平畑静塔の句

平畑静塔の句

August 0681996

 原爆の日の洗面に顔浸けて

                           平畑静塔

広島への原爆投下は、午前八時十五分だった。そのことを知る作者は、しばし洗面の水から顔をあげられない。やり場のない哀しみと、そして自分が今こうして生きてある不思議とを、瞑目しつつ思うのである。この作者の姿と気持ちは、そのままで黙祷する人々のそれと通い合っている。(清水哲男)

October 30101996

 紅葉せり何もなき地の一樹にて

                           平畑静塔

文化の日を中心にした今度の連休には、紅葉の名所にたくさんの人たちが繰り出すことだろう。それはそれで結構なことではあるが、名所の紅葉だけが紅葉ではない。たまにはこの句のような一樹にも、目をむけたいものだ。ところで、私が生まれてはじめて見た(!)本物の俳人は、静塔だったと記憶している。それこそ嵐山の紅葉の頃、京大の教室で行なわれた講演を聞きに行って、見た(!)のである。もう三十年以上も前の話。講演の中身はおろか、タイトルすらも忘れてしまった。(清水哲男)

June 1461997

 形骸の旧三高を茂らしめ

                           平畑静塔

戦後の学制改革で、旧制高校はそれぞれ新制大学へと昇格(?)した。三高は京都大学吉田分校(教養部)となり、ひところは宇治分校で一年を過ごした二回生を受け入れる施設となっていた。私が在籍したとき(1959)にも感じたことだが、なんとも中途半端な存在で、学舎的魅力には乏しかった。ましてや静塔のように三高に学び、そこで俳句をはじめた人にとっては、自然に「形骸」という言葉が口をついて出てきても不思議ではない。作者の青春のときと同じように草木は茂っていても、形骸化してしまった三高の姿は見るにしのびないのだ。勢いよく茂るのであれば、もっともっと茂るにまかせよ。そんな心境だろうか。1954年の作品。『旅鶴』所収。(清水哲男)

September 3091997

 稲を刈る夜はしらたまの女体にて

                           平畑静塔

鎌で刈る昔の稲刈りの光景。日がある間に、黙々と一株ずつ刈り取っていく。力がいるので、田植えは手伝える小学生も、稲刈りは無理である。重労働なのだ。この句は、そんな激しい労働に従事する若い女性をうたったもの。稲を刈る人々はみな同じようににしか見えないけれど、しかし、そのなかに白い玉のような輝くばかりの肉体の持ち主の存在を想像したところが眼目である。「夜はしらたまの女体」とは、いささか耽美的に過ぎるともいえようが、労働を扱った句としては異色中の異色だろう。なべて詩の第一の要諦は「発見」にある。(清水哲男)

October 08101998

 黍噛んで芸は荒れゆく旅廻

                           平畑静塔

失礼ながら、この句は出来過ぎだろう。食料難の時代の旅廻(たびまわり)の芝居の一座。今日も米が手に入らず、黍(きび)だけの貧しい食事だ。もしゃもしゃと黍を噛む生活では、当然、培ってきた芸も荒れていくだろう。作者は、そんな一座に同情しながらも、自暴自棄になっているような座員たちの姿には腹も立てているのではあるまいか。私が出来過ぎというのは、句のなかであまりにも作者が常識と常識的な判断根拠をつなげ過ぎているからだ。それこそ、まるで三文芝居のように、である。しかし、私はこの出来過ぎを嫌いではない。敗戦後の一時期、田舎にも(いや、田舎だったからこそ)旅の一座がめぐってきた。文字通りの小屋掛けの芝居を打ちにきた。それもただ、ひたすらに食料を求めるだけの目的で……と、後で知った。私は、そうした劇団のちっぽけな一観客。刈り取りの終わった田圃の急拵えの小屋の地面に座っていると、ズボンの尻から水分がじわじわと腰まで上がってくるのが常だった。舞台の芸が巧いのか、荒れているのかどうかもわからずに、私はそこで、主要なチャンバラ芝居のストーリーはみんな覚えた。この句を思い出すたびに、あのとき大人でなかった幸せを思うのである。(清水哲男)

