https://ameblo.jp/197001301co/entry-12724507960.html【よりよく生きるための俳句】
より
①選という海
「滝」を継いでもうすぐ六年になります。主宰となって一番変わったのは、当然の事ですが選を「される側」から「する側」になったということ。ある程度予測していたこととは言え、結社内外問わず、見せて戴く俳句の数は日に日に増えています。
俳句の選は、私にとって俳句を作るより非常に神経を使う作業。はじめの頃は、歳時記の例句と季語だけ違う句を採ってしまったりと失敗もありました。選者というのは、特別偉いからなれる、とか、物凄い実力があるから、というより、私の場合だと置かれた境遇、立場、そしてタイミングによりその役割を与えられた、と考えるのが妥当かと思います。言葉のニュアンスはあまり適当でないかもしれませんが、いわば選者は「釣り人」。ここぞというポイントに狙いを定めて良い句を釣り上げる。その為には釣り竿や釣り針をきちんと手入れし、体調を整え、良いコンディションで選句の海に漕ぎ出さなくてはいけません。
今回はその選をする際の「基準」から、「俳句」を考えてみました。
②詩の純度
先日行われた松島芭蕉祭において、招聘選者夏井いつき先生が、選の基準として「詩の純度、オリジナリティ、リアリティ」を挙げられました。また「俳句の選は結局、選者の好き嫌い」という通念を越えて、どの選者にもこの基準は共通してあるとのこと。200句なりの句の中で50句のふるいの中に残る句は、各選者重なっていることが多い、というお話は実に頷けるものでした。実際、チェックは入れていたが私の選からは漏れてしまった句を、他の先生が採って下さっていた例がたくさんありました。
複数の選者がいて、どの選者の選にも入らない句と言うのは、やはりその三つが他の句に比べて弱いと言い換えられるかもしれません。結果に一喜一憂せずに、自句に欠けているのはどの部分なのかを検証してみるのも、俳句大会における学びのひとつであろうかと思います。
やはり俳句の選の筆頭に挙げられるのは「詩情」の部分であると思います。「詩の純度」の部分と言えるでしょう。
では「詩情」というのはどこに宿るのか。それは「芸術」における価値判断の基準を知ると明確になるかと思います。詩人萩原朔太郎は言います。
「あらゆる人間文化の意義は、宇宙に於ける意味に於て、真善美の普遍的価値を発見することに外ならない」「芸術の価値批判は「美」であって、この基準された点からのみ、作品の評価は決定される」「芸術の評価はこれ(美 ※筆者注)以外になく、またこれを拒むこともできないのである」。
③美という基準
朔太郎の論評は全般的に、詩人特有のエキセントリックさが少々勝っている気もしますが、私にとって芸術や文化の基準を考える際の大いなる礎となっています。
「真善美の普遍的価値を発見する」の「真」と「善」の部分は、道徳的、倫理的側面が絡んでくるので、詩の評価基準に持ち込むにはやや慎重さを要しますが、「美」に基準を置くというのは、一番安らかで正直な方法であるとも思います。
「美」に基準を置くというと、きれいな景色とか雅な言葉、と思われがちですが、「美」というのはそういった一見わかりやすいものだけに宿るのではないことは「美」を辞書で引くとはっきりします。
「美―知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの」
(広辞苑第五版)
かみ砕いてしまえば、「美」とは「人の心を揺さぶる」ものとも言えそうです。必ずしもうっとりきれいな言葉とか、光景として美しいというだけでなく、「より情線に振動をあたえるもの」(朔太郎)であると言えるでしょう。岡本太郎も言います。「美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。見て楽しいとか、体裁がいいというようなことはむしろ全然無視して、ひたすら生命がひらき高揚したときに、美しいという感動がおこるのだ。それはだから場合によっては、一見ほとんど醜い相を呈することさえある。無意味だったり、恐ろしい、またゾッとするようなセンセーションであったりする。しかしそれでも美しいのである」。
