岡潔bot@oka_kiyoshi_bot
自我を自分だと思っていると、自分は肉体が死ねば死ぬものとしか思えない。また死に対する恐ろしさを必ず感じる。これに対して真我が自分だとわかると、悠久感が伴い、実際の季節に関わらず春の季節感が必ず伴う。
Facebook相田 公弘さん投稿記事「手塚治虫の言葉」
「ぼくは医者だったもんだから、医者の漫画をいくつか描いていて、その中でも『ブラック・ジャック』が好きですね。
医者をめざす若い人たちは、医学のためとか、人間のためとかいうふうに考える人が多いと思う。でも、それだけですむのだろうか。
いま、日本人の平均年齢があがって高齢化社会になっています。
つまり、お年寄りがふえて、二十一世紀になると四分の一は、七十歳以上の老人になってしまう。
寝たきりの人とか、ボケ老人がふえてきて、そういうふうになってまでも、医者は患者を助けなければならないのか、という疑問をもつ時代が来ると思う。
二十一世紀になると、医者がなんでもかんでも全部治してしまう。癌が治るようになる。
人工心臓とか、臓器移植とかで、みんな治してしまう。
治らないのは脳出血ぐらいだということになってしまう。
ブラック・ジャックがいつも悩んでいるのは、「医者というのは人を助けるのが目的なのだが、助けてしまったら人がふえて、人類は不幸になるのではないか。といって、助けないで、ほったらかしておくと、医者としては目的と反する」ということです。
そこらへんの間で、どうしたらいいかわからなくなっている。
で、結局ブラック・ジャックが最終的にたどりつくのは『火の鳥』の世界のテーマなんです。
つまり、どんな生物でも、命というのは限られていて、それ以上どんなに延ばそうとしても、もう生物的には不可能。
たとえば、人間の体全体を治せたとして も、脳味噌だけは取り替えがきかない。
どんなに延ばしたとしても百五十歳以上は、もう完全な肉体としてもたないんですね。
で、その百五十歳なら、百五十歳 までの間、いかに満足した一生を送れるかということは、永遠の命と等価なんです。
だから、限られた生命の中で、精一杯生きることができるようにしむけてやることが、医者の目的ではないか、とブラック・ジャックは悟るわけ。
『火の鳥』というのは永遠の命を持っているので、みんなも永遠の命をもらおうとして火の鳥の血をとろうとするんだけど、火の鳥は逆に諭して、あなたはこ れだけの命があれば十分じゃないですか、アリとかカゲロウなんてのは、一夏の命しかないのに、それでも精一杯生きているじゃないですか、ということを言ってやるんです。
それが僕の人生観でもあるんです。ぼくの生き方なんです。
だから、そういうテーマが、ぼくの作品には多いんですね」
引用元:(手塚治虫:マガジンハウス)
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手塚さんは、未来を見る目を持っていますよね。現在は、この言葉通りになっています。
ただ長生きするだけで良いのだろうか?考えさせられる言葉です。
☆手塚治虫の母
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=3876058149181052&id=100003307167154
Facebookごとう 孝二さん投稿記事 「人生は修行でなく遊行」
鎌倉時代の仏教の僧侶で、時宗を興した一遍上人は、別名を遊行上人(ゆぎょうしょうにん)とも呼ばれ、人生は「修業」ではなく、「遊行」だと説きました。
一遍上人はたいへんユニークな「踊り念仏」という方法で、自分のメッセージを全国に広めました。現代風に言えば、「クラブ念仏」とか「ディスコ念仏」とでも呼べるでしょうか。
要するに、楽しく踊りながら、念仏を唱えればいいんだというのです
人生は、つらく苦しい「修業」の旅だという大前提に立って生きていくと、はたして、
まったくその通り、望み通りのつらく苦しい体験をすることになります。
私たちは、苦しむために生まれてきたのでしょうか?いいえ、断じて違います
私たちは、泣いて苦しみ、のたうちまわるために、この世界にやってきたのではありません。
この生命を輝かせるために、この世に生を受けたのです✨
そして、私たちは、この星に遊びに来ています。
宇宙という魂のふるさとから太陽系の惑星(地球)に2泊3日の観光旅行に来ているのだと思えばいい。
人生は、「修業」ではなく、「遊行」だからこそ、どんな出逢いも、どんな出来事も、「ほう、なるほど、そうきたか。けっこう意外だね。」こんなふうに、にんまり楽しみながら、まるで人ごとのように、映画の中の自分を観ているかのように、あらゆることを味わい尽くして生きていきましょう^ ^
「修業」と思うから、眉間にシワを寄せてしまうのです。
「遊行」だと思えば、どんな状況だって、楽しむことができます。
「転職したら変な上司がいた」というのも遊行。
「引っ越ししたら、おかしなお隣さんがいた」というのも遊行。
そんなおかしな人に出逢うのも、人生を楽しむオプショナル・ツアーなのです。
佐藤 伝ちゃんブログより。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
この宇宙は全てが循環しています。
意識は眼に見えない世界から眼に見える世界へ現れまた眼に見えない世界へ帰っていきます。
円環の中で生と死が繰り返されています。円は始まりも終わりもなくひとつに繋がっています。古い巫女舞は旋回運動を繰り返します。
巫女の神懸りに導くまでの旋回動作が「舞」です。
「くるう」という言葉は、くるくる廻るときの「くる」と同じで、中世では「まう」「くるう」が同じ意味をなしていました。
日常的な意識を超えた力に自我を明け渡したときに、「舞」が起こります。
つまり狂うのです。トランス状態の中で神懸かって神の託宣を述べるのが巫女でした。
神楽は巫女が神託を下していた時代の神事が芸能となったものなのです。
イスラム神秘主義( スーフィズム)のメヴレヴィー教団は旋舞教団と呼ばれていて、くるくると回転をして踊るセマー(旋舞)が有名です。
トルコを訪れた時にカミさんにせがまれてセマー(旋回舞踊)を見てきました。
1925年12月にトルコで革命が起きてメヴレヴィー教団は解体、セマーは禁止となりました。
現在は当時の様式を復活させて観光目的の芸能として演じられています。
最初にセマーゼン(神との合一を求める舞い手)たちが登場して円を描くように会場を歩きます。
