https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/026.html 【物部守屋もののべのもりや (生年不詳 〜 587年)】より
天孫降臨伝説をもつ古代日本の有力執政官
物部氏は飛鳥時代の大連(おおむらじ:大豪族)で、天皇家を除いて「天孫降臨」「国見」の逸話をもつ唯一の氏族である。神武天皇よりも前に天磐船(あめのいわふね:神が天から降りる際の乗り物)により大和入りをした鐃速日命(にぎはやひのみこと)を祖先とする。鐃速日命は登美夜須毘売(とみやすびめ)を妻とし、物部の初代の宇摩志痲遅命(うましまじのみこと/可美真手命:うましまでのみこと)をもうけた。元々は兵器の製造・管理を主に管掌していたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長。5世紀代の皇位継承争いで軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。物部氏は解部(とべ:司法・検察機関)を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯(くかたち:古代日本の裁判)の執行者となった。
守屋の父は物部尾輿(もののべのおこし)、母は弓削の連の祖・倭古の娘(阿佐姫)である。その弓削連の本拠地は河内国若江郡弓削郷(現在の大阪府八尾市)である。
勅命に反対し排仏を唱える
敏達天皇(538~585年)14年3月1日、物部守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)は「疫病が流行し、国民が死に絶えそうなのは、ひとえに蘇我氏が仏法を広めたことによるものに相違ありません」と奏上した。30日、物部守屋は自ら寺に赴き、その塔を切り倒させ、同時に仏像と仏殿も焼いた。さらに、焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。また、佐伯造御室(さえきのみやつこみむろ)を遣わして蘇我馬子の供養する善信尼らを呼び寄せ、海石榴市(つばいち:古代の市場)で尼の法衣を奪い、尻や肩を鞭うつ刑にした。いわゆる堀江棄仏事件である。
用明天皇(540?~587)2年4月、天皇は磐余(いわれ:現在の奈良県桜井市)で新嘗の大祭を行った。天皇は群臣に「自分は仏・法・僧三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい」と命じた。しかし、物部守屋と中臣勝海は、「どうして我が国の神に背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体このようなことは今まで聞いたことがない」と反論した。そこで7月、蘇我馬子は、諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋を滅ぼそうと策略をめぐらし、泊瀬部皇子(はつせべのおうじ:後の崇峻天皇)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのおうじ:後の聖徳太子)ら諸皇子・群臣が一緒になって軍勢を率い、物部守屋大連を討った。いわゆる丁未(ていび)の乱である。3度戦って3度守屋軍が勝利したが、廐戸皇子が四天王の像を刻んで祈願したことにより、馬子軍が勝利したといわれる。その後、廐戸皇子が摂津国(大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は二分され、半分は馬子のものになった。しかし、廐戸の皇子の心の広さを示すように、四天王寺では寺域の片隅に物部守屋を丁寧に祀っている。毎月21日の大師会(だいしえ)の日には絵堂への門があけられ守屋祠に参拝できる。
フィールドノート
八尾市内に残る守屋終焉の地を巡る
渡来人を迎えた古代の迎賓館の跡 — 跡部神社
蘇我馬子が聖徳太子を立て、大連物部守屋の拠点とされる阿都(あと)の館を攻めた。ここは、渋川を中心とした跡部神社の辺りをさすものといわれる。八尾市のガイドブックには「阿斗の桑市の館」とか、「阿斗の河辺の館」の名が見え、この辺りをさすとあるが、日本書紀では「推古18年10月8日、新羅・任那の使人が都に到着し、膳臣大伴を要人を迎える荘馬の長とし、大和の阿刀の河辺の館に入らせた」とある。
