自分は自然の分身

Facebook小早川 智さん投稿記事 

自分という語源は「自(然)」+「分(身)」、すなわち【自然の分身】 https://t.co/W9mDCrMfcq

自然の「自」と、分身の「分」をとって、自然の分身のことを「自分」といいます。

私たちは、自然と共に生きています。

森林や環境問題も自然の話ですが、自然の法則に逆らわないことも自然の分身としての生き方ではないでしょうか。

自然の流れに逆らい、否定したり、拒否をしたり、コントロールすることは、大自然を相手に、戦いを挑んでいることと同じこと。

流れる水のように、柔軟に生きることが自然と共に生きることなのではないでしょうか。自分も自然のサイクルの一部なのだということ、万物の真理を知り、流れを知り、

自然に逆らわないことは、自分を知ることなのではないかと思います。


Facebook能村 聡さん投稿記事

【自分のものなど何もないー所有って概念を疑ってみることー】

こういうことをいいますと、私有財産を否定するあなたは共産主義者ですかとか言われがちですが・・ここでは、イデオロギーではなく、むしろ、スピリチュアル(霊主体従)の観点からの話になります。

ほとんどの苦しさや辛さは、所有という概念から発しています。この概念への囚われ(執着)から離れることができると、随分、人は自由になれます。

男女関係もそうですね。人は人(他者)を所有などできません。もしそういうことならそれは奴隷的な支配隷属の関係です。所有は支配につながるのです。

この人は私の(所有する)夫だから、浮気は許せない。とか言いますね。

パートナーシップは所有関係とは全く違うのですが・・・別に不倫を認めているんではないですよ。

人は誰のものでもありません。子どももそうです。我が子とか言いますがあえて言います。子どもは親の所有物ではありません。

所有・被所有の関係になると、相手の自由を奪ってしまいがちです。相手への支配ということになりかねません。

所有という概念による縛りあいは、愛ではないんです。

嫉妬や焼もちなどの男女の間で起こる感情は、元をたどれば、この人は私だけのものという思いが隠れています。そうなるとっても苦しいですね。恋愛の葛藤ってそこがすごく大きいんじゃないでしょうか?

所有はもちろん人間関係にとどまりません。物質的な所有欲の際限のない拡大が、この地球環境を破滅の淵に追いやっています。

今持っている財産モノやお金は自分のものだから、減らさないように、失わないように、もっと増やそうと、ウィナーテイクオールのカジノ資本主義経済の中で、人から奪うことになる投機に財産をつぎ込んだりして、自分のものにしがみつく、これも所有から来ています。

幸せを理解するための簡単な方程式は

(幸せ感)=(所有物(財産など)の量)➗(欲望や執着心・いわゆる煩悩)

所有しているものが少なくても、分母の欲が少なければ、幸せ感は大きくなる、でも、いくらたくさん所有していても、分母の欲が大きければ大きいほど、幸せは遠ざかる。

世間の争い(裁判ざた)のほとんどに、所有への囚われや執着が関係しています。人間はこの概念から自由になれない限り、幸せにはなれないのではないでしょうか?

自分のモノなど本来、何もないのです。この肉体だって、借り物です。死ぬ時はこの地球にお返しするんです。むしろ賃料無料で借りている物として大事にケアしないといけませんね。

何かを所有し、もっとそれを増やそう、大きくしようという行為が限られた時間しかない大事な人生の時間を費やす価値あることなのだろうかと思います。

もっと精神的な成長や、他者との豊かなつながりづくりに、自分のエネルギーを使う方が、幸せになれるんじゃないでしょうか?