October 25101998

 梨園の番犬梨を丸齧り

                           平畑静塔

梨をもぐ季節としてはいささか遅すぎるが、犬が梨を食べるとは知らなかったので、あわてての掲載だ。三鷹図書館から借りてきた『自選自解・平畑静塔句集』(白鳳社・1985)で、発見した。さっそく、作者に語ってもらおう。舞台は、宇都宮南部の梨園である。「……この梨園の出口に一頭の大犬が括られて番犬の用をさせられている。裏口からもぐり込むのを防ぐのだが、めったに吠えない。私たち初見のものも、人相風体がよいのか、吠えようとしないで近づくので、手にした梨を一つ地に置くと、番犬はしめたとばかりにかじりついて、丸ごと梨を食べてしまったのである。お見事と云うよりほかに言葉なしに感に入ったのである」。犬に梨園の番をさせるというのも初耳だが、梨を好む犬がいるとは、ついぞ聞いたことがない。梨園の番をしているうちに、好きになってしまったのだろうか。もっとも、私は犬を飼った経験がないので、単に知識が不足しているだけなのかもしれないのだけれど……。ところで「なしえん」と読まずに「りえん」と読む梨園(歌舞伎界)もある。作者の自解がなかったら、こちらの梨園と解釈するところだった。あぶない、あぶない。『漁歌』(1981)所収。(清水哲男)

March 2731999

 川ゆたか美女を落第せしめむか

                           平畑静塔

静塔の年譜を見ると、大阪女子医大に勤務していたことがあるというから、そのときの句だろう。進級の及落判定をしなければならず、成績のよくない美人の女子学生のことで、はたと思案するということになった。言ってみれば自分のさじ加減ひとつで彼女の落第がきまるのだから、慎重にと思うのだが、客観的には落第点をつけざるをえない。教官室の窓から外を見やると、まんまんと水をたたえた春の川がゆったりと流れている。そんな自然の豊かな営みを眺めているうちに、及落判定などどうでもよいという感覚になってきたのだけれど、しかし、彼女をどうしたらよいのかという現実問題にも気持ちは立ち戻り、悩むところだなアと嘆息するばかりだ。春爛漫の季節だからこその、この悩み。第三者である読者には、一種の滑稽感もある。そしておそらく、この美女は落第させられたであろう。そんな気がする。でも、そのときの川が「ゆたか」であったように、その後の美女の人生も「ゆたか」であったろうと、一方では、そんな気もする。句に、まったくとげとげしさがないためである。『月下の俘虜』(1955)所収。(清水哲男)

November 26112000

 黄落や或る悲しみの受話器置く

                           平畑静塔

黄落(こうらく)は、イチョウやケヤキなどの木の葉が黄色に染まって落ちること。対するに、「紅葉かつ散る」という長い秋の季語がある。こちらは、紅葉したままの木の葉が落ちることだ。「照紅葉且つ散る岩根みづきけり」(西島麦南)。掲句のポイントは「或る悲しみ」の「或る」だろう。「或る」と口ごもっているのだから、「悲しみ」の中身は、たとえば肉親や親しい人の訃報のように、作者の胸に直接ひびいたものではあるまい。受話器の向こうの人の「悲しみ」なのだ。それを、向こうの人は作者に訴えてきたのだと思う。内容は、聞くほどに切なくなるもので、同情はするのだが、さりとてどのようにも力にはなってあげられそうもないもどかしさ。折しも、窓外の黄落はしきりである。聞いているうちに、降り注ぐ黄色い光りのなかに立っているような哀切で抽象的な感覚に襲われ、その気分のままに受話器を置いた。置いてもなお、気持ちはしばらく現実に戻らない。ここで多分、作者は「ほおっ」と大きなため息をついただろう。黄葉であれ紅葉であれ、木の葉のしきりに散る様子は人を酔わせるところがある。「或る悲しみ」の「或る」は、そんな気分に照応していて、よく利いている。『新俳句歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

