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Happy Christmas !
キリスト教の教義に三位一体がありますが父と聖霊と子に女性が含まれていません。
古代オリエントでは、父と母と子の三位一体が見られ、子は父と母の代理でした。神は父でもあり、母でもあって神には性差はありませんでした。
正統派原始キリスト教会は父と母と子の三位一体の教義から母性を排除して男性だけの父と子と精霊の教義にしてしまったのです。
それを受け継いだローマカトリック教会は現在も女性司祭がいません。
ユダヤ・キリスト教の聖書には男性原理が強く見られますが最初からそうだったわけではありません。
神の前ですべての人は平等でした。
「そこではもはやユダヤ人やギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆イエス・キリストにおいて一つなのです。」 新約聖書「ガラテヤ人の手紙」
異端とされた聖書外伝の「ヘブル人の福音書」には「わたしの母である精霊は、わたしの髪をつかんで、偉大なタルボ山へ連れて行った。」とあります。「聖霊」を表すギリシア語は男性名詞ですが、 ヘブル語で霊(ルア)は女性名詞なので精霊は女性を表していたのです。
1945年にナグ・ハマディで「マグダラのマリアによる福音書」が発見されました。
女性のマグダラのマリアは、自己の本質を知った(グノーシス)目の見える女性として、イエスの最も優れた後継者として書かれています。
「マリアよ、恵まれた者よ、あなたの中にわたしはすべての高さの秘儀を完成する。自信をもって語りなさい。なぜなら、あなたはどの兄弟にも増して、こころが天の支配に向いているからである。」ピスティス・ソフィア
異端とされたグノーシス共同体は、正統派の司教、司祭、助祭、平信徒のようなピラミッド型階級制をとらず、完全な男女平等で、そして秘儀参入をはたしてグノーシスを得た人々によって役割を常に交代していました。
オーソドックスの教父テリトゥリアヌスは激怒して「あのマムシ」と罵りこう言いました。
「これら異端の女ども、彼女達はなんと厚かましいことか。彼女達には慎み深さというものがない。大胆にも教え、論争に耽り、悪魔払いを行い、治癒行為をし、洗礼さえ授けている。」
正統派は「女には教会で話すことも、教えることも、洗礼を授けることも、聖餐を授けることも、男性のいかなる機能に参与することも許されない。ましてや聖職につこうなどということは、決して許されない。」と教会規定を設けて教会での女性の発言を封じました。
女性は、神学を学んだり教えたりすることから、締め出されてしまいました。聖書は男性に向かって書かれ、男性によって翻訳され、男性によって注釈がかかれ、男性によって説教されてきました。
聖書が誕生した時代は、男性中心の社会が強固に確立していました。
福音書は神の霊感によって書かれていると信じている人がいますが、男性社会の影響を受けた聖書の書き手たちによって、意図的に男性優位に書かれたと研究者に指摘されています。
聖書研究によると、イエスの行状を記述したQ資料があり、最初にマルコ伝が作られ、後からそれを元に各福音書が書かれたといわれています。
最も古いマルコ福音書のマリアは神格化されていませんでした。
マルコ福音書第3章で、イエスが漁夫や売春婦に福音を述べている時、弟子が「お母さんが外で呼んでおられます」と言ってきた。その時、イエスは「私の母、私の兄弟とは誰のことか。見なさい、ここに私の母、兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と返答しています。
ヨハネ福音書第2章のガリラヤのカナの婚礼では母マリアに対し、イエスは、「婦人よ、あなたは私と何の係りがありますか」と母をたしなめています。
後に成立したルカ伝は明らかにマルコやマタイに書かれていた女性の役割を、削除したり男性の弟子の評価を高める書き込みを付け加えていました。
処女懐胎伝承が記されているのは、マルコよりも新しい紀元70~80年の成立とされる「マタイ伝」と「ルカ伝」からです。
さらにのちの時代に書かれた聖書外伝の『ヤコブ原福音書」には、清浄無垢な処女性が強調されたマリアが詳しく書かれています。
処女懐胎神話はキリスト教以前からあり、エジプトの永遠の処女イシス、ギリシャの女神アテナ、ペルセウスを受胎したダナエ、女神アルテミス、アレクサンドロスの母オリンピアス、朝鮮神話のチュモンの母などがあります。
日本のアマテラスは父イザナギの禊によって生まれ、スサノオとのウケイによって天皇家の先祖のオシホミミを生んでいます。
日本の皇祖神アマテラス、ギリシャの最高の女神アテナ、キリストの母マリア、いずれも処女で母となっています。
神話の構造は社会の変化によって次のように変わっていきました。
1、夫なしに女神から生れた世界
2、戦いの男神によって孕まされた女神から生れた世界
3、父なる男神ひとりによって女神なしで創造された世界
処女懐胎神話の時代は、男性原理の社会でした。
それ以前の古代社会は、女神である大地からすべてがもたらされる母系社会でした。