たくさんお金やモノを持っている人が、必ずしも幸せとは限りませんね。いつもいつも所有しているものを失う恐怖心に苛まれるからでしょう。

貪欲で独占的な所有からシェア(分かち合い・共有)へのパラダイムシフトがニューアース創造の課題となるでしょう。共有とは結局は、誰もそのものの所有者ではないということです。

別の視点からは、心理学者のエーリッヒ・フロムが著書『生きること』で語っているように、

To have(もっとたくさん所有すること)から To be(自分はどうありたいか、より良い自分を生きること)へ、意識転換する必要があります。

より大きな富や土地、モノの所有・蓄積、権力などの人の所有(支配)が人生の目的ではないはずだ。同じ”とく”でも、「得」より「徳」を積むべしです。

お釈迦さんが言っているように、所有していると思い込んでいるものへの執着(執著)を手放せば、苦しみは消えます。

初期仏典の「ダンマパタ」でお釈迦様はこう説いています

”愚かな人は「私には息子がいる」「私には財産がある」などと言って、それで思い悩むが、自分自身がそもそも自分のものではない。ましてやどうして、息子が自分のものであろうか。財産が自分のものであったりしようか”

本来、宇宙や地球はすべての人に、平等に恵みを与えていますね。これは無条件の愛、神の愛です。太陽はすべての人に分け隔てなく、無償で愛と光を降り注いでくれています。しかも電力会社やガス会社のように料金も請求してきませんね。

宇宙の愛は、惜しみなく与えることです。

この母なる地球はすべての人が平等に、幸せに生きていくために必要な資源やエネルギー、そして食べ物を備えています、それなのに超富裕な人がいる同じ地球で、貧しい人、飢餓の人がいるのは本当はおかしなことです。

地球の土地を境界を引いて、分割してここからここまでは私のものとか、我が国のものとかいうのも、変ではないでしょうか?宇宙から地球を見ても、人間が引いた”国境線”が見えるでしょうか?

一度、所有というこの三次元意識世界の常識を疑ってみてください。それは何か変だ、非常識ではないかと気づくかもしれません。

この地球は誰のものでもありません。みんなのものです。公平に分かち合うべきものです。しかし現実にはそうなっていません。

よく考えてみてください。

あなたがこの地球に生きていけるのは、大地が無条件に生きていくために必要な恵みを与えてくれるからです。その土地の所有者ではありません。

所有という概念にしがみつけばしがみつくほどは、分離や争い、競争という世界から抜けられなくなって、愛と調和の五次元意識から乖離していきます。

所有という概念は、三次元意識の領域での幻だと、早く気づいてください。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

人間は自然界の関係性の中で生かされています。

それがいつのまにか命のネットワークの一員であることを忘れてしまい地球規模の環境破壊をしています。

癌細胞は、最初、体の組織の一部でしたが、調和を乱して増殖し、宿主の人間を殺して自分も滅びてしまいます。

いまや人間が地球の癌細胞になっています。

女神の時代の記憶は、古層にしまいこまれてしまい、人々は自分が誰か忘れてしまいました。

マインドの罠に気がつくのが女神の智慧です。

男性原理に傾いたバランスを回復しようと、女性原理が表に現れようとしています。

女神の智慧が開花した時、男性性と女性性は統合されます。

私達が知っている世界は、真実の世界ではなくマインドが投影された世界です。

日本に最初から統一国家があったわけではありません。

様々な人々が日本列島に渡って来るうちに、各地に共同体ができて、それが徐々に婚姻関係を結んで、母系を中心とした部族連合社会へ、移行していきました。

日本人は、単一民族と思っている人がいますが、DNAの配列から、日本は多民族の集まりだということがわかっています。

ミトコンドリアDNAのハプログループ

https://first-genetic-testing.com/gene/haplo.html

母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体を調べてみると、日本は混血であることがはっきりしています。

日本人の血液検査をしても、日本人というDNAはないのです。

漢の時代の『漢書地理誌(かんじょちりし)』に『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』と記されています。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に、邪馬台国という大きな国があって、その下に小さな国々が従っていたとあります。

昔から日本は単一の国ではなく、異なった言語を持つ人々が住む多民族の国だったのです。

神道政治連盟国会議員懇談会の麻生太郎名誉顧問が「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べて顰蹙(ひんしゅく)を買いました。

