西東三鬼と平畑静塔らの戦争俳句

http://jsmh.umin.jp/journal/64-1/64-1_rei-shoroku_6.pdf 【西東三鬼と平畑静塔らの戦争俳句】より

―治安維持法との関わりについて―  北野 元生

『京大俳句』の西東三鬼と平畑静塔らは昭和 15年京都府高等警察に治安維持法違反の容疑で検挙される少し前まで,所謂戦争俳句を詠んで発表していた.彼らは実際に戦地に赴かず,戦場での体験もないにも拘らず,想像で嘘(フィクション)と言わざるを得ない戦争についての俳句作品を作っていたことになる.片や戦地で命のやりとりをしながら,それでも俳句を詠んでは,その俳句作品を内地に送ってくる人もかなり多かった時代である.実際に戦地を知らず,ニュース映画や新聞の記事などで知り得た知識を頭の中で掻き集めたものを机上で弄んでいるだけだと非難され,戦地で実戦に従事している兵士に対して道義的に申し訳ないと断罪された.さらに戦後に至っても反戦平和主義一辺倒の世情の中で,彼らの戦争俳句作品が俳句作品として正統に評価されるには中々いたらなかったのである.

彼らの二人の戰爭俳句作品のごく一部を挙げておくと,

「機關銃熱キ蛇腹を震ハスル」「機關銃天ニ群ガリ相對ス」「兵を乗せ黄土の起伏死面なす」

〈以上三句 三鬼〉

「病院船工人猫を抱けり航く」「安死術野戦の谷の蟹にある」「磐と餓ゑ磐と墜ち磐に立ち勝つ」〈以上三句 静塔〉

二人は,はじめから,これらの戦争(前線)俳句は嘘俳句であると断って発表していた.彼らの「戦争俳句」作品中の「語り手」がニュース映画のナレーターと同様の第三者の語りを用いて作品を作っているのが特徴である.俳句作品には本来かくあるべきと宿命づけられていると信じられていた種々の制約があり,且つ身辺の出来事や作者本人の経験する範囲内での感情や心理の動きなどを詠むことが作品作成の限界であるとされているのが俳句の命題であると考えられてきたが,それを“私俳句”であるととらえ,その狭い領域を脱却,あるいは脱出することが三鬼や静塔らの課題であったようである.彼らは戦争俳句を詠むに当り,第三者の語り手を利用することにより,「私俳句」の領域を脱却,あるいは脱出することには,一応成功したかの如く見える部分もあったと言えよう.そして,さらには彼らが追及したものが,単純な反戰や平和のような政治的なイデオロギーではなかったのである.実際に参加したこともない戦争を詠むことを通して,第一に何か新しい俳句技術を発見あるいは生みだそうをしていたに違

いないのである.それらは何であったのだろうか.いずれにしても,かれらにとってその解答を見出すには時間が不足していたと言わざるを得ないかも知れない.そして,第二に「戦争」の本質が我々の眼前で行われている戦場のできごととは異なる次元のものではないかとすることにも,彼らの思考が向けられ始めていたことにも注意すべきであるが,それについても遂には明確にはされなかったと言ってよい.

そのことも含めて,「戦争」という現実に直面した三鬼や静塔らの俳句形式が,新興俳句的方法の文芸的卑小と脆さを露呈しているものとの表現史上の批判的評価は率直に受け入れなければならないだろうとする意見も大きい.

戦争俳句の彼らの志向した作品論については一先ずさて置いて,彼らの机上で作成される「戦争俳句」に対しての世間からの批判は以上の通りであったが,以上とは別の観点から,治安維持法と言う法律が日中戦争の最中,太平洋戦争開戦直前の時期に,「戦争俳句」を詠んでいた三鬼や静塔を含む「京大俳句」,そして全国の新興俳句派の俳人たちの活動を一括して一挙に停止せしめた.治安維持法違反の理由付けのひとつとして彼らの「戦争俳句」が重要な要件として俎上に乗せられたのである.

そして三鬼や静塔らの所属した新興俳句の活動は,部分的にはともかく,戦後になっても二度と再び日の目を見ることはなかったのである.そのような風潮の中,断片的でわずかではあるが,彼らの「戦争俳句」には,俳句形式に付加された数々の技法を生み出す母体であったという評価もあり,その功績に眼を瞑るのは怠慢である.今後,その掘り起こしをすべきであろう.

(平成 29 年 12 月六史学会合同例会)

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