むざんやな甲の下のきりぎりす

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/c37de82823ebf3ab893361976a854ecf 【むざんやな甲の下のきりぎりす(小松市多太神社)】より

多太神社は篠原合戦で討死した斎藤実盛の兜を所蔵する神社です。

多太八幡神社ともいい、延喜式内社に列する古い社で、祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおてるひこのみこと)応仁天皇・仁徳天皇・神功皇后ほかが祀られています。

鎌倉時代中期、近くの能美庄が京都の石清水八幡宮の社領になると、その末社となり、室町時代まで加賀地方ではかなりの勢力をもっていました。

この神社に残る兜・袖・すね当は、藤別当実盛の遺品を木曽義仲が願状を添えて奉納したものと伝えられています。

篠原合戦における斉藤実盛の逸話は後世まで語りつがれ、さらに有名にしたのが謡曲「実盛」や松尾芭蕉の俳句です。

斉藤実盛の死後二百年余り経った室町時代、時宗の遊行上人太空が篠原古戦場近くにある潮津(うしおず)道場で布教中、実盛の亡霊にあい卒塔婆をかいて霊を慰め供養したといわれています。(実盛の亡霊が実際に現れたと室町時代の記録類にも載せられている)

謡曲「実盛」はこれを素材にした世阿弥の作品です。

武将が死後修羅道の苦しみを語る修羅物の一曲で「三修羅」および「三盛」の一つにあげられており「未熟の能師の勤めざる能也」とされる難曲です。

時代は下り江戸時代、芭蕉は「おくの細道」で多太神社に詣で、実盛が身につけていたと伝えられる錦の切れ端やかぶと等を拝観しています。

松尾芭蕉の像

『奥の細道』でそのくだりを見ておきます。

「この神社には斉藤別当実盛の遺品である甲や錦の直垂の一部が所蔵されている。

その昔、実盛が源氏に仕えていたころ、義朝から拝領したものだとか、なるほど並みの武士のものではない。目庇(まびさし)から吹返しまで、菊唐草の彫刻に金を散りばめ竜頭の飾金具と鍬形の角が打ちつけてある。

実盛が討死の後、木曽義仲が祈願の状文に添えてこの社に奉納されたこと。その時、樋口次郎が使いとして来たことなどが、目のあたりに見るように縁起に書いてある。」

ちなみに目庇というのはかぶとの正面に突き出した庇をいい、吹返しは目庇の両側から耳のように出て後方に反り返っている部分で矢防ぎと装飾をかねています。

この文章に続けて♪むざんやな甲の下のきりぎりすの句が添えられています。

「このかぶとを見るにつけ往時のことが偲ばれるが、実盛が白髪を染めこの甲をかぶって戦って討たれたことは何といたわしいことであろう。しかしそれも過ぎ去った昔語りとなって

今はかぶとの下で秋の哀れを誘うようにきりぎりすが鳴いていることだ。」当時のきりぎりすとは今のこおろぎの事です。

この句の初句は、はじめ「あなむざんやな」または「あなむざんや」でした。

「あなむざんやな」は謡曲「実盛」で、樋口次郎が実盛の首級(しゅきゅう)を見て

「あなむざんやな、斉藤別当にて候ひけるぞや」という詞をとったものですが、もとは『平家物語』の「あなむざんや」から繋がっています。

『奥の細道』をまとめる際に、字余りが修正され「あな」という詞が省かれました。

芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが三百年前の元禄二年(一六八九年)七月二十五日(九月八日)であった。七月二十七日小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。

あなむざん甲の下のきりぎりす  芭蕉

幾秋か甲にきへぬ鬢の霜     曽良

くさずりのうち珍らしや秋の風   北枝

斎藤別当実盛の像

おくの細道の旅で芭蕉は西行の足跡を辿ったとされますが、悲劇の武将源義経を追慕するのも目的の一つでした。平泉から南下するうちに木曽義仲にも思いをよせるようになり、晩年義仲が眠る義仲寺(ぎちゅうじ)に埋葬するよう遺言し、義仲寺には芭蕉の墓があります。義仲に特別な思いを持っていた芭蕉は、多太神社で義仲が奉納した宝物を見た時、実盛の最後を追懐し、鬢髭を黒く染めて戦った誇り高い武士魂と図らずも恩人を討ってしまった義仲の心情を思い、感慨深いものがあったはずです。

