角川文化振興財団

https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/about/message/ 【歴史と人間を学びあうために】より

当財団は、昭和51年(1976年)2月25日、角川書店の創業者であり、国文学者・俳人としても著名であった角川源義の遺志に基づき創設されました。設立以来、40年以上の永きに亘り、文芸・美術・映像等に関する顕彰、助成、啓蒙活動を行ってまいりました。 令和2年(2020年)11月6日に図書館・美術館・博物館を中心とした複合文化施設「角川武蔵野ミュージアム」を所沢市にグランドオープンいたしました。これは、文化・芸術の振興及び活気ある個性豊かな地域社会の発展に貢献することを目的として建設したものです。 当財団は武蔵野・所沢の地を新たな拠点として、今後とも日本文化の振興に寄与する機関であることを願い、活動していく所存です。

https://www.kadokawa-zaidan.or.jp/about/chairman/ 【理事長ご紹介】より

第4代理事長

川上量生(かわかみ のぶお)

令和4年6月〜就任

昭和43年(1968)愛媛生まれ

京都大学工学部卒業。平成9年(1997)株式会社ドワンゴ設立。通信ゲーム、着メロ、動画サービス、教育などの各種事業を立ち上げる。

令和4年公益財団法人角川文化振興財団理事長就任

現在、株式会社ドワンゴ顧問、株式会社KADOKAWA取締役、学校法人角川ドワンゴ学園理事、スタジオジブリプロデューサー見習い。

第3代理事長

角川歴彦(かどかわ つぐひこ)

平成7年7月〜令和4年6月在任

昭和18年(1943)東京生まれ

昭和41年 早稲田大学第一政経学部卒業、株式会社角川書店入社

平成7年 財団法人角川文化振興財団理事長就任、現 名誉会長

著作に『クラウド時代と〈クール革命〉』『グーグル、アップルに負けない著作権法』『躍進するコンテンツ、淘汰されるメディア』

第2代理事長

吉川泰雄(よしかわ やすお)

昭和63年6月〜平成7年6月在任

大正6年(1917)、東京生まれ。

國學院大學文学部国文学科卒業。文学博士。著書『近代語誌』。

東京大学史料編纂所勤務、國學院大學文学部専任講師(国語学担当)等を経て、國學院大學文学部教授。同文学部長、同学長、さらに、東京都立大学講師等を歴任。当財団理事長を辞した後、平成12年の逝去まで、名誉理事長。

初代理事長

山本健吉(やまもと けんきち)

昭和51年2月〜63年5月在任

明治40年(1907)、長崎生まれ。

慶應義塾大学文学部国文学科卒業。文芸評論家。本名・石橋貞吉。

慶應義塾で折口信夫に学び、卒業後、いくつかの出版社・新聞社等に勤務しつつ文芸評論を発表。戦後の昭和23年から約1年間角川書店編集部長。その後は著述に専念。日本の古典文学、とりわけ歌・句への深い教養をベースとした独自の評論世界を拓き、古代から現代にわたるまさに日本の文芸全般を対象とした旺盛な評論活動を展開した。また、短詩型とくに俳句に関する本格的な評論、エッセイ、鑑賞文等を残した。

昭和58年、文化勲章受章。同63年(1988)没。


https://sectpoclit.com/haimakura-64/ 【【第64回】富山と角川源義】より

広渡敬雄(「沖」「塔の会」)

富山県は旧越中国で、奈良時代には大伴家持が国守(越中守)として五年間在国した。三千㍍峰立山は山岳信仰(神仏習合の立山信仰)の霊地である。庄川、神通川、常願寺川、黒部川等の流域は、肥沃な土壌の穀倉地帯で、又寒流・暖流の流れ込む富山湾は魚の宝庫で、氷見鰤、蛍烏賊が名高い。雪解けの豊かな水流を活用した電源開発も盛んで、江戸時代からの売薬業も知られ、四、五月に、魚津沖では蜃気楼が見られる。

蛍烏賊漁(富山県ほたるいか協会)