October 08102001

 子を走らす運動会後の線の上

                           矢島渚男

きちんと調べたわけではないが、現代の外国には全校生徒が一同に会して行う「運動会」はないようだ。日本では明治七年(1874年)に、海軍兵学寮、札幌農学校、東京帝国大学などの高等教育機関で、外国人教師の指導ではじめられたというから、原形はヨーロッパの学校にあったのかもしれない。作者は、まだ学齢以前の我が子と運動会を見に行き、終わった後で「線の上」を走らせている。よく目にする光景だ。この子もこの学校の校庭のこの「線の上」を、やがて走る日が来るんだという親の思いが伝わってくる。どうかしっかり走ってくれるようにと、無邪気に走る我が子を見つめている。近い将来に備えての予行演習をさせている気持ちも、なくはない。運動会を運動会らしく演出する方法はいろいろあるが、この白い「線」もその一つだ。何本かの白線が、校庭の日常性を非日常性へと変換する。地面に引かれた単なる白線が、空間全体をも違った雰囲気に染め換えてしまうのである。この白線がスタート地点とゴール地点、そしてその間の道筋を明示するものだからだろう。こんな白線は、日常的には存在できない。同じような句に、平畑静塔の「運動会跡を島の子かけまはる」があるけれど、「跡」よりも「線」に着目した作者の感覚のほうが鋭いと思った。さて、蛇足。私が子供だったころの運動会は、村祭みたいなものだった。男たちは、酒盛りをしながら見物してたっけ。それが日常だと思ってたのは主役の我ら子供だけで、農繁期を過ぎた男たちには非日常を楽しむ絶好の場だったというわけだ。娯楽に乏しい時代だった。『采微』(1973)所収。(清水哲男)

August 1082003

 台風来屋根石に死石はなし

                           平畑静塔

暦の上で秋になったら、早速「秋の季語」の「台風」がやってきた。そんなに律義に暦に義理立てしてくれなくてもいいのに……。被害を受けられた方には、お見舞い申し上げます。写真でしか見たことはないが、昔は地方によっては板葺きの屋根があり、釘などでは留めずに、上に石を並べて置いただけのものだった。その石が「屋根石」だ。一見しただけでは適当に(いい加減に)並べてある感じなのだが、そうではない。少々の風雨などではびくともしないように、極めて物理的に理に適った並べ方なのだ。台風が来たときの板屋根を見ていて、はじめてそのことに気づき、一つも「死石(しにいし)」がないことに作者は舌を巻いている。ところで「屋根石に死石はなし」とは、なんだか格言か諺にでもなりそうな言い方だ。と、つい思ってしまうのは、もともと「死石」が囲碁の用語だからだろう。相手の石に囲まれて死んでいる石、ないしはもはや機能しない石を言うが、私の子供のころには別に囲碁を知らなくても、こうした言葉がよく使われていた。大失敗を表す「ポカ」も囲碁から来ているそうだけれど、将棋からの言葉のほうが多かったような気がする。囲碁よりも将棋が庶民的なゲームだったからだと思う。「王より飛車を大事がり」「桂馬の高飛び歩の餌食」「攻防も歩でのあやまり」「貧乏受けなし」「形を作る」等々、最近ではあまり使われない「成り金」も将棋用語だ。もう十数年前の放送で「桂馬の高上がり」と言ったら、リスナーから「何のことでしょうか」という問い合せがあった。ついでに、もう一つ。野球中継などで「このへんでナカオシ点が欲しいところですね」などと言うアナウンサーがいる。囲碁では「チュウオシ(中押し)」としか言わないのになア。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)