義仲が奉納した実盛のかぶとは、今も多太神社で見ることができます。

通常は予約が必要ですが、7月下旬の「かぶとまつり」では一般公開されています。

かぶと保存会(0761-21-1707)に予約し、平成18年5月4日に拝観させていただきました。

宮司さんに案内されて宝物館の戸を開けると、テーブル状のショーケースの中に兜は展示されていました。

中央の祓立(はらいだて)には八幡大菩薩の文字が彫られ、古雅で気品高い兜の姿にしばし見とれ、八百年余り前の悲哀に思いを馳せました。

大きく破損していたかぶとは明治33年に国宝に指定された時に一度解体修理され、昭和25年には重要文化財となりました。

篠原合戦で討たれた実盛は死んで怨霊神となり、稲を食うサネモリという虫になったという。それというのも実盛は稲につまずいて倒れ、それが原因で手塚に討たれたと伝えられます。

田植えを終えた祭り「さなぶり」が「さねもり」に重ねられ、稲の害虫よけを実盛の霊に祈る慣わしが現在でも北陸地方を中心にした農村に残っています。

実盛の説話はやがて謡曲の舞台となり、文芸・民間伝承の中に長く生き続けています。

拝殿本殿

多太神社回向札(小松市指定文化財)

画像は小松市HPよりお借りしました。

室町時代、時宗の祖一遍から14代にあたる遊行上人太空が

実盛の霊を供養したという縁起にもとづき、代々の上人は加賀国に布教の際、

多太神社・実盛塚で回向するのが慣例となりました。

境内社松尾神社

平成18年に続いて平成27年秋に再度参拝させていただきました。


https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/f58052498183681da465adaf067b3af6 【義仲寺1(木曽義仲と芭蕉)】より

滋賀県大津市の朝日山義仲寺(ぎちゅうじ)は、室町時代末に近江守護の佐々木六角氏が義仲の菩提を弔う寺を建立したことに始まると伝えられています。

江戸時代の中頃までは、木曽塚・無名庵(むみょうあん)と呼ばれ、義仲の墓の傍に柿の木があるだけの小さな寺だったという。

境内には木曽義仲と芭蕉の墓があり、境内全域が国の史跡に指定されています。

京阪電車膳所駅から琵琶湖岸に向かって約350㍍進みます。

旧東海道との交差点を左折し、約50㍍進むと左手に義仲寺があります。

琵琶湖の西岸、寺の前の道は旧東海道です。古くはこの辺りを粟津ヶ原と呼んだという。

武家屋敷のような山門の右手の地蔵堂は巴地蔵堂と呼ばれ、古くから地元の信仰を集めています。

芭蕉がこの寺を初めて訪れたのは、奥の細道の旅から帰った元禄2年(1689)、ちょうど寺の修理を終えた頃でした。この年の暮れはこの寺で過ごして新年を迎えました。

その後も粟津の戦いで最期を遂げた義仲の武骨な生き方に共鳴し、敬愛していた芭蕉はこの寺に度々滞在しています。

湖南には芭蕉が信頼する膳所藩重臣の本田臥高・菅沼曲水や曲水の伯父水田正秀などの多くの門人がいました。なかでも曲水は、石山寺に近い国分山中にあった庵を幻住庵として芭蕉に提供し、義仲寺境内には水田正秀によって無名庵が建てられます。

山門を入ると境内右手に寺務所、史料観・朝日堂その奥に翁堂が建ち並び、左手に芭蕉ゆかりの俳書などを納めた粟津文庫・無名庵と続きます。

庭には山吹・巴塚・木曽義仲の宝篋印塔、その右隣には芭蕉の墓が並び、芭蕉や無名庵主らの20基近い句碑が点在しています。境内奥に義仲寺鎮守の木曽八幡社や曲水、昭和再建に尽力した保田與重郎などの墓があります。

芭蕉翁真筆句の版木

朝日将軍にちなむ朝日堂

朝日堂には、本尊の聖観世音菩薩・義仲・義高父子の木造が納められた厨子や今井兼平、芭蕉と門弟らの位牌が祀られています。

芭蕉像を安置する翁堂には、芭蕉と丈艸・去来の木像、側面に蝶夢の陶像、には三十六俳人の画像が掛けられて弟子たちが今も寄り添っています。

天井は伊藤若冲筆四季花卉(かき)の図です。

尚、『義仲寺案内』には、「翁堂は安政3年(1856)類焼、同年再建、現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである」と記されています。元禄7年(1694)9月、旅先の大阪で病に伏せた芭蕉は、大坂本町の薬屋だったという弟子の之道(しどう)宅から

近くの南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に病床を移します。臨終の床で、大津の乙州(おとくに)に「さて、骸(から)は木曽塚に送るべし。爰は東西のちまた、さざ波よき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐かしき友達のたづねよからんも、便わずらわしからじ。」

(路通『芭蕉翁行状記』)と語ったといいます。

治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵した義仲は、倶利伽羅合戦で平家軍に大勝し、北陸道から京へ入り平家を西国に追いやりました。