父祖の地や蜻蛉は赤き身をたるる  角川源義

立山の其の連峰の雪解水      高浜虚子

秋立つや富山へ帰る薬売      寺田寅彦

鰤網を越す大浪の見えにけり    前田普羅

ふるさとは越のなか国盆の月    大橋越央子

をやみなき雪を剣つる岳ぎの夕あかり   金尾梅の門

源義の住みし家より初つばめ    上野たかし

雪晴の越中訛なつかしき      清崎敏郎

落鮎の常願寺川まくらがり     森 澄雄

しばらくは恋めくこころ蜃気楼   岡本 眸

真夜中の港を煌と蛍烏賊(滑川港) 菖蒲あや

雪形の定まり来たる牧開く(滑川・東福寺野) 三村純也

沖遠く鐘の塔あり蜃気楼      宮田 勝

〈父祖の地〉の句は昭和27年の作、第一句集『ロダンの首』に収録。5月に永眠した父の初盆で帰省した折の〈盆の海親知らず子知らず陽の没るよ)も含む「盆の海」連作の一句で、富山市旧水橋郷土史料館に句碑がある。「私にも、父にはそれ以上に父祖の地が非常に大きな存在。人間は生まれた土地に帰るのだ、その地で死にたいとの気持ちの表れである」との長女辺見じゅんは述べ、「郷里への限りない愛着をこの一句に託している」と「河」同人会が句碑説明板に記す。

富山市旧水橋郷土史料館前庭の角川源義句碑

源義は、大正6(1917)年、常願寺川畔の富山県新川郡水橋町(現富山市)生まれ、父は粉骨砕身の努力で北陸随一の米穀問屋を営んでいた。神通中学校(現富山中部高校)時代から俳句に興味を持ち、国学院大学国文学科では、折口信夫、武田祐吉の指導を受けた。

太平洋戦争時には繰り上げ卒業し、金沢輜重隊に入隊、戦後復員後中学教師に復職するも辞任し、昭和20(1945)年11月、28歳で角川書店を設立した。

国定公園雨晴海岸より剣岳、立山(富山観光ナビ)

富山の俳誌「古志」(金尾梅の門主宰)の幹部同人として参加、その後飯田蛇笏、西東三鬼、石川桂郎、山本健吉等々と交流し、同27年六月、高浜虚子の〈登山する健脚なれど心せよ〉の祝句を拝して、俳句総合誌『俳句』を創刊した。『昭和文学全集』等全集ブームを引き起こして昭和出版史上不滅の足跡を残し、社運を隆盛に導きつつ、同29年には若手俳人登竜門として「角川俳句賞」を設立した。

翌年石田波郷跋文の第一句集『ロダンの首』を上梓、同33(1958)年には、伝統の尊重と抒情性の恢復を旗印に俳誌「河」を創刊主宰した。社業に励む傍ら、著名俳人と全国各地を精力的に旅し、次々に句集を上梓、論文『語り物文芸の発生』では文学博士の学位を授与された。

昭和42(1967)年には俳壇で最も権威のある「蛇笏賞」を設立、同48年には俳句文学館設立委員長となるも、18歳の愛娘真理の自殺へのショックと肝臓癌で、同50(1975)年10月27日、逝去。享年五十八歳。

忌日は、「秋燕忌」と名付けられ、墓は小平霊園にある。

蜃気楼(蜃気楼展望地点 魚津市観光サイト)

同年11月刊行の句集『西行の日』は、翌年第27回読売文学賞を受賞した。妻は角川照子、子供には辺見じゅん、角川春樹、角川歴彦がおり、進藤一考、吉田鴻司、増成栗人、大木あまり等を育てた。

句集は、他に『秋燕』『神々の宴』『冬の虹』『角川源義全句集』、随筆『雉子の声』、俳句評論『飯田蛇笏』(福田甲子雄と共書)、国文学関係『悲劇文学の発生』がある。

「企業家、学者、俳人等幾つもの面を持つが、情の詩人源義を特に感じる」(富安風生)、「人情篤く、人生意気に感ずを一生貫き実行した」(沢木欣一)、「日本の美意識の根底の雪月花の観念を持つ最後の文人俳句、雪は富山出身らしい〈雪積むか夜の膳に咲く菊なます〉、月は逝去前の絶唱〈月の人のひとりとならむ車椅子〉、花は〈花あれば西行の日とおもふべし〉、花咲けばではなく、花あればどこにいても三月でも四月でも、西行が願っていた入滅の日、それは源義の死の覚悟をも匂わせる。追い求めた軽みも単に軽いのではなく句の中にぽつかり命の灯が点っており、最後はそのような自在な高さまで達していた」(山本健吉)、「父源義は〈西行の日〉の一句を生み出すためにこの世に生を享けた思想家だった」(角川春樹)等々の鑑賞がある。