大和民族は、明治になってから政府が作った概念です。

大和民族という共通の言語、文化、生活習慣、宗教を持った日本民族など存在していなかったのです。

日本国とは概念であり、昔はなかったのです。

国といえば薩摩や津軽などの藩のことを指していて、藩を越えると風俗習慣も異なり、言葉が通じない外国でした。

昔から日本は単一の国ではなく異なった言語を持つ人々が住む多民族の国でした。

日本人とは個人を抽象して一般化した実態のない概念なのです。

血を何万年もさかのぼれば日本人、中国人、朝鮮人、はては西洋人と東洋人も消えてしまいます。

母系を遡れば一人の女性にたどり着きます。

地球に住む人々は皆兄弟姉妹なのです。

自分の属する文化・民族・国以外の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度をエスノセントリズム(自文化中心主義)といいます。

分離した自我は自分と他人を分けて自己中心的な物語の中にいます。

内面の抑圧が強いとシャドーの投影に気がつかないので自分以外の他者、集団、国に強い嫌悪感をもってしまいます。

ランクをつけて優劣を争い、異質な物を排除しようとする男性原理が強くなると排外主義や在日コリアンやアイヌへの差別となって現れます。

ヘイトスピーチは思考の罠にはまっている状態です。

日本の土地に長く住み、土着の固有の言語と文化を保持している人びとを日本人と定義すると、2万年以上続いた旧石器時代と1万6千年続いた縄文人こそ日本人です。

古事記の国生み神話で最初に出てくるのは淡路島です。

次に生んだのが四国、三番目に生んだのが隠岐。

そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、最後に本州を生んでいます。

北海道は出て来ません。

古事記を記述した人々の頭には西日本しかありませんでした。

東日本は風俗習慣が違う異国だったのです。

私が住んでいる東北は昔、蝦夷(エミシ・エビス・エゾ)と呼ばれヤマトと異なる言語、風俗、習慣、価値基準を持っていた異民族とみられていました。

蝦夷とは自ら名乗ったわけではなく蝦夷の文字に虫がついているように中央集権を築いたヤマトが、エスノセントリズム(自文化中心主義)のマインドで先住民族に対して、劣った野蛮人としてみた名称なのです。

日本書紀に「斉明記5年7月(659年)服従させた蝦夷を唐に見せるために連れて行った。」と書かれていますが 中国唐の正史の新唐書では「倭国の使者と蝦夷が共に入朝した。その使者はヒゲが4尺ある。」と記述され唐の史書「通典(つてん)」は「蝦夷国 倭国の国使と共に入朝した。」とあり蝦夷と倭国は同等であり唐では蝦夷を独立国としてみなしていました。

そして 中国の歴史書『旧唐書』には、「倭国伝」と「日本伝」の2つがあって倭国と日本は別国扱いで記述されていました。

そして「小国の日本が倭国を併合した。」あるいは「倭国は小国の日本を併合してその国号を奪って日本とした。」とあります。

倭国は日の本(蝦夷)を併合して国号を日本としたのです。

景行天皇の息子小碓尊(おうすのみこと)が熊曾建(くまそたける)を殺して、その名前をとってヤマトタケルとなった故事と一緒です。

言葉は言霊といって名前は霊力があるのでその力を取り入れたのでしょう。

本州で一番最初に朝日が当たるのが岩手県の早池峰山です。

蝦夷は九州・近畿から見ると日の出の東の方向にあるので日の本(ひのもと)と呼ばれていました。

蝦夷の「日の本」は言葉がまったく通じ、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らないという鎌倉時代の記述があります。

津軽の安東氏は日之本(ひのもと)将軍と呼ばれていました。

青森県東北町には「日本中央」の碑があり、豊臣秀吉の文書でも東北を日の本と呼んでいました。

日本は東北の地名だったのです。

高い太陽を見る国という意味の日高見国(ひだかみのくに)という記述が「釈日本紀」に出て来ます。

また『日本書紀』の景行天皇の条に「東の夷の中に、日高見国有り」とあって、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征からの帰りに「日高見国から帰りて」とあり『常陸国風土記』に「此の地は本の、日高見国なり」とあります。

