているように、「銀河鉄道の夜」の中で、ジョバンニとカムパネルラが唯一下車するシーンで対応する箇所があります。
「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかということなのだ。」(「銀河鉄道の夜」<七、北十字とプリオシン海岸>より)
銀河の河原で、巨大な太古の牛の化石を掘り出している大学士はこういいます。彼にとっては立派な厚いしっかりした地層が、もしかしたらそれは自分にはそう見えてるだけで他の者から見たら「風か水かがらんとした空」に見えるんじゃないか、と心配しているのです。
実際、発掘現場は銀河の河原なのですから、地球上の私たちがもしその場所を望遠鏡で観測しても、「がらんとした空」空虚な宇宙空間があるだけでしょう。
たとえば動物の分類にしても、アライグマの仲間とされていたパンダがクマの仲間に分類されるようになったり、ワシやタカの一種と考えられていたハヤブサがスズメの仲間にふりわけられたり、あるいは古生物学も、冷血動物の爬虫類とされ、直立してのろのろ歩いている想像図の恐竜が、あっという間に羽を生やして鶏のようにちょこまか駆け回る想像図につけ換わったり、天文でも冥王星が惑星からはずされてしまったりと、科学の「定説」はめまぐるしくアップデートされ、現在言われている定説や事実も、いずれまた書き換えられることになるのは間違いがないでしょう。
しかし賢治は、こうした科学的定説のめまぐるしい変化をもって、移り変わる科学を信用するなとか、間違いの連続だといっているわけではありません。それらはそのときは実際に「そう感じられるままに事実だった」といっているのです。しかし一方、たとえどんな精密機材で測定して得たデータも、再現性の高い科学的エビデンスも、すべてそれは「そのように見えて(感じられて)いるもので、普遍ではなく常に変動するのだ、といっているのです。
そのように科学を観測者の感じるままのものだと認識するのならば、将来、精妙な大気や水の中か、また何もないとしか思えない場所から、目に見えない生物の痕跡を見つけることも出来るようになるだろう、というのです。
これらの喩えはきわめて美しく、またスケールが大きい奇抜なイマジネーションですが、実際私たちが「生命」というものを地球上に生きる炭素を素材とした生物を想定している限りは、気圏に痕跡を残す巨大な孔雀も、恐竜時代に存在していた透明な人類の痕跡も見つけることは出来ないでしょう。賢治は、これを単なる詩人のイマジネーション、ただの空想や比喩として提示していたわけではないこと、実際に本当にそれらのものが見つかるはずだと考えていたことこそが、この「序」の持つ意味です。
近年、科学の世界では宇宙には珪素を素材とした、地球上の生物とは全く異なる生命体がいるかもしれない、という仮説が提示されてきています。珪素だけではなく、何千度に燃える恒星の中にすら、熱そのものを呼吸する生命体がいないとも限らないのです。
「巨大な人類」のイマジネーションは、グノーシス主義の教義の中で、「アダム・カドモン」なる始原の巨人がいたとされます。おそらく賢治はそれも知っていました。賢治の生きた時代、19世紀の終わりから20世紀の前半は、オカルティズム(神秘主義)が世界的に大流行した時代だったからです。
さて、いよいよ結びのくだりです。ここも一見難しい言い回しが登場します。
すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます
「第四次延長」とは、相対性理論の「四元ベクトル」のことだと容易に理解できます。「四元ベクトル」とは、物体の存在に無関係に空間と時間が普遍的座標で存在しているとする三次元空間(ユークリッド空間)に時間と光速度を乗じた四次元時空のことです。アインシュタインの特殊相対性理論を説明する理論的モデルとして1907年にヘルマン・ミンコフスキーによって提唱されました。賢治が「春と修羅」を著す大正13年の二年前、アインシュタインが日本に来日し、日本では大変なアインシュタインブームが巻き起こっていました。賢治自身がアインシュタインに言及したことは、メモの断片に「アインシュタイン先生」と記したものが見つかっているのみですが、賢治が、当時の最先端の相対性理論や量子力学に影響を受けていたことは間違いありません。
賢治にとってはミンコフスキー時空の理論は大いに救いになったはずです。なぜなら、時間と空間はひとつであり同じものなのですから、この世界、地上をどこまでも、この世の果てまで旅すれば、三次元空間から四次ベクトルの時空に入り込み、死んだものたちに出会えるかもしれないとも考えられるから。それが妹トシを思って1923年7月31日から8月12日にかけて、北海道を経由してサハリン(樺太)までの鎮魂旅行でした。それは詩篇として「オホーツク挽歌」の詩群、「銀河鉄道の夜」の死者たちとの旅へと昇華します。賢治の思いは、この世に生きている誰もが抱いている「会えなくなった愛する者に会いたい」という願いに満ちているため、読者の誰もの胸を締め付ける共感を呼ぶのでしょう。
それにしても、「幽霊を見ていた」とも一部の評伝で伝えられる賢治は、トシ子の幽霊に出会えたのでしょうか。
《みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます (青森挽歌)
どなたかポーセを知っているかたはないでしょうか。けれども私にこの手紙を云いつけたひとが云っていました「チュンセはポーセをたずねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいているひとでも、汽車の中で苹果(りんご)をたべているひとでも、また歌う鳥や歌わない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがいのきょうだいなのだから。チュンセがもしもポーセをほんとうにかあいそうにおもうなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんとうの幸福をさがさなければいけない。(手紙 四)
これらを読む限り、会えなかったと思われます。石炭袋に消えたカムパネルラを思って泣いたジョバンニのように、がらんどうの銀河のような、凍てついた原野を流れる川の岸辺で立ち尽くして慟哭したのではないでしょうか。
地理学者で宮沢賢治研究で著名な米地文夫氏によれば、宮沢賢治は晩年、書きついで来た従来の童話から、より年長に想定した長編の「少年小説」の執筆を構想しており、「銀河鉄道の夜」はその少年小説への脱皮と転換をうかがわせる描写があると指摘しています。37年で閉じられた賢治の人生が、50年、60年と続いていたら、どんな作品が著されたのかと思うと、その早すぎる死を恨みたくなります。そう思う私たちに宛てたメッセージが上記の「手紙 四」なのではないでしようか。
参考文献 「プリオシン海岸挿話」について 米地文夫
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