ロダンの首泰山木は花得たり  (荻窪の新居)

かなかなや少年の日は神のごとし 

しはぶきの野中に消ゆる時雨かな(折口先生と武蔵野を歩く)

天皇の日蛙小さき声立つる

日あるうち光り蓄めおけ冬苺  (西東三鬼危篤)

西行の清水掌にうけ悴めり   (西行庵)

白桃を剝くねんごろに今日終る 

耕して天にのぼるか対州馬 

花何ぞ八十八夜の茶山過ぐ  

蜥蜴失せ吾に逆縁の文字のこる 

秋風の石ひとつ積む吾子のため  (蔵王山頂)

修二会の奈良に夜来る水のごと

八雲立つ出雲は雷のおびただし 

蔵王嶺の芋名月となりしかな 

波郷忌の柿すすりゐてさびしけれ 

昼顔のここ荻窪は終の地か 

金盞花あまりし命何なさむ 

月の人のひとりとならむ車椅子

後の月雨に終るや足まくら(絶句)

終戦直後「祖国の文化に秩序と再建の道を示す」と敢然と角川書店を設立し、昭和26年、多くの交流のある俳人の中で唯一「師」と呼び、近代俳句の立句の最後の俳人としてその高風を慕う飯田蛇笏を訪ね、その後葬儀に際しては〈篁に一水まぎる秋燕〉と詠み、蛇笏賞を設立した。

加えて総合誌「俳句」、角川俳句賞設立、俳句文学館建設等々現代の俳壇への貢献は図り知れず、「河」主宰として俳壇屈指の結社を設立し、抒情性に富む句や民俗学の素地に基づくの多くの旅の秀句を詠んだ。


角川源義の句

May 2651997

 冷酒や蟹はなけれど烏賊裂かん

                           角川源義

いまは宴席などでも冷酒を飲む人は多いが、昔は燗をつけて飲むのが一般的だった。したがって、冷酒は応急的(?)宴会で飲まれたものだ。とりあえずの酒だった。急に飲もうと話が決まり、燗をつけるなどまだるっこしいことはやっていられない雰囲気。これで肴に蟹でもあれば最高だなァと誰かが言い、べらぼうめェ、蟹だって烏賊(いか)だってアシの数では同じようなものじゃないかと乱暴な論理をふりかざして、作者はスルメを裂いている。これから「さあ、飲むぞ」という酒飲み連中の昂揚感をよく伝えている句だ。それこそ「蟹はなけれど」、赤い蟹の姿まで見えてきそうな気がするところも面白い。(清水哲男)

October 20101997

 からしあへの菊一盞の酒欲れり

                           角川源義

芥子和えの菊とは、菊の花をゆでて食べる「菊膾(きくなます)」のこと。私は三杯酢のほうが好みだ。作者ならずとも、これが食卓に出てきたら一杯やりたくなってしまうだろう。美しい黄菊の色彩が目に見えるようだ。「盞(さん)」は盃の意。山形や新潟に行くと、花弁がピンクで袋状になった「化白(かしろ)」という品種の食用菊が八百屋などで売られている。はじめて見たときは「何だろう」と思った。これまた風味よく美味。見た目から想像するよりもずっと味がよいので、山形では「もってのほか」と呼ばれている。三十代の頃にはよく訪れた山形だが、ここ十数年はとんとご無沙汰である。(清水哲男)

January 1711998

 風花や蹤き来てそれし一少女

                           角川源義

晴れていながら、風に乗って雪片が舞い降りてくることがある。これが、風花。小津安二郎の映画のタイトルにもなったが、美しい言葉だ。風花が舞うときは、かなり冷え込む。作者は、おそらく見通しのよい田舎道を歩いているのだろう。人通りもほとんどなく、少し以前から見知らぬ少女がひとり、あたかも自分につき従うかのように背後を歩いてくる。そのことで、実は作者はなんとなく暖かい心持ちになっているのだ。が、しばらくして別れ道にさしかかると、少女はついと別の道にそれてしまった。とたんに、作者の胸の内から暖かいものがすうっと消えていく……。がっかりしている。目をやると、別の道を行く少女の姿はまだ見えており、その小さな姿にしきりと風花が舞い降りているという情景だ。抒情的小品の味わい。(清水哲男)