神社で奏上する大祓祝詞(おおはらえのことば)に「大倭日高見の国(オホヤマトヒタカミのくに)を安国と定めて」と出て来ます。

祝詞は倭国がヤマトにきて大倭になりさらに日高見国と一つになって日本国になったとも読めます。

古代の日本は統一国家ではなく大雑把にいえば、西の大倭と東の日高見の二つの国があって日高見国は独自の文化と言語をもって千年以上も独立を保っていたのです。

2000年(平成12年)に三内丸山遺跡を凌駕する大規模な縄文集落、大清水上遺跡(おおすずかみいせき)が岩手県の胆沢で発見されました。

大清水上遺跡(おおすずかみいせき)では直径約20mの中央広場を中心に長さ 10m以上もある大型竪穴住居62棟が 中心部へ向けて同心円状に集落が形成されていました。

縄文時代の東北は女神を中心とした母系社会を築き戦いのない平和な暮らしをしていました。

いまでこそ東北が辺境の地であるかのように思われていますが、縄文時代の東北は世界に先駆けて土器を発明した世界でも類のない文明の最先端地域でした。

縄文時代の東北は間違いなく文化の中心地だったのです。

八世紀末頃まで東北・北上川流域の日高見国は大和朝廷の勢力圏外にあり、ゆるやかな部族連合による合議制で独自の生活と文化をきずいていました。

中央集権国家体制を整えていたヤマト朝廷は東北のまつろわぬ民を蝦夷(えみし)と呼び「蝦夷(えみし)は野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を及ぼしている」と蔑視していました。

「まつろわぬ」とは「従わない」の意味です。

豊かな砂金が取れ、良い馬が育つ「蝦夷」を制圧するために中央集権国家体制を整えようとしていたヤマトは軍隊を動員して、何回も東北に侵略してきました。

『日本書紀』景行天皇二十七年(西暦97年)に武内宿禰が蝦夷を侵略するように進言しています。

「東夷の中、日高見国あり、其の国人、男女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇悍(いさみたけ)し。是をすべて蝦夷と日(い)う。亦(また)土地(くに)沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし」

658年に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が蝦夷(えみし)と粛慎(みしはせ)を征伐

709年に陸奥・越後の蝦夷が良民を害するためとして佐伯宿禰石湯(さえきのすくねいわゆ)が征越後蝦夷将軍に任じられました。

720年に多治比県守 (たじひのあがたもり) が征夷将軍に任ぜられました。

この年から蝦夷を討伐する官職の称号が征夷将軍という名称になったのです。

それ以降、源頼朝から江戸時代まで武士のトップの役職が征夷大将軍となりました。

724年多賀城(多賀柵)が設置され国府・鎮守府が置かれ、蝦夷制圧の拠点となり、天武天皇の976年に仙台までの東北は「陸奥国」となりました。

延暦3年(784)に桓武天皇は平城宮から長岡宮に都を移しました。

桓武天皇は国家の威信を取り戻すため何度も攻略に失敗している蝦夷の徹底討伐を決意しました。

「蝦夷は天皇の命にしたがわず、追えば鳥のように散り去り、捨てておけば無数の蜂や蟻の様に群がる。攻めれば山や薮に素早く逃げ込み、放っておくと城や砦を侵略する。」

桓武天皇は「東国に朕の意のあることをしらしめよ」と激をとばしました。

延暦8年(789)3月9日、朝廷は関東の民を徴発して、紀朝臣古佐美(きのあそみこさみ)を将軍に5万2千800人の軍隊を仙台の多賀城に集結させました。

3月10日桓武天皇は蝦夷征討を祈願して伊勢神宮に供物を奉献しました。

6月3日、4千の官軍は今の奥州市付近の北上川の両岸二手に分かれ蝦夷の村を焼き払いながら進軍しました。

蝦夷の本拠地、巣伏村に入り蝦夷軍を挟み撃ちして合流しようとしていたそのとき、アテルイを軍事司令官とする蝦夷軍が現れ、前軍2千の兵は渡河できず合流できませんでした。

