宗教

和多志は基本的に宗教は嫌いでした。

生きることも死ぬこともできない ニヒリストには 愛も、宗教も不要でした。

愛を語る武者小路実篤、大嫌いでした。

ジェンエアー、赤毛のアン ・・・見向きもしませんでした。

しかし裏返せば 愛に飢え渇き、真理を渇望し続けた 青二才の 血みどろの茂垣だったとも言えます。

物心ついた小学生時代は生きる屍でした。犬だけが友達だった。

そんな犬も野犬狩りの対象となりました。

床下に逃げ込んだのを引きずり出され 、悲しい声を上げても 非情に 檻に入れられ、連れ去られた。悲鳴を聞いても  和多志は何一つできない 無力な 存在でした。

見殺しにした原初の痛みを 今も手放せていません

小学高学年からささやかなレジスタンスが始まり 思春期はニヒリスト

受け取れば在る 愛も (母と兄を殺した)デビルチャイルドという信じ込みを持ってしまった和多志には 決して受け取ってはならないものでした。

「神は愛」を語るキリスト教なんて とんでもない世界でした。

友人に「教会の掃除を手伝って」と頼まれ、 のこのこついて行ってしまいました。 

だが、そこに居た太宰治フアンの青年たち(定時制高校の生徒たち)と意気投合し 、ことも在ろうか教会に自分の居場所ができてしまいました。

しかし 和多志は アンチクリスト的な本を読んでは 彼らにぶっつけ 議論のためにそこに通いました。

自分は門外漢だと結論付け そこを去ることを決めた時 ある青年が真っ蒼な顔をして 「説得しようとした傲慢」を 謝りました。

同じころ 映画[バラバ]を見て イエスの代わりに赦された男のドラマに涙を流しました。(仏教的には「捨」というのでしょうか)

和多志は「クリスチャンにしようという」働きかけのエネルギーをみな取り払われることになりました。

このベースがあったが故に「意味を問う」生き方から 神から「どのように生きるか」を問われるものになろうと 視点変更が可能となり、 啓示された神を信じることを選び 、大学・大学院で学び、クリスチャンワーカーになりました。

人を変えることはできないというのは鉄則です。

然し相手が変わっていくことを選びとれるように 自分の学びをシェアーすることは可能であり 、喜びであり 、命の証ともいえると思います。

またキリスト教では自己神化を 絶対的な罪だと考えます。

夢実現のお伽話は沢山ありますが 人間の一番醜く最悪な欲は「神のようになりたいと思うこと」とお伽話の世界ですら 語られます。

一番素朴な宗教は 畏敬の念 と言えるのではないでしょうか

それであるにもかかわらず 多くの宗教家が 自ら信じる信仰を絶対視する愚か、弱さを憂わずにはおれません。

宗教に対して

①努力をせずに拝んでコトなきを得ようという姿勢が好きになれない、

②心が弱い人がはまるもの、

③人の心の隙間に漬け込んでマインドコントロールをし、教祖・教団のロボットにされてしまう、

④人が潜在的に持っている恐怖心を利用する悪の集金組織、

⑤友達がいない人たちの拠り所

など 悪感情を聞くこともあります。「宗教は阿片」も 強烈な批判です。

然し和多志は 仏教に対してはそんなイメージを持っていました。

諦めを説き、忍耐を勧め、無智、貪り、怒りを滅するを求め。。。。。。。。。

足るを知る=現状に甘んじろではないか などとも思っていました。

然し今は 足るを知る=セルフエスティームだと知りました。

キリスト教的には自分を愛するように隣人を愛しなさいという教えです。

ありのままの自分、ありのままの世界を愛しなさいということです。

和多志の実感では愛はパワーです。目覚めた行為です。

巷に蔓延する悪感情も 単なる杞憂です。

和多志の宗教体験からは決して当てはまりません。

昨日の投稿記事は 「宗教は阿片?マインドコントロールの道具?⇔セルフエスティーム(足るを知る)」と題してのミクシィ日記です。

その日記に関してあまりにも 沢山のコメントをいただいたのでご紹介したくなりました。

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コメント

信仰は阿片であると思います。だからといって阿片もときには薬にもなるでしょう。

仏教の信は、信じるというよりは観察することで確信するもの、という解釈があります。

おそらくは釈尊のいう信は、後者のほうだと推測します。

釈尊はバラモン教を批判していましたが、日本の大乗仏教は仏教というよりバラモン教に近いという意見もあります。

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かみ砕いていえば、宗教の最も間違われやすい部分は、すべての宗教は学びのための手引となるもので、決して永遠不変の絶対力ではない、という所なんです。