March 0432004

 春昼や腑分けして来したゞの顔

                           平畑静塔

また「腑分け(ふわけ)」とは古風な言葉だが、しかし実際に「解剖」をする人には、腑分けのほうが実感的にぴたりと来るのかもしれない。掲句は、最近清水貴久彦(岐阜大学医学部教授)さんから送っていただいたエッセイ集『病窓歳時記』(2001・まつお出版)で知った。医者の目で俳句を眺めると、なるほど私などには見えない佳句が数々あることに気づかされる。この句もそうだ。ただ、この句の良さは、間接的にではあるけれど、多少はわかる。大学の友人に医学部の男がいたからである。エッセイ集から少し引いておく。「すべての医学生が実習として行う解剖は、系統解剖という。屍体を切り開いてあらゆる臓器、血管、神経などを確認していく作業が毎日続くと、気が滅入るのも当たり前。実際、この解剖をきっかけにして人生に悩みはじめ、学校に出てこなくなった同級生がいた」。しかし多くの学生は日がたつにつれて何も気にならなくなり、「白衣だけ脱いですました顔で食堂へ行き、肉でも何でも食べられるようになる」。句はまさにこの時期の学生の様子を言ったものであり、作者も医者だったから、自分の若き日の像と重なり合って見えているのだろう。のんびりとした「春昼」の気分には「たゞの顔」が、よく似合う。その「たゞの顔」になるまでのプロセスを体験している人にとっては、見落とすことのできない句になっている。実際、私の友人もひどい状態の時期があった。はじめての解剖実習の後で、たまたまいっしょに食堂に行ったのだが、真っ青な顔をして、何ひとつ食べられなかったことをよく覚えている。それが、いつしか句のように「たゞの顔」になり一本立ちしたのだから、人間という奴はたいしたものだと言うべきだろう。(清水哲男)

December 11122004

 まだ使ふ陸軍毛布肩身さむ

                           平畑静塔

季語は「毛布」で冬。句としてはどうということもないけれど、戦後生活のスケッチとして残しておきたい。「陸軍毛布」は、戦前戦中に陸軍で使ったもの。白っぽい海軍毛布とは違い、いわゆる国防色(カーキ色)だった。父が陸軍だったので、戦後の我が家では毛布のみならず飯盒や水筒にいたるまで、国防色だらけ。敗戦時に、それらを兵隊が持ち帰り、日常生活に使用していたわけだ。毛布と言っても、ふわふわしていない。極端に言えば、薄いカーペットみたいだった。だから着て寝ても、「肩身さむ」となるわけである。ふわふわの毛布が欲しくても、高価で買えない。我慢するしかない。その侘しさよ。句の発表時には、多くの人が思い当たり共感したことだろう。軍隊毛布のごわごわ・ごつごつは、むろん堅牢性耐久性を考えてのことだ。触ったことはないが、いまの自衛隊の毛布でも、相当なごわごわ・ごつごつではないだろうか。そういえば軍隊に限らず、プロ仕様の装備品や用具類は、現代の物でもたいていがごわごわ・ごつごつしている。たとえばプロ野球のユニフォームでも、草野球のそれなどとは大違いだ。数回すべりこんだら破れてしまうような、ヤワな出来ではないのである。現代の私たちはすっかりふわふわした物に慣れきってしまっているが、このことが心理的精神的にもたらしている影響は計り知れず大きいに違いない。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

April 0242006

 濃みどりの茶摘の三時唄も出ず

                           平畑静塔

季語は「茶摘」で春。まだ、摘むには少し早いかな。句は、茶摘みの人たちのおやつの時間だ。茶の葉の濃いみどりに囲まれて、みんなで小休止。お茶を飲んだりお菓子を食べたりと、それだけを見ている分にはまことに長閑で、唄のひとつも出てきそうな雰囲気に思えるのだが、実際には「唄も出ず」なのである。午前中から摘んでいるのだから、「三時」ともなればくたくたに近い。単純労働はくたびれる。夕刻までもう一踏ん張りせねばならないわけで、唄どころではないのだ。この句が出ている歳時記の「茶摘」の解説には、こういう部分がある。「宇治の茶摘女は、赤襷、赤前垂をし、紅白染分け手拭をかぶり、赤紐で茶摘籠を首にかけ、茶摘唄をうたいながら茶を摘んだ」。私はほぼ半世紀前の宇治で暮らしたが、そのころには既にこんな情景はなかった。まだ機械摘みではなかったと思う。こうした茶摘女がいたのは、いったいいつ頃までだったのだろうか。そもそも、本当に歌いながら茶摘をするのが一般的だったのか、どうか。似たような唄に「田植唄」もあるけれど、これまた労働の現場では一度も聞いたことがない。茶摘の経験はないが、歌いながら田植をするなんてことは、あの前屈みの労働のしんどさのなかでは、とうてい無理だと断言できる。したがって、この種の唄が歌われたとするならば、なんらかの祭事などにからめた儀式的労働の場においてではなかったのかと、そんなことを思う。でも、実際に聞いたことがあるという読者がおられたら、ぜひその模様をお知らせいただきたい。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)