物部氏が建てた寺跡 — 渋川天神社(渋川廃寺跡)
渋川天神社境内の西南の地は白鳳時代に渋川寺のあったところである。昭和10年(1935)頃、当地で国鉄関西本線の竜華(りゅうげ)操車場の開設工事が行われた際、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦および塔心礎が出土した。発掘調査では、この付近は物部守屋の別業(別荘)の地で、そこに渋川寺があったと推測されている。蘇我氏と物部氏の戦いは崇仏派と排仏派の論争が原因といわれているが、守屋がここに寺を造り、塔を建てていたとなれば、日本書紀に書かれている仏教を倭の国に取り入れることに反対していたということは、蘇我氏が語り伝えた物語にすぎない。その実態は馬子と守屋の政治権力をめぐる闘争であったに違いないだろう。
巨木は何を見たか — 渋川神社
渋川神社の境内には大阪府指定天然記念物の樹齢千年のクスノキを含め数本の巨木がある。この辺りを含む中河内から南河内の広大な一帯は、物部氏の勢力範囲であったといわれている。付近に点在する物部の神を祀る神社は、守屋の生活の場を示しているのではないだろうか。守屋の居所であったとも伝わる渋川神社は、古く竜華寺の鎮守であったといわれている。現在の地は旧大和川の一支流現長瀬川の左岸にあった「安中新田」の会所の地を継承したものである。
聖徳太子が九死に一生を得た戦場
— 大聖勝軍寺(だいせいしょうぐんじ)・守屋池
地名の太子堂は聖徳太子(廐戸皇子)創建の大聖勝軍寺(太子堂)から付いたものである。土地の人は聖徳太子の御廟のある叡福寺を上ノ太子、羽曳野市にある野中寺を中ノ太子、大聖勝軍寺を下ノ太子と呼んでいる。
寺伝では、用明天皇が崩御された年(587年)の7月、この辺りが物部守屋の軍と蘇我馬子の軍が戦った「丁未の乱」の戦場であったとしている。蘇我の軍兵は志紀(現在の八尾市南部)から守屋の渋川の家に至った。一方、守屋の軍は強く、勢いが盛んで野に溢れた。皇子たちと群臣の軍は弱くて、恐れをなし3度退却したという。廐戸皇子は守屋の大軍に包囲され、「椋の大樹」の幹の空洞に隠れて九死に一生を得たといわれ、境内の一角にそのレプリカが再現されている。窮境に及んだ廐戸皇子が白膠木(ぬるで)に四天王を刻み、この像に願をかけた。その後の戦でようやく、4kmほど離れた衣摺(きずり:現在の東大阪市)の地で物部守屋を倒すことができたといわれている。
大聖勝軍寺の山門を出てすぐ脇に守屋池がある。おそらく衣摺から届いた守屋の首を洗い実検したのだろう。敵とはいえ守屋は廐戸皇子の妻(刀自古郎:とじこのいらつめ)の母(守屋の妹布都姫)の兄というから、若い廐戸皇子には相当な葛藤があったはずだ。
国の神を守った偉人として祀られた — 物部守屋大連墳
物部守屋を葬ったところと伝えられ、「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一本松のある姿が記されている。明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに守屋顕彰の碑と石灯籠を建てた。大陸からの仏教の伝来と、国神を奉じる魂は守屋の心の中でもせめぎ合い、結果、神道の守護者となった。そのことを示すのがこの墓である。
左奥の物部守屋公顕彰碑は、昭和62年(1987)に大阪府神社庁中河内分会によって、薨後1380年の記念事業で建てられたものである。そこには「我が国に初めて仏教伝来するや、国風たる神ながらの道統を護持せんと、父公尾輿の固き志を継ぎ、用明天皇二年、何ぞ国神に背き他神を敬せんやと断じ、蘇我馬子と対立。公は河内に帰り、一族を挙げ・・・激しく干戈(かんか)を交えしも・・・時に利あらず、同年七月七日、遂に果敢くも陳歿せられる・・・」とある。墓の周りの玉垣を見ると、全国の名のある神社がこぞって寄進していることから、守屋が神道にとって欠くことのできない大きな存在であることを訴える。
守屋の墓前祭は各神社の持ち回りで毎年6月に行われ、慰霊並びに事績をたたえる。平成27年(2015)6月21日(日)の墓前祭は、物部守屋大連墓所の扉が開かれ、大阪府下はもとより他府県の著名な御縁神社の宮司総代、敬神婦人会の役員等100人を越える参列のもと斎行された。明治以降の近代日本が神道を奉じて以来、一時は忘却の彼方に流されようとした国神は復活し、それと共に守屋の業績も再認識されたことを知る。参列した枚岡神社禰宜の山根眞人氏は「我が国で唯一の宗教戦争であったかもしれない。そしてその後の習合した日本宗教の有様。言いようを変えれば、これも町おこしの種になるのでは」と話す。