しかし、朝廷と源平の三つどもえの争いの中、後白河法皇と対立し、法皇の命を受けた源範頼・義経軍と戦い寿永3年(1184)に粟津で戦死しました。

芭蕉は義仲をこよなく愛し、大坂で逝去の際、義仲寺の木曽塚の隣に埋葬してほしいと遺言し建てられた墓。

無名庵

木曽塚は義仲寺にある義仲の墓所ですが、芭蕉は「膳所は旧里のごとし」と語り、湖南蕉門らの集う無名庵を幾度となく訪れ交流を重ねています。

芭蕉の時代、比良・比叡の山なみが連なる琵琶湖に面し、道のすぐそばまで波が打ち寄せる風光明媚な木曽塚の地は芭蕉が愛したところです。

東海道沿いにあるこの地は、懐かしい人たちが訪ねてくれるのに都合がよく自分の死後も弟子たちが時折尋ねて来て句会を催すことを望んでいたようです。

ちなみに大津市打出浜・におの浜付近の湖岸は市街地を広げるため、昭和30年代に埋立てられました。

元禄7年10月、芭蕉の遺骸は遺言通り、門人の手で花屋仁右衛門別宅から川舟に乗せられ、淀川を遡って琵琶湖畔に到着し、木曽塚の隣に葬られました。

丈艸(じょうそう)筆による「芭蕉翁」の文字が刻まれた塚の傍には冬枯れの芭蕉が植えられます。芭蕉は悲劇の武将義仲や義経に心惹かれたといわれています。

ともに源氏再興を願い平家追討に身を捧げながらやがて頼朝と対立し歴史の舞台から消えてしまったという意味では、義仲と義経は同じ運命を辿ったということになります。

「おくの細道」の旅で芭蕉は平泉高館に上り奥州藤原氏三代が滅亡したあとの夏草が生い茂る情景を♪夏草や兵どもが夢の跡 と詠んでいます。

平泉は奥州藤原三代・清衡、基衡、秀衡が居を構え、高館には義経の館があったといわれ、

父、秀衡の死後、鎌倉方と組んだ泰衡にこの館を襲われた義経は妻と娘を殺害したのち自害します。時に31歳、奇しくも義仲がこの世を去ったのと同じ年令でした。

この旅の途中に多太神社(石川県小松市)に参拝し、幼い義仲を木曽へ連れてきてくれた斎藤実盛の遺品の兜を拝見します。実盛は始め源氏の武将でしたが、平治の乱後、平宗盛に仕えていました。

きりぎりすの鳴き声を聞き実盛の無残な最期を思い起こし「むざんやな」と嘆き

♪むざんやな甲の下のきりぎりす の句を奉納、

やがて白山が見えなくなる旅の最後には、湯尾峠を越えて源平古戦場の燧ヶ城(ひうちがじょう)へ。

義仲軍を迎え撃とうと、北陸路を進んだ平家軍はこの城にたてこもる義仲方の軍勢を破り加賀に攻め入り、その後、倶利伽羅峠の合戦で平家軍は義仲軍に大敗することになります。

♪義仲の寝覚めの山か月悲し と吟じ、木曽塚の傍らの無名庵に滞在し、真直ぐで豪胆な義仲の性格を雪の下でたくましく芽吹く草にたとえて♪木曽の情雪や生えぬく春の草 の句を作っています。

『姓氏家系大辞典』によると、芭蕉は桓武平氏拓植(つげ)氏族で平宗清の末裔により、宗房と名乗ったと記されています。

芭蕉が義経・義仲にとりわけ強い思いを寄せていたことについて『芭蕉 最後の一句』には次のように書かれています。

「伊賀国は室町時代から群小の土豪の力が強く、織田信長の次男信雄(のぶかつ)の侵攻も撃退していたが、天正九年、信長は大軍で攻め寄せ、抵抗する伊賀の土豪を殲滅(せんめつ)掃討した。

芭蕉は伊賀の土豪の出身であると思われることから、源氏の義経や義仲などの敗残者に熱い思いを寄せることになったのではないかと推測できる。」

「義仲忌」が毎年1月第3日曜日、5月第2土曜日には、翁堂に鎮座する芭蕉翁の像に白扇を奉納する「奉扇会」、

芭蕉翁の忌日「時雨忌」は、11月の第2土曜日に営まれ


https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/5b722dbcf86a72d608c7e776951406c8

【松尾芭蕉終焉の地(南御堂)】

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/fb43bb816c41a591e0d9cfc58e6f7ab2

【義仲寺4(巴塚・山吹供養塚)】


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