必ずしも表面的な「きれいきれい」ではない。得体の知れないものの中に「美しさ」を感じた経験、というのは誰にでもあるのではないでしょうか。
いろいろな「美」を含め、人はあらゆる場面で「美」を求め「美」に憧れます。
なぜ人が「美」を求めるか。料理家の辰巳芳子氏は「「美」を追い求めることで、自然に自分のいのちを完成させやすいのではないか」と言います。辰巳氏によれば、「「美味しい」ということは人間にとってもっとも分かり易い「美」であり、美味しいものを求めるということは「いのちを守りやすくするため」と言います。「「美」を求めていくことで、人間は生きやすくなる」と。
④よりよく生きる
人間にそもそも備わっている「美」を求める心。それはよりよく生きたい、という人間の根源的な欲求に繋がっている。さらに「美」を追求するためには、自分というちっぽけなものだけを相手にしていては、到底見えてこないものなのかもしれません。
俳句という文芸の大きな特徴は「四季」「自然」を相手にするということ。またわかりやすい特徴のひとつに句会の場などで他者の作品に触れる機会が多いということが挙げられます。これらは、自分以外のものに目を向けることで世界の広さや奥深さを感じられるというメリットがあり、よりよく生きられるということに繋がるのだと思います。
完成された人生や人格の果に文学作品があるのではなく、俳句を作り、また鑑賞することで自分自身を完成させてゆく、というのはとても魅力あふれる行いであることは間違いありません。
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ
加藤楸邨
ぼんやりとした朧の中で、朧なる自分がおぼろなる考えをくゆらせている。俳句を通してさまざまを考えるのはひとつの愉楽でもあります。
この「虚実淙淙」も「滝」創立三十周年にあたる十二月のタイミングでちょうど五十回目となりました。
近頃は俳句の「選」を通して俳人として鍛えていただく機会をたくさん得ています。俳句にかかわることで、少しずつ人生を完成していけたら、と思っています。
皆様いつもあたたかく見守って下さり、本当にありがとうございます。
参考文献
萩原朔太郎『詩の原理』 筑摩書房 1975年
岡本太郎『自分の中に毒を持て』 青春出版社 1993年
辰巳芳子/小林庸浩『辰巳芳子のことば 美といのちのために』小学館 2007年
(「滝」2021年12月号 所収)
https://ameblo.jp/toru-nishida/entry-12821435289.html?fbclid=IwAR0bsC9YAdrt3DXqQ6AMtW8UmvMpWJEjy9pP1JgpjMEaoke-VXfKA3iwduQ 【秋分の日へ「仮面を外すチャンス」「本当の自分を生きるチャンス」が来ている。】より
愛する魂の冒険者たちへ9月22日のあなたにおはようございます。
9月20日から26日までが 秋のお彼岸で、、、お彼岸の中日の明日9月23日は、秋分の日。昼の長さと夜の長さが同じになり、真東からのぼったお日様が、真西へ進みます。
秋分の日前日ですが、もう、かなり特別な波動を感じます。
この時期、26日までがゲートが開いているといわれています。
何のゲートかというと、この世とあの世のゲート。悟りのゲート。悩み苦しみのない世界へ通じるゲート。
ご先祖さまと交信しやすい時期で、ご先祖さまに感謝を捧げるのにぴったりです。
スターゲートが開く、という言い方もあるようです。そのピークが明日、ということになります。
悟り、ということでいいますと、、、禅の言葉に、而今(にこん)、というものがあります。
而今(にこん)・・・命の真実は「今」この時、この瞬間にある、というような意味です。
神道にも「中今」(なかいま)、という言葉があります。
永遠の過去と、永劫の未来の中心に今があり、、、今、今、今、、、この瞬間瞬間を生きるとパワーが湧いてきます。
「中今」(なかいま)、とても深い言葉で、、、過去も未来も感じながら今を生きる、、、
すべてを味わいながら、今を生きる、といった意味合いに西田はとらえております。
なので、この時期は、自分は、この瞬間のために生きてるなあ!
