https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6404963/ 【「いろは歌」の作者は空海・佐伯真魚か?】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6409453/ 【いろは歌】
Facebook船木 威徳さん投稿記事【 いろはにほへと 】
「医王の目には道に触れてみな薬なり。解宝(げほう)の人は鉱石を宝と見る。知ると知らざると何誰(たれ)が罪過(ざいか)ぞ」
(『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』 空海著 より引用)
~すぐれた医者は、道ばたにある雑草を見ても、それが何の薬になるのかわかる。
いま、私が何を悲しく感じているといって、この何年も社会を大きく騒がせた感染症に効くとされたはずの注射薬剤を使用してしまった後に、すでに相当な副反応らしい症状、あるいはその薬剤が原因で亡くなってしまった可能性が高い人びとが出ていることです。
私の個人的な知人だけでも、しかももともとめだった持病もなく元気だった人たちが複数名、寝たきりになりました。何の問題もなく過ごしていたのに、亡くなった方もいます。マスコミ報道を見ても、ご本人はもとより、ご遺族の悲しみややりきれなさはどれくらいだろうかと想わずにはいられません。
私は、個人的に課されている制約のため、すぐには対応ができないでいるのですが、それでも将来的に、特に薬の副作用、副反応に苦しむ人たちのために何かできないか、ひとりでも助けられないかと、情報を集め、勉強を繰り返しているところです。とはいえ、私自身が、現実の厳しさ、簡単に言うなら決定的な治療法がないことに、無力感を感じるばかりであるのも事実です。
想うようにならないこの世の現実を前に、ましてや自分自身に起きている、さまざまなトラブルを前に、気持ちばかりが焦り、解決策・対応策も見当たらないまま無力感ばかりを覚えてしまうことは誰にでもあることでしょう。
私は、ここ数年、いろいろなできごとが重なり、また、過去のことを振り返るにつけ、不思議な縁をたびたび感じたことで、ここ半年以上、弘法大師空海の著書(の解説書)を読むことが非常に増えました。空海が開いた高野山にのぼり、生まれ故郷の四国・善通寺にも行きました。
書物を読み、空海にゆかりのある土地で、長時間過ごす中で、いろいろなことを感じてきましたが、そのなかでも、最近になって強く教えられたと想うことがあります。
それは、「不安を先取りしない」というものです。
現代を生きている私たちは、おそらく、100年前の人たちにはまったく理解できないようなストレスを抱えているはずです。そして、同時に、なんとかしようと落ち着いて考えようにも、いつも時間に追われ、世の変化に振り回されるような感覚が抜けず、ただ精神的にも消耗するだけのなか、ますます「不安」が大きくなってゆくのを感じるのです。そこでやりがちなのは、過去を悔やみ、現在を憂い、未来を恐れることなのではないでしょうか。
「諸行無常(しょぎょうむじょう)」ということばを聞いたことがない日本人はいないでしょう。
仏教用語で、この世のあらゆるものは絶えず変化していて、同じままでとどまることはないという、本来は生命のありようを説いたことばです。「諸行無常」には続きがあります。
諸行無常(しょぎょうむじょう)~あらゆるものは絶えず変化していて、とどまることがない
是生滅法(ぜしょうめっぽう)~生じて滅びるのがこの世のことわりである
生滅滅已(しょうめつめつい)~その生滅さえも滅し終えて
寂滅為楽(じゃくめついらく)~それらのしずまることが安楽である
日本で古くから歌い継がれてきたいろは歌も、これに対応したものだと理解する考えかたもあります。
(いろは歌が空海の作とする説もあります。)
いろはにほへとちりぬるを 「諸行無常」
わかよたれそつねならむ 「是生滅法」
うゐのおくやまけふこえて 「生滅滅已」
あさきゆめみしゑひもせす 「寂滅為楽」
一瞬一瞬が変化しているこの世界を、同じく常に変化し続けている私たちが生きていているのです。そこで、「時間に追われ、社会に振り回され」る意味など、まったくないのです。いろは歌を何度もよむときに私は、この一瞬と別の次の一瞬では、またあたらしい命が存在しているのだ。一瞬を見つめて、その一瞬に精根を傾けて生きていくしかないし、その一瞬の失敗にしがみついていたら、次のあたらしい命に感謝し、その命の価値を感じていきることができない、と教えられているようにも感じるのです。
それなのに人は、私もそうですが、「あのとき、ああしなければ・・・」
と、過去をくよくよと後悔したり、悩んだりしてばかりで、過去に執着しがちです。そして、
「今がこんな状況なのに、この先どうなるのだろう・・・」
と、未来を不安に想ったり、異常に悲観したり、起こっていないことを恐れたりするのもまた同じことだと想うのです。世界も、自分ももともと変わり続けているのですから、時間を先取りする、ましてや命を先取りするなど不可能だからです。一瞬ごとに動いている命は、その一瞬ごとのあたらしさの価値を味わいながら、大切に生きるしかないと私は考えるのです。
最高の人生とは、今ある一瞬をいかに生きるかにかかっています。
得体の知れない不安や恐怖が襲ってくる、あるいは、過去や未来という今どうしようもないものに心を持って行かれて、何もできなくなってしまうというとき、どうかこの「いろは歌」を、声に出して何度も歌ってみてほしいと想います。もしかすると、本当に、「いま」あなたがなすべきことに気づくきっかけとなるかも知れません。私は、このいろは歌で、確かに「言霊(ことだま)」の存在を感じました。
最初の、空海の一節に戻ります。
空海は、史実として分かっているだけでも、今でいう、薬学、建築学や幾何学、語学、音楽、鉱物学などに精通していました。般若心経秘鍵のことばは、「道ばたに生えている草を、何も知らない人はただの雑草としか見ないが、医学の心得のある人(医王)は、どんな効能をもつ薬草かが分かる。鉱石を見分けることができる人は、ただの小石に見えても、価値ある鉱石だと見抜ける。知っているのと知らないのとでは、ものの見方はまったく違ってくるわけだが、それは誰の責任なのか。」という意味でしょう。
ここに空海の込めた想いは、知識のあるなしに伴う違いに関してだけではないはずです。つまり、ものごとを学び続け、いま考えるべきことに日々集中していると、何気なく見かけた、耳にした情報や他人のことばに、本当に自分が必要としているものを見出すことができるようになるということだと、私は感じています。
もちろん、いま、緊急の助けを必要している人がたくさんおられることも十分理解しています。ですが、その人たちが、本当に必要としている援助や知識、智慧を、どこで得ることができるか、適切に判断するためには、「いまという一瞬に集中して生きること」、そして、そのために「過去や未来という私たちがどうにもできないものから生じる不安や恐怖をいったん手放す」ことが、なによりも大切なのだと想えてなりません。
命は、ただ心臓が動いて呼吸していることにその本質があるのではなく、私たちが、与えられた命を精一杯生きてこその「命」なのですから。
「自宝(じほう)を知らず、狂迷(きょうめい)を覚(かく)といえり」
(『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』 空海著 より引用)
(人は、自分のなかに宝を持っていることを知らず、過ちをおかす。)
ふなきたけのり (2023/05/26)
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