男体山の治山

https://www.pref.tochigi.lg.jp/d51/02gyoumunaiyou/06moridukuri3/nantaisannotisan.html 【男体山の治山】より

地区の概要

  男体山(標高2,486メートル)は、日光火山群から独立した富士山型山容をもつ、溶岩と火山砕屑物とが交互に堆積して形成された成層火山で、地形解析上は、幼年期から壮年期への変遷過程にあり、山頂から四方へV字型の浸食谷が発達しつつあります。

  深い谷は、薙刀(なぎなた)でえぐったような形状から「薙」とか、「堀」と呼ばれ、その深さは100メートルに及ぶ個所もあります。

 男体山の崩壊地の復旧は、砂防と治山の両事業により行っており、治山事業としては民有林補助治山事業(県)が昭和33年から、民有林直轄治山事業(国)が昭和35年から着手し、以来約半世紀に亘り継続して実施してきました。

  男体山には、南東斜面の大薙・小薙・中薙・白薙・大平薙・前薙、北斜面の湯殿沢・ハナタテ沢・薬研堀及び南西斜面のパンヤ薙・セッチン薙・観音薙・妙見堀・十一番堀等大小20余りの崩壊地があります。

 このうち、南東斜面の一部は民有林直轄治山事業(国)で実施され、それを除いた民有林について、栃木県が実施してきましたが、平成21年度に民有林直轄治山事業が完了となり、平成22年度からは栃木県がこれを引き継ぎ、治山施設の維持管理、整備を行っています。

 南西斜面の直下に位置する中宮祠地区には、民家、ホテル、国道・学校・診療所等の公共施設や日光二荒山神社中宮祠等の重要な保全対象が存在するとともに、日光国立公園の中枢を担う観光地として、毎年多くの人がこの地を訪れています。

男体山周辺地図

災害の記録

表男体地区(南西斜面)における主要な災害の記録は、表-1のとおりです。

 特に、明治35年(1902)、台風の通過による豪雨により、7合目付近を頭に大崩壊が発生し、下方にあった立木観音が中禅寺湖に流出したため、この崩壊地は「観音薙」と名付けられました。この時の大災害は神社と小学校にも被害をもたらし、4名もの貴い命が奪われました。

 男体山で発生する崩壊は、長大な山腹面を削り取り大量の土砂を流出するため、直下の民家等の保全対象に甚大な被害を及ぼすことが多くなります。崩壊の原因としては、地質が極めて脆弱なことや夏季の集中豪雨、冬季の凍結融解作用など気象的な悪条件が主因となっています。

下の写真は昭和41年の崩壊地の状況と中宮祠の被災状況です。

表ー1

発生日時 災害発生起因 記事

明治35年9月 台風 観音薙で大規模な崩壊及び土石流が発生して、立木観音堂、二荒山神社、小学校が被災した。

死者4名。

昭和41年9月 台風26号 中宮祠雨量417ミリ(最大日雨量)

パンヤ薙、セッチン薙で土石流が発生して、下流の国道まで土砂が流出した。

昭和47年9月 台風20号 中宮祠雨量532ミリ(最大日雨量)

パンヤ薙源頭部で崩壊及び土石流が発生して、治山事業で施工した谷止工が被災した。

昭和58年8月 台風5号 中宮祠雨量307ミリ(最大日雨量)

観音薙の左沢が激しい浸食を受けて治山の施設が被災した。

平成3年8月 台風14号 中宮祠雨量362ミリ(最大日雨量)

十一番堀で大規模な崩壊、土石流が発生して、下流の国道まで土砂が流出した。

観音薙崩壊状況  中宮祠被災状況

復旧工事の概要

 

 昭和33年から治山事業に着手し、パンヤ薙、セッチン薙、観音薙、妙見堀、の4崩壊地については、現在まで谷止工群及び山腹基礎工の系列的な配置をすることにより、薙内に堆積した土砂の移動抑止、薙の山脚固定及び拡大防止が図られ、ほぼ安定した状態になってきました。特にパンヤ薙とセッチン薙については、現在では周囲に樹木が成育してきて、対岸から見ても薙の存在すら判らなくなっています。

パンヤ薙復旧状況 セッチン薙復旧状況

 観音薙においては、平成18年度の事業をもって概成に至り、現在は拡大崩壊の発生の有無や周囲の植生の回復状況を観察しています。

復旧工事が完成した写真 観音薙が復旧しつつある写真

 

 十一番堀については、平成3年度の災害発生後、源頭部の下部に谷止工を施工しました。下流については国が行う治山事業及び流末における砂防事業とが連携して、整備が図られました。

自然環境への影響と対策

 男体山周辺は日光国立公園の第一種特別地域及び第二種特別地域内に位置していて、男体山とその裾野に広がる中禅寺湖、戦場ヶ原の雄大で美しい景観は多くの観光客を魅了しています。このため、治山事業の実施に当たっては次の3つのことに留意しています。