自分は、この瞬間のために生きてきた!すべてに感謝だね!
そう感じられる瞬間を増やすこと、これが、めちゃ大事かな、と思います。
じゃあどうすればいいですか、とハイヤーセルフさんに聞いてみたことがあるんです。
すると、そのとき帰ってきた言葉は次のようなものでした。
仮面をお外しなさい。仮面を外すと今がちゃんと味わえるから、やってみて。
(だいぶ省略)
どんな仮面を外したいか?そこに気づくと、余分なものを削ぎ落としていくことができます。
仮面を外すと、笑顔も泣き顔も光り輝く顔も現れるかもしれません。
ここでちょっとプライベートな話になりますが、ある年のいまごろ、父が、次の世界へ行こうとしている時期でした。母は母で、別の病気で別の病院に入院中で、車椅子生活をしていました。で、僕は、ちょうど今頃の季節、病院から一時外出した母と一緒に父のお見舞いに行ったんです。結婚60年の父母、、、
気難しいところもある真面目な父と、ちょっととぼけたところのある母。仲良し夫婦でしたが、まあ、それなりにいろいろあったんです。仮面をつけていたこともあったかもしれません。それは、それぞれの役割という仮面だったり、お互いへの文句とか不満という感情のベールだったかもしれません。
けれどもその日母は慈愛そのものの顔で、「パパ、わかがえったわね」なんていって、
父の手を握りました。(実際は父は、痩せ細っていて、酸素マスクもつけていました)
父は、言葉にならない声をあげました。
途中、海の上に出ている兄からテレビ電話が入ったりして、久しぶりに4人の時間をすごして、僕らが帰る時、父は、また母の手を握って、声を振り絞って言いました。
〜〜〜
これを、幸せって言うんだなあ
〜〜〜
母は黙って手を繋いでほほえんでいました。僕も思いました。
これを幸せって言うんだなあ、、、って。
そのことばに確かに 永い永い感謝が入っていたんです。
今回の人生であの瞬間を目撃できたことに感謝しています。
僕は前世療法でいくつか、過去生記憶を思い出してまして、以前、この家族が何度も
家族をやっていたのを知っています。
で、、、実は、この瞬間の気持ちは、今回の人生はもちろん、はるか過去にも未来にも届くようなのです。
なので、自分は、この瞬間のために生きてるなあ!自分は、この瞬間のために生きてきた!
きっとこれを、幸せって言うんだね。すべてにありがとう。
そう感じられる時間を増やすことは、思ったよりも深い意味があるらしいのです。
特に、、、
自分と誰かが愛で繋がった時、大きな夢が叶っているのかもしれません。
それは思ったよりも大きな夢かもしれません。
だれか大切な人と、手を繋ぐだけでもいいし、、、自分が自分を理解して、自分が自分を愛せるならそれは、ほんとうに素晴らしいことなのかもしれません。
一人の心は全体に通じているらしいので、それはさざなみのように広がっていくらしいのです。たった一人を本当に愛せたなら、その人は全人類を愛せたことになる、とある賢者に教わりました。
いま、愛の中で、全身全霊で、この瞬間を生きる、そのために、、、仮面をお外しなさい。
仮面を外すと今がちゃんと味わえるから、やってみて。
スターゲートの開いている時期、僕もいまいちど、意識してみたいと思います。
どこかがピンときたら参考にしてみてくださいね。
西田は今日は、ヒプノセラピーの「心身緩和セラピー」インストラクター講座に参加し、
学びを深めるために八ヶ岳に滞在しております。
本当の自分を生きると、実は人間関係や体調が好転していく、ということが実際にある、、、
その事実にあらためて感動しています。
それではすてきな9月22日をおすごしくださいね。
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