さらに中軍・後軍の前に蝦夷軍が現れて進軍を遮りました。

蝦夷軍に押された官軍が南に退いたその時、別の蝦夷軍が現れ、退路を絶たれた官軍の兵は次々と川に飛び込み溺れて流されました。

官軍の被害は甚大でした。

川で溺死したもの1036人、裸で泳ぎついた者1257人、矢で怪我したもの245人、戦死は25人でした。

官軍は大敗北をして敗走しました。

アテルイは巣伏(すぶせ)の戦いで数百の軍勢で4千人のヤマト朝廷軍に多大の損害を与えたのです。

ヤマトの侵略に対して蝦夷の各部族連合は武力を総結集して徹底抗戦しました。

桓武天皇は再び蝦夷を討伐するために3年間戦いの準備をして延暦12年(793)に大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)を征夷大将軍とする10万の大軍を蝦夷に向かわせましたが攻略することは出来ませんでした。

しかし、戦いの連続で東北の村々は疲弊し荒れ果てました。

794年、流罪の途中で衰弱死した弟の早良(さわら)親王の祟りを恐れた桓武天皇は平安京へ都を移しました。

坂上田村麻呂は死去した百済王俊哲(くだらのこにきししゅんてつ)の後をついで796年に陸奥鎮守将軍となりました。

田村麻呂は百済から来た渡来人の子孫でした。

田村麻呂は蝦夷の懐柔政策を推し進め、帰順してくる者に対しては、土地を与え生活を保証し、服従した俘囚(ふしゅう)でも戦功のあった者は昇進叙位を取り計らい、また公民となろうとして改姓を願い出る者に対してはそれを認めたので、多数の族長が帰降しました。

長年の戦で田畑を荒らされて疲弊した蝦夷の村人も和平を望んでいたのでしょう。

801年、征夷大将軍となった田村麻呂は四万の将兵を率いて蝦夷に赴き、いたずらに戦うことはせず懐柔政策により多数の族長を味方につけて胆沢(岩手県奥州市)に進出しアテルイの本拠地に胆沢城を築きました。

造営中の胆沢城を見たアテルイとモレは802年ついに降伏しました。

郷土の荒廃に心を痛め、平和を願っての投降だったのでしょう。

田村麻呂はアテルイとモレを引き連れて7月10日京都に凱旋しました。

田村麻呂は自分を信じて平安京まで従ったアテルイとモレの延命を申し立てましたが蝦夷を憎悪していた公家たちは、それを聞き入れませんでした。

あの空海でさえ蝦夷を人間ではなく心は獣で人を食う鬼の類であると言っているように天皇を崇敬するヤマトにとって朝廷に逆らう蝦夷は野蛮で人間ではありませんでした。

802年8月13日に河内国でアテルイとモレは処刑されました。

大阪の枚方市片埜(かたの)神社のすぐ近くに蝦夷塚があります。

片埜(かたの)神社は河内国の鬼門を守ってきた神社です。

アテルイとモレが斬首されたあとも蝦夷の抵抗は終わりませんでした。

蝦夷の組織的な抵抗の記録は811年、坂上田村麻呂の後を継いだ文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさったい)(二戸市仁左平)を制圧したという記録が最後です。