直下にある重要な保全対象に対する防災機能の発揮

中禅寺ダム上流に位置する森林として、高度な水源かん養機能の発揮

栃木県を代表する景勝地を保持し、景観に配慮した治山工事の実施

 

これまで当地区においては、中禅寺湖に点在する眺望地点からの景観に配慮するため、既設工作物に対して、種々の試みによる修景工を実施してきています。

コンクリート土留工に対して、厚層基材吹付工を施し、植生による修景を図る

コンクリート面に対する着色塗装

自然石張り

間伐材を使用した木製パネルの張付

間伐材を使用した残置式型枠


https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/928 【[11]類を見ぬ「巨大治山」 あの日の教訓 胸に刻む 類を見ぬ「巨大治山」】より

冬晴れの日。斜光を浴びる男体山の陰影が強調される。奥日光の長い歴史を物語るかのように、その山肌には深く「薙」が刻まれていた(ヘリから撮影)

拝啓 トーマス・ブレーク・グラバー様

 きのうは3月11日、昼下がりの中禅寺湖畔は普段と変わらず、穏やかな時間が流れていました。 ちょうど5年前のあの日も金曜日でした。

 2011年3月11日午後3時46分。栃木県も最大震度6強の揺れに襲われ、4人が命を落としました。重軽傷者139人。住家被害は全半壊2379棟。私たちの心には、今も地震の爪痕が残されています。

 日光は県史に残る地震に何度も被災しました。1683年の日光地震、1949年の今市地震が有名です。2013年2月、湯元地区で震度5強の揺れが観測されました。また、体感できない微小地震も非常に多い地域です。宇都宮大の伊東明彦(いとうあきひこ)教授(地震学)は「日光で地震が多い理由は解明されてないが、微小地震は近くの火山の影響で生じる、地殻の不均質構造が原因と推測できる」といいます。

 奥日光では土砂災害リスクも無視できません。

 1902年9月。台風の豪雨で男体山に土石流が発生。麓の民家などを飲み込んだだけでなく、中禅寺湖に津波を起こし、大谷川流域に甚大な洪水被害が出ました。湖畔や下流域の町並みは一変し、日光の象徴の神橋も流出。春にあなたが湯川に放流したマスの稚魚も全滅したと伝わっています。

 悲劇を繰り返さぬよう、男体山では半世紀以上も前から、世界に類を見ないほどに莫大(ばくだい)な経費と時間を掛けた治山工事が行われてきました。

 男体山には山肌が崩れて出来た谷が約30カ所もあり、薙刀(なぎなた)でえぐったような形から「薙(なぎ)」と呼ばれています。土砂災害の恐れが大きい場所なので、国や県が協力して土砂を止めるダムを造り、傾斜を緩めて緑化するなどの対策を進めています。

 地質が脆(もろ)い男体山の崩れは、自然の摂理です。土砂流出に終わりがなく、工事は半永久的に続くともいわれています。現場の地形や気候は厳しく作業員の負担も大きいですが、麓の暮らしや登拝者を守るという使命感が彼らを支えています。

 私たちが気をもむのは日光白根山です。あなたが初めて奥日光に来た1889年以降に噴火して以来、噴火はありませんが、前兆現象は観測されたことがあります。

 おととしには長野、岐阜県境の御嶽山(おんたけさん)(3067㍍)が噴火。数多くの犠牲者が出て、火山防災のあり方が見つめ直される契機になりました。

 残念ながら今も人類には災害を予測するすべがありません。「天災は忘れたころにやってくる」という警句があります。震災5年のきのう、私たちはあの日の教訓をあらためて胸に刻みました

グラバーメモ

■日光白根山の火山防災

 栃木・群馬県境の日光白根山は、気象庁が監視を強める全国47の「常時観測火山」の一つ。関東以北の最高峰、ロープウエーで山頂近くに行けることもあり高い人気を誇る一方、火山防災の取り組みの遅れが指摘される。

 現在は静穏だが、過去約6千年間に少なくとも6回噴火したといわれる。19世紀以降は1872年と73年、89年に小規模噴火があった。1952年に噴煙と鳴動が発生。93~95年には直下で「火山性微動」が観測された。マグマや水の動きを示し、噴火兆候の一つとされる。

 しかし地元の関係機関などによる「火山防災協議会」は一昨年に発足したばかり。被害想定や防災対応を盛り込む「火山ハザードマップ」と「噴火警戒レベル」は未整備。47火山で両方導入していないのは9火山だけだ。関係者によると、被害想定の規模が県ごとに異なり、責任や役割分担が曖昧だったことが遅れの一因と考えられるという。大噴火の実績がないことも影響したとみられる。

 同協議会事務局によると、2016年度からハザードマップ作成を始め、噴火警戒レベル運用は16年度早々に始まる予定。

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