世のため、人のため

Facebook船木 威徳さん投稿記事【 雨にも負けず 】

『雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、欲はなく決して怒らず、いつも静かに笑っている。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きして分かり、そして忘れず、野原の松の林の陰の小さな藁葺きの小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなに木偶の坊(でくのぼう)と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず---そういう者に私はなりたい。』

(日本詩集全集20 宮沢賢治 [新潮社刊]に準拠)

私が、小学5年生のときに、いわゆる中学受験のための勉強を始めた際に、見覚えのある詩が、あらためて参考書にあることに感動して、記憶にある限り、はじめて暗唱した詩です。宮沢賢治の名も、また、この『雨にも負けず』の題名も、多くの人が覚えているでしょう。

ところで、ここで、あるキリスト教徒と、ある法華経信者の交流について書いておこうと思います。

そのキリスト教徒は、斎藤宗次郞(さいとうそうじろう)と言います。彼は、1877年、岩手県・花巻で、禅宗(ぜんしゅう)の寺の三男として生まれました。15歳の時、実母の甥にあたるひとの養子となり、斎藤姓を名乗ります。彼は小学校の教師となりました。一時は国粋(こくすい)主義に傾くのですが、やがてあるきっかけで内村鑑三(うちむらかんぞう)の著書に出会い、聖書を読み始めます。1900年、斎藤は信仰告白をし、洗礼を受けて花巻の地における初めてのクリスチャンとなりました。

斎藤宗次郞が洗礼を受けたのは、12月12日の朝6時。雪の降り積もった、豊沢川においてでした。地元では非常に珍しいことだと、橋の上には大勢の見物人がやってきたそうです。

しかし、これはキリスト教がまだ「耶蘇(やそ=イエス)教」「国賊」などと呼ばれて、人々から激しい迫害を受けている時代のことです。洗礼を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなり、後に親からは勘当され、以後、生家に立ち入ることを禁じられてしまいました。町を歩いていると、「ヤソ、ヤソ」とあざけられ、何度となく石を投げられました。それでも彼は、神を信じた喜びにあふれ、信仰を貫いたのでした。

しかし、その後もいわれのない中傷が相次ぎ、ついに彼は小学校の教師も辞職に追い込まれました。また迫害は彼だけにとどまらず、家族にまでも及んでいきました。長女の愛子ちゃんは、世に国粋主義思想が高まっていったある日、「ヤソの子」と言われて腹を蹴られ、腹膜炎を起こしてしまい、わずか9歳という若さで亡くなったのでした。その葬儀の席上、讃美歌が歌われ、天国に帰る希望のなか、斎藤は我が子を笑顔で見送ったとされますが、愛する子をいわれなきことで失った親の心情は察するにあまりあります。

彼はその後、新聞配達をして生計を立てるようになります。朝3時に起き、夜行列車が着く度に何度も駅に新聞を取りに行っては町に配達するという生活でした。重労働のため、かれは肺結核を患ってしまい、幾度か喀血(かっけつ)します。それでも、毎朝3時から夜9時まで働くという生活を続け、毎夜、聖書を読んでは祈る時を持ちました。こうした生活が20年間続きましたが、不思議と身体は支えられました。

斎藤は、朝の新聞配達が終わる頃、雪の積もった小学校への通学路の雪かきをして、子どもたちが安全に歩けるよう道をつけました。小さな子たちは、彼が抱きかかえて校門まで走ったといいます。そんなことを彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく続けたそうです。我が子を蹴って死なせた、子どもたちのために。

日中は、空いている時間を見つけては、病人を見舞い、励まし、そして慰めました。やがて、1926年、住み慣れた故郷を離れ、東京に引っ越すことになったその日、いよいよ花巻を発つために、斉藤は駅に向かいました。

駅に着いた彼は驚きました。駅には、町長をはじめ、町の有力者たち、学校の教師たち、またたくさんの生徒、児童たちがホームを埋め尽くしていたのです。そう、彼を見送るために、町中の人たちが集まっていたのです。お寺の僧侶たち、斉藤が顔も知らない人たちまでごったがえして、ついには、駅長の判断で、列車の発車時刻を変更するまでになったのでした。

斎藤宗次郞が、毎日のように、町の人たち、子どもたちのためにしてきたことを、みんな見ていたのです。彼らは口々に、泣きながら感謝のことばを送っていたそうです。

その群衆のひとりに、宮沢賢治がいました。宮沢賢治は、花巻でも有名な教師で、法華経そして日蓮宗の信者でした。その後、斎藤宗次郞が東京に着いてから、最初に手紙をくれたのも宮沢賢治でした。そして、その5年後、有名な「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の詩が宮沢によって作られます。この詩は「そういう者に私はなりたい」ということばで締めくくられていますが、この詩のモデルとなったのが斎藤宗次郞なのです。

