平畑静塔

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%95%91%E9%9D%99%E5%A1%94 【平畑静塔】より

平畑 静塔(ひらはた せいとう、1905年(明治38年)7月5日 - 1997年(平成9年)9月11日)は、日本の俳人、精神科医。和歌山県出身。

経歴

本名は富次郎。海草郡和歌浦町(現・和歌山市)に生まれる。父は銀行員で静塔は三男。和歌山県立和歌山中学校、第三高等学校[1]を経て、1931年に京都帝国大学医学部[2]を卒業。大学時代は精神医学を専攻した。1932年結婚。1937年兵庫県立精神病院に赴任。1944年応召し南京陸軍病院に勤務。1946年京都帝大医学博士[3]。戦後は大阪女子医学専門学校(現関西医科大学)教授、守口市京阪病院院長、布施市(現・東大阪市)阪本病院院長を歴任。1961年に宇都宮市に移り、宇都宮病院の顧問となった。

俳句は1925年、大学時代に「京鹿子」、ついで「馬酔木」「ホトトギス」に投句。1933年、井上白文地らと共に「京大俳句」を創刊、1935年には西東三鬼らを同誌に迎え、新興俳句運動の中心的存在として活動。1940年、新興俳句弾圧事件に連座し、懲役二年執行猶予三年の判決を受けた。戦後は西東三鬼、橋本多佳子らと句会、1948年に彼らとともに山口誓子を中心として「天狼」創刊に参加、編集に携わる。1951年、カトリックに入信。同年発表した「俳人格」説(『馬酔木』1951年4月号)では、俳句性の確立には俳人自身の俳句的な人格の発展と完成が必要と説き注目を集める。のちには俳人格の典型を高浜虚子に見るなど論を展開。他にも「天狼」の根元俳句論、季題論など各種の評論でも存在感を示した。

1971年、句集『壺国』ほかで第5回蛇笏賞、1986年、句集『矢素』で第1回詩歌文学館賞、1995年、第7回現代俳句大賞受賞。代表句は自身の「根源俳句」として挙げた「藁塚に一つの強き棒挿さる」(『月下の俘虜』)のほか、「胡桃割る聖書の万の字をとざし」(同)、「壺の国信濃を霧のあふれ出づ」(『壺国』)、「座る余地まだ涅槃図の中にあり」(『漁歌』)、「身半分かまくらに入れ今晩は」(『矢素』)など。句風は男性的・骨太と評されたが、後年は滋味とユーモアが加わり、伝統行事や生活・風土に素材をひろげ大らかな句風となった。


https://fudemaka57.exblog.jp/31479100/  【平畑静塔】より

男より掬ひ始めぬ夜光虫(『月下の俘虜』昭和30年刊)

葭切がかぼそき電話線つかむ(『月下の俘虜』昭和30年刊)

天辺に紅葉嫌ひの馬が立つ(『旅鶴』昭和42年刊)

秋風や岩に置くべき聖歌集(『栃木集』昭和46年刊)

森林浴互(かた)みに心透けて見え(『矢素』昭和60年刊)

◆京大三高俳句会

御城下や今も蓮の武家屋敷              加太の海の波のり舟ぞ若布刈り

三人に落花の庭の道成寺               滝近く郵便局のありにけり

燈籠と泳ぎ別るる荒男見ゆ              海苔採ると櫛筓を外づすなる

◆日吉館句会

秋祭リボン古風に来たまへり           秋の夜の「どん底」汽車と思ふべし

◆愛生園・光明園

我を遂に癩の踊の輪に投ず

◆根源俳句と句集『月下の俘虜』

根源俳句とは、「実在の内奥に肉薄する俳句」(三鬼)であるといわれている。つまり、物事を俳句で描写する場合に、常識的な見方で描くことをよしとせず、常識を疑ってかかりその向こう側に内在するものを描こうとするのが根源俳句である。しかし一口に根源といっても、この語が含むニュアンスは天狼の同人ごとにかなり異なっている。三鬼、耕衣、不死男、静塔、みなばらばらである。

しかし静塔は、虚子俳味だけが俳句のすべてではないと見て、俳味のさらに先に根源俳句を打ち立てようとする。物象を永遠の相において捉えようとするところは虚子俳句も根源俳句も共通である。しかし虚子が作者の個性、自我意識を消却して、自我と自然が一体になった境地に立つことによって永遠相を実現したのに対し、根源俳句は「個」を手放さない。個の立場から世界を眺めようとする。そして個を手放さずして永遠を描くことに成功した先達が、短歌の斎藤茂吉であった。

◆第一句集『月下の俘虜』を出版

男より掬ひ始めぬ夜光虫 『月下の俘虜』(「天狼」時代)より

木の葉髪脚は湖水に透きとほり

蛍火となり鉄門を洩れ出でし

鉄筋の壁にむかってクローバー播く

晩祷や岩も輓馬も冷えはじむ

神父の手肉色走り蠅はらふ

白壁に消えも入らずに毛糸編み

これらの句は写生的な文体で書かれている。虚子俳句の再評価を経て、静塔は写生というポジションに立ち返ったのであった。しかし写生にあたっても、決して自我を自然の中に融解させるのではなく、自立した個の視点を残している。現場に静塔という強い個性を持った人間が立ち会っていることをありありと感じさせている。

静塔は昭和二十六年に「俳人格」、二十七年に「昭和の西鶴ー虚子の俳人格とその作品ー」の二つの評論を執筆した。虚子の俳味というのは、虚子の没時代的、無懊悩の特殊な人格と離れがたく結びついたものであり、写生の方法は虚子の人生態度にまで化した。俳句を俳句たらしめ、俳句に俳句性を確立させるためには、そのような意味で俳人が自らの人格を一つの典型にまで発展させていくことが不可欠であると、静塔は主張した。

◆宇都宮へ

氷河侍す青襲(かさね)着を透かせては  「アラスカ紀」より

甲板に着きぬ氷河の山彦は

森主に白夜のみちの一つ聞く 「カレワラスケッチ」より

以上

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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