December 02121999

 ポインセチア愛の一語の虚実かな

                           角川源義

花言葉は、19世紀のイギリスで決められたものがベースになっている。各種あって特定しがたいが、手元の資料によれば、ポインセチアのそれは「祝福する」とあった。いかにも、この花の華麗さにふさわしい(もっとも、華麗なのは花ではなくて葉のほうだけど)。祝福の対象は恋愛などの「愛」よりも、人類愛などのそれだろう。恋愛というときの「愛の一語」にも虚実はあるが、人類愛の場合には、もっと虚実の濃淡がいちじるしい。「私は人類は大いに愛するが、隣りのババアだけはどうにも気にくわない」と正直に言ったのは、たしか文豪トルストイである。この季節になると、花屋の店先を占領するほどに出回るポインセチア。クリスマス向けというわけだが、その華麗さを買い求める人々の「愛」への思いと、その「虚実」や如何に。苦い一句だ。なお、ポインセチアの命名は、発見者であるポインセットに由来しているそうだ。人の名前なのである。ご存知でしたか。(清水哲男)

March 1232001

 ふたなぬか過ぎ子雀の砂遊び

                           角川源義

季語は「子雀(雀の子)」で春。孵化してから二週間(つまり「ふたなぬか」)ほど経つと、巣立ちする。はじめのうちこそ親について行動するが、それも十日ほどで独立するという。立派なものだ。でも、そこはまだ赤ちゃんのことだから、砂遊びもやはり幼くぎごちない。見守る作者ははらはらしつつも、その健気な姿に微笑を浮かべている。ところで雀といえば、「孕み雀」「黄雀」「稲雀」「寒雀」など季語が多いが、なかに「すずめがくれ(雀隠れ)」という季語がある。春になって萌え出た草が、舞い降りた雀の姿を隠すほどに伸びた様子を言う。載せていない歳時記もあって、元来が和歌で好まれた言葉だからかもしれない。「萌え出でし野辺の若草今朝見れば雀がくれにはやなりにけり」など。一種の洒落なので、使いようによっては野暮に落ちてしまう。成瀬櫻桃子に「逢はざりし日数のすずめがくれかな」の一句あり。どうだろうか。「逢はざりし」人は恋人かそれに近い存在だろうが、現代的感覚からすれば、野暮に写りそうだ。逢わない日数を草の丈で知るなどは、もはや一般的ではない。揚句に話を戻すと、瓦屋根の家がたくさんあったころには、雀の巣も子もよく見かけた。句の砂遊びの姿も、珍しくはなかった。が、いまどきの都会の雀の巣はどこにあるのだろう……。たしかに昔ほどには、雀を見かけなくなってしまった。ここで、石川啄木の「ふと思ふ/ふるさとにゐて日毎聴きし雀の鳴くを/三年聴かざり」を思い出す。「三年(みとせ)」は啄木の頻用した誇張表現だから信用しないとしても、明治期の都会でも雀の少なくなった時期があったのだろうか。『新日本大歳時記・春』(2000・講談社)所載。(清水哲男)

July 3072001

 日と月と音なく廻る走馬燈

                           岩淵喜代子

影絵仕掛けの回り灯籠。今流に言えば科学玩具だが、物の本によると「中国から伝来したもので、江戸時代初期、宗教的色彩の濃いものからしだいに変化して、元文年間(1736~41)以後、遊戯的な技巧や工夫が加えられ、夏の納涼玩具として発達した」のだという。作者は「音なく迴る走馬燈」を見ている。その影絵に「日と月」が具体的にあったのかどうかは別にして、「音なく迴る」のは「日と月」も同じであることに思いが至っている。すなわち、この宇宙全体が一種の走馬燈みたいなものではないか、と。この時間も、走馬燈といっしょに「日と月」も廻っているのだ。そのことに思いが至って、また目の前の走馬燈を見つめ直すと、単なる涼感以上の感慨がわいてくるようだ。通いあう句に、角川源義の「走馬灯おろかに七曜めぐりくる」がある。これはこれで捨てがたいが、時空間的に大きく張った掲句は、走馬燈の玩具性をはるかに越えており、そこに作者の手柄が感じられる。影絵のよさは、仮想現実(バーチャル・リアリティ)を目指さないところだ。あくまでも、影でしかないのである。仮想にとどまるのだ。だから、想像力の活躍する余地が大きい。両手を使ってたわむれに障子に写し出すイヌやキツネの影に、目を輝かす子はいまでもたくさんいるにちがいない。『蛍袋に灯をともす』(2000)所収。(清水哲男)