July 1072009

 もう何もするなと死出の薔薇持たす

                           平畑静塔

前書に「三鬼の死に」とある。確かにこういう人はいるな。いつも忙しそうに飛び回って、何か常に画策している。その人の生きる本筋とは無縁のようなことについても懸命にやる。時にフィクサーと呼ばれ、関係のないことにも必ず名前があがる。西東三鬼という人もそうだったのだろう。新興俳句弾圧の折には三鬼スパイ説なんてのもあったし、俳人協会を設立して現代俳句協会から主要俳人を引き抜いたのも三鬼らしい。この人の無頼な生き様は自叙伝『神戸』『続神戸』からもうかがえる。女性関係の奔放さも。静塔と三鬼はいわば盟友。戦後、山口誓子を担いでの「天狼」設立の主要メンバーである。精神科医である静塔は盟友三鬼を「いつも忙しく動いてないでたまにはゆったりしろよ」という眼で見ていたに違いない。こいつ、性分だからしょうがないなという友情で見ていたのかもしれない。もう何もするなと心の中で呼びかけながら棺の中に薔薇を置く。菊ではなくて薔薇というのも三鬼にふさわしい。政治家や芸能人の葬儀でよくある「あの世ではどうぞゆっくりお休みください」というのとは違う。「もう何もするな」の命令調に滲む友情と悲しみ。『現代の俳人101』(2004)所収。(今井 聖)

February 1722013

 手にゲーテそして春山ひた登る

                           平畑静塔

手にゲーテ。これは、持つ自由、読む自由、自由に言葉を使える軽やかさがあります。春山をひたすら登る。これは、歩く自由。野に解き放たれた犬のように、春山を登る喜びがあります。俳句としては例外的に接続詞「そして」を入れていますが、句の中に自然になじんでいて、軽やかな調べを作っています。「そして」は順接なので足し算的な意味がありますが、掲句では同時に、失われたものを取り返す意味もあるように読めます。掲句は、『月下の俘虜』(酩酊社・1955)所収ですが、作者は、昭和15年2月、京都府特高に連行され、一年間京都拘置所で拘留。「足袋の底記憶の獄を踏むごとし」。昭和19年、軍医として中国西京に赴き、昭和21年3月帰還。「徐々に徐々に月下の俘虜として進む」「冬海へ光る肩章投げすてぬ」「噴煙の春むらさきに復員す」。新興俳句弾圧事件で投獄されながら、執行猶予付きで他より早く保釈されたのは、軍医としての「手」を必要とされたからでしょうか。しかし、ほんとうに春はやってきて、手にゲーテをかむように読み、足に春山を踏みしめて、失われていた自由を取り戻せた、春の句です。以下蛇足。「手にゲーテ」とはいかにも三高京大ですね。うらやましい教養主義です。それがキザではないのがいいなあ。(小笠原高志)

June 0762015

 高原の空は一壁水すまし

                           平畑静塔

昭和46年上梓の『栃木集』所収です。各地を吟行した句集で、掲句は長野で作られました。「空は一壁」から雲はなく、広く晴れ渡った無風状態を想像します。また、「一壁」は「一碧」に通じて、空は濃い紺碧色のようです。今日の空は完璧だ、という思いもありそうです。作者の視線は、空から一転して池に目を落とします。無風の水面は、紺碧の空を映して鏡のようです。そんな、絶好の舞台に登場する一匹の水すましは、六本の細い脚がわずかに水紋を描き、明鏡止水の水面に波紋をもたらします。しかし、その崩れも束の間で、やがて一壁の空を映す水面は、完全な平面に戻ります。静中動在り。鍼ほどにか細い脚が、一瞬水面の天を動かす面白さ。なお、作者は和歌山出身なので、「水すまし」は甲虫のそれではなく、「あめんぼ」の別名として読みました。(小笠原高志)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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