Facebook八木 龍平さん投稿記事 ブログ更新しました✨
神社の御神体「かがみ(鏡)」からエゴである「が(我)」をとると「かみ(神)」になると何度か聞いたことがあります。
うまいこと言うとは思いますが、「かがみ」はありのままを映し出すもの。
「が」だけ取り除いたらそれはもはや「かがみ」じゃない。
「かがみ」は都合の悪いもの見たくないものを見ないツールではありません。
ありのまま受け入れることが心の成長になると心理学でも立証されています。
▼詳細はブログ記事にしました▼
https://ameblo.jp/shoutokureiki/entry-12768768497.html?fbclid=IwAR1nsocnqgmgMboayBTogYFs4ArcgPiFhXF2FFhyVFPe41aN6NSQCmLJs5w 【人からエゴをとると神になる、のか?】より
さて本日のお題は「人からエゴをとると神になる、のか?」です。
神社の御神体は「鏡」です。この「かがみ」から「が」をとると「かみ」になると何度か聞いたことがあります。「が=我=エゴ」です。
御神体の「かがみ」には参拝客である”私”が映し出されています。
ですから、「かがみーが=かみ」→「私ー我=神」→「人間ーエゴ=神」という意味になります。
うまいこというなとは思うのですが、なぜ”が”をとるのか?と実は疑問に思ってます。
鏡の役割はありのままを映し出すこと。
映し出されたものの中から、なぜ真ん中の「が」だけ無いものとして扱うのか?
心的成長の観点でいうと、科学的に立証された成長の条件は「ありのままを受けとめる」こと。”が”をとると、ありのままでは無くなります。
エゴが無い方がいいというお考えから「我(が)を取ると神(かみ)」説があるのでしょうけど、あるものを無いとみなすと、「私」じゃなくなるし、「私」の成長も無い。
本当にその人にエゴが無くて エゴが無いのがありのままなら仕方ありませんが😆
私は寡聞にしてまだそんな人を知りません。とはいえスピリチュアルを探究する上でエゴ問題はあります。ありますが問題なのはエゴの「肥大」です。
例えば我の前世はXX天皇であると思い込んだとします。そんな人もきっといるでしょう。
ここまでは良いんです。しかし、我の前世はXX天皇なのだから、皇居に入れて当然だし、
周りは私をXX天皇と扱うべきだと思ったらNGってこと。
なぜNGか?他人に、私の認識を強要しているからです。
私が私自身をどう認識しても自由なのですが、他人も私と同じように思うべきだと思い、
他人に私の認識を強要しようとしたら、それ「エゴの肥大」です。
スピリチュアルな探究をすると、エゴの肥大は誰しも起こる普通のこと。
なぜなら、私が神仏であり私が創造主だって気づくのですから。
しかしあくまで”私”という宇宙の創造主なのであって、全世界の創造主では無いw
この人やあの人の創造主でも無い。
スピリチュアルな探究をすると「我は神仏なり」の認識に到達しますが、
このとき同時に「宇宙はひとつ」の世界観から「宇宙は意識の数だけ」の世界観にシフトすることが重要で、この世界観シフトをしていないと、「エゴが肥大」の状態になります。
「宇宙はひとつ」の世界観のまま、「我は神仏なり」「我は創造主なり」になると、
エゴが肥大し過ぎた”ただの危ない人”なわけですね。
友人の吉良久美子さんが「ひとりひと宇宙」と表現していますが、これは正に世界観シフトです。「ひとりひと宇宙」を別の言い方にすると学術用語では「構成主義」「ポストモダン」ニューエイジスピリチュアルでは「量子力学的世界観」と呼ばれる思想になります。
「構成主義」「ポストモダン」「量子力学的世界観」「ひとりひと宇宙」これ全て
「宇宙=我」鏡から我をとるどころか、「鏡=我だけ」エゴ100%になります😆
ひとりひと宇宙に世界観のシフトをしていれば、「ひとり宇宙=エゴ100%」でいいってこと。
「宇宙即我、我即宇宙」です。
エゴが嫌われ憎まれる理由は、「他人の物や他人の心を自分のものにしようとするから」
です。
他から奪い、他を強くコントロールするエゴは否定されるってこと。
しかし、私のものは私のもの あなたのものはあなたのもの みんなのものはみんなのもの
の中でエゴを どれだけ発揮しようと自由です。
政治家や商売人が税金で大儲けするエゴが否定されるのは、他人やみんなのものを奪うから。誰かにお金を預けたとして、その誰かがお金を持ち逃げするエゴが否定されるのも
同じことです。
しかし自分のお金でランボルギーニや宝飾品が欲しいエゴを満たすこと自体は自由でしょう。景気対策になって世の中にも良いです。
スピリチュアルは、「独立した自由な精神であれ」なのです。
0コメント