東北の支配は盛岡の志波城が北限でそれ以上北に城が造営されることがありませんでした。

寒冷の北国の気候風土は稲作に適さず米を食べるヤマトは盛岡までの支配が限界だったのです。

爾薩体(にさったい)を攻めたのは早くからヤマトに服従を誓った蝦夷でした。

蝦夷をもって蝦夷を討ったのです。

ヤマトは朝廷の支配を受け入れた蝦夷をヤマトの民と区別し俘囚(ふしゅう)と呼びました。

侵略で捕らえられた蝦夷の人々は片っ端から強制移住させられ職業の自由も、居住・移転の自由もない奴隷としてヤマトの管理下に置かれました。

蝦夷の聖地には神社や寺院が建立されました。

極端な人種差別をされ土地や財産、文化や言語まで奪われた蝦夷はアメリカ大陸のインディアンと同じ運命をたどりました。

宗教や文化が異なる先住民が征服されると文化の破壊と虐殺が起きて多くの民族が消滅しました。

現代でも先祖伝来の土地を追われた少数民族は言語と宗教を奪われる同化政策をとられ絶滅の危機に瀕しています。

大和朝廷に征服された蝦夷は、吸収同化されて消えていきました。

坂上田村麻呂が征夷の記念に、京都の清水寺をまねて岩窟に建立した達谷窟毘沙門堂が、平泉にあります。

その縁起由来は、蝦夷が領民を苦しめ乱暴を働くので、田村麻呂が多聞天の加護で成敗したことになっていますが、実際は逆でした。

朝廷が東北に侵略して、平和に暮らしていた蝦夷を崩壊に導いたのです。

アテルイは、『吾妻鏡』で「悪路王」と呼ばれ、田村麻呂は東北で神として崇められました。

郷土に侵略した司令官の田村麻呂は神となり、侵略者に立ち向かった郷土の英雄たちは、悪さをする鬼や山賊にされてしまいました。

平安遷都1200年を記念した1994年(平成6年)11月清水寺に「アテルイ・モレ顕彰碑」が建立されました。

長い間、朝廷に歯向かった賊将とされてきたアテルイでしたが、ようやく見直されることになったのです。

蝦夷の侵略を命じた桓武天皇も公家たちもあの世に帰ってから1200年の間に反省して自分の間違いに気がついたとおもいます。アテルイも快くそれを許すことで、魂は安らかになったでしょう。

2013年NHKテレビドラマ『火怨・北の英雄 アテルイ伝』が放送されてアテルイの復権がすすみました。

教科書にもアテルイの名が記載になりました。

奥州市の道の駅の名前がいまでは朝廷の賊首のアテルイになっています。

北上川のほとりにアテルイの勝利を記念した「巣伏の戦い」公園が整備されています。

朝廷の敵を名前にするなど昔では考えられなかったことです。

怨念は消え東北を照らす光に変わったのです。

宮澤賢治の詩『原体剣舞連』の一節に、悪路王(アテルイ)が出てきます。

Ho!Ho!Ho!

むかし達谷〔たった〕の悪路王〔あくろおう〕

まっくらくらの二里の洞

わたるは夢と黒夜神〔こくやじん〕

首は刻まれ漬けられ

アンドロメダもかゞりにゆすれ

青い仮面〔めん〕このこけおどし

太刀を浴びてはいっぷかぷ

(途中略)

打つも果〔は〕てるも火花のいのち

太刀の軋〔きし〕りの消えぬひま

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

太刀は稲妻〔いなづま〕萱穂〔かやほ〕のさやぎ

獅子の星座〔せいざ〕に散る火の雨の

消えてあとない天〔あま〕のがはら

打つも果てるもひとつのいのち

dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

すべての出来事は、一瞬現れてはすぐに消える火花のように、はかない現象のひとつにすぎません。

賢治の宇宙で、悪路王の首は蝦夷の地からアンドロメダまで飛翔します。

宇宙全体から見える戦いに善と悪もなく、勝者敗者も等しく

大いなるひとつの命なのです。

蝦夷は自然の循環や生命のリズムに即した生き方をしていた縄文人の末裔でした。

東北には今でもトチモチやドングリを食べる習慣があります。

縄文遺跡から発掘された植物の繊維で編んだ籠とまったく同じ編み方の籠がいまでも使われています。

今も人が住んでいる茅葺の南部曲がり屋は縄文時代と同様な素材と技術で建てられています。

東北には縄文時代から続く暮らしの伝統が色濃く残っていました。

人間は自然界の関係性の中で生かされています。

それがいつのまにか命のネットワークの一員であることを忘れてしまい地球規模の環境破壊をしています。

癌細胞は身体組織の一員でしたが調和を乱して自分だけ増殖し、宿主の人間を殺して自分も滅びてしまいます。

いまや人間が地球の癌細胞になっています。

頭の中の妄想を現実思いこんでいます。

女神の時代の記憶は古層にしまいこまれてしまい、人々は自分が誰なのか忘れてしまいました。

マインドの罠に気がつくのが女神の智慧です。

女神の智慧が開花した時、男性性と女性性は統合されます。

あなたも私も誰もが、かけがいのない個性をもった個人であるとともに、全体なのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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