August 1682001

 盆三日あまり短かし帰る刻

                           角川源義

迎え火から送り火までは、正三日間。はやくも送り火の刻限になってしまった。作者は次女(真理)の魂を迎え、いま送りだそうとしている。もう少し、一緒にいたい。いてやりたい。「でも、もう『帰る刻』なのだから……」と、みずからにあきらめの気持ちを言い含める表現に、逆縁の辛さが滲み出た。逆縁ではなくても、同様の気持ちで今日の夕刻を迎える人たちはたくさんいる。毎年、そのことを思うと、夕刻の光が常日頃とは色合いのちがう感じに写る。桂信子には「温みある流燈水へつきはなす」の一句。別れがたい辛さを断ち切るために、「温み(ぬくみ)ある」燈籠を、万感の思いを込めて一気に「つきはなす」のだ。私の故郷では、今宵盆踊りがあり、終了すると近所の川で燈籠流しが行われる。農作業の合間に、何日もかけて作った立派な精霊舟も流される。せっかくの燈篭や舟がひっかかったり転覆しないようにと、数人の若い衆が竹竿を持って川に入り、一つ一つを注意深く見守る。燈篭の灯火に、腰まで水につかった彼らの姿が闇のなかで明滅する。過疎の村だから、岸辺にいる大人のなかには明日は村を離れて都会に帰る人も多い。夜が明ければ、もう一つの別れが待っているのだ。『西行の日』所収。(清水哲男)

June 1062002

 花桐や手提を鳴らし少女過ぐ

                           角川源義

季語は「花桐(桐の花)」で夏。もう、北国でも散ってしまったろうか。遠望すると、ぼおっと薄紫色にけむっているような花の様子が美しい。そんな風景のなかを、少女が手提(てさげ・バッグ)の留め金をパチンと鳴らして快活に通り過ぎていった。このときに少女は、作者とは違い花桐などになんらの関心も示していないようだ。それが、また良い。関心を示したとすれば、句の空気がべたついてしまう。まさに、清新な夏来たるの感あり。それも、優しくやわらかく、そして生き生きと……。句はこれだけのことを伝えているのだから、こう読んで差し支えないわけだが、山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』(角川ソフィア文庫)に作句時の背景が書かれており、それを読むと、さらに清新の気が高まる。「白河の関を過ぎたときの句。だから、古人が冠を正し、衣裳を改めて関を越えたことも思い出されているのであって、その昔に対比して、ハンドバッグの止金を鳴らしながら颯爽と過ぎてゆく現代の無心の少女の様が、作者の心に残るのである」。ちなみに、白河の関は古代奥州の南の関門。福島県白河市旗宿(はたじゅく)所在。『神々の宴』(1969)所収。(清水哲男)

July 0272002

 夜へ継ぐ工場の炎や半夏雨

                           角川源義

季語は「半夏雨(はんげあめ)」で夏。夏至から数えて十一日目(仏教的には夏安居の中日。すなわち本日)の「半夏生(はんげしょう)」に降る雨のこと。サトイモ科の半夏(烏柄杓の漢名)の花が咲くころなので、この名があると言われる。梅雨も末期にかかってくるこの時期には、大雨の降ることが多い。当然に農家は警戒しただろうし、農業人口の比率の多かった昔には、今日ではほとんどの人が知らない「半夏生」も、かなり一般的な言葉だったようだ。「半夏半作」という言葉もあって、この日までには田植えを終えたというから、農事上の一つの目安とされていた日だと知れる。掲句の素材は農事ではないけれど、こうしたことを思い合わせると、農作業に通じる地道な労働へのシンパシーが感じられる。何を作っている工場なのか。わからないが、おそらくは本降りであろう雨を透かして、見えている町工場の仕事の「炎」が目に鮮やかなのだ。「夜に継ぐ」だから、時はたそがれであり、なおさらに炎の色は濃い。そして、作者はこの炎が絶やされずに、夜の残業時間へと引き継がれていくことを思っている。「神聖な労働」と言ったりするが、この句には何かそうした価値観に通じる作者の真心が滲み出ていると感じられた。『合本俳句歳時記・新版』(1988)所載。(清水哲男)