斎藤宗次郞の生き方に対し、宮沢賢治は深い共感を覚えたのでしょう。たとえ迫害されても決して怒らず、ただ静かに微笑んでいたのが、斎藤だったのです。そして自身の利益を追求せず、人々のために尽くしました。彼は、文字通りの「柔和(にゅうわ)」を体得した人でした。たしかに彼は、歴史上の有名な人ではありません。とは言え、注意深く調べてゆくと、信ずる宗教に関わらず、名も知れず、このような立派な生き方をした人がたくさんいることに驚かされます。

一方で、キリスト教徒の中にも、仏教徒の行動に対して、深い共感を覚えた人もいます。明治・大正時代に活躍したキリスト教徒であった内村鑑三は、その著『代表的日本人』の中で、日蓮宗の創始者・日蓮についてこう述べています。

「彼は小さな草屋を建てた。ここに彼は、彼の法華経を携えて居を定めた。---独立なる人間よ---こうして・・・大日蓮宗は、その起源をこの草屋に持ったのである。身延(みのぶ・山梨県)、池上(いけがみ)、そのほか各地の広壮(こうそう)な建物、それとともに全国五千あまりの寺と、そこに礼拝する二百万の信徒---すべてはその起源をこの草屋と、この一人の人に有したのである。偉大なる事業は常にこのようにして生まれる。一個の不屈なる霊魂と、それに対立する世界と・・・。

 二〇世紀は実にこの人より、彼の教義にあらずとも、彼の信仰と勇気とを学ぶべきである。キリスト教はそもそも日本においてはこのような起源を有したか。宣教師学校、宣教師教会、金銭の給与、人員の援助---偉大なる日蓮よ、彼は、このような荷物を持たず、自分自身とともに独りにて開始したのである!」内村鑑三はこう述べて、日本のキリスト教会にも日蓮のような独立した人物、不撓不屈(ふとうふくつ)の人物が現れることを祈り願ったのでした。

内村鑑三のもっとも忠実な弟子のひとりが斎藤宗次郎だとされ、そもそも斎藤が内村に影響され、日露戦争の際に非戦論を正直に唱えたがゆえに、教職を追われることになりました。斎藤のあまりのストレートな抵抗に、当の内村自身が斎藤の身を案じ、花巻まで説得に訪れたとの記録もあるくらいです。内村鑑三も晩年は多くの弟子に裏切られる中、斎藤は、内村の自宅に泊まり込み、看病に明け暮れたそうです。

私は、もちろん、特定の宗教者や団体を擁護するものではありません。ただ、ひとつ、覚えておきたいのは、宮沢賢治が、時代を超えて日本人の心を動かす詩のモデルとして敬愛した人物が、国賊扱いされていた日本では異教とされた宗教の信者であったこと。そして、日露戦争以降、国際的にも日本の社会がおおきく変容してゆく時代にあって、宮沢賢治、斎藤宗次郎、そして、内村鑑三も、その生き方、世界観や宗教観にせよ、だれにもなにかを強要しようとしたわけではなく、ましてや何らかの価値観をもって、支配しようとした者を擁護したわけでもない、という点です。

残念ながら、現代は、種々の邪教の信者が急増しているように、私には見受けられます。

「健康のためには死んでもいい」と考える<健康至上教>。

「大多数に属していることが最大の幸福」と考える<多数派安心教>。

「考えることを否定し、ただ素直に信じること」を宗旨とする<救世主待望教>。

・・・などなど、おちついて考えれば、こうした教えを信じる仲間が多い少ないが、それが真実かどうかの根拠になるわけはないのに、ともすると、「考えてもわからない」とか、「社会のなかでうまくやってゆくためには、自分を抑えるのはあたりまえ」だとか、挙句の果てに「社会(維持)のためには、少数の者が口を封じられたり、大多数のやり方に従った仲間でさえも犠牲になる者が出てくるのはやむを得ない」などという、文明社会に生きているはずの人間の考え方とはとても想えないような『暴論』でさえも、いとも簡単に受け入れてしまう人々が多いことが、私には恐ろしくてしょうがありません。

真実を知りたいと、ただただ、本当のことを追究しようとするだけで、たくさんの妨害に遭います。実際に起こっていること、そこに見える人間の根源にある残酷さ、無情や利己心に恐ろしさや醜さを伝えようとするだけで、それを拒否し、「そんなことがあるわけない」と否定するばかりか、その真実を伝えようとするひとを異常な者と扱って、見てみないふりをすることで、安心しようとする人のほうが多いかもしれません。