物部氏の住地である八尾市のこの一帯は、物部氏の存在を避けて語ることはできず、今も物部氏を慕う人が多くいるという。この近辺には鏑矢塚、弓代塚など戦歴を語る小さな碑があるが、蘇我側の功績をたたえるというより、古代戦史の証人と捉えたい。
木の本には同じ名の樟本(くすもと)神社が3社
大聖勝軍寺南方向にある「木の本」と名のつく地区に、樟本神社が3社ある。木の本の地名の由来は守屋が廐戸皇子の軍を防ぐためこのあたりに「稲城(現光蓮寺敷地)を設けたとき、城中に榎木(くすのき)があったので、これを「榎木城」といった。このことから村の名も「樟本村」といったが、のちに「木本」となったと伝わる。
3社の祭神は神社の説明板によると、いずれも布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、つまりは物部氏一族の神を祀るとあることからも、この地は物部氏の住地であったことが読み取ることができよう。
八尾市木の本にある樟本神社が、3社の中心社にあたる。ここから1kmほど北にある分祀された樟本神社(八尾市北木の本)の境内には「守屋首洗池」がある。討ち取った物部守屋の首を、秦河勝(はたのかわかつ:聖徳太子一族の家臣)がこの池で洗って廐戸皇子の見参にいれたといわれる。大聖勝軍寺にも首洗池があるが、いずれも伝承の域をこえない。
そして、三つ目の樟本神社(八尾市南木の本)は、黄檗宗日羅寺の境内に社殿がある。この寺は日本書紀の敏達天皇の項にある日羅と関係が深い。百済に渡り重用されていた日羅は、天皇の勅命で百済から帰国し、阿都の桑市に住み、一寺を建立し薬師如来を祀ったのが始まりという。
明治の廃仏毀釈の中、寺の存続を図るため樟本神社分社を境内に迎えることによって廃寺になることを免れたといういきさつがある。
何気なく町の風景に溶け込んでいるこれら3社の樟本神社は、何れも守屋や聖徳太子とのつながりを持つ互いにかかわりの深いものであった。
弓削の地は守屋の母の郷 — 弓削神社
800年頃の創建といわれる。弓削神社は2社あり、いずれも物部の祖神をも祀る。もともとは一社であったが、江戸期以前に長瀬川をはさんで東西二社に分かれ、現在にいたっているというが、その理由は分からないという。
弓削神社は、その名から弓削氏の氏神であったと思われる。弓削氏は河内国若江郡若江郷を本貫とする豪族で、その名の通り武器の製作に携わるグループを率いていた。物部氏との関わりも強く、物部尾輿は弓削連の祖・倭古連の娘阿佐姫と結婚し、守屋を生んだといわれる。
厩戸皇子が遠望した大和川の戦い
『日本書紀』は、厩戸皇子が参戦した丁未の乱の終盤戦を先に記し、その後、死者は双方あわせて数百にのぼったと記述している。当時の大和川は石川の合流点から河内湖の方へ北上していたので、大和に入るには石川か大和川を必ず渡河しなければならなかった。その意味でも、守備側の物部軍にとっては重要な防衛線であったと考えられ、双方に大きな犠牲が出たと思われる。
厩戸皇子は高井田の山から戦場を見通しているが、それは柏原市立歴史資料館のある高井田の山のどこかであったろうと思われる。すぐ近くの史跡・高井田横穴公園からは、蘇我氏と物部氏の戦いの初戦が繰り広げられた大和川と石川の合流点や、対岸の様子を立木越しに見通すことができた。資料館の壁面には旧大和川と石川の合流点を立体図形にしたパネルがあり、当時の状況が分かる。これについては学芸員からも説明を受けることが可能である。
2016年8月
(2019年4月改訂)
中田紀子
≪参考文献≫
・宇治谷孟『日本書紀 全現代語訳』講談社
・森明勅『歴代天皇事典』PHP文庫
・金達寿『日本古代史と朝鮮』講談社
・和田萃『飛鳥』岩波書店
・関裕二『物部氏の正体』新潮社
・八尾市『八尾市観光データベース』
・やお文化協会『八尾の史跡』
・山根眞人(平岡神社禰宜)、沢 勲(大阪経済法科大学 名誉教授)
『物部弓削守屋大連公(物部守屋)の情報を検分
―大阪府東大阪市、平岡神社の所蔵文書より―』
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