「過去」は「今の自分」が意味づける

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トラウマなど存在しません「過去」は自分の意思で意味づけをできるもの  岸見 一郎

「両親が離婚しているので、結婚できない」「子どもの時に母親から虐待を受けたから、子どもを産む自信がない」。子どもの頃のこのような体験が“トラウマ(心的外傷)”になって、結婚や出産をためらっている。このような相談をよく受けます。

 トラウマやPTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉が日本でよく使われるようになったのは、1995年の阪神大震災以降のことです。大きな自然災害、事故、事件などに遭遇することで心が傷つけられた人は、強い抑うつ、不安、不眠、悪夢、恐怖、無力感、戦慄などの症状が起こるというのです。

 たしかに強いショックを受けたことは事実ですが、その後の人生で行き詰まった時、そのことすべてをトラウマによると考えることに問題はないでしょうか。結婚や出産をためらうのは、本当に、トラウマのせいなのでしょうか。そもそもそのトラウマは本当でしょうか?

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/073100134/?n_cid=nbponb_fbbn&fbclid=IwAR1q5_zqFizs0Bt1tLgL5pwBlvqNa_rkFowuuDLgjM74WAogKLhm2xUVRwk 【トラウマなど存在しません】より

 実は、何かに行き詰まった時に、過去に経験したことがその行き詰まりの原因であると考えることには隠された目的があります。どうすればこのような考えから脱却できるか考えてみましょう。

トラウマに苦しむのではない

 2001年に大阪の小学校で、子どもたちが次々に暴漢に刺されるという痛ましい事件がありました。附属池田小事件と呼ばれるこの事件の直後、ある精神科医が、テレビのインタビューに答えた内容を聞き、私は驚愕しました。その精神科医はこう答えたのです。「今回の事件で、その場に居合わせた子どもたちは、たとえ自分が犯人に傷つけられていなくても、今後人生のどこかで必ず問題が起こる」と。

 つまり、当該事件によって起こるであろう心理的なダメージから逃れられずに、問題を抱えたまま生きていくであろう、といったわけです。その精神科医は「それほど子どもたちにとってダメージの大きい事件だった」ということをいわんとしたのだと思いますが、私はその発想自体に、非常に疑問を持ちました。

 あの時、事件の現場に居合わせた子どもたちは今もう二十歳になります。恋人ができている人もいるでしょう。結婚をしている人もいるかもしれません。そんな彼らが、付き合っている相手との関係がうまくいかなくなったり、結婚生活が続けられなくなったりすれば、あの事件の時に受けたショックがそのことの原因と考えるのでしょうか。

アドラーは次のようにいっています。

「いかなる経験もそれ自身では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自らを決定するのである」(『人生の意味の心理学(上)』)

 あることが原因となって、必ずあることが帰結するという考えを「原因論」といいます。災害や事故に遭ったこと、事件の現場に居合わせたこと、また幼い頃に虐待を受けたことなどによって、人は必ず心に傷を受けるというのであれば、過去にある原因を過去に遡って除去できない限り、現在の問題は解決できないことになってしまいます。

 一方、アドラーは、「目的論」を採ります。同じ経験をしたからといって、誰もが同じようになるわけではない。強いショックを受ける経験をしても、その経験の中から自らが「目的に適うもの」を見つけ出すと考えるのです。経験をどう意味づけるかが人によって違うのは、この目的が異なるからなのです。

 アドラーは、「Aだから(あるいはAでないから)Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用することを「劣等コンプレックス」と呼んでいます。

 劣等感というと、ネガティブな言葉に聞こえますが、劣等感自身は悪いものではありません。それは誰にでもあり、「健康で正常な努力と成長への刺激である」(『個人心理学講義』)とされています。つまり、劣等感を持つことで、努力をし、成長へと自らを導くことができたとしたら、それは悪いことではないというわけです。

 一方、アドラーのいう劣等コンプレックスは、仕事、交友、愛という人生のタスクを回避するために使われるものです。努力や成長につながり得る「劣等感」とは違い、逆に人生の問題を避けるための「道具」として使われる言葉です。

 さらに、「AだからBできない」という時の「A」として持ち出される理由は、他の人がそれを聞いた時、「なるほど、そういう理由があるのなら仕方がない」と納得するしかないようなものを用います。

「AだからBできない」は本来ありえない

 アドラーは、今の自分のあり方について、過去に経験した出来事や生育歴などを原因として持ち出して説明することを「見かけの因果律」と呼んでいます。「見かけの」というのは、「AだからBできない」という時のAとBには実際には何ら因果関係はないと考えるからです。同じ経験をしても、すべての人が同じようになるわけではありません。