しかしながら、真実は真実です。ただ、「真実」だからといって、ただ偉そうに伝えればよいわけではなく、その際に、もっとも心がけるべきは、相手を愛しているがゆえに「愛を込めて」伝えるということなのだ、と私は考えます。私の愛するこの日本には、それを自身の損得など考えずに、それを実行してきた名もなき偉人が数え切れないほどおられる。

私が、私の生まれ育ったこの国を愛してやまないのは、その尊敬してもしきれない祖先のみなさんを誇りに想う思いが、学べば学ぶほど溢れてとまらなくなるからなのです。

いま一度、雨にも負けずを、宮沢賢治の死後見つかった手帳のなかに記された原文で読んでおきたいと思います。原文には最後のパートに、法華経への帰依を詠う文章も含まれます。

『雨ニモマケズ

雨ニモマケズ  風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク

決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)ノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩』(『青空文庫』より 原文のまま引用)

※画像は宮沢賢治、内村鑑三の肖像。宮沢賢治の手帳に記された詩のメモ。書は法華経の写本の例で東京国立博物館蔵(法隆寺献納宝物)平安時代のものとされます。

(ふなきたけのり 2023/08/14 終戦記念日前日に寄せて)


Facebook相田 公弘さん投稿記「世のため、人のため」につくした偉人と母の愛

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野口シカは、自分のせいでわが子、清作(後の野口英世)に大火傷させて不自由な体にしたことを悔やみ、農業以外の仕事もできるよう清作を学校に出すために学費を稼いでいたのでした。大きな荷物を背負い猪苗代と若松の間の五里(約二〇キロメートル)の坂道を往復して生活費と清作の学費を稼ぎました。

清作は、母のその姿を見て、一生懸命勉強しました。

シカが清作の猛勉強ぶりを見て心配すると、「おっかさんは男勝りの仕事をしているのに、おれがこのくらいのことすんのは当たり前だべ」と母をねぎらうのでした。

清作が三ツ和小学校に通っていた十一歳のとき、校長先生から先生の代わりに教壇に立って教えてみないかといわれたことを聞いたシカは、清作に新しい洋服を買い与えました。

洋服など村の誰も着ていない時代に、シカは頑張った清作に精いっぱいのことをしてやったのです。明治二十九年、清作が上京して医師資格の受験勉強をしていたときもシカは、清作が頑張っているから自分も負けられないと近くの助産婦さんを手伝って助産婦の資格を取ったのでした。

やがて清作は、医師の試験に合格すると英世と名前を変えて、前にも増して勉強に励みました。その後、渡米し、医学の研究成果を上げてノーベル賞の候補になりました。

明治四十五年二月、忙しい日々を送る英世のもとに、シカから手紙が届きました。

文面にはなつかしい字で、「早く帰ってきてくだされ。一生の頼みでありまする」と書かれていました。英世は、母に会いたくて手紙を読んで涙を流しましたが、研究が忙しくて帰国をすることができませんでした。

三年後の大正四年、五月、友人から英世のもとに一通の手紙が届きました。それは、シカの体が弱っていることや今会わないと二度と会えないことなど、万難を排して帰国をすすめる手紙でした。同封してあったシカの年老いた写真を見て、今、母に会わなければ一生の悔いを残すと思った英世は、一五年ぶりの帰国を決意しました。

郷里に戻った英世は、せめてもの親孝行のつもりで東京や伊勢、関西を一緒に旅行したのでした。立派になった英世を見てシカは、「立派なお前の姿を見れたし、龍宮城に行った浦島太郎のようで大変幸せだよ。心残すことはねえー」と、感謝したのでした。

それから三年六ヵ月後の大正七年、英世が黄熱病(熱帯地方特有の伝染病の一つ)の研究で大きな成果を上げて、南米のエクアドルからアメリカのニューヨークにあるペンシルベニア駅に到着したとき、英世はシカの死を知らされました。

シカは当時流行したスペイン風邪に倒れたのです。自分が病気だと知りつつ助産婦の仕事を続けたシカは、無理がたたって急に亡くなったのでした。

悲しみのあまりホームにひざまづいた英世はシカから、「世のため、人のためにつくしなさい」といわれた言葉をじっとかみしめていました。

その後、人の命を守るために一生懸命に働くことを心に誓った英世は、周囲の反対にもかかわらず黄熱病の研究でアフリカに渡って研究に没頭します。

しかし、研究中に黄熱病に感染して、世界の人々に惜しまれながら、昭和三年、五十一歳でこの世を去ったのでした。

ニューヨークにある英世の墓石には、「日本の猪苗代に生まれ、アフリカのゴールドコーストで死亡。科学に献身して人類のために生き、人類のために死す」と刻まれています。

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今日の1歩

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「私は少しも恐れるところがない。私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ。」by野口英世

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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