シェイフ(マスター・長老)が赤い敷物に立ち、舞い手と1人ずつお辞儀します。
会場は宇宙であり、シェイフは太陽、舞い手のセマーゼンたちは惑星です。
この宇宙で回転していないものなどありません。
宇宙という舞台で万物万象の天地開闢が演じられるのです。
イスラム神秘主義の目的は「神と自己との神秘的合一」です。
その神との一体化を妨げる根源が、自我の存在であるとスーフィーは断言します。
欲望、悲しみ、苦痛など人間の苦悩の根本原因が自我なので、イスラム神秘主義の探求の道の頂点は自我が消滅したファナーと呼ばれます。
その最高の手段が詩と音楽と舞でした。
最初にルーミーの詩を朗唱し、ネイ、クデュム、カーヌーン、ルバーブ、ケメンチェ、タンブール、ウードなどの楽器で演奏される音楽にあわせて旋回をします。
左手のてのひらを下に向けて、右手はてのひらを上に向けて左脚を基点に反時計回りにぐるぐる回ります。
左手は地のエネルギーを受けて、右手からは天のエネルギーを自分のセンターであるハートにもってきます。
セマー(旋回舞踊)をしていると内側の中心は静止していて外側の見ている世界は物凄いスピードで動きます。
外側のすべてがとどまる事なく 次から次へと変化して行きます。
しかし内側の中心だけは変わらないで静止しています。
セマー(旋回舞踊)は外側と内側の境界が消えて
その全体を見ている本当の私に気がつかせてくれるのです。
セマー(旋回舞踊)の中で自分と世界との間の境界線が消えると
神以外のものは何もなく、全てが神になります。
全てが神となると神という言葉は消えます。
「蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分の自分という皮を脱ぎ捨てた。そして私は、私自身の中を覗き込んで見た。
どうだろう、私は彼だったのだ」イスラムの神秘家バスターミー
私は彼だったの彼は神です。
が、しかし「私は神だ」と言ってしまうと神を冒涜していると世俗的な宗教者から異端の扱いを受けて殺されてしまう危険性がありました。
そのためにスーフィーたちは表面的にはわからないように神秘的な意味を込めた比喩と象徴を用いました。
イスラム神秘主義探求の道の頂点は自我が消滅したファナーと呼ばれます。
ファナーは仏教の言葉で言えば涅槃(ニルヴァーナ)です。
しかし最も大切なのはバカーとされます。
バカーは存続と訳されていますが自我が消滅したファナーから帰還して人間的自我を持った普通の人として世間を生きる事なのです。
それは世界から離れるのでもなく世界に同化してしまうのでもありません。
世界の中にいながら世界に属さないで世界にいる事でした。
「私は二元論を捨て二つの世界が一つであるのを見た。
一を求め、一を知り、一を呼ぶ。私は恋しい人の杯に酔い、二つの世界は視界から消えた。
私は酒宴や馬鹿騒ぎ以外にすることはない」イスラムの神秘家ルーミー
「この世の歓楽は麝香(じゃこう)の匂いの様なもの。
匂いは儚く消える。
祝福された人は匂いに満足せず、麝香(じゃこう)を求め麝香そのものになり世に香りを伝える。」イスラムの神秘家ルーミー
Facebookj田島 伸二さん投稿記事
鳥は飛び方を変えることは出来ない。動物は這い方、走り方を変えることは出来ない。しかし、人間は生き方を変えることが出来る。
自分の命がなくなるということは、自分の命を他の人の命の中に残していくことである。
なんと言っても、人が人に与える最高のものは、心である。
他者のための「思い」と「行動」に費やした時間、人とともにどれだけの時間を分けあったかによって、真の人間としての証がなされる。
私たちの身体は土でできており、身体体早晩、土に還る。私たちは、この土の器の中に、はかりしれない宝を入れることが出来る。
自分の命がなくなるということは、自分の命を他の人の命の中に残していくことである。
死ぬ際は、「苦しい」ではなくて「感謝して」死にたい!
老人のケアは苦労も多い。しかし、いつの日にかあなたも、あなたが老人にしたようなやり方で、ケアされる日が必ず来るのである。
ー日野原重明の言葉
Birds cannot change the way they fly. Animals cannot change the way they crawl or run. However, humans can change the way they live.
The concept of losing one's own life means leaving one's life within the lives of others.
Above all, the greatest thing a person can give to another is their heart.
The true testament of being a human is determined by the time spent on "thoughts" and "actions" for the sake of others, and how much time was shared with others.
Our bodies are made of earth and will eventually return to the earth. Within this vessel of earth, we can place invaluable treasures.
The concept of losing one's own life means leaving one's life within the lives of others.
When the time comes to die, I want to die with "gratitude" rather than "suffering"!
Caring for the elderly can be challenging. However, someday you too will be cared for in the same way you cared for the elderly.
Words by Shigeaki Hinohara.
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