 例えば、きょうだい関係について見ると、兄は妹が生まれなかったら問題のある子どもにならなかったかもしれませんが、妹が生まれたからといって兄が必ず自分だけにそれまで向けられていた親の注目、関心、愛情を妹に奪われることで、いわば王座から転落し問題のある子どもになるわけではありません。石であれば必ず一定の方向に一定のスピードで落下しますが、「心理的な下降」においては厳密な因果律は問題にならないのです(『子どもの教育』)。

 それにもかかわらず、今のあり方と過去の出来事の間に因果関係があると見なすのはそうしたい「目的」があるからだ、とアドラーは考えます。子どもの頃に両親が離婚しているので結婚できないと思い、虐待されたので出産に自信がないというのは、過去の経験を理由にして、結婚や出産をしないでおこうとする目的があると考えるのです。

また、今付き合っている人や結婚している人との関係がうまくいかなくなった時、パートナーとの対人関係の築き方に改善の余地があるとは考えず、過去に事故や災害を経験したことや、事件に居合わせたことが原因であると見るのは、自分の責任を棚上げにすることが目的です。

「過去」は「今の自分」が意味づける

 この過去にあるとされる原因すら客観的に存在しているわけではありません。その過去の出来事についての意味づけは、「今の自分」がしているのです。今の自分の「目的」に沿って、過去をどうにでも意味づけできるのが怖いところです。

 過去の出来事についての意味づけが変われば、過去そのものが“変化”しますし、なかった出来事さえあったように記憶されているということもあります。

 アドラーが自分自身の子どもの頃の回想を語っています(『教育困難な子どもたち』)。まだ5歳だったアドラーは毎日墓地を通って小学校へ通わなければなりませんでした。この墓地を通って行く時、いつも胸が締めつけられるようになりました。

 墓地を通る時に感じる不安から自分を解放しよう、と決心したアドラーは、ある日、墓地に着いた時、級友たちから遅れ、鞄を墓地の柵にかけて一人で歩いて行きました。最初は急いで、それからゆっくり行ったりきたりして、ついに恐怖をすっかり克服したと感じられるようになりました。

 ところが、35歳の時、1年生の時に同級生だった人に出会って、この墓地のことをたずねました。

 「あのお墓はどうなっただろうね」

 そのように問うアドラーに友人は答えました。

 「お墓なんかなかったよ」

 実は、この回想をアドラーは空想していただけだったのです。それにもかかわらず、この回想はアドラーにとって「心の訓練」になりました。子どもの時に困難を克服しようと勇気を奮い起こしたことを思い出すことで、その後の現実の人生における困難を克服し、苦境を乗り切ることに役立てたのです。アドラーは、課題から逃れるためではなく、課題に立ち向かうために、この墓場の記憶を創り出したのです。

そんなことがあるのだろうかと思う方もいるかもしれません。でも、似たような経験ならあなたにもあるかもしれません。例えば、親に「小さい頃、あんなことあったよね」と話した時に、「いや、そんなことはなかったよ。似たようなことはあったけどね」といわれたことがありませんでしたか。

 アドラーの回想から知られるように、ある記憶が事実でなかったり、事実だったとしても実際の出来事とは少し記憶の内容が違っていたりすることは往々にしてあります。それがなぜ起きるのかというと、「目的」があるからです。

 ある出来事を原因として、今の状態をその結果として説明する原因論は、必ず決定論になります。しかし、たとえどんな経験をしても、それによって運命が決定されることはなく、人は自らが創り出す目的によって、自分自身がその経験に縛られたり、逆に自由になったりするのです。

 理不尽な事件、事故や災害が起こった時、なぜこんなことが起こったかを考えないわけにはいきません。それでも、目を未来に見据えて、これからどうするか、これから何をすべきなのかという問いを発する必要があります。人は運命に翻弄される脆弱な存在ではなく、苦難を乗り越える力を持っているのです。

 過去の出来事に今の問題の原因を求めてみても、それで問題が解消するわけではありません。

 「あなたが悪かったのではない。あなたのせいではない」

 そう精神科医やカウンセラーはいってくれるかもしれません。そのようにいわれたら、楽になれるかもしれません。しかし、それではすまないのです。今の生きづらさを親のせいにしてみても、これから何ができるかを考えなければ一歩も前に進めないのです。

 過去に戻ることはできなくても、これからどう生きるかは自分で自由に決めることができます。

 これからどうすればいいかを考え、目を過去ではなく未来に向けていきましょう。

 (この記事は日経ビジネスオンラインに、2014年7月8日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)



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