May 3052005

 灯ともせば雨音渡る茂りかな

                           角川源義

季語は「茂り」で夏。樹木の茂った状態を言う。草の茂ったのは、「草茂る」と別の題がある。詠まれているのは地味な情景だが、技巧的にはむしろ華麗と言うべきか。表は本降りの雨だ。暗くなってきたので部屋の明かりをつけると、窓越しに雨の降る様子が見えた。灯を受けた一角にある茂った樹々に、激しく降り掛かっている。雨脚の動く様子も、かすかながらうかがえる。と、実際に見えるのはこのあたりまでだろうが、この情景に「雨音渡る」と聴覚的な描写を加えたところが非凡だ。よく考えてみれば、茂りを渡っていく雨音は、べつに明かりなどはなくても聞こえていたはずである。でも、そこが人間の五官の面白いところで、句の言うように、これは灯をともしてはじめて認識できる音だったのだ。つまり、明かりのなかに雨を見たことによって聴覚が刺激され、明かりの届かない暗い茂みのほうへと雨音が渡ってゆくのに気がついたというわけである。視覚が、聴覚をいわば支援した格好だ。パラフレーズすればこういうことだが、句の字面からすれば、灯をともしたら音が聞こえたと直裁である。そこで一瞬「えっ」と読者は立ち止まり、すぐに「はた」と膝を打つ。夏の夜の男性的な雨の風情を、わずかな明かりを媒介にして、きっちりと捉えてみせた佳句である。樹々を渡る雨音が、しばらく耳について離れない。『俳句歳時記・夏の部』(1955・角川文庫)所載。(清水哲男)

September 1692007

 秋風のかがやきを云ひ見舞客

                           角川源義

一昨年の年末に、鴨居のレストランで食事をしているときに、突如気持が悪くなって倒れてしまいました。救急車で運ばれて、そのまま入院、検査となりました。しかし、検査の間も会社のことが気になってしかたがありません。それでもベッドの上で、二日三日と経つうちに、気に病んでいた仕事のことが徐々に、それほど重要なことではないように思われてきました。病院のゆったりとした時間の流れに、少しずつ体がなじんできてしまっているのです。たしかに病室の扉の内と外とには、別の種類の時間が流れているようです。掲句では、見舞い客が入院患者に、窓の外の輝きのことを話しています。とはいっても、見舞い客が、ことさらに外の世界を美しく話したわけではないのでしょう。ただ、たんたんと日常の瑣末な出来事を語って聞かせただけなのです。見舞い客が持ち込んだ秋風のにおいに輝きを感じたのは、別の時間の中で育まれた病人の研ぎ澄まされた感覚のせいだったのです。おそらくこの患者は、長期に入院しているのです。秋風のかがやきを、もっともまぶしく受け止められるのは、秋風に吹かれることのない人たちなのかもしれません。入院患者のまなざしがその輝きにむかおうとしている、そんな快復期のように、わたしには読み取れます。『現代の俳句』(2005・角川書店)所載。(松下育男)

March 1632014

 イソホ物語刷る音いづこ春寒し

                           角川源義

掲句は、第五句集『西行の日』(1975)の中の「天草灘」連作からです。「イソホ物語」=「伊曽保物語」=(イソップ物語)は、文禄2(1593)年、天草の宣教師ハビアンが、ポルトガル語からローマ字表記で訳して出版しました。これは、当時の日本語、とくに口語を研究するうえで第一級の資料を提供しています。国文学者でもある作者は天草の地を訪れ、四世紀前にコレジオ(イエズス会の学校)で印刷されていたその音に耳を傾けています。それが、1596年には秀吉の、1612年には徳川幕府の禁教令によってその音は、完全に絶たれてしまいます。しかし、「伊曽保物語」という本は残り、天草本は現存しています。出版社社長でもあった作者は「刷る音」の気配を探りつつ、「春寒し」で現在に着地しています。なお、明治四十年八月、北原白秋が与謝野鉄幹らと同地を訪れ『邪宗門』が生まれたとあります。「菜の花や天草神父に歌碑たづぬ」。(小笠原高志)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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