自分達の中にある愛とか仁とか善とか、意識しなくてはそこにあると見失うものを磨き、目覚めるための手段の一つとして宗教があると社会的にも本来は位置づけされてきました。

いつ頃から歪んでしまったのか、悲しい事に今は学びの場としての意味をなす宗教は影に追いやられ、その本来の機能を失いつつあります。

学ぶということは、とても難しい。100人いれば100通りの学びがあって、同じものを同じ目線で感じるには必ず隣人への感情移入や配慮が必要で、そこには相手への理解が必要不可欠です。この理解を逆手にとって教祖に都合のよい思考を組み上げるのが悪質なマインドコントロールです。マインドコントロール自体は日常どこでもおこなわれ、母親の都合、学校の都合、会社の都合、社会の都合、国家の都合、知らず知らず集団はコントロールされて動かされている事が多いです。

しかしそのコントロールがただしいものかどうかを、各個人は常に自分で選ばなければなりません。そのための学びが欠けている現代ではマスコミの情報にさえ報道者の主観が流され、安易な一言が社会を右へ左へ大きく揺らしています。何か事件が起こっても個人ではグローバルなものの考え方ができず、目先の感情に流されやすい集団はとても危険な道に陥りやすいものです。

長くなるのでこのあたりでやめますが、学ぶ事は人間に与えられた命の成長です。それはどんな形でも実現できて、そして学んだものは、常に変化し続けていきます。多くを学び、感じ、知って更に学び取る事こそ命そのものだと思っています。

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宗教はアヘン、ですね。

これは批判ではなく「事実」として。宗教をする方はどこか冷静に、その点を認識しておられたほうが良いとは思いますょ。

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私は宗教狂いの…失礼。宗教好きの母に育ちましたから体験的にわかります。

マインドコントロールというのは、本人がそれと気付かないものをマインドコントロールといいますから。とっっっっても自然な形で人間に入り込みます。

例えば、教えている側もマインドコントロールしているなんて意識がないのでやっかいです。

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大したことではないです。どんな宗教であれ、程度の差はありますが必ず何らかのマインドコントロールはあります。

わかり易い例でいうと、大概は他のものからも学んでみよう、という姿勢が無くなります。その教えが一番だから、それ以外からは学ぶ必要がない、と自然~に思わされるんでしょうね。

でも私はそれでも、やってる本人が幸せであれば良いと思っています。母も今5つ目の宗教をしてますが、割とまともな(周囲に迷惑をかけない)宗教なのでそぉっと見守っています(笑)

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足るを知る というのは

現状に甘んじる事でも我慢する事でもなく

今現状で全て100%満たされてる完璧だという、深い気づきであり、意識の体験だと思います。

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らんさんはもし今、突然

ひかりの輪が無くなったら…

何の動揺も無く、強く楽しくハッピーで生きて行けますか?

無くなっても何の動揺も無いならば、マインドコントロールは一切無いと云っていいと思いますよ。

又、無くなっても幸せでいられるならば、真の教えであると思います。

偉そうなコメントすみません。

ただ、私はそういうの(多少なりコントロール)があるんだー、とわかった上で宗教をすることをお勧めします。

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心のこもったコメントありがとうございます。

ひかりの輪はなくなっても構いません。

ひかりの輪を守ることを第一とするのであれば本末転倒もいいところです。

しかも和多志はクリスチャンでした。

神観、人間観、価値観、存在の根底が覆されたと書いたとおりです。

魂の激しい嘆きを終えるために 出会ってしまったのが上祐さんであり、 ひかりの輪は彼が代表を務める団体です。

ひかりの輪の一員となるを決めた故にひかりの輪に対する責任を負うことはやぶさかではありませんが ひかりの輪が絶対存在など 思っているものは誰もいません。もちろん上祐さんもです。

宗教がある意味でマインドコントロール力を持つという意味は 戒律があったり

規範があったりする故に解ります。

しかし関係存在である和多志たちが生きるということは 何らかの意味で社会に所属せざるを得ないことであり より社会に適応するためには 暗黙のルールさえキャッチして それに対して どう対応してゆくか選択しなければなりません。

しかし一瞬一瞬目覚めて選択して生き続けることは不可能です。

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宗教に関しては その社会を信頼するか否かの決断があって 細かい選択権が守られる必要があるのだと思います。

子どもの躾も 愛犬の躾も 社会のルールを教え 守れるように訓練することだと思います。

ルールを守ることがあって、 守られた空間の中で 子どもも 犬も自由を寿ぐことができるのだと思います。

カルト集団(赤軍派もカルト集団でした)のマインドコントロールは 恐るべきものがありますが和多志 の本来の宗教であるキリスト教から受けたマインドコントロールはどんなものがあるのでしょう?

