Facebook森井 啓二さん投稿記事 今週の白馬不帰ノ嶮(かえらずのけん)
雪山では、強烈なエネルギーでその美しさに圧倒される体験ができます。
「社会は、あなたに不自然なことばかりを要求してくるだろう。不自然に慣れ親しんだ人たちは、他人にも不自然さを強要してくる。それを文化、教育、風習、新しい生活様式・・・
なんでも名前をつけて正当化しようとするが、その不自然さにすら気が付いていない。
人は不自然になればなるほど、自分の中心軸から離れていくことも理解していない。
これからは、自然から離れれば離れるほど、自然界は地・水・火・風を使い、
あなたの真我が目覚めるように、優しく揺り動かしてくるだろう。
他人があなたに不自然を強要しようと 自然があなたを目覚めさせるために揺り動かそうと
どんな時にでも 自然の法に沿って生きていれば、道を誤ることは決してない。
たとえ暗闇の中に入っても、濃霧の中にいても、光の道の上にいる。」
光の魂たち 山岳編 ボツ原稿より
☆〜(ゝ。∂)
Facebook天外 伺朗さん投稿記事
***教訓⑯***
人間は、「戦う力」と「融和力」という二つの別個の推進力を持っています(天外『融和力』、内外出版、2022年)。「人類の集合的意識(無意識)」が、「戦う力」が優勢なら、「武力行使」が通用してしまうでしょうし、「融和力」が優勢なら、通用しなくなるでしょう。
じつは、「戦争反対」と叫ぶのも、「武力行使」を実行したサイドを激しく批判するのも、「戦う力」を行使しており、社会の進化には貢献せず、集合的意識(無意識)の「戦う力」を強化してしまうだけです。
その観点からいうと、「戦争反対」という戦いでは戦争をなくすことはできないし、「武力行使」をしたロシアをいくら批判しても、「武力行使」が通用しない社会にはならないということです。
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『暴力によって得た勝利は、敗北に等しい』ガンジーの言葉
(1)ㅤ
心の中に暴力性があるのなら、暴力的になった方がよい。
無気力を隠そうと非暴力を口実にするよりは。
(2)ㅤ
すべての善の行動は、最後は必ず実を結ぶ。
(3)
重要なのは行為そのものであって、結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、
自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。
だが、正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。
(4)
満足は努力の中にあって、結果にあるものではない。
(5)
敵と相対するときには、その敵を愛で征服しなさい
(6)
「目には目を」では、世界中を盲目にするだけだ。
(7)
非暴力は臆病をごまかす隠れみのではなく、勇者の最高の美徳である。
非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気がいる。ㅤ
(8)ㅤ
私は、苦い経験を通じて、最高の教訓をひとつ学んだ。怒りをコントロールするということだ。蓄えられた熱がエネルギーに変わるように、抑制された怒りを、世界を動かす力に変えることができる。
(9)
私は自分が死ぬ覚悟ならある。しかし、私に人を殺す覚悟をさせる大義はどこにもない。ㅤ
(10)
どんなときでも理解し合える関係を求めることは友情とは言えない。
本当の友情とはお互いがどんなに違っていても、そのあるがままの違いをしっかりと受け止めることなのだ。ㅤ
(11)
この7つが私たちを破壊する。
労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、献身なき宗教、理念なき政治、人間性なき科学、
道徳なきビジネス。
(12)
子供は真実を映し出す鏡である。彼らには驕りも、敵意も、偽善もない。
もし思いやりに欠け、嘘つきで乱暴な子供がいたなら、罪はその子にあるのではなく、両親や教師や社会にあるのだ。
(13)
私たちにはもともと困難を乗り越える力が授けられている。心の中からこの恐れを追い出せば、その力が蘇る。恐れるな、道は開ける。ㅤ
(14)
暴力によって得た勝利というものは敗北に等しい。それはつかの間のものだからである。
(15)
目的を見つけよ。大義は後からついてくる。
Facebook小名木善行さん投稿記事
学ぶ会で紹介いただいた今日の特選ねずブロです。
桜の季節がもうすぐそこまで来ました。そこで桜にちなんだ歌をご紹介したいと思います。
続きはブログで
https://nezu3344.com/blog-entry-4069.html 【花さそふ比良の山風吹きにけり
漕ぎ行く舟の跡みゆるまで】より
(はなさそふ ひらのやまかぜ ふきにけり こきゆくふねの あとみゆるまで)
この歌は新古今集に掲載された歌で、詠んだのは右京権大夫源師光の娘の「宮内卿(くないきょう)」です。
1200年ころの女性です。
母方の祖父が高名な絵師であったことから、たいへんにビジュアル性の高い歌を詠んでいます。
上の句の「比良の山」というのは、琵琶湖の南岸の、大津から高島にかけての山並みのことをいいます。
「花誘ふ」というのは、実は「花誘う風」の略で、比良の山から吹いてくる風が、桜の花びらを散らしているさまが描かれています。
下の句の「漕ぎゆく船の跡」というのが、絶妙な表現で、これは川面一杯に散った桜の花びらをかきわけながら、和舟が一艘、進んでいくと、その航跡のところだけが、桜の花びらが退いて、そこだけ水の面が現れる、そんな情景です。
比良の山からの吹き下ろしの風で、桜の花びらが風に舞い、小さな小川の川面いっぱいに、その花びらが散っている。
そこに、和舟が一艘、川面の桜の花びらをかきわけるように、現れるわけです。
すると和舟が通ったあとにだけ、水面があらわれる。いやはや実に美しい光景です。
この歌を本歌取りして詠まれた歌があります。きっとみなさまご存知だと思います。
浅野内匠頭の辞世の句です。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
こちらは「花誘ふ風」ではなく、「風誘ふ花」ですが、その意味は変わりません。
内匠頭の歌は、風に吹かれて散っていく桜よりもなお、名残惜しい私の思いはどうすればよいのだろうか、という歌意になります。
浅野内匠頭は、播州赤穂藩の藩意として、何よりもご皇室の尊厳を第一として勅使下向の接待役をまっとうしようとしました。
ところが一緒に接待役を仰せつかった吉良上野介は、もともと足利家の家臣であり、勅使よりも将軍第一とする家風があります。
そんな吉良上野介との衝突により、我慢の限度を超えて、松の廊下で刃傷沙汰に及び、浅野内匠頭はその日のうちに、切腹を申しつかりました。これが西暦でいうと1701年の出来事です。
つまり、名残惜しい(口惜しい)と詠んでいるわけで、この歌を知れば、家臣たちはなんとしても主君の遺恨を晴らしたいと行動に走らざるをえません。
そういえば、特攻隊を送り出した「なでしこ隊」のみなさんは、桜の一枝を手にして、飛び立つ飛行機を見送りました。これは1945年のことです。
千年前も、八百年前も、三百年前も、七〇年前も、そして今の日本も、日本人は、やっぱり日本人なのです。
その日本人の心に明かりを灯す。
それは、何も大上段に振りかぶることではなくて、ほんのちょっぴり「日本ていいな」と思っていただくだけで良いのだろうと思います。
その小さな連鎖が、やがては大河の流れとなって日本を覆い、日本の正気を取り戻す原動力になるのだと思います。
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