子供を産み育てる女性の力はもっとも偉大な力でした。
男性原理が優位になり戦いが始まると、男性が軍事リーダーとなり女性の社会的地位が低下しました。
男性中心的な社会になると、女性が男性よりも優れ男性よりも上位の位置にいることは、男性の苛立ちや反発を生みました。
男性は善であり高貴理知的であり、女性は本質的に悪であり不浄低俗で感情的で、男性よりも下等すると考えるようになったのです。
その根底には、男性が無視することができない母への恐れがあったと思います。
子供の自我が成長して自立する時に、いつまでも子供とべったり離れずに
子供の自立を妨げる母親は子どもを呑み込む怪物となってしまいます。
自立を妨げる支配的な母親に対して、子供は憎悪をたぎらせます。
母と子の融合を断ち切るのが男性原理です。
母親に引き戻され、呑み込まれ、溶解してしまう危険を救う神話に「英雄の母殺し」があります。
男性には母親に呑み込まれる恐怖を解消する、男性原理の神話が必要だったのです。
女性は少女から大人になり母から老女に変化します。
変化しない聖なる永遠の処女は、男性によって理想化された女性の神話でした。
教皇を頂点とした教会の教父達は、男性原理のマインドの罠にはまり、女性原理を必死に否定しようとしました。
聖書の神は、女性に向かって子供を産むことの呪いの言葉を吐いています。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、男はお前を支配する」
第一テモテ「アダムはだまされませんでしたが女は騙されて、罪をおかしてしまいました」
シラ書25章には「女から罪は始まり、女のせいで皆死ぬことになった」と書かれてあります。
2世紀のキリスト教神学者テリトゥリアヌスは、激しく女性を罵りました。
「女よお前は痛みと苦しみの中で子を産む。アダムが最初に作られそれからエヴァが作られた。女は夫の支配下にあり、夫がお前の主人である。アダムは騙されなかったが女は騙されて罪をおかした。女に対する神の告発は続いている。お前は最初に神の権威を弱めた。お前は悪魔の部屋だ。お前は巧みに男を負かした。お前の値打ち、死は神の息子の死に値した。」
この世に死をもたらした罪はエヴァに負わせました。
キリストの死の責任はエヴァに負っています。
そしてマリア以外のすべての女性は罪深いエヴァなのです。
アレクサンドリアの教父クレメンスは、次のように述べています。
「どの女も自分が女であると考えただけで嫌悪感に捉われるべきだ」
エヴァは神に逆らい、罪と死の地獄の入り口を全人類にもたらし、聖母マリアは神に従順で、彼女によって救世主イエスが現れ、全人類に恩寵がもたらせられました。
同じ女性でもエヴァは地獄の入り口で、聖母マリアは天国の入り口なのです。
男性原理によって女性は否定性のエヴァと肯定性の聖母マリアの二つに分離してしまったのです。
パウロが布教した頃のエフェソスは、処女で豊穣の女神アルテミスが一千年以上信仰されていた土地だったので、最も激しいキリスト教の反対運動がおきました。
アルテミスもイシスも、死して甦る神の母でした。
やがて地中海沿岸でキリスト教が拡大すると、神々の母であるイシス信仰とアルテミスの信仰は、マリア信仰へと移植されました。
エジプトのイシス神殿は、マリア神殿として巡礼が公認されました。
431年のエフェソス公会議でマリアの「テオトコス(神の母)」の称号が正式に認められると、エフェソス市民は大いに喜んだということです。
787年の第2回ニカイア公会議においてイエスを生んだ神の母マリアは、他の全ての創造物よりも上位に位置する独特な立場だとするマリア崇敬が認められました。
その後、男性原理のバランスをとるかのように肖像(イコン)を含むマリア信仰が深くヨーロッパに根付いていきました。
有名なフランス・パリの「ノートルダム寺院」は、「私たちの貴婦人」といった意味で「聖母マリア」を意味しています。
マリア信仰の盛んな地域は教会の中央にあるのが「救世主イエス」ではなく「聖母マリア」になっています。
スペインのセヴィージャは、マリア信仰の中心地です。
セビージャのマカレナ教会とトリアナ地区の希望の聖母は、人々から絶大な人気を得ています。
セビージャのサンタアナ教会の主祭壇に祀られているのは、幼子を抱いた聖母マリアと祖母アンナの女性二人です。
キリスト教は、父と精霊と子で女性が省かれていますが、セヴィージャの教会の中央に鎮座しているのは祖母と幼子のイエスを抱えた聖母マリアの三位一体でした。
家父長的で権威主義的な宗教は時代遅れになっています。
英語圏では、神を彼と呼ぶ男性中心主義の翻訳ではなく「天にいるわたしたちの親よ」と男性性を弱める呼び名に見直されて来ています。
ローカルなすべての宗教組織はこれから解体へと向かい、本質エッセンスだけが残されるでしょう。
無条件の愛、永遠の至福、無限の光、沈黙、虚空などの言葉は言語で表現できない真実の自己を表しています。
自己の本質こそがキリスト教をはじめ、あらゆる宗教のエッセンスです。
そのことに気づいた人々が増えることで、これから新しい文明が地球に誕生するでしょう。
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