神のエクレシア、教会は神の家族だということでしょうか?

願わくばそうあって欲しかった。欺瞞があった故に クリスチャンワーカーを止めることにしました。

聖書は神の言葉、全ての規範ということでしょうか?

しかし聖書の学びは大変で、 ましてや神話的表現で書かれた記述を今ここに生きる人々へのメッセージとして翻訳し受取っていけば 個人的にいろいろ身につけてしまった色眼鏡が むしろ浄化された気がします。

OLIVEさんのコメントからは単なる批判ではなく 愛が伝わってきます。

宗教における自分のスタンスを振り返るチャンスをいただいて感謝です。

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まず、阿片(モルヒネ)にしろ覚せい剤にしろ正しい使い方を知っていれば非常に有効な薬品です。そして、宗教も学校教育も親が子供にする躾も基本的にはマインドコントロールだと思います。

マインドコントロールという言葉自体に悪いイメージがあるのでどうしても悪く聞こえてしまいますが、それ自体マインドコントロールの結果なのかなとも思います。

ええと、、つまり、、どんな宗教にせよいいところはあると思います(最初から金儲けが目的。とかじゃなければ)

ポイントは如何にそれらの教えを理解し自分の物にするかだと思います。答えを得るためにそれらの教えを学ぶのはいいことだと思います。

ただ、あくまでも自分の為にそうするのであって教団やら教祖がこう言うからこうなんだ的な状態は良くないでしょう。

光の輪という団体から、らんさんが沢山の事を学び進化していく様に祈っております

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よませてもらいました。

一つだけ

>然しひかりの輪での学びで 足るを知る=セルフエスティームだと知りました。

「セルフエスティーム」は「足るを知る」ではありません。

これは「自分が大切だ」「自己の価値を発見すること」です。

そして「セルフエスティーム」には、

レベルの低いエゴのかたまりのレベルから、マザー・テレサのような「私の価値は、人に愛の奉仕をする事」という高次なレベルまであります。

でも最終的には「セルフエスティーム」という事からも脱同一化できないとだめですね。

「そういう事をかんがえている自分」からも自由になることですね。

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セルフエスティームの語彙の意味はおっしゃるとおりです。

それがなぜ足るを知ると結びついたかは ライフスキルの紹介と絡めてお伝えしたいと書いています。しかし誤解を訂正するために

セルフエスティームのここでの意味は ありのままの自分でOK

ありのままの自分にOKであるとき 世界に対してもOK

その時健全な自尊心が育つという意味です。

セラピィー、カウンセリングの現場にいれば 自分を愛せない人にたくさん出会います。

「和多志は和多志を愛します」と言えない人も沢山います。

真実に自分への愛を取り戻した癒しの涙にどれほど触れてきたことか!!

友人が 「ある小学校が 高学年になるとクラス崩壊寸前になる(それも継続的に)こと」を憂い、その現象とセルフエスティームとの間に相関関係はないかと考え 市内の小学校全校にアンケート調査をし 考察したものを修士論文として書き上げました。 詳しい資料は手元にないので提示できませんが もちろん 高い相関関係にありました。

その小学校の特徴は 小学校低学年から 塾通いをする子が極度に多いということでした。 自分の時間を生きることのできない子どもたちが セルフエスティームを育て難いことはあまりにも明白です。

セルフエスティームが高ければ 生きていくうえで直面する問題に対して 建設的で、効果的に解決していこうとする気持ちを喚起するともいわれます。

セルフエスティームの高さはEQの高さにも通じると言えます。

価値のレベルは関係なく 自分を掛け替えのない大事な存在としてとりもどすことが セルフエスティームを高めることであり、足るを知ることだという意味です。

キリスト教的にに言うなら 神の宮としての自分、神の息を吹き込まれて生きたものとなった自分、神から無条件に愛されている自分を愛するように 隣人を愛しましょうという意味です。

ここでの説明不足をお詫びするとともにお互いに育ち合う情報交換を祈ってやみません。

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足るを知る=セルフエスティームの足を知るとはつながってはいますが、いま書かれたように説明すればいいので

= は右と左は、同一のモノであるという意味ですから書かせていただきました。

ネットでは言葉で、推測しながら話を交わします。

自分の感情をあらわす事がこんなんな人は多く学級崩壊の事も理解できます。

人間のマイナスの面に対しての癒しについてふれられており、そういう事に直面している人を集めようとしているようですが、そういう人ばかり集めるとたいへんですよ。

人間のプラスの面を実現している人が、集まらないと、if then (帰依)の世界になり、

たいへん陰湿な場所になりませんか、昔たどった道になるのでは、外の運動は異論を唱えませんが、光明を得る人が増え、その後に社会への貢献がないと認められないのでは。

個人名が前にでて、人を集めるのは、拉致ととられても仕方がないことです。

どのようなグループにおいてでもあることですが、会社に拉致されている人もいるし

趣味の世界に拉致されている人もいるし精神世界に拉致されている人もいる

そこから脱同一化して、社会にでて貢献する人が続出しないと、カルトからは脱することができません。

本当の自由をもとめるという事はどういうことなんでしょう?

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こんばんは、らんさん

今朝、この日記を目にして以来、ずっと頭から離れずに何か言ってあげられることはあるのか・・・それとも何も言わない方が良いのか・・・考えていました。

結局、お互い人間としてたとえ死にゆく人にでさえもその人の生き方を尊重するしかないのですよね。もちろん自殺幇助はしませんけれど

ただ参考までに、私の宗教に対する考え方はお知らせできるのかなと思い思い切って、突然に介入?させていただきました。

私個人の経験から・・・

私は宗教は個人的なもので人間、ひとりひとりの心の内にあるものかと思っています。

同じように、真理や愛や神も、人それぞれ自身の中に、命の営みの中に、あるのだと確信しています。それはあたかも、この命が今この瞬間ここに無ければ自分にとって、この世界は無いのと同じことなのではないでしょうか。

逆に言えば、今ここに在るから全てがあると言う訳です。

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同じ生き物として、人間も含め、すべての命に対し深い尊敬の念を抱かずにはいられません。

魂が人として転生を繰り替えして行くのはひとえに カルマ(別に悪いことではないですが)故です。

そのような、魂は誰であっても人間としている以上完璧では有り得ないのです。

そうい言う意味で、イエスも仏陀も聖フランシスコも決して崇拝したり、献身したりする対象ではないですね。

私にとって彼らは他の生き物同様、尊敬に値する良き友です。

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らんさん

鍵はらんさんが持っているのです。もっともっとご自分を愛してあげてください そしていつかその愛が溢れたら周りにも分けてあげて下さいね

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宗教は阿片のようなもの・・・私もそう思います。

人間は弱い生き物です。

だからこそ、自分の外側に絶対の存在を置いて崇めておきたいのだと思います。

少し前までは私も祖母の影響でそんなところがありました。神様や仏様がいてくれると思うと楽だから でも、今は全ては自分の中にあると思っています。

自分が見ている世界は自分が決めているのだということが分かったからです。

だから私は自分の心の声に耳をすませます。

その声は絶対に私を裏切ったりしないからです

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自分が見ている世界は自分が決めているのだということが分かったからです。

これが仏教の根本原理ですよね。

最近はどこでも宗派を超えた、組織を超えた活動が顕著ですから、

そういう活動が目に見えてきたら、ひかりの輪もカルト脱却っていえるのかも知れませんね。

私的には日本の仏教の形態と似てきたら(寺単位での運営、僧侶個人の活動が増える)カルト脱却だと思います。

方向としてはその方向に向かっていると思われます。

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宗教は阿片?マインドコントロールの道具

この二つの視点のうち、阿片となる宗教に関しては、個人的によく知らないので明確な表現が難しいと思いますが、想像するところによれば、阿片となる宗教の場合は、おそらく、中毒性があるわけですから、家族・社会・現実の出来事において、不都合や他人に迷惑掛けていることになっていることを憂慮する気持ちが生じた場合に、当該宗教信仰の立場からその憂慮する事柄に対してまともに向き合い対応することなく、信仰の詭弁によって、家族・社会・現実の出来事の改善をはかるべき行動選択をせず、ひたすら当該宗教信仰に固執し、現実を顧みないようになる場合を総称して、宗教は阿片と呼ばれているのであろうと思います。

実は、硬直した観念こそ宗教性とは真逆なものでありますから、宗教を阿片だと思わせているのは、仏教的にいえば、我執・我所の執に異ならないことでしょう。

従って宗教を阿片にしているのは、まさに我執の強健な表明の信仰者を観察した結果ではないだろうかと思われます。このような信仰者に真の信仰は成立していないが、ややもすればほとんどの信仰心篤い人々がこのタイプに含まれがちのようなのは否めない現実のようですね。

宗教はマインドコントロールの道具

という視点は、マインドコントロールの成果として、無差別大量殺人を行うような人を輩出させた前例を周知させてしまったので、マインドコントロールがとても悪いことだという一般的認知を形成してしまったのは、我々旧団体所属者の不徳の致すところだと深く反省しています。しかしながら、そもそもが仏教にしろスーフィにしろキリスト教・ユダヤ教にしろ、心の制御を主題としない宗教はありえませんので、マインドコントロールを自他の力と意思によって、行うことこそが宗教の眼目であり、これによって、自他共が本当に、しあわせ、に至ろうとするものが宗教の目的であることは、偽らざる事実でありますから、宗教はマインドコントロールの道具である側面があることは、間違いはないことだと考えます。

その具体的内容は、各宗教によって微妙に差異があるでしょうが、目的はすべての存在(物と生物)の真の幸せと存在価値の肯定に至るべき手段(道具)であることは否定できないことで、その手段こそが慈悲の発露であることは、間違いない重要な要素であることは何をおいても強調すべきでしょう。

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南無阿弥陀仏と唱えれば誰でもお浄土にいける シンプル!

私流に言うと「ありがとう」といえば誰でも幸せになれる!シンプルがいい!

むつかしくほりさげる必要はない。

グループワークで 言われて嬉しかった言葉を出してもらうことがありますが

いつもと言っていいほど ダントツが 「ありがとう」です。

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信じる信じないという狭い限定された(既知のものである)自我の行為。

既知のものである信念・信奉・信仰とか何か?それを導く既知のものである頭脳とは何か?

狭い限定された(既知のものである)自我とは何か?狭い限定された(既知のものである)思考とは何か?を・・・

徹底的(根こそぎより・・・もっと底の底)に吟味・探究・究明すればよろしいかと思います。

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宗教に関しては全くの素人ですので、何の役にも立たないと思いますが、思うところを述べさせて頂きます。

キリストについては「私は道である」という言葉が印象的です。

これは、私を信奉せよというよりは、私を手本として、私になることを目指しなさいと言ってるように思えます。

目が見えるようになった女性に対して「私が治したのではなく、貴女の信仰心が治したのだ」

と言ったり、水の上を渡れなかった弟子に対して「なぜ疑うのか、貴方が信じればあの山でさえ動くというのに」と言ったりしてます。

これは、人間は本来誰もが私(キリスト)の様になれるのだ。そうなる事が神へ至る道なのだ。

と言ってるように思えます。

キリストにすがるのではなく、キリストを目指すのが、正しいのではないかと思っています。

仏陀については、自灯明の教えが印象的です。「自らを拠り所とせよ」との教えは、宗教に依存するなと言っているように思えます。

仏陀は瞑想によるインスピレーションで悟りを得ました。

答えを求めて右往左往する必要はなく、全ての答えは自分の中にこそあるのだ。と言いたかったのではないでしょうか。

宗教とはあくまでも『気付きを得る場所』であると思っています。

この宗教でなければ悟りは得られない、神の元には辿り着けないということはないはずです。

神と人の間に、宗教が必ず必要なのではなく、あった方が便利なだけだと思います。

勉強不足の拙い宗教感で申し訳ありませんが、コメントさせて頂きました。

どうかお目こぼしを。

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同感です。キリスト教は啓示宗教ですから。

仏教は学び始めたばかりで解りませんが上祐さんは 宗教に使われることなく、形骸化さすことない信仰を語り他力本願のみでなく、自力のみでなく バランスだと語ります。

祈りがかなわないときは 叶わないことが仏のみ旨ではないか?

自分の願望が エゴイスティックでなく利他的であるのか?吟味するように勧めます。

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オームはカルト集団に化した ということですね。同感です。

宗教家は自己絶対化の罠に陥らないことがとても大事です。一度信じたから 信じ続ける これも盲信に陥る罠だと思います。

依存しないで拠り所とする。和して同さずという感じでしょうか?

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イイ友達みたいなものですね!

心の拠り所であり、正しい方向に導いてくれるし!

私は友達には恵まれてるので宗